強くあれ、恐れるな

2003.8.3 (SUN)
新城教会 滝元 順牧師

新約聖書 ヨハネの福音書 14章1節
あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

旧約聖書 イザヤ書35章3節〜4節
弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。
心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」

 ハレルヤ!皆さんと共に御言葉を学べることを感謝します。今日は八月三日ですが、五日になると私は五十二才になります。早いものだと思います。小学校の頃は、五十才は「おじいさん」だと思っていましたが、その部類になりました。人生は過ぎるのが早いです。これからどうなるのか少し心配ですが、一度しかない人生、幸せに生きたいと願っています。しかし、神が私たちに力を与え、強くあれ、恐れるなと語っておられることを感謝します。ヨハネの福音書十四章一節に
『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。』

これは、イエス様が十字架にかかられる前、おびえている弟子たちを前にして、語られた言葉です。イエス様ご自身が十字架にかかって死ななければならないのに、このように語られました。
 またイザヤ書三十五章三から四節の御言葉も、私たちを力づける言葉です。
『弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」』
 私たちが御言葉を読むときに、どうしたら自分のものとして、その御言葉を捕らえることができるのでしょうか。それは、聖書の中に自分を置くことです。ヨハネの福音書十四章の御言葉は、心騒ぐ「弟子たち」に対して語られました。その集団に、自分も入りこむことです。イエス様が、「全世界に出て行き、すべての造られたものに福音を伝え、弟子としなさい。」と語られました。イエス様を信じる私たちは、イエス様の「弟子」なのです。ですから、私たちは弟子たちの中に入ることができます。そうすればイエス様が、私たちに、『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。』と語って下さいます。
 今日皆さんの中に、心騒いでいる方がおられるかも知れませんが、イエス様がこの言葉を語っています。
 私たちが聖書を読む前に理解しなければならないのは、聖書の前提としている世界観です。それは、「言葉は実体を現す」ということです。今私たちの住んでいる世界は、「言葉は必ずしも、実体を現していない」ということです。
 例えば、観光旅行に行く前には、パンフレットを旅行会社からもらいます。パンフレットを見ると、期待に胸を膨らませます。「良いところだ、一度は行ってみたい」と、パンフレットの情報で出掛けるのです。しかし現地に着くと、案外パンフレットに載っているような美しい場所は案外少ないのかも知れません。
 また、よく体験することは、雑誌の食事の欄です。豪華なカニやアワビ、マグロが跳ねている美味しそうな写真が載っているので、それを見ていくと、出される食事は大したことがない場合が多いのです。それでショックを受けます。そして、「言葉は必ずしも実体を現していない」と失望するのです。常にそのような世界に生きているので、聖書を読んでも聖書の語っている言葉はきれい事で、必ずしも実体を現していないように考えます。
 それと共に日本人は、宗教観に左右されていると思います。ほとんどの人が、教会に来る前に、仏教を信仰しています。仏教理解は、すなわち、「空の理解」と言われます。それは、「何もない」ということです。
 しかし、今の仏教は、本当の仏教とは言えません。原始仏教の教えは消えてしまいました。釈迦は偶像を作ることさえ固く禁じました。なぜならば、像を作るとイメージができ空ではなくなるからです。現在の仏教は偶像を作っています。それはヒンズー教の影響です。しかし、仏教を信じていると、そのような影響を強く受けます。何かうまいことを言うけれど、実は、「中身は何もない」という考え方があります。ですから、そのような背景を持って聖書を読んでいるので、「言葉が実体を現している」と、なかなか信用できません。しかし、聖書は、
『初めに、神が天と地を創造した。』
と記しています。それも神が「言葉によって」天地万物を造られたと記されています。ヨハネの福音書一章を見ると、
『 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』
言葉に重みがあります。聖書の御言葉を読むときに、現在生きている世界の考え方に根ざすのではなく、「言葉は実体として現されるもの」という聖書が前提としている基本的考え方を理解すべきです。そして、御言葉が語られたならば、「その通り!」と信じるべきです。イエス様があなたに語って下さっている言葉として、確信を持って、先ほどの御言葉を読んでみて下さい。
『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。』
イエス様があなたに語られているのです。そして、「あなたがたは」というところに、自分の名前を入れて下さい。私でしたら、「滝元順は心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」このように読んでみて下さい。力強い言葉です。
私たちの人生には、時々「どうしたら良いのか」と、うろたえるような、危機的状況が起こります。あなたにとって、今年になって一番怖かったことは何でしょうか。「今年はまだ何もない」と言われるかも知れません。
 近頃、私が一番怖かったことは、五月にアメリカに行くときの上空一万メートルの飛行機の中で起こったことです。着陸二時間前に、突然機内の電気が消え、非常灯ランプがつき、非常口のランプと脱出口に誘導する通路ランプがつきました。非常口のランプがつく意味は、「外に出るよう」にという意味です。その瞬間、焦げ臭い匂いがしました。私は、一瞬、「焦げ臭い」と思いながらも、あえて口に出さないようにしていました。すると隣に座っていた男が、思ったらすぐに口から言葉が出る男だったので、「何か焦げ臭くない?」と言うのです。そして彼は、「トイレに行く」と言って席を立ちました。しばらくすると戻ってきて、「後ろ、煙ってる。前に行けと言われた」と言うのです。その時私は、「これで終わりか」と思いました。しかしあまり旅行慣れしていない人たちは、飛行機とはこういうものだと思い、やすらかに寝ていたそうです。しかし、私は怖かったです。最終的に、「復旧した」というアナウンスがあったときには、ほっとしました。しかし、着陸二十分前にも再び電気が消えました。
 箴言三章二十五節、
にわかに起こる恐怖におびえるな。悪者どもが襲いかかってもおびえるな。
時々、突然の恐怖がおそうことがあります。しかし聖書は、「恐怖におびえるな」と告げています。なぜなら二十六節に、
『主があなたの脇におられ、あなたの足が罠にかからないように守って下さるからだ。』
と記されています。どのようなことがあっても、主が私たちの脇におられるのです。言葉は実体を現します。私たちは日々、戦いの中にいますが、主がともにおられるという信仰を持つことが大切です。
けれども、「主が私たちとともにおられる」と聞いても、なかなか確信が持てないときがあります。イエス様を信じたら、常にイエス様が私たちの前にちらちら見えて仕方がないと言う人はまずいません。見えていたら、生活できないかもしれません。聖書を見ると、
『いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み・・』
と書かれてます。神様は高いところに住まわれているというのです。世界人口は六十億人です。一人一人の問題にこまめに神は答えてくださるだろうか、と心配になります。神様は天地宇宙を言葉で造られた方です。神様が私たちを、本当に気にされているのかと心配になります。また、高いところから、見ることができるのだろうか、と思います。高層マンションから下を見ると、人間はありのように見えます。また飛行機に乗ると、人は見えません。神は高いところに住んでいて、人を見ることができないと思います。しかし、主は、「この地上においても」共に住んで下さると約束しています。
 神様は高い所に住まいを設けられていますが、地上における「神の別荘」があります。イザヤ書五十七章十五節に、
『いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。』
と記されています。神は高く聖なる所に住まわれますが、「心砕かれてへりくだった人とともに住む」というのです。神の別荘とは、「心砕かれてへりくだった人のところ」です。神様は高いところに住まわれていて、人間はどうでも良いというのではなく、へりくだった人とともに住まわれるのです。
 時々人生の中で、「どうしたら良いのか」というような事柄に遭遇します。その時、人間は心砕いて神を求めます。教会に来られる多くの方は、何らかの問題に遭遇して来られます。問題が起こると、人はへりくだります。問題が起きる前は、神がなくても自分の力で生きられると考えます。しかし問題が起こると、「神が必要だ」とへりくだります。その時に、神がそこに住まいを設けて下さいます。
 今日、もしも、問題を抱えておられたら、「へりくだり」が心にきています。そのことにより、神がともに住まわれるのです。
神はどこに住まわれるのですか?それは、へりくだった人とともに住みます。ですから、時々、神は何らかの原因により、人がへりくだるべきことを許されます。そんな中で、主がともにおられることを体験するのです。
この教会堂は一九八〇年に完成しました。すでに、二十三年が経っています。でも、今でも「新会堂」と呼んでいます。よくも二十三年前に、こんなに大きな会堂を設計し、建築したものだと思います。当時からおられるクリスチャンには、大きな信仰があったと思います。
 二十三年前、私は会堂ができて、初めての礼拝の司会者でした。最初の礼拝の出席人数は百名少々でした。寂しかったです。会堂がないときは、今のリバイバルミッションの事務所で礼拝をしていて、満員でした。しかし、新しい会堂ができて、「皆さん、前に来て下さい」と言うと、嫌々前に出てきました。「こんな大きな建物を作るのではなかった!」と思いました。
 しかし、二十三年が経ち、多くの方が礼拝におられるのを見ると、「イエス様は生きておられる」と心から感謝します。
私は、あまり深く考えて牧師になったわけではないのです。会堂ができ、教会にスタッフみたいな人がいると良いということになりました。当時、私は民間企業にいましたが、仕事もあまりおもしろくありませんでしたので、教会に空きがあればやってみようと思い、いい加減な動機で教会で働くようになりました。
 そもそも、私は伝道が好きでありませんでした。イエス様のことについて伝えることが嫌いでした。なぜならば、私には派手な救いの証がないからです。クリスチャンホームで、牧師の息子なので、知らないうちにクリスチャンになり、「あなたはいつクリスチャンになったのですか。救いの確信をもらったのはいつですか?」と聞かれると、いつも困っていました。だから伝道も、何を話せば良いのかわかりませんでした。私は献身しても、情熱がありませんでした。ですから、教会ではあまりやる仕事がありませんでした。しかし、私が献身したということで、周りにインパクトを与えました。それで同年代に育った岡本信弘先生などが献身を申し出てきました。「私も一緒に働きたい」と言うのです。しかし、私は言いました。「やめておけ。教会にきても仕事がないから」けれども、彼らには情熱があり、献身してきました。私はすぐに、彼らの上司となりました。私が一番好きな伝道法は、トラクト配布でした。トラクト配布でも、個別訪問は嫌いでした。好きなのは、集合住宅への配布でした。そうすると、トラクトはすぐになくなります。夏は昼から「伝道」と称して、他のプログラムを持っていました。それは、浜名湖での釣り大会でした。午前中は二班に分かれ、片方はトラクトを折り、もう一方は釣針を作って、午後の釣りの準備をしていました。そんな生活をしていましたが、長年やっていると最終的には、牧師になるはめになりました。私は内心、牧師にはなりたくありませんでした。私が牧師になれば、家内は牧師婦人です。
 私は結婚するときに、家内と一つの約束をしていました。家内に結婚を申し込むと、「あなたは将来、何になるの」と聞くのです。すぐに私は、彼女の言いたいことを察して、「牧師にだけはならないから結婚して・・・」と言いました。
 しかし私は牧師になりました。牧師になったときに、「このままでは無理だ」と思っていました。「きっと神は、私がへりくだることを起こされる」と思いました。祈りも少なく、聖書を読むのも、あまり好きではありませんでした。イエス様のことはあまり考えていませんでした。すると、やはり私がへりくだって、イエス様に叫び求めなければならない事件が起きました。このことについては、「主が立ち上がられた日/(プレイズ出版)」という本に詳しく書いてあるので、ぜひお読み下さい。そこには、神が新城教会に行われた、素晴らしい奇跡が記録されています。
 家内が、突然、原因不明の病気になりました。その後、上條実牧師が続いて病気になりました。彼が変な咳をし出し、見る見る痩せ細っていきました。ガンではないかと疑われました。私は常に恐怖がありました。それと共に、家内の友人たちも病気になり、亡くなる方も出て、恐怖感がさらに倍増し、恐怖で身動きがとれなくなりました。寝ても覚めても問題が頭から離れませんでした。
 その時主が、「この時こそ、祈らなければならない」と語られました。それで本気で祈り出しました。すると、今まで自分が高ぶっていたこと、さまざまな罪などを示され、悔い改めに導かれました。イザヤ書三十五章に
『弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。』
と書かれていますが、ある意味で、これは「祈り」について教えています。色々な問題が起こると、ただ恐怖に支配されますが、その時にこそひざをかがめて祈るべきです。へりくだって、主の前に取り組んで祈ることが大切です。私は恐怖の中、叫んで主に祈りました。
 しかし、いくら祈っても、家内は良くなりませんでした。ある夜、家内が倒れて動かなくなりました。すぐに救急車を呼ぼうと思いました。しかしその時に、「お前は祈らずに救急車を呼ぶのか」という思いがきました。そこで、家内を担いで会堂の十字架の前に連れてきました。そして、「イエス様。助けて下さい」と祈りました。すると彼女は、変な咳をして、立ち上がりました。当時体重が三十七キロくらいしかありませんでしたが、それから徐々に直りました。主が癒して下さいました。そのような試練の中で、主が私に祈りを教えられました。
 ある夜、私は心が重く、夜中に押し出されるように、一人で県民の森の山の頂上に登って祈りました。その時、家内や上條師に対して、悪霊が働いているのではないか、という思いが心をよぎりました。それで真夜中の山頂に立って、悪魔を打ち破る祈りをしました。
 その途端、目の前に真っ赤な天狗が出てきました。私はびっくりして、山から転がるように帰ってきました。次の日、「県民の森で祈っていたら、天狗が出た」と言うと、「だいたい夜中に、そんなところに行き祈ればそんな気にもなる」と言われました。
 しかし、その時から、色々な問題の背後に悪霊的な力があることに気づき始めました。そして悪霊と戦うようになり、勝利を与えて下さいました。
時々私たちは色々な問題を体験します。そのような中で、神はへりくだりについて教えて下さいます。へりくだって神を求めるならば、そこが神の住まいとなります。そしてやがて、神は私たちがどうしたら良いのか、問題解決の糸口を与えて下さいます。
 もしも恐れや混乱あったら、へりくだって真剣に神を求めましょう。そこが主の住まいです。イザヤ書五十七章十五節から十九節に、
『いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから。彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。しかし、彼はなおそむいて、自分の思う道を行った。わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう。」と主は仰せられる。』

と記されています。十六節に、
『わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから。』
と記されています。神はへりくだる状況を許されますが、それはいつまでも続くものではありません。なぜならば、「わたしが造ったたましいが衰え果てるから」と書かれているからです。私たちが意気消沈して、駄目になるまで試練は続かないのです。
また、神がこのような試練を、人に与えるように思います。しかしそこには必ず人間側の原因があります。十七節に、
『彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。』
と記されています。「むさぼりの罪」とは、尾山令仁先生が訳された「現代訳聖書」を見ると「偶像礼拝の罪のためにわたしは怒って彼を打ち」と訳されています。「むさぼりの罪」とは「偶像礼拝」です。偶像礼拝が私たちの人生に問題を引き起こす要因だと教えています。なぜならば、偶像礼拝は三代、四代の呪いだからです。それが打ち砕かれるときに、問題は解決するのです。十八節から十九節に、
『わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう。」と主は仰せられる。』
と記されています。この御言葉を自分の言葉として、受け取ってください。神の平安は近くの領域だけにとどまらず、遠くの者にも現されるのです。「近くにも、遠くにも平安」、すなわち、大きな勝利を与えて下さる、というのが約束です。
 今日皆さんに、この言葉が語られています。神が「強くあれ、恐れるな」と語っておられます。ヨハネ十四章一節に、
『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。』
とあります。この言葉を信じましょう。イエス様の御名を賛美し、お祈りします。


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