異邦の民のならわしをまねるな!
・・・霊媒、占いの恐怖・・・

2003.8.24(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

旧約聖書 申命記 18章9節〜14節
あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいったとき、あなたはその異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねてはならない。あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。これらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。あなたは、あなたの神、主に対して全き者でなければならない。あなたが占領しようとしているこれらの異邦の民は、卜者や占い師に聞き従ってきたのは確かである。しかし、あなたには、あなたの神、主は、そうすることを許されない。

 ハレルヤ!久しぶりに新城教会で御言葉を取り次ぐことができて、感謝します。私は、二週間ほどの間に、南から北まで、宮古島、沖縄、青森、秋田にて奉仕させていただきました。皆さんのお祈りに支えられていることを感謝します。
 また、昨日は、名古屋ミッションのトラクト配布にも参加できたことを感謝します。今日は、「異邦の民のならわしをまねるな・・霊媒・占いの恐怖」というテーマで学びます。このテーマは、奉仕に行った中で主から教えられた事柄です。今朝は、それを皆様にお分かちしたいと思います。
 二週間前、宮古島に行きました。三つの教会の先生方、兄弟姉妹が私たちを迎えてくださいました。私にとって、宮古島は特別な思い出があります。一九九三年、甲子園ミッションについての案内や決起大会の為に、南の島々に出向きました。宮古島で集会するように連絡してありましたが、教会に着くとあまり歓迎されていないように感じました。教会の外に一人の青年がいたので、「あなたは、この教会のクリスチャンですか?」と聞くと、「はい」と答えました。「今晩、集会があるから、ぜひ来るように」と勧めました。しかし彼は「用がある」と言って断りましたが、一生懸命勧めると、彼は嫌々ながら集会に出席しました。けれども、彼はそこで聖霊様に触れられ、変えられました。彼は、宮古島から甲子園ミッションに、なんと、三十名ほど連れて来ました。そして、今は、彼がその教会の牧師になっています。
 また、島のもう一つの教会は、メンバーが五名位しかいませんでした。しかし、その教会に聖霊の火がつき、リバイバルされました。そして、五年間で教会員は十倍になり、今は五十名程が集っています。全国で一番小さな教会でしたが、今は一番伸び率の高い教会となりました。その教会には付属の幼稚園があります。教会付属にもかかわらず、一般の幼稚園と同じように、日本の偶像礼拝的習慣を全て実施しておりました。しかし、牧師が聖霊によって変えられたことにより、雛祭り、豆まき、鯉のぼりなど偶像的な習慣をすべて取りやめました。その時から幼稚園も変わりました。幼稚園の先生方も三分の二がクリスチャンになり、一日が祈りで始まり、祈りで終わるようになりました。そして何か問題があっても、すぐに祈るようになったそうです。その幼稚園に、先日奇跡が起こったそうです。
 朝、幼稚園に行くと、子どもたちが飼ってた金魚が死んでいたそうです。先生が、「残念だね。捨てなくては」と言うと、園児たちが「先生、待って。金魚が生き返るように祈ろう。」と言ったそうです。それで園児たちは、「イエス様。金魚を生き返らせてください。」と真剣に祈ったそうです。すると、死んでいた金魚が生き返り、再び、泳ぎ出したそうです。
 私たちの神は、生きておられます。しかし南の島々に行くと、人々は偽りの神々に祈っているのを多く見かけます。沖縄では、先祖崇拝を熱心にしています。今回、私は、盆の時期に沖縄に行きました。沖縄の盆は、一族が集まり仏壇の前で真剣に先祖の霊と称するものに礼拝するのです。沖縄では年二回、大きな死者礼拝行事があり、「その時期は気をつけろ」と警戒するそうです。なぜならば、その時期に合わせるかのように、色々と悪いことが起こるからです。精神的な問題を持っている人は、さらに悪くなって頭がおかしくなるので緊張します。人々は一生懸命先祖の霊を拝んでいます。そこには死んだ先祖の声を聞かせてくれるという人がいます。「口寄せ」「霊媒」を行う、「ユタ」という存在がおります。何かの問題が起こると、県民の九十パーセント以上がユタのところに行くようです。
 その後、私は「青森」に行きました。そして、下北半島にある「恐山」に行きました。ちょうど新城教会で、三大霊山のとりなしの祈りのプログラムがありましたので、私は恐山に行って、恐山の背後にある死の霊が打ち破られるように、と祈りに行きました。
 そこには「イタコ」と呼ばれる霊能者がいます。「イタコの口寄せ」と看板が出ています。先祖の霊と称するものを呼び出して指示を受けるのです。イタコは先祖の霊を下ろして、人生のアドバイスをするそうです。「一霊、三千円」と書かれていました。見ると、三十人程が廊下で口寄せを受けるために待っていました。
 南と北に霊媒、口寄せの二大拠点があります。しかし、占いや霊媒、口寄せは日本全国至る所にあります。人々は日常的に霊媒に頼っています。
 朝、テレビをつけると、「今日の星座、運勢」というのが必ずあります。それは聖書から見ると、たいへん危険な行為です。
 イスラエルは四百三十年間、エジプトで奴隷生活を体験しました。今の時代は辛いことがあっても、奴隷ではないのでどうにでもなります。会社で傷を受けるならば、明日からでも辞めることができます。しかし奴隷はどんなに辛くても、そこから抜け出すことができません。そんな中でイスラエル人は神に助けを求めました。
 神は必ず祈りに答えてくださるお方です。時には瞬間的に答えてくださいます。しかし、イスラエル民族においては、四百三十年間も祈りが続きました。彼らは、世代を越えて問題解決を祈っていました。アメリカでも奴隷制度がありました。その中で黒人の人々は真剣に神を求めました。神は叫び求める民の祈りに答えてくださるお方です。神が祈りに答えるタイミングは、私たちが考えもしないタイミングで答えられます。そして祈りが答えられるまでの時間も、無駄ではないのです。
 イスラエル民族はモーセによって導かれ、約束の地・カナンに入国しました。元々カナンの地は、イスラエル民族のものでした。しかし、四百三十年も離れていたのです。
 神はこのカナンの地について、乳と密の流れる地であり、約束の地だと語られました。イスラエルはカナン入国を前にして、入国後守るべき事柄について、モーセを通してガイダンスがありました。
 入学前にも「この学校に入ったらこのような規則を守ってください。そうすれば、あなたは楽しい学園生活を送ることができる」というようなガイダンスがあります。それと同じように、イスラエルの民たちも、神からのガイダンスがあったのです。その時に語られた事柄が、申命記に記されています。その中で、モーセは一つのことを語りました。それが、申命記十八章九節から十四節です。九節に、
『あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいったとき、あなたはその異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねてはならない。』
その地は既に、カナン人と呼ばれる人々が住んでいましたが、彼らが行っている忌み嫌うべきことをまねしてはいけないと言うのです。それが、十節から十一節に記されています。
『あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。』
ここで、占いやまじない、口寄せなどをしてはいけないと語られています。十二節に、
『これらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。』
と記されています。「彼ら」とは、カナン人です。やがて、彼らはカナンの地から追い出されました。なぜならば、彼らは占いや霊媒を行っていたからです。
 私たちクリスチャンは、すでに約束の地に入っています。この地上には、たいへんなことがありますが、すでに私たちは、「神の国・約束の地」の中にあり、神の国の権威と勝利が人生の中にあります。しかし、約束の地から追い出されないためには、占いなどをしてはいけないのです。
 占いなどに対し、無防備に心を開いてしまうことがありますが、それは大きな罪であり、私たちを幸いから遠ざける事柄です。イザヤ書十九章一節から四節に、
『エジプトに対する宣告。見よ。主は速い雲に乗ってエジプトに来る。エジプトの偽りの神々はその前にわななき、エジプト人の心も真底からしなえる。わたしは、エジプト人を駆り立ててエジプト人にはむかわせる。兄弟は兄弟と、友人は友人と、町は町と、王国は王国と、相逆らって争う。エジプトの霊はその中で衰える。わたしがその計画をかき乱す。彼らは偽りの神々や死霊、霊媒や口寄せに伺いを立てる。わたしは、エジプト人をきびしい主人の手に引き渡す。力ある王が彼らを治める。』
エジプトの人たちは、霊媒や口寄せに伺いを立て、偶像礼拝をしていました。その結果、兄弟は兄弟と、友人は友人と、町は町と、国は国と争うようになったのです。
 私たちの生活の中にも、時々、兄弟同士で逆らいあったり、喧嘩をしたり、友だちとぶつかったり、人間関係のトラブルがあります。
 聖書は、その原因について教えています。その原因は、死の霊に伺いと立てたり、占い、まじないをすることによって入り込むと告げています。だから、それらに心を開いてはいけない、というのです。
 かつて、占いが好きだったとか、暦をよく見たとか、運勢の欄はいつもチェックしていたという人がいるかも知れません。その結果は、恐ろしいものがあります。
聖書は偶像礼拝に関して、大へん厳しい教えをしています。偶像礼拝は三代、四代ののろいをもたらすのです。偶像礼拝は怖いです。自分が罪を犯さなくても、両親や祖父母、祖々父母の偶像礼拝が、孫や曾孫に影響するのです。
 私は、全国を廻り問題を持っている方々のためにお祈りをします。先週、秋田で集会をしました。どんな集会を開くのかと聞くと、「集会ではなく、霊的な束縛を解く祈りを一人ひとりにして欲しい」というのです。それで、三日間、解放のための祈りの奉仕を朝から晩まで行いました。そこにこられた方々から、問題について聞けば聞くほど、たいへんかわいそうに思いました。祈りは毎日、朝九時から夜十時ごろまで続きました。家系の中に、「これでもか!」というほど問題があります。一人のおばあちゃんが来られましたが、年をとっても未だに平安がないのです。そして、その背後に「イタコ」が関わっているのです。
 秋田の人たちは友好的で、朝、歩いていると気軽に話しかけてくれます。しかし、言葉が全くわからないのです。お祈りの時にも、通訳者が必要でした。問題の背後には、偶像礼拝があります。偶像礼拝から離れることは幸いです。
 クリスチャンのみなさん。偶像礼拝から離れて、何か悪いことがありましたか?日本人は、偶像礼拝から離れたら、罰が当たると思っていますが、罰はありません。偶像礼拝から離れたら、素晴らしい祝福が与えられます。
 偶像礼拝とは、人や獣の像を拝むことです。しかし沖縄の方に行くと、偶像礼拝の形態が少し違います。この辺の仏壇はギラギラしていますが、向こうはシンプルで、何の飾り気もない仏壇です。地域には、沖縄語で「ウガンジョ」という「祈り場」がたくさんあります。宮古島に行くと、人口三万人程の島ですが、九百ヶ所以上の祈り場があります。新城に九百ヶ所の教会があるのと同じです。祈り場には仏像はありません。ただ、サンゴ礁が積み上げられた、太い木の根本であったりします。線香さえ焚かなければ、そこでクリスチャンが祈っても良いではないか、と思うような場所です。しかしそれは、偶像礼拝の場所です。
 さて、仏像が作られるようになったのは、一世紀から三世紀くらいの間だと言われます。それ以前に仏像はありませんでした。釈迦は、「偶像を作ってはいけない」と言ったそうです。なぜならば、仏教の教えの中心は「空」だからです。仏教をかつて信じていた人は、「空の契約」を破棄する祈りをしてください。ある人は教会に来ても、その契約が依然として残っていて、未だに寂しさがあるかも知れません。
 原始仏教は、仏像は作りませんでした。しかし、後に、ヒンズー教などの影響によって偶像が作られました。悪い意味で、一つの要素が熟成し、やがて偶像がもたらされました。偶像礼拝の原点に一つのものがあります。創世記十一章一節から九節に、
『さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。』
 初めの人間、アダムとエバは罪を犯したために、楽園から追い出されました。その後、彼らから生まれ出た子孫は、よいものではありませんでした。やがて地は、悪で満ち、手がつけられないような状況となりました。神様はそれを見て心を痛められ、ついには人類全体を大洪水で滅ぼしました。それがノアの洪水です。あまりにも人が罪を犯したので、ノアの家族だけを助け、その他の人々を皆殺しにしました。それは人類が犯した罪の結果でした。
 「船」という漢字は、ノアの家族八人が入り口から入って助かった、という意味で作られたのではないかと言う説があります。八人をもとにして、神は人類を再起動されました。そして、神は人に対して、「今度こそ、正しい人生を送ってくれるのに違いない」と期待していたことでしょう。しかし、また、八人の末は悪いことをし始めました。それで、神は、新人類に対して怒ったのです。
 神様は何に対して怒られたのでしょうか。この箇所を読むと、何か理解しがたいところがあります。
 昔、人類は一つの言葉を話していたようです。世界が一つの言葉だったら大変便利だと思います。昨日は名古屋のトラクト配布を早めに切り上げ、鈴鹿のブラジル人教会の神学校で霊的戦いについて講義しました。私はポルトガル語ができないので、フェルナンド先生が通訳をしてくれました。皆、熱心に聞いてくださいましたが、言葉が同じだったらもっと伝わったのにと思いました。例えば、ブラジルにない概念を、言葉で説明するのは難しいものです。
 昔は一つの言葉でした。けれども、神が言葉をバラバラにされました。今、たくさんの言語がありますが、それはバベルの事件から起こったのです。
神様が人を見ると、町を作り、真ん中に塔を建てていました。それを見た神は怒り、人々を散らし、言葉をバラバラにされました。この記事を読むと、「何って、心の狭い神だろう」と思います。今の時代に、神が町に降りてこられたら、きっとカンカンになって怒るのではないでしょうか。町には塔がたくさんありますから。
 しかし、神は人類がただ、高い塔を作ったので怒ったわけではありません。バベルの塔は考古学によると、「ジッグラト」と呼ばれる「高所神殿」でした。ただ景色を見る物見の塔ではなく、自分の願望を実現するために悪霊と交わる「降霊術」を行う、占いの為の塔でした。塔の頂上に霊が呼ばれ、その霊は階段を降りて人の世界に下ってくると考えられていました。神はそれを見られ、その計画を中止させるために言葉を混乱させ、人々を遠くに追いやりました。
日本は偶像礼拝を行っていますが、偶像礼拝よりもある意味において、偶像礼拝の原点とも言うべき罪に、「自己実現のために悪霊をも呼ぶ」と言う「霊媒」があるのです。その行為を神は厳しく戒められます。沖縄の先祖崇拝のように、何もないところに霊を呼ぶ「降霊術」は一番危険な行為です。親は子と、兄弟は兄弟と、交わりが断たれる原因になるのです。
 今の時代、占いや口寄せ、霊媒が軽い気持ちでなされています。しかしこれは「偶像礼拝の原点」である、恐ろしい罪なのです。人生をバラバラにし、問題を持ち込むきっかけなのです。
テレビなどで、「今日の運勢」などがあっても、耳を傾けてはいけません。「占い」には二通りあります。それは、「直接型」と「間接型」です。直接型とは自分で占いを行うことです。間接型は、占いのための専門家が中間に立ちます。しかし結果的には同じです。直接型は自分がユタやイタコなどの霊能者の立場となります。知らないうちに、人生に破れ口ができます。
 バベルの塔で人類は降霊術を行いました。その結果、人々は互いに言葉が通じなくなり、遠くに散らされたのです。
 あなたの廻りに、同じ言葉を話しているのにも関わらず、言葉が通じないような問題はないでしょうか。同じ言葉を話しているにも関わらず、意志が通じない、近くにいても遠くに追いやられているような現状はないでしょうか。それは占い、霊媒などに関わるところに原因があります。
 昨日、ブラジル人の聖書学校で話しました。ブラジルも降霊術が盛んです。祈りの時間になって、一人の男性が私のところに来て、「今日の話を聞いて、私にピッタリでした。私は昔、降霊術者をしていました。その結果、家の中はバラバラになりました。それで私は日本に逃げてきました」と言われました。
 悪魔は私たちに、「こんなことは誰でも皆、やっている。占いは大きな罪ではない」と言います。しかし、ここに大きな悪魔の策略があります。私たちは、絶対に、直接的にも、間接的にも霊媒や占いに関わるべきではありません。それらに対して心を閉ざさなければなりません。
今回、占いの方法について調べると、色々な方法があることに気付きました。一つドキッとするものがありました。それが「書籍占い」です。それは、「聖書を無造作に開いて、そこから出る言葉によって占う」という占いが、かつてローマにおいて行われていたとありました。
 時々、聖書をランダムに開き、そこから言葉を選びます。そのような方法をも、時として神は用いられるかも知れませんが、ある意味で、昔そのような方法で占いがなされていたとしたら、よく注意しなければなりません。前後関係をよく読んで、よく祈りながら御言葉に聞くことが大切です。祈り心と共に御言葉を学ばなければなりません。
イエス様がこの地上に来られた目的が、ヨハネ十一章四十九節から五十二節に記されています。これはカヤパの預言です。
『しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。』
かつて、人類はバベルの塔を建てて散らされてしまいましたが、もう一度人類を集めるために、神はイエス様を地上に送られ、十字架で死なれてよみがえられ、天に帰られました。その後、聖霊が注がれました。使徒の働き二章一節から十三節に
『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか。」と言った。しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。」と言ってあざける者たちもいた。』
ペンテコステの時、祈っていた弟子たちに「聖霊が降った」、「他国の言葉で話し出した」と記されています。ここには、色々な国民のリストが記録されています。それは当時、人が住んでいると理解されていた、すべての国の人たちを現しています。
 当時、エルサレムは国際都市であり、多くの外国人が滞在していました。けれども、互いの意志は通じませんでした。しかし聖霊が注がれた時に、ガリラヤ弁しか話せなかったような弟子たちが、他国の言葉を話したのです。外国人たちは、自国の言葉を聞いて、福音を理解したのです。
聖霊の注ぎは、何を意味しているでしょうか。それは「バベルの呪いからの解放」です。バベルの塔で降霊術を行い、人類は悪霊を呼び下しました。その結果、互いの言葉が変えられ、お互い遠くに散らされました。しかしイエス様が地上に来られ、十字架にかかられよみがえられた後、聖霊が注がれ、互いに通じなくなっていた言葉が通じるようになり、人々が集まってきたのです。
 私たちも、かつて霊媒や占いなどの降霊術により、言葉が通じなくなり遠くに追いやられました。しかしイエス様が来てくださり、聖霊が注がれるときに言葉が通じるようになり、集められるのです。聖書の救いには、色々な側面があります。聖霊が注がれたのは、ある意味で、バベルの塔以来、散らされた民を集まるためでした。かつては悪霊によって人々は散らされましたが、神の霊「聖霊」によって「回復」されるのです。
 今日は、かつて占いに心を開いていたら、悔い改めを祈りましょう。占いも三代、四代に至る偶像礼拝の罪です。家系の中にある呪いを解きましょう。今日からは、聖霊によって言葉が通じるようになりますように。散らされた者たちが集められますよう、お祈りしましょう。


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