種は成長し、刈り取る時期が来る

2003.8.10(SUN)
新城教会 岡本 信弘牧師

新約聖書 マルコの福音書 4章3節〜9節
「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」

 ハレルヤ! 主の恵みを心から感謝します。今日、健康で共に集まり、神様をほめたたえることができる特権を主に感謝します。私はこのところプレイズ出版の仕事が忙しく、夜遅くなる日が続いていますが、皆さんのお祈りに支えられていることを感謝します。
 先週は、台風が日本を縦断し、あちらこちらで土砂崩れで家がつぶれたり、行方不明になっている人がいるとニュースで見ました。大変なことだと思い、私もとりなし祈りましたが、この地域は、感謝なことにほとんど被害がありませんでした。そして今日は台風が通過し、素晴らしい天気が与えられました。こうしてみなさんが元気でここに集まってこられたことは、神様の恵みです。
 今日はマルコの福音書から、「種は成長し、刈り取る時期が来る」というテーマで学びます。
 ヨハネ十二章二十四節に、
『まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。』
と記されています。これはイエス様が十字架にかかられる前に弟子たちに言われた言葉です。初めてこの言葉を聞いた弟子たちは、イエス様が何を言っているのか、意味がわからなかったのではないでしょうか。しかし、今ここにいる私たちにはよくわかると思います。
 ここで言う「一粒の麦」はイエス様ご自身です。イエス様はこの地上に人として来られ、人類のすべての罪の身代わりとなって十字架にかかって死んでくださいました。当時の人たちにとっては、イエス様が死なれたといっても、りっぱな人を亡くして惜しい、くらいにしか思っていなかったかも知れません。しかしイエス様は死の力を打ち破り、三日目によみがえられ、今も生きておられる神の御子です。そのことを信じるだけで、私たちは罪赦された者になることができ、永遠のいのちを持つことができます。私たち一人ひとりが、その実なのです。
 また、「一粒の麦」とは、救われた私たち一人ひとりをも指しています。ここにいらっしゃる方の中には、誰かに強引に誘われて来られた方もいるでしょう。初めは、嫌々来た方、また、悩みを持って来られた方もいらっしゃるでしょう。しかし、私たち一人ひとりは、誰かが蒔いた種によって、その祈りによって救われ、今ここにあることを感謝したいと思います。
 ここには子どもたちがたくさんいます。これは素晴らしいことです。私もこの教会がまだ数人しかいない頃から母に連れられて教会に来ていました。この講壇のところからは、皆さんの顔がよく見えますが、昔の会堂はこの会堂と違って傾斜がついていませんでしたので、後ろの方に座ると先生からは見えませんでした。私はそういう席を選んで、隠れて眠っていました。今は、上條先生が子どもたちの間に座って監督されていますが、私もたまに子どもたちのところに座ります。上條先生は忍耐深く、子どもたちが騒いでもあまり怒りませんが、私は気が短いので、子どもたちがガサガサ動いたり、話していたりするとすぐに「うるさい」と注意します。それでも、ここにいる子どもたちは、よくちゃんと座っていると思います。何でここに座っていなければいけないのか今はわからなくても、この子どもたちも十年も経てば成長し、クリスチャンホームに生まれて良かったと思うときがくると思います。
 今年の初め、三十数年ぶりに開かれた小学校の同窓会に行きました。その時、担任であった先生が、小学校の卒業文集を持ってきてくれました。そこには、「僕は大きくなったら牧師になる」と書いてありました。私は、それを書いたことすら忘れていましたが、先生が、「岡本君は偉い。小さいときの夢を実現したんだなぁ」と言われたとき、神様が志を与え、それを実現させてくださったことを心から感謝しました。
 マルコ四章に、四つの場所に種が落ちたことが書かれています。
 第一の種は、道ばたに落ちました。すると鳥が来て食べてしまいました。第二の種は、土の薄い岩地に落ちました。辛うじて水分があり養分を吸収して芽を出しました。しかし、太陽が昇り照りつけたときに、根が張っていないので、水分も養分も受けることができずに枯れてしまいました。第三の種は、いばらの中に落ちてしまいました。雑草の中に落ちたと考えたらわかりやすと思います。養分や水分はありましたが、ほかの雑草に妨げられて、日光をさえぎられ、養分を十分吸収することができずに枯れてしまいました。しかし、第四の種は、良い地に落ちて水分、養分を十分に吸収し、成長して、結果として三十倍、六十倍、百倍の実を結びました。私たちも四番目の、多くの実をならす者になりたいと思います。
 ここで言う「種」は、御言葉です。ある人に御言葉の種が蒔かれても、芽が出ないうちにサタンに奪われてします。これが第一番目です。第二番目は、一度は教会に来ても、御言葉が心にとどまらず、いろいろな事情で来なくなってしまった人、第三目は、喜んで教会生活をして根を張り始めたのに、世の中の様々な誘惑や問題でふさがれ、実をならす前に教会から離れてしまった人です。そして、第四番目は、良い地に蒔かれた、皆さんのように成長したクリスチャンとなっている人のことです。
 今の日本は、種を畑に持っていく最中に、ザルから物がこぼれるように、どんどん道ばたに種が落ちてしまい、その種をサタンが片っ端から拾い、それを食べたサタンが肥えていっているような状況かも知れません。私たちは、恵みによって救われ、永遠のいのちをいただいています。ですから、いつ私たちが召されることがあっても、天国に行けるという保証があります。しかし、今なお多くの人々が滅びに向かっているのです。私たちは自分が救われていれば良いわけではありません。先に救われた者としての責任があります。いつもリバイバルを願い、祈り求めていますが、もっと私たちは危機感を持ち、真剣に働いていかなければならないと思います。
 「村の小さき教会 今もそこにありや」と、昔よくこの賛美歌を歌いましたが、二十年、三十年経っても、昔と変わらず同じような小さな教会のままであったなら、教会は三十年間何をしていたのか、と思います。しかし、それが日本の現状でもあります。
 私たち一人ひとりが恵みによって救われました。しかし、そのままではいけません。成長しなければなりません。草木は種が蒔かれ栄養を吸収し、成長していくものです。同じように人も成長していくものですが、なぜ成長していかないのでしょうか。
 聖書、第二コリント九章六節には、種蒔きの法則について書かれています。
 
『私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。』
たくさん蒔けばたくさん収穫できます。当たり前のことです。この世の法則も同じです。しかし、その後に書かれていることに注意してください。
『ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。』(七節)
 五節のところには、献金についても書かれています。パウロはコリントの人に、私が行く前に、喜んでささげて準備しているように、と勧めています。
 今年六月に、聖務報告会がありました。一年間の会計報告をさせていただきましたが、先年度も経済的に祝福されたことを感謝しました。この教会が今まで恵まれ、祝福されてきたのは、与えてきたからだと思います。全体の献金から一割以上が宣教団体にささげられてきました。
 たとえば十万円をもらって十分の一の一万円をささげたら、もちろん九万円になります。サイフを開けたら十一万円になっていた、そんなことはありません。しかし、良い地に落ちた種が三十倍、六十倍、百倍の実を結んだと書かれているように、その一万円をささげたら必ず祝福されます。私もその祝福を、何度も体験しました。
 先日、ひとつの広告に目がとまりました。「これを飲めば必ずあなたの髪の毛が生える」。さらに、そこには魅力的なことが書かれていました。「この方法で一年間やってみて、あなたの髪の毛が生えなければ、お金は全部お返しします」というものでした。しかし、よくよく読んでみると、週に何度か通って治療を受けることが必要で、かなりの料金がかかることも書いてありました。お金は、髪の毛が生えなければ帰ってくるとはいえ、通うことは到底無理だと思い、あきらめましたが・・・。このチラシの言葉は、半分はハッタリかも知れませんが、半分は自信があるからだと思いました。
 聖書には、いろいろなところに「与えたら祝福される」と書かれています。しかし、この言葉はハッタリのようないい加減なものではなく、確かなことです。私はこの四十数年間、いろいろな方とお会いしてきましたが、「献金して、貧乏になってしまった」と言われた方は一人もいませんでした。
 ここにいらっしゃる皆さん誰もがわかっていると思います。私たちがささげたなら、ささげただけ、いやそれ以上に祝福されます。もしささげて祝福を得ることができなかったら、皆さんにお返しするという保証があります。私が皆さんに保証してあげる、と言ったとしても信用してもらえないと思います。今は銀行もつぶれる時代ですから、あてになりません。しかし、天国の銀行は保証付きです。それは、ささげた者は祝福されるという、御言葉の約束があるからです。それも、一万円ささげたら一万円返ってくるのではなく、私たちがささげたものは、必ず三十倍、六十倍、百倍になってあなたの元に返ってきます。
 しかし、さきほどの御言葉にあったように、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりに、喜んで与えることが必要です。そのようにしてささげたのに、まだ祝福を受け取っていないと思われる方は、待っていてください。必ずたくさんの祝福をいただくことができます。
 八節に『神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。 』
とあるように、神様は貧乏な方ではありません。神様はあふれるばかりに与えてくださる方ですから、信仰を持って期待していきましょう。
 それでは、たくさん蒔けばいいかというと、そういうわけでもありません。何を蒔くかが大事です。ガラテヤ人への手紙六章七節に、
『 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。』と記されています。
 私たちが蒔いたら収穫できるということは同じですが、ここに書かれているのは、私たちが行ったこと、良いことでも悪いことでも、蒔いたことは絶対に刈り取らなければならないということなのです。そのことも、覚えていなければなりません。
 良い地に蒔かれた種は、実を結んでいきますが、道ばたに落とした種はサタンに拾われ、サタンが力を増し加えていきます。ですから、皆さんが良いものを蒔いたなら、良い実を刈り取ることができますが、悪いものを蒔いたなら、それは悪い実をならせます。してみると、何を蒔くかが重要です。
 この次に書かれている御言葉は、
『自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。』(ガラテヤ人への手紙六章八節)と言っています。
 神様は素晴らしい良いお方です。愛なる方であり、優しい方です。私たちがたとえ罪を犯しても、悔い改めるなら赦してくださいます。しかし、神様は限りなく義なるお方で、私たちが肉の欲のために、神様を否むようなことは赦されません。自分の肉のために蒔くなら滅びを招くと記されています。
 私たちがこの地上で楽しむことは悪いことではありません。神様が私たちに自由を与えてくださっていますから。しかし、私たちが神様を忘れ、自分の楽しみを第一優先するなら、神様から祝福を得ることはできません。やりたい放題に酒を飲み、ギャンブルをし、自分の身を汚し、神様の忌み嫌うことをするならサタンに肥やしをやっているようなものです。その行いに対しても、刈り取りをしなければなりません。日本の多くの人々は、今何を刈り取っているのでしょうか。
 今週は盆や夏祭りなど、偶像礼拝が各地でなされます。それはすべてサタンを喜ばせるようなことです。本来あがめられるべき真の神様を無視し、先祖をまつるという名目で、手で作られた偶像を拝むことは、神様の一番嫌われることです。祝福されるはずがありません。一日も早く人々の霊的な目が開かれて、真の神様を知り、主の恵みにあずかる者になることを願っています。
 ある方は、クリスチャン生活を続けていても、何も変わらない。一生懸命奉仕し、ささげてきたのに、どうして? 家族の救いを何年も祈っているのに、まだ救われない、と思っておられる方がいらっしゃるかも知れません。しかし、この九節に、
『善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。』とあります。失望してはならないのです。私たちが良い地に蒔いた種は必ず成長し、収穫できるのです。
 私の祖父は二十年前に召されました。母がクリスチャンになり、その後私たちが皆クリスチャンになってからも祖父は頑固に反対し続け、「なぜ、お前たちは滝元にだまされて教会に行き、教会に貢いでいるのか」とよく言われました。私は「この人は絶対に救われない」と確信していました。この人が救われたら不公平ではないかと思ったくらいでした。しかし、そんな祖父も病気になり、かたくなな心が砕かれ、イエス様を信じました。そしてこの教会が建てられたばかりの会堂に、曾孫を連れて喜んで来ていたのを覚えています。私は、絶対救われないと思いましたが、多くの方が祈ってくださり、その祈りの結果として祖父は救われました。神様が収穫させてくださったのです。
 植物の種を蒔き、芽が出て成長し、すぐに収穫できるものもありますが、何年も経たなければ収穫できないものもあります。皆さんが祈っている課題、それはまだ種のままかも知れません。いつ収穫できるかわかりません。しかし、まだ収穫できていないものがあるなら、楽しみに待っていたいと思います。必ず収穫の時が来ます。
 九月には名古屋リバイバルミッションがあります。愛知県で初めてのリバイバルミッションです。十年前には甲子園でミッションが開かれましたが、今回の名古屋市民会館の収容人数は二千数百人で、甲子園に比べれば人を集めるのは大したことがないと思われるかも知れません。しかし大きな戦いがあります。
 二十数年前に名古屋リバイバルクルセードが、同じ名古屋市民会館で行われました。その当時は、名古屋地区の百ほどの教会が協力してくださいました。しかし、今回の大会のために協力してくださるこの地区の教会は、以前ほど多くありません。 
 クルセードでは多くの人が集まり救われました。しかし、二十数年経った今、名古屋の教会がどれだけ成長したのかというと、それは?マークが付きます。今回の名古屋大会は、ただ「皆さん集まりましょう。楽しいですよ」といって人を集めるだけの働きではありません。今、毎週のように先生方があちらこちらへ出かけて行き、道備えがされています。このことを通して神様に動いていただき、神様のわざを現していただきたいと思います。魂の救い、癒し、解放、リバイバルが、私たちの願いです。
 今まで祈ってきたこと、伝道の種がどのように成長し、実を見せていただけるのか。いわばサタンに対する挑戦だと思います。名古屋リバイバルミッションを通して新しい扉が開かれ、主のわざが現されるように皆さんもぜひ、祈ってください。
 排水管が詰まったとき、一生懸命に水を通そうと、少しずつ少しずつパイプのつまりを削っていくとき、小さな一つの穴が開いたなら水圧でそのつまりが一気に取れ、どっと水が流れます。同じように、今は神様の恵みのパイプがつまっているかも知れません。しかし、祈りによってそれが開いたなら、神様の恵みがどっと注がれるのです。
 また、この日本は、まだ雨がポツポツ降っているような状況ですが、この前の台風で集中豪雨によって多くのものが押し流されたように、聖霊の雨が降り注がれたなら、必ず日本の悪しきものが押し流され、大いなるリバイバルのわざが現されることを信じます。
 聖書の中に、からし種について書かれている箇所があります。からし種はとても小さな種ですが、成長すると大きな木になるそうです。そして、からし種ほどの信仰があったら、山に向かって海に移れと言ったらそのようになると書かれています。私たちもからし種ほどの信仰を持つなら、神様の大きなみわざを見ることができるのです。
 今までも恵まれてきたと思います。しかしここでとどまっていてはいけません。神様の祝福は、あふれるほどのものです。マラキ書にも、天を開き、あふれるばかりの祝福を与えると書かれているように、この地上においてその祝福を受け取っていただきたいのです。そして天国に行ったとき、神様から「よくやった、忠実なしもべ」と言っていただけるような者になりたいと思います。苦しみや戦いがあるかも知れません。しかし、失望せずにいれば必ず収穫できると信仰を持って進んでいきましょう。


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