わざわいを恐れるな

2003.8.17(SUN)
新城教会 滝元 明牧師

旧約聖書 ゼパニヤ書 3章14節〜20節
シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。例祭から離れて悲しむ者たちをわたしは集める。彼らはあなたからのもの。そしりはシオンへの警告である。見よ。その時、わたしはあなたを苦しめたすべての者を罰し、足なえを救い、散らされた者を集める。わたしは彼らの恥を栄誉に変え、全地でその名をあげさせよう。その時、わたしはあなたがたを連れ帰り、その時、わたしはあなたがたを集める。わたしがあなたがたの目の前で、あなたがたの捕われ人を帰すとき、地のすべての民の間であなたがたに、名誉と栄誉を与えよう、と主は仰せられる。

 ハレルヤ!久しぶりに、新城教会で礼拝できることを感謝します。皆さんのお祈りを感謝します。九月には、名古屋でミッションが行われるので、一月から決起大会に回っています。これまでに八十三カ所の教会を巡回しましたが、皆さんのお祈りに支えられ、今日も健康であることを感謝します。
 ゼパニヤ書三章十四節から二十節の御言葉を学びます。
『シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。』
十四節に、
『シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。』
と記されています。シオンの娘、イスラエル、エルサレムとありますが、エルサレムは今のイスラエルの首都で、シオンはエルサレムの端に位置します。尾山先生の現代訳聖書では、
『エルサレムの人々は喜び歌いなさい。イスラエルの人々は喜び叫びなさい。心の底から喜び歌いなさい。』
と書かれています。イエス様を信じたら、恐れやわざわいから解放されます。イスラエル、エルサレム、シオンと言っても、よくわからないと思いますが、これは私たちクリスチャンに対する言葉です。イエス様を信じたら、私たちは喜びの歌を歌い、喜びの叫び声を上げることができ、喜び勝ち誇ることができるのです。
 今朝、私は教会堂で祈りました。私はイエス様の前にひざまずきながら、この御言葉を考え、私は今喜んでいるだろうか、歌っているか、勝ち誇っているだろうかと考えました。イエス様を信じて、どのように喜びが与えられたのかと思いを巡らし、イエス様を信じたときのことを思い起こしました。
 私は十七才の時に、愛知県の下津具村から東京に出ていき、十九才の時に初めて教会に行きました。初めて教会に行ったときにクリスチャンの美しい姿を見て、「私もあんな美しい人になりたい」と思い、教会に通うことを決意しました。一九四九年二月二十日に初めて真剣に御言葉を聞きました。私を導いてくれたミセス穐近が、「しかし、彼を受け入れた人々その名を信じる人には神の子となる特権が与えられる」という御言葉を語って下さり、私は教会は二回目でしたが、「どうですか。イエス様を受け入れて見ませんか」という勧めを受け入れて、「受け入れます。」と祈りました。その時は本当にイエス様を信じたわけではなく、聞いたことをただ受け入れて祈りました。それから何度か教会に行ったときに先生が、「りんごは見ただけでは味がわかりません。食べてみないと味はわかりません。神様も頭だけではわかりません。信じてみたらわかります。なぜ、神様がわからないかというと、罪があるからです。大きな太陽でも、目の前に十円玉を当てると見えなくなります。それと同じように、罪があると神様がわかりません。だからイエス様を信じて罪を悔い改めて生活しなさい。聖書にはみんな罪人だと書かれているから・・・。」と言われました。その時に納得しました。
 一九四九年三月の始めに、私は林の中にひとりで入り、本当にイエス様がおられるのかを知るために一人でひざまずいて、「神様はおられますか。罪があったらあなたがわからないと言われました。もし、神様がおられるならば、私が生まれてからどんな悪いことをしたのか教えてみて下さい。そうしたら今日から悔い改めて信じます」と祈りました。まじめな気持ちで、本当に神がおられるか知りたいと願いました。
 祈っているときに、誰かが私の側にいるかのように私の心に語りかけました。静かに「お前は泥棒だ」と言われました。「ドキッ」としました。私は過去に泥棒をしたことを思い出しました。私は農業学校に行っていましたが、池原さんという方から十円借りたことを思い出しました。返さなくてはと思いながら、一月、二月、三月が経ち、今頃返すのはみっともないから返すのをやめようと思っていました。すると神様が、「十円も百円も千円も泥棒だ。同じことだ」と言われました。また、薬を借りたまま返さなかったのです。「あなたは借りっぱなしで返していない。あなたは泥棒だよ。」と言われました。その時、私の心の目が開かれました。十円で泥棒では、私の人生はそんなにまじめではないと思うと同時に、過去のことが目の前を巡りました。小学生時代に柿を盗んだことや、色々なことが巡り、「わかりました。私は罪人です。あなたを信じます。」と心から、神の前に悔い改めました。それから立ち上がり、十円を返しに行きました。当時の十円は、今の千円以上の値打ちがありました。池原さんの所に行き、「長い間借りていてすみませんでした。」と言いました。私は内心、彼は忘れていると思っていました。しかし、「ごめんなさい。」と言うと、彼は覚えていました。「良いよ。滝元さん」と言われました。「良いよ」と言われた言葉で、何となく心に喜びが湧いてきました。それから私は早速、農場で盗んだことを先生に告白に行きました。佐藤先生の所に行き、「私はお腹が空いて、色々なものを泥棒して食べましたが、クリスチャンになったのでお詫びにきました。赦して下さい。」と言いました。先生は、「知ってたよ。知ってたけどお腹が空いていると思い、知らないふりをしていたよ。」と言いました。私が償い金を持って行きましたが、金は受け取れないと言って赦して下さいました。また当時の私は曲がっていて、農夫さんに「黒」と言われると「白」と言い、いつも喧嘩ばかり売っていました。「滝元の野郎、生意気だから、一回ぶん殴ってやりたい」と言われていたほどでした。私も彼に、「勉強しない人は気の毒だね・・・」という態度をとっていました。私は農夫さんに謝りました。「農夫さん、今まで私は傲慢でした。赦して下さい。悔い改めます」と言いました。それから彼は私を愛してくれました。
 私は昔一度だけ、カンニングをしたことがありました。それで先生に手紙を書きました。「先生、カンニングで百点を取りましたが、赦して下さい。」先生からすぐに返事が来て「まじめな良い人生を歩みなさい」と書かれていました。私はそれで嬉しくなり、郷里に帰り、一軒一軒廻って謝りました。「梨を盗みました。赦して下さい」と言いました。「小さいときのことだから良いよ」と皆が赦してくれました。今でも忘れないのは、大家さんのおばさんに「桃を盗んだので赦して下さい」と言うと、おばさんが涙を流しながら「毎年うちの桃を子どもたちが盗むけど、謝りに来たのはあんただけだよ。もちろん赦しますよ」と言われました。その時にすごく嬉しかったです。
 また私が小学校一年生の時、口が悪かったので、太っていた子を見て「や〜い、百貫デブ・・・」と言っていました。そう言うと彼女が追いかけてくるので、面白がって「百貫デブ」とからかっていました。ある時に私が山を歩いていると、彼女と彼女のお兄さんが私の前に立ち、「明、よくも百貫デブと言ったな。」と言われ、殴られました。私はそのことを思い出して、謝りに行きました。さらりと赦してくれると思い告白しました。彼女の母親に、「小さいときに、百貫デブと言って悪かった。」と言いました。すると、急に母親の顔色が変わり、「ワシはあんなに悲しいことはなかった。謝りにきてくれたから良いけど、娘のことを百貫デブと言われたのは悲しかった」と言われました。
 また医者の家の柿を盗んだことを謝りに行ったことを思いだし、最近になってその家を訪れると、「僕は君を忘れないよ。君が若いときに、柿を盗んだから謝りにきただろう、僕はそれを見て将来、大物になると信じていたよ」と言うのです。しかし私は、徹底的に悔い改めて一つ一つ謝りました。それ以来、私の心に喜びがわき上がってきて、喜びが続いています。喜びの源について、ダビデという王様がこう言っています。「その咎が赦され、その罪が覆い消された者は幸いです。」イエス様にお会いして、罪を赦していただいたというのが喜びです。
 「神のものは神に、人のものは人に」と書かれているので、悔い改めることは大切です。「あなたはもうわざわいを恐れない」と御言葉がありますが、私はイエス様を信じるまでは、気が小さくていつでも人のことばかり考えていました。「僕がこう言ったら、人は何と言うだろうか」と人のことばかり恐れていました。しかし本当に神と人の前に悔い改めてから、神の前に赦されたということで私は変わりました。人があまり怖くなくなりました。
 今日私は、ひざまずいて祈ったときに「イエス様にお会いしたときに罪は赦された。それもイエスさまが身代わりとなって死んで下さったことによって、赦されている」と信じました。これまで守られてきたことは感謝です。皆さんも喜びに満ちた生活を送って下さい。十五節に、
『主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。』
と記されています。イエス様を信じると、「あなたはわざわいを恐れない」と書かれています。罪があると、色々な恐れがあります。特に聖書を見ると、「主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた」とあります。これは口語訳聖書では、「あなたを訴えるものを取り去り・・・」と書かれています。罪を悔い改めて、喜びが来ることは素晴らしいですが、なぜ罪を悔い改めなければならないというと、私が誰かのものを盗んだとすると、「誰か」との関係があります。
 聖書を見ると、ダビデ王があるとき罪を犯しました。ご主人が戦争に行っている間にダビデは、城壁の上から、水浴姿のある奥さんを見て「きれいな女だ」と思いました。そして、自分のところに呼び、その女と寝て子どもができました。それで、彼女の主人に対して困り、彼を敵の弾に当てて殺しました。その後、ダビデは彼女を自分の妻としました。人から見るとわかりません。
 しかし聖書を見ると、ある時に、ダビデ王のところにナタンという預言者が来て言いました。「ある村に貧しい女がいて、彼女は可愛い女羊を飼っていて愛しており、同じ皿からご飯を食べ、夜は羊を抱いて寝ていました。しかし、隣に金持ちがいて、たくさんの羊がありましたが、ある時ひとりの旅人が来たので、金持ちは考えました。旅人が来たけど、家の羊をほふるのはもったいない。そこで、金持ちは隣の一匹しかいない羊を奪い、殺して旅人に食べさせました・・・」
 その話を聞いてダビデは怒りました。「何だと。そんなやつは殺せ。死刑だ」と言いました。「四倍にして償いなさい」と言いました。すると、預言者ナタンが王に向かって「王よ。それはあなたです。」と言いました。人を騙しても、神は騙せないのです。全部神の前には明かです。しかしその時ダビデは率直に罪を認めました。ダビデ王は、その罪を犯してから骨が腐るほど苦しんだ、と書かれています。彼の良心は苦しみました。その時、神がこう言われました。第二サムエル記十二章十四節に、
『しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」』
と記されています。罪を犯すことは「主の敵、悪魔」に大いに侮りを起こさせるのです。
 私たちがなぜ罪をしっかりと、悔い改めなければならないかと言うと、悪魔に罪を握られるからです。ジョン・バニヤンに「天路歴程」という著書があります。そこには挿絵があり、多くの悪霊がひとりの男性を縛り、「行け、こっちに行け」と支配している絵があります。悪いことをすると悪魔が罪を訴えます。しかし罪を悔い改めると、その縄が解かれるのです。自由と赦しが与えられます。悪魔は訴えるものだと書かれています。過去の罪を訴えてきます。しかしイエス様を信じたら、訴えから解放されます。イエス様が私のために身代わりとなって死んで下さったので、私たちが信じて告白したら赦されます。ゼカリヤ書三章一節から四節に、
『主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。主はサタンに仰せられた。「サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。」ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」』
と書かれています。
 私は先週、尾西市で奉仕しました。そこに行ったら、その教会の娘さんが私のところに来て「先生、何かついていますよ。」と言って服の汚れを拭き取って下さいました。それできれいになりました。
 汚い生活をしていると悪魔が訴えます。「あいつは農場のトマトやカボチャを、トウモロコシを盗みましたよ。学生の時に百点を取ったけど、カンニングをしました。あいつの過去はこうですよ・・。」と訴えています。訴えられると良心が苦しみます。
「さあ、ヨシヤに新しい洋服を着せなさい」とあります。イエス様を信じて、バプテスマを受けると新しい服を着るのです。どんなに過去に失敗があっても、イエス様が身代わりとなって死んで下さったことを信じたら、赦されない罪は一つもありません。神の前に罪を悔い改めるときに、素晴らしい人生を送ることができます。また、ゼパニヤ書三章十五節に
『主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。』
と記されています。罪を悔い改めて心にイエス様をお迎えしたら、あなたの主はあなたのただ中におられるのです。クリスチャンは神が共にいて下さいます。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなるのです。「あなたはもうわざわいを恐れない。」と書かれています。
 日本人は色々な恐れで縛られています。人に対する恐れ、先祖の呪い、偶像による恐れなどたくさんあります。しかし今度はイエス様がおられるので、もう恐れることはないのです。
主われを愛す 主は強ければ
われ弱くとも 恐れはあらじ
わが主イエス わが主イエス
わが主イエス われを愛す
と賛美があります。どんなに弱い人でも、主が共にいて下さるので大丈夫です。皆さんの家庭に主が共におられることは素晴らしいです。
 私は食事の時間を大切にしています。家内とともに食事するときは感動して祈ります。「イエス様。今日この日までの食卓を感謝します。」と心を込めて祈ります。時々、孫たちがきて食事するときに、あまり祈らずに食べようとするので私は叱ります。私の家庭に、主が共にいることを大切にしています。
 私は結婚の時に約束しました。私の第一は、家内ではなくイエス様であると約束しました。主が共におられる。わざわいを恐れるない。時々病気やわざわいがありますが、主はともにいて下さったら、すべてを益として下さるので恐れずに進みましょう。十六節に、
『その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。』
と記されています。口語訳聖書では、
『その日、人々はエルサレムに向かって言う、「シオンよ、恐れるな。あなたの手を弱々しくたれるな。』
と書かれています。私も時々、手をあげて祈ります。祈っていても祈りが聞かれるだろうか、と弱くなることがあります。すると祈りができなくなります。しかし祈るときは、罪が赦されていたら確信を持って「主よ!」と力強く何でも祈るのです。これから私たちと共に、主がおられたら素晴らしい人生を持つことができます。十七節に、
『あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。』
と記されています。皆さんの家庭にイエス様がおられますか?
『主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。』
いつも信じることは何でしょうか。それはいつも神によって私は愛されていると信じることです。イエス様が十字架にかかって死んで下さったほど、私を愛して下さったということを信じることです。
 私は二、三日前にある教会に行くと、私の事をあまり知らない人がこう言いました。「先生、私は一ヶ月前くらいから先生のことを考えると、いつも祈りが与えられます。イエス様が私に、『「滝元明は、わたしの愛するしもべなので、よく祈ってあげなさいよ』と言われた」と言うのです。「先生のために、一生懸命祈っていると時々泣けちゃって・・・。」と言うのです。私はまじめに考えました。知らない人にも神は、「滝元明のために祈れ。愛されているから。」と言われるのです。
 あなたに対して神は、「愛されている人」と言われます。「あいつは大したことがないから、祈らなくて良い」とは言われません。愛されている人だからです。イエス様が、身代わりになって死んで下さったほど、愛されているのです。このことを信じましょう。その愛によって、安らぎを与えて下さいます。神が私を愛して下さっていると信じたら、平安がきます。私は罪を悔い改めてから、安らぎが来ました。
 外に出て、家に帰ったら必ず私は祈ります。「もしも、高慢な気持ちがあったら赦して下さい。汚れた思いに捕らえられていたら、きよめて下さい。十字架の血で洗って下さい。イエス様の平安で満たしてください。」と祈ります。
 主が共にいる、あなたのただ中にいるということが、人生におけるわざわいを恐れないで進む秘訣です。イエス様をしっかりと信じて下さい。まだイエス様を信じられておられない方は、神の前に悔い改めることです。この素晴らしいいのちを得るために、聖書はこのように語っています。ゼパニヤ書三章十一節に、
『その日には、あなたは、わたしに逆らったすべてのしわざのために、恥を見ることはない。そのとき、わたしは、あなたの中からおごり高ぶる者どもを取り去り、あなたはわたしの聖なる山で、二度と高ぶることはない。』
と記されています。信じるからにはおごり高ぶりはいけません。神様の前に出るときは過去にどんなに素晴らしいことがあっても、へりくだるべきです。十二節に、
『わたしは、あなたのうちに、へりくだった、寄るべのない民を残す。彼らはただ主の御名に身を避ける。』
と記されています。へりくだり、イエス様に拠り所を設けることです。十三節に、
『イスラエルの残りの者は不正を行なわず、偽りを言わない。彼らの口の中には欺きの舌はない。まことに彼らは草を食べて伏す。彼らを脅かす者はない。』
と記されています。これからのクリスチャン生活は不正をせず、嘘を言わないことです。その時に十四節に、
『シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。』
と記されていますので、真実にイエス様を求めたら、喜び勝ち誇った素晴らしい生活ができます。弱い者も強くされます。どんなに失敗がある人も、今日はきよめられます。恐れている方も恐れることはありません。「ただ中に神がおられる」とありますので、今日はイエス様を信じて下さい。一言お祈りします。


[バックナンバー]