信仰

2003.7.27(SUN)
新城教会 滝元 明牧師

新約聖書 ヘブル人への手紙 11章6節
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

 ハレルヤ!皆さんおはようございます。今日は久しぶりに新城教会で御言葉を取り次ぐことができ感謝します。皆さんのお祈りによって支えられ、毎週のようにあちらこちらに行っていますが、新城で礼拝を守れることは嬉しいです。
 今日は「信仰」というテーマで学びます。昨日は静岡県の藤枝キリスト教会に初めていきました。西村先生が開拓伝道をされています。彼は田中政男先生の教会で救われ、一年程前に開拓に出られたようです。昨日は決起大会でしたが、とても素晴らしい集会でした。到着すると、先生の奥様が、「先生、今日はドキドキしています」と言われました。今日は何が起こされるのか。イエス様が何をしてくださるか、と期待してドキドキしているというのです。期待があるのは素晴らしいことです。今日礼拝に来られてドキドキされていますか。期待感があることは大切なことです。昨日は色々なところから集会に来られて、たいへん良い集会でした。終わってからも色々な方が、「今日は燃えました」と言われるのを聞いて、聖霊様が働かれていることを感謝しました。
 西村先生は十七年前にイエス様を信じたそうです。私が書いた「われ土方なれど」を読んだそうです。この本は「いのちのことば社」から二十五版にわたり出版され、ベストセラーとなりました。今は版権を返却してもらい、プレイズ出版から出されています。この本を書くときに私は感動し、涙を流しながら書きました。西村先生もこの本を読まれて感動したそうです。私が救われて自分の郷里に開拓伝道に出たことを読み、西村先生にもビジョンが与えられたそうです。そして、それが叶えられて、生まれた故郷で開拓伝道をされています。とても祝福されています。その教会のためにも引き続きお祈りくだされば幸いです。
 イエス様を信じる信仰は素晴らしいです。将来のことはわかりませんが、必ずイエス様が良くしてくださると信じて期待することが大切です。毎日聖書をよく読み、御言葉を信じることです。毎日聖書を読む習慣をつけてください。教会に来て御言葉を聞くことも素晴らしいです。御言葉を信じて従うことは祝福です。
 今朝も教会で祈っているときに、一つのことを思い出しました。韓国から来られた申賢均先生の話されたことばを思い出しました。数日前に朝鮮動乱の番組をやっていましたが、朝鮮動乱は三年間続きました。北朝鮮と韓国との間で戦いがありました。そのような中から韓国教会は立ち上がっていますが、その三年の間にあるご婦人が北から釜山まで逃げてきました。ご主人もなくなり、途方に暮れて一つの橋のところまで来たとき、自殺しようと思ったそうです。するとそこに小さな広告が付いていたそうです。見ると、「あなたの人生は必ず祝福される。何月何日 ○△教会」と書かれていたそうです。その夜、彼女は初めて教会に行ったそうです。教会の牧師が、「皆さん十分の一は神様におささげしなさい」と説教したそうです。これはマラキ書に神様から受けた十分の一をお返ししたら天の窓を開けて溢れるばかりの祝福を与える、という御言葉があるので十分の一を献金したら必ず祝福されるというのです。そこで牧師が、「もし、皆さんが十分の一献金して祝福されなかったら、そのお金を私が全部お返しします。」と言ったそうです。牧師は聖書の御言葉を信じてメッセージしました。
 その時、生活のどん底にいた奥さんが心に決めて、本当にその通りだったら実行してみようと思い、次の日から乳母車にお菓子を入れて売り歩いたそうです。そして、収入の十分の一を教会に献金し続けたそうです。
 何十年かが経ち、彼女は今、釜山で一番大きなお菓子屋さんをしています。
 そこで彼女は考えました。あの時に牧師が十分の一を献金したら必ず祝福されると話したのを聞いて、それを実行して祝福されたから何とかお礼をしたいと思い、その奥さんがソウルに行き牧師の名前を聞いて連絡をしました。
 「先生、私を覚えていますか。」「覚えていません。」「今から何年前に釜山の教会で説教されたでしょう。その時に十分の一献金してもし祝福されなかったら、返してくれると言ったでしょう。」と言いました。それを聞いて牧師はびっくりし、返してくれと言われたらどうしようかと思い、「そんなことを言ったでしょうか」と言うのです。「確かです。実は、私はそのことを聞いて実行したのです。そして今は、釜山で一番大きなケーキ屋になりました。だから今日は、先生に感謝するために来ました。」と言って、彼女は大きなケーキを持ってお礼に来たそうです。また献金もされたそうです。
 彼女はどん底の中で神を信じました。その時点では見えません。必ず良くなると確信しました。『信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです』と聖書に記されていますが、今がどのようであっても、信仰をもって将来を見るのです。今経済的に行き詰まっている方、病にある方も、必ず良くなると信仰を持ってください。聖書の中に、
『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』
と記されています。「信仰がなくては神に喜ばれることができない」と書かれています。私は五十数年、あちらこちらの教会を廻っていますが、私が見る限り日本の牧師はとても優秀な方が多いです。神学校を出て、ヘブル語ができたり、ギリシア語ができたりします。しかし、私が見て、いくら頭が良くても信仰がない牧師の教会は恵まれていないと思います。あまり頭が良くなくても、信仰を持っている人は祝福されています。本当に頭の良い人は、「主を恐れることは知識の初めである」と聖書に書かれているので、神を信じる人こそ頭の良い人です。
『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』
イエス様を信じたら、必ず将来を導いてくださると信じることです。コリント第一の手紙二章九節に、
『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』
と記されています。目で見たこともない、耳が聞いたこともない、思いに浮かんだこともないことを神は計画されています。悪魔は私たちを不幸にし、滅ぼす計画を持っていますので、イエス様を信じないときには色々な問題をもたらします。しかしイエス様を信じたら、素晴らしい祝福された人生が用意されています。ですから将来を神に期待することです。そうすれば素晴らしい人生を送ることができます。
 信仰は難しいことではありません。聖書をよく読むと、神を信じ祝福された人生と、神を信じずに生活した結末について記録されています。これを読んで模倣することが大切です。この人物がこうして祝福されたから、私もやってみようとすることは大切です。聖書に登場する人物で、一番神が信仰を喜ばれた人は「アブラハム」だと思います。私は彼を見たことがありませんが、アブラハムが大好きです。創世記十二章一節から三節に、
『その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」』
アブラハムに神様が語られたことです。アブラハムに神が現れてくださいました。皆さんに神が現れて、この言葉を語られたらどうでしょうか。アブラハムのお父さん「テラ」は偶像礼拝をしていましたが、アブラハムに神様が目を留め、
『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。』
と言われました。偶像礼拝をしていると祝福はないので、偶像のある父の家を出てわたしの示す地に行きなさいと語られました。
 これはクリスチャン生活のようです。偶像を捨て、イエス様に従うことは未知の世界かも知れません。私も十九才になるまで、偶像礼拝をしていました。しかしイエス様を信じた時、偶像礼拝は罪だからやめようと、親や兄弟が怒っても神に従う決心をしました。クリスチャンになると、家族や地域で反対がありますが、クリスチャンになることは悪魔の手から解放され、罪の支配から光の世界に入り、永遠の命を受けることです。神がアブラハムに、「家を出てわたしが示す地に行きなさい」と言われました。あなたの家族が何というかわからないけど、わたしに従いなさいと言われました。そして「あなたが祝福する者を祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」と言われました。
 クリスチャンになった人を神は必ず祝福されます。アブラハムはこれを聞き、「アブラハムは行くところを知らずして出て行った」と書かれています。わたしの示す地に行きなさいと言われたことは、どこに行くかわからない、家があるかもわかりません。しかし、出て行ったのです。神がアブラハムを祝福されたのは、従順に従ったからです。クリスチャン生活の祝福は神に従うことです。不信仰ではなく、信仰を持つことです。「でも・・・」ではなく、「はい」と従うことです。そうすれば神が素晴らしい祝福を与えてくださいます。
 聖書を見ると、この時アブラハムは七十五才であったと書かれています。私は今、七十四才ですが、それよりも一つ上です。彼は神に従いました。普通ならば、「七十五才でこれからどこに行くのですか。どうしたら良いですか。わからないところなど行けませんよ。」と言ってしまうかも知れません。しかしアブラハムは神を信頼しました。「信じます」と従いました。「神様。あなたの言われることなら間違いありません。信じます」と従いました。私たちが信じる神は絶対に偽りのないお方ですので、私たちは喜んで心を込めて従いましょう。そうしたら祝福されます。使徒の働き三章二十六節に、
『神は、まずそのしもべを立てて、あなたがたにお遣わしになりました。それは、この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださるためなのです。』
 イエス様を信じたら必ず祝福されます。信じますか?「アーメン!」信じましょう。今どのような状況でも、将来必ず良くなると信じることが大切です。
 アブラハムには子どもがありませんでした。それにも関わらず、神が「あなたの末によってみな祝福される」と語られました。なかなか彼は信じ難かったです。そこで神が「外に出なさい。空の星を見なさい」と言われました。数えることができない星を見たときに「アブラハムは神を信じた」と書かれています。アブラハムはすべてを造られた神ならば、約束されたことを必ず成就することができると信じました。そこで神は彼の心を見て「彼を義とした」と書かれています。「信じます」と言うだけで祝福されます。信じることは素晴らしいことです。
 ある意味で、信仰においては素晴らしい人のまねをすることも大切です。私も、アブラハムが信じたからやってみようと思いました。
 私は一九四九年二月二十日にイエス様を信じ、開拓伝道に入りました。その時あまりに親が反対するので、北設楽郡下津具村に行くとまずいと思い、南設楽郡海老町に家を探し、仕事を探し仕事があったら開拓伝道に出て行こうと決心しました。そして海老に一度家と職を探しに行く決心をしました。私を導いて下さった穐近先生に、「先生、海老という町に家を探し、職があったら伝道に行こうと思います。」と言うと、彼はアメリカから来られた先生でしたので、私の言ったことを百パーセント理解していなかったと思います。先生は「良かったですね。行きなさい」と言われました。何も良くはありませんでした。後から聞くと、既に家が与えられ、仕事が与えられたから行くのだと思っていたそうです。
 私はその時考えました。「良かったですね。」という言葉を考えました。仕事があって家があって行くならば、誰でもできます。しかしアブラハムは行くところ知らずに出て行ったと書かれているので、信仰はまだ見ていないものを確信することだと思いました。そこで、「アブラハムができることは私もできる」と信じました。そして私は家も職もありませんでしたが、トランク一つを持って出ていきました。
 私が今日まで祝福された一つの理由は、イエス様を信じたからだと思います。色々な問題がありましたが、今日まで導かれたのは神の恵みだと思います。だから私は聖書の言葉を用いて時々お祈りします。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、明の神様・・・お願いします。」と祈ります。アブラハムの神と私が信じている神様は同じです。「イエス様」と祈ります。信じた神は私の神様です。信仰を持ったら喜ばれるとありますので不信仰がきたら、「不信仰よ去れ!信じます」と信仰を持ったら必ず素晴らしい道を歩むことができます。
 しかし現実的な問題があるかも知れません。不景気でリストラに会ったり、生活が苦しい方、病の方、様々な問題がある方がいます。しかし、不信仰ではなく、どんなに今が悪くても信じることです。神を信じることです。必ず良くしてくださると信仰を持ってください。教会では毎朝早天祈祷があります。聖書を通読し、皆さんのために祈ります。今は申命記を読んでいます。その前は民数記を読んでいました。民数記には、イスラエル民族が四百三十年間奴隷生活をし、荒野で四十年間生活し、約束の地カナンに入ったことが書かれています。その中で、モーセは神に用いられました。彼はすごい人でした。
 しかしモーセの人生の中にも不信仰の時がありました。毎朝、天からマナが降ってきて、皆が食べました。しかし段々荒野の生活が不満になりました。エジプトから混ざってきた人たちが、不平を言いました。「約束の地に行き、乳と密の流れる素晴らしい地に行けると言ったけど、荒野にいて苦しいことばかりだ」と、皆泣き出しました。民数記十一章四節、五節に、
『また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。
エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。』
と記されています。マナしかないので肉が食べたいと不平を言いました。マナだけでは満足できず、大声で彼らが泣きました。十一章十節から十二節に、
『私がこのすべての民をはらんだのでしょうか。それとも、私が彼らを生んだのでしょうか。それなのになぜ、あなたは私に、『うばが乳飲み子を抱きかかえるように、彼らをあなたの胸に抱き、わたしが彼らの先祖たちに誓った地に連れて行け。』と言われるのでしょう。』
と記されています。モーセは神様に訴えています。十一節から十四節に、
『モーセは主に申し上げた。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。なぜ、私はあなたのご厚意をいただけないのでしょう。なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう。私がこのすべての民をはらんだのでしょうか。それとも、私が彼らを生んだのでしょうか。それなのになぜ、あなたは私に、『うばが乳飲み子を抱きかかえるように、彼らをあなたの胸に抱き、わたしが彼らの先祖たちに誓った地に連れて行け。』と言われるのでしょう。どこから私は肉を得て、この民全体に与えなければならないのでしょうか。彼らは私に泣き叫び、『私たちに肉を与えて食べさせてくれ。』と言うのです。私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。』
と記されています。本当は神がすべてをなされます。神が紅海を真二つに裂かれ、彼らは通って行きました。そんな奇跡も忘れて、目の前の泣き声を聞いてモーセも不信仰になりました。十五節に、
『私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」』
と記されています。神の人モーセも苦しみました。時々、苦しいときにはイエス様に訴えたら良いと思います。そして神が答えを持ってこられました。十九節から二十節に、
『あなたがたが食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日だけではなく、一か月もであって、ついにはあなたがたの鼻から出て来て、吐きけを催すほどになる。それは、あなたがたのうちにおられる主をないがしろにして、御前に泣き、『なぜ、こうして私たちはエジプトから出て来たのだろう。』と言ったからだ。」』
と記されています。神様が肉を食べさせてあげると言いました。二十一節に、
『しかしモーセは申し上げた。「私といっしょにいる民は徒歩の男子だけで六十万です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一月の間食べさせる、と言われます。』
と記されています。男だけで六十万人いたということは、全部で二百万人ほどがいたと言われます。二百万人に毎日肉を食べさせると神は言われました。モーセは信じられず、神に言いました。二十二節に、
『彼らのために羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚を全部集めても、彼らに十分でしょうか。」』
と記されています。神様にそんなことは無理ですと言いました。二十三節に、
『主はモーセに答えられた。「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」』
と記されています。
 キリスト教は奇跡です。「はじめに神は天と地を創造した」と聖書に書かれています。神がことばによって世界を創造されました。新約聖書を見ても聖霊によって処女マリヤからイエス様が生まれました。これも奇跡です。イエス様がされたことも奇跡であり、最後にイエス様がよみがえられたことも奇跡です。奇跡の連続です。神が言われたことは、「神にとって不可能なことは一つもない」「主の手は短いだろうか。わたしの言葉が実現するか」と書かれています。「わたしの言葉が実現するから見ていなさい」ということです。そこでうずらが飛んできて、二キュビトくらいになったと書かれています。一キュビトは四十五センチほどです。地面から九十センチくらいうずらがつもり、一ヶ月経って食べきれない程うずらが飛んできました。これは奇跡です。
 商売が駄目だ、日本は駄目だと思われる方、日本は駄目でも主は駄目ではありません。必ず奇跡を行われます。問題は主の手を信じるかです。短くはないのです。不信仰を取り除いてください。イザヤ書五十九章一節から二節に、
『見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。』
と記されています。色々な問題に直面しても、問題は問題ではありません。問題は不信仰です。信じるかどうかです。神の前に出たら不信仰ではなく、信じることが大切ます。私たちの神は全能の神です。偶像にある狐や猿とは違います。主の手は短くはないと信じることです。死人の中からよみがえられた神が天においても、地においても一切の権威を持っておられるので、信じて祈ることが大切です。
 私はいつも食事の時に家内と祈ります。「イエス様。今日まで長い間、食卓に食べ物を与えてくださり感謝します。」と祈ります。こちらに来たときには貧しくて、食べるものもない時がありましたが、今日まで守られたことは素晴らしいです。日本の経済が良くなったからと言われるかも知れませんが、主が祝福してくださったと信じています。日本が駄目であっても主はできる。今困難があっても困難を克服されるのは主です。不信仰を悔い改めて信じますと祈りましょう。病の方も信じてください。
 先日私は東海市の教会に行きました。その教会の人々が、十五年程前この教会の集会によく来られました。集会中に、幼稚園くらいの女の子が咳き込んでいました。その子は喉が細くなっていて、水分をとっても全部戻してしまうようです。医者に行くと、これは医学でも直らないと言われたそうです。私が集会中に彼女のために祈りました。それからどうなっていたかわかりませんでした。しかし先日、「先生祈ってもらった日から、ぴたりと癒されました。今は成長し、インドネシア人と結婚しました。」と言われました。彼女も彼女の母親も祈ったときに信仰を持ちました。私も信仰を持ちました。今日は信仰を持ってください。今度名古屋ミッションがありますが、救われていない家族を連れてきて下さい。「親は難しいです」というのではなく、あなたには難しいかも知れませんが、主には難しくありません。信仰を持ちましょう。必ずリバイバルが来ます。「そうは言っても・・・先生、日本は難しいですよ」と言うのではなく、主には難しくありません。信じましょう。お祈りします。


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