人生は霊的戦いです・・しかし、勝利です!

2003.7.20(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

新約聖書 エペソ人への手紙 6章11節〜19節
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げ、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。

 ハレルヤ!今朝も皆さんとともに、聖書から学べることを感謝します。今、お読みした御言葉の中に、「また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。」とありますが、私が語る言葉を通して、主が語ってくださるよう祈りつつ聞いていただきたいと願います。
 先々週私は、「新しいことが起こる!」というタイトルで語りました。どうでしょうか。新しいことが起こりましたか?私には、その後、新しいことがたくさん起きました。感謝します。今、主が教会に、新しいことを起こされていると信じます。
 ある兄弟が私のところに来て言いました。先々週、メッセージを聞いていると、「新しいことが起こる!」と語られたときに天が開かれて、私の上に大きな鳩が飛んでいるのが見えたというのです。鳩は聖書の中で「聖霊」を指しますから、聖霊によって新しいことが起こっていると信じます。
 今日は「人生は戦いです・・しかし勝利です」というテーマで話します。
 ある大学の学園祭で、「人生」というタイトルの展示があったそうです。来た人たちは何が展示されているのだろうか、と思って中に入って見ました。すると部屋の隅から隅にロープが張ってあり、古い靴が連続して吊してありました。「この、どこが人生なのだ」と聞くと、学生が「よく見てください。これが人生です。」と言い、それは「靴の連続(苦痛の連続)」と説明したそうです。
 人生は苦痛の連続かも知れません。そして人生のテーマは、ある意味で「問題」だと思います。なぜなら人生は、問題解決に明け暮れることが多いからです。
 さて、皆さんにとって、先週一週間はどうでしたか。一言で言うと、やはり問題解決に明け暮れた一週間であったと思います。学生がテストを受けるとき、目の前に出るのは「問題の山」であり、それを解決できたら幸せですが、解決できなかった人は不幸です。お母さんは毎日、子どもたちがご飯を食べたり食べなかったりと大変です。食べないことは問題で、食べたら問題解決です。また、会社での仕事のほとんどが、問題解決のためです。
 そもそも、この世の職業はすべて、問題解決の手段と機能だと思います。例えば建設会社にお勤めの方は、ある人が問題を感じるようになってはじめて仕事が始まります。「家が古くなった、雨漏りがする、これは問題だ。新しくしなければ・・・。」それで、建設会社は、「では、あなたの家を新しくしましょう。」となります。
 医療関係にお勤めの方は、誰かが、「病気になった大変だ。直してもらわなくちゃ」と言ってはじめて仕事になります。また、スーパーも同じことです。お腹が空けば問題です。そこでスーパーに行き、食糧を買います。
 このように考えると、私たちの人生は、そもそも問題の連続と問題解決にあり、問題解決は人生そのものです。今週も一週間、私たちは問題解決のために働きます。今週はどんな問題が起こるのか?しかし、問題解決の征服感が同時に、生きがいにもなります。登山家はなぜ山に登るのだろうかと思います。山登りが好きな人にはそれがわかりますが、山登りの嫌いな人にはわかりません。わざわざ疲れるところをよじ登るなんて、信じられないと思います。しかし登る者には、達成感があります。目の前に立ちはだかっている山によじ登り、最後に山頂に立った時、幸せを感じます。人生も色々な問題の山を征服し、問題を解決した達成感は喜びです。
 反面、「人生には問題がつきものだ、それを受け止め、諦めれば良い」というのが仏教の教えです。人間として生まれたら、問題があることは仕方がない。だから諦めようで止まってしまいます。
 しかし、キリスト教は違います。それを遥かに越えるものがあります。私は宗教が好きではありません。キリスト教は「宗教」とされていますが、宗教ではありません。「宗教」という言葉には、どのような意味があるのでしょうか。「宗」とは中国語から来ています。
 私の娘は中国語を勉強しています。将来、中国伝道かと感動しましたが、よく聞いてみると中国語のリズムが好きだと言いました。「宗」という意味は「先祖」という意味です。ですから宗教とは「先祖の教え」という意味です。日本人の信じているのは皆、「先祖の教え」ばかりです。釈迦は実在した人物で、仏教は先祖の教えです。先祖の教えとは、昔の人たちも問題を体験し、時間をかけて問題を征服してきました。そのような人の話を聞けば、人生をうまく歩むことができるのではないか、と考えるのが宗教です。しかし、イエス・キリストを信じることは宗教ではありません。
 私は気がついたら、教会に生まれていました。私の両親が五十数年前に新城で伝道を始めました。普通なら、こんなところで教会をやろうとは思わないでしょう。はじめ、教会なかなか人が来ませんでした。それで両親はとりあえず、産んで増やそうと考えたようです。私は、「牧師は割に合わない仕事だ」と見ていました。家の中にも問題があるのにも関わらず、外で人の問題を聞き、問題を持ち込んできます。「冗談ではない。他人のことはどうでも良いから、もっと内側を見て欲しい。」と思っていました。しかしそんな私がイエス様を信じ、尚かつ牧師になっています。教会の息子が牧師になったのを見たら、「イエス・キリストは本当の神だ」と信じた方が良いと思います。イエス様が神ではなかったら、私は教会から脱出していると思います。私は昔から見てきて、イエス様は宗教ではなく、私たちを助けてくださる真の神だと認識しました。イエス様を信じることは宗教ではなく、真の神との出会いです。自分の両親を両親として受け入れることは宗教ではありません。それは実在しているからです。同様に、神を神として認めることは宗教ではありません。先祖の教えではなく、「神の教え」です。その神が私たちに、問題解決のための情報を提供しています。その情報が記されてたいるのが聖書です。
 人生とは問題解決に悪戦苦闘しながら、苦痛の連続と言うかも知れません。しかし聖書は、人生は戦いであり、その戦いに勝つことができると約束しています。
 エペソ六章十二節に、
『私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』
と記されています。私たちの人生に起こる様々な問題の背後に、人を苦しめる悪魔・悪霊がいるのです。そして、それに立ち向かうのが人生だというのです。「主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天にいる諸々の悪霊に対するものです」とは、悪魔を親分として、子分の悪霊が無数にいることを意味します。「暗闇の支配者たち、また天にいる諸々の悪霊」というのは「組織」を現しています。悪魔とその軍団は組織を持っており、組織的に問題を起こし、人々を苦しめるのです。このような視点は、イエス・キリストを信じなければわからず、結果は、苦痛の連続です。しかし教会に来ているうちに、人生は戦いであり、ただ単に私たちに起こってくる現実問題を対処するだけではなく、見えない組織と戦わなければならないことに気づきます。
 私たちは毎日、戦いのただ中にあります。それに気付くならば、人生は勝利へと転換していきますが、気付かないと悲惨です。近頃、イラク戦争がありましたが、戦場に連れて行かれて、どこに敵がいるかを把握していなければ悲惨な戦いとなります。それ以上に、戦争に連れて行かれたのにも関わらず、それが戦争だという認識がなく、ピクニックのように考えていたらどうでしょうか。これは大変なことになります。
 人生も同様です。聖書は人生は戦いであり、悪魔・悪霊のただ中にあると語っています。私たちがまず、そのことに気付くことが大切です。敵がどこにいるかを把握することが戦いの第一歩です。霊的戦いのただ中にあっても、それについて全く無関心であるならば、不幸です。私たちは神の権威を受け取り、この戦いに勝利しなければなりません。人生は戦いですが、必ず勝利があるというのが聖書の教えです。
 そもそも神は、なぜ人間を造られたのでしょうか。今日、ここに三百名ほどの方がおられますが、ひとりひとり個性が違い、顔も性格も違います。なぜ神はこんなふうに多くの人を造ったのでしょうか。神は創造者なので、何を造ろうと勝手です。私たちは被造物なので、神が何を造っても文句は言えません。人間がものを造るときに、人間の思い通りのものを意味があってもなくても造ります。そのような視点から言えば、神は創造者なので、私たちをどのように造っても文句は言えません。
 しかし、神は決して無意味に何かを造ることはされません。神が人間を造られたのには大きな目的があります。
 詩篇八編には、神が人類を創造したわけが述べられています。
『私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたはご威光を天に置かれました。あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。すべて、羊も牛も、また、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。』
 人間と猿を比べると、構造上はあまり変わりません。遺伝子レベルで比べたら違いますが、ほとんどの構造は同じです。猿でも結構、頭のいいのがいます。猿の中で一番頭の良い猿と、人間の中で一番頭の悪い人を連れてきてテストしたら、人間が解けない問題を猿が解くのかも知れません。
 けれども、神の救いの計画は猿にではなく、人にありました。神のひとり子イエス様がこの地上に来られ、人間が犯したすべての罪のために死なれ、よみがえられました。私たちは多くの罪を犯しますが、それらの罪を赦すために、イエス様は十字架にかかられて死なれ、よみがえってくださいました。それを信じるならば、人類は救われるというのが聖書の約束です。
 考えてみると、人間にとっては大へん感謝なことです。罪深い人間のために、神がわざわざ人間と同じ地上で苦痛を体験され、人間に捕えられて十字架で死なれ、よみがえってくださいました。それは人間の罪の身代わりでした。そればかりか、死を滅ぼしてよみがえられたことは、人間側から見たら、本当にありがたい話です。
 しかし、よく考えると、「神はなぜ、これまでのことを、しなければならなかったのか」とも思います。猿がもしも、もっと頭が良かったら、このことに関してクレームを付けるかも知れません。
 「神様。あなたはなぜ、罪深い勝手な人間のために十字架にかかり、よみがえったりしたのですか?私たち、猿族を何で助けてくれないのですか。どうして人間を助けるのですか。見てください。人間は猿よりも劣っていますよ。彼らは服を着ないと生きられないですが、私たちには毛皮もあります。人間は食べものに文句を言いますが、私たちは文句を言ったことがありません。環境も汚しません。私たちの方がずっと良いです。それなのに、なぜ、人間のためにそんなことをしたのですか。不公平ではないですか?」と猿からクレームが付くかも知れません。
 しかし、人類創造には、深い意味があったのです。天地創造はどのような環境で行われたのでしょうか。天地創造の前に、神はご自分の栄光を傷つけられていました。それは神に仕えていた天使たちが反乱を起こし、悪魔・悪霊になってしまっていたからです。天使は、自己判断ができる高等な存在です。しかし神から別れて、地に落とされてしまいました。神は自己の栄光が傷ついたら、放っておかれる方ではなく、それを回復されるお方です。神は、栄光の自己回復機能を持っている存在です。人間は、尊厳が傷つけられた場合、なかなか自己回復できません。あるところまではできますが、一定の線を越えると全く不可能になります。この世は、自分ではどうすることもできない大きな問題がたくさんあります。しかし神にとっては、どのような問題も問題ではありません。自己回復ができるお方です。そのような環境下で、神がとられた手段が「天地創造」であり、「人の創造」でした。詩篇八篇で、
『人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。』
と述べられています。人間は、神よりもいくらか劣る存在だと聖書は語っています。天使の一団が神の怒りに触れて、悪の存在になったのです。そのような構図の中で、神は「神よりもいくらか劣る存在」を造られました。
 それはどのような意味でしょうか。それは人間により、悪の力を征することを意味します。悪魔・悪霊は、自分たちよりも権威のある存在が造られたのを見て、すぐに動き出しました。
 聖書に描かれている悪魔の姿は「蛇」でした。蛇は人間以下の存在です。蛇は地を這う爬虫類です。悪魔・悪霊が人間以上の存在ならば、人間よりも崇高な存在として出現して人を直接攻撃できたでしょう。しかし人間の方が悪魔・悪霊よりも権威的には上なので、ただ、誘惑することしかできませんでした。
 この様に、神は人を通して悪魔の力を打ち破るように、人類は敵を打ち破るための手段として造られたのです。詩篇八篇一節、二節に、
『私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたはご威光を天に置かれました。あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。』
と記されています。人間の存在はすごいです。「幼子や乳飲み子の口でさえも、悪魔を砕く権威がある」というのです。人間は、神よりも「いくらか劣る存在」で、「悪魔よりも権威ある者」として造られたのです。したがって、乳飲み子の口でさえも、悪魔の力が打ち破られるのです。
 しかし、悪魔は人間を誘惑し、人が神の命令に反逆するようにし向け、下の者が上の者から権威を奪いとりました。悪魔・悪霊は人間以下でしたが、人が神に反逆したゆえに、地位が逆転してしまいました。「神」、「人間」、「悪魔・悪霊」という構図が入れ替わり、「神」、「悪魔・悪霊」、「人間」という構図になってしまいました。それゆえに、人間を用いて、暗闇の力を打ち破る計画が妨害されてしまいました。
 しかし、神はそのまま放っておくわけにはいけません。神の計画を回復するために、完全な人間として、イエス様がこの地上に来られました。そして人間が罪を犯した結果は死でしたから、人の身代わりに死ぬ必要があったのです。それにより、人間は罪によって死なずに済むようになりました。
 続いて、イエス様は、よみがえられました。これは人間の元々のポジションを回復する為でした。悪魔の上に権威を行使できる、元々のポジションに置き換えられたのでした。神、人間、悪魔という神が元々計画したポジションに戻されたのです。
 イエス・キリストを信じることは素晴らしいです。罪が赦されるだけではなく、元々、私たちがあるべき場所に戻されるのです。イエス様がこの地上おられた期間の仕事は、「悪霊を追い出す」という働きでした。それは人間が本来行うべき仕事でした。
 人間は、そもそも、霊的戦いのために創造されたのです。元々人間は、そのように造られていますから、気付かなくても、知らずしてその機能が動いているのです。
 さて、悪魔の働きは何でしょうか。ヨハネの福音書十章七節から十一節に、
『そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。』
 
 この御言葉は、イエス様の働きと、悪魔の働きの対比です。イエス様は「回復のため」に来てくださいました。しかし、悪魔の働きは「盗み、殺し、滅ぼし」です。悪魔の辞書に回復はありません。このことを知っておいてください。イエス様は、私たちを回復してくださるお方です。けれども悪魔は、回復という機能を持っていません。ということは、悪魔に関わり、一旦、何らかの回復を見たとしても、それは更なる破壊の為の序曲なのです。悪魔の手から解放されなければ人生は悲惨です。
 しかし人間は回復のために造られているので、人の営みはすべてが回復のためにあります。皆さんの働きは盗んだり、殺したり、滅ぼしたりする為でしょうか?決してそうではないはずです。ある意味で、すべての職業は回復のためにあります。イエス様は命を得させるために来られたと記されていますが、人間もイエス様の働きに似ています。人間も回復のために働きます。気付いていても、気付かなくても、私たちは回復のために働いています。
 例えば、学校の先生で、「もっと悪い生徒にしよう」として働く先生はいません。また医者は、「この患者を、明日はもっと悪くしてやろう」とは考えません。何とか、体を治そうと努力します。
 また、自動車工場も自動車を直すために働きます。主婦も、家族すべてが回復されるように働きます。皆さんの職業について考えてみてください。一言で言えば、何らかの回復のために働いておられるはずです。娯楽関係もそうです。ストレスから気分転換をしようと思うときに、人々は娯楽施設に行きます。レストランも、お腹が空いたときに行きます。お腹が空き続けたら、人は死んでしまいます。ですから、そこでエネルギーを再注入し、心もリフレッシュします。私たちが日頃働くのは、回復のためです。ということは、私たちの働き、営みそのものが、悪魔の性格に反することです。悪魔の計画は「盗み、殺し、滅ぼす」働きです。しかし人類は、破壊をくい止める働きをしているのです。
 ということは、人生は、気付いても気付かなくても、霊的な戦いです。毎日、色々な働きをされていると思いますが、「霊的戦いは、私の仕事とは何の関係ない」とは言わないでください。すべての働きは霊的戦いです。
 例えば、建設工事の場合でも、悪魔は景観を崩すのを嫌がっているはずです。一度偶像礼拝の景色を作ったら、それを壊すと皆が偶像を拝まなくなってしまうからです。だから、建設工事で景観を変えるときには、必ず、悪魔は契約を結ばせます。「景観を変えても良いが、続けて拝んでくれ」というのです。そこに、新しい偶像を置き、悪霊に対する祈りを置き、やっと景観を変えることを許します。
 私たちは、知らないうちに悪魔と戦っています。ということは、私たちが戦いに気付いていなければ、色々な問題が起こるのです。皆さんが置かれている立場自体が、「霊的戦いの現場」であることを忘れてはならないのです。
 この戦いに対する、勝利の秘訣があります。第一に、自分の立場自体が霊的戦いであることに「気付く」ならば、勝利があります。戦争に行き、敵がいることに気付かなければやられてしまいます。気付いたら戦うことが出来ます。
 そして第二は、神の側に立って戦うことです。エペソ六章十三節から十六節に
『ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。』
私たちが毎週教会に来て、神の言葉を学び、賛美や祈りをするのは武装です。
『腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。』
 武装して、諸々の悪霊に立ち向かうのです。神の側に立ち、悪魔に立ち向かうことが大切です。毎日の生活の中で、自分の仕事の中で、背後にいる悪霊と立ち向かう姿勢が、最も重要です。今週は戦いを意識して立ち向かうことです。目に見える領域ではなく、見えない存在に立ち向かうときに勝利が来ます。そして、その具体策は「祈り」です。
『すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』
 私たちは教会に来て武具、武器を受け取って武装し、出て行って祈るのです。祈りはイエスの名による祈りです。今週、皆さんが仕事のただ中で、悪霊に立ち向かって祈ってください。その仕事の中に、問題を持ち込む一切の悪魔の力が打ち砕かれるようにと、戦いの祈りをするのです。その時に人生は勝利していきます。人間はそもそも、戦いの機能を持っているので、そのようなポジションに立つと強いのです。悪魔は私たちよりも、権威的には下なので、私たちの足によって打ち破られていきます。聖書は、「幼子や乳飲み子の口でさえも、敵の力を破るほど、人間には力がある」と教えています。「口」とは「賛美」とも訳されています。賛美は同時に「祈り」でもあります。私たちの賛美と祈りを通して、敵の力が打ち破られます。今週、私たちの生活そのものが戦いであることを意識し、過ごしてみてください。
 神は人を悪魔から解放し、自由にしてくださいます。そして私たちに権威を与えてくださっています。ですから、どんな問題をも恐れずに立ち向かってください。また祈りが大切です。人生は戦いですが、イエス様は勝利を与えてくださいます。今日学んだことを実行してみてください。皆さんの歩み自体が戦いです。それに気付かないならば、攻撃を受けるかも知れません。しかし、気付いて立ち向かって行くならば、必ず勝利が与えられます。
 特に、人が破壊的になっていくのをくい止め、助ける仕事は大きな霊的戦いです。病気の背後に悪魔・悪霊が関わっているならば、病気を治療する仕事はそもそも霊的戦いです。人が悪くなっているのを矯正する仕事もそうです。今日、新しい御言葉の剣を受け取り、主の勝利に向かって歩みましょう。お祈りします。


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