騙されてはいけません!
・・悪魔の偽りの土台をあばけ・・

2003.8.31(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

新約聖書 ヨハネの福音書 8章44節
悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。

 ハレルヤ!おはようございます。先週に引き続き、新城教会で礼拝を守ることができて感謝します。夏も終わりに近づき、学生の皆様は明日から学校です。気分転換が難しいかも知れませんね。今年は、夏がなかったような気候で、天気予報の半分以上が外れて、気象庁には苦情電話が殺到したようです。次に何が起こるのか、天候まで、わからないような時代にありますが、イエスさまと共に歩めて感謝です。
 今日は「騙されてはいけません!・・悪魔の偽りの土台をあばけ・・」というタイトルで学びます。
 先週私は、四日間のお休みをいただき、家内と旅行に行ってきました。年間、二回お休みがあり、私は家内を愛しているので、家内とともに小旅行をすることにしています。毎回、家内を良いところに連れて行ってあげようと思います。私は、いつも旅行の前に、「神の栄光が現わされる旅行となりますように」と祈ります。
 今回は、なかなか行く場所が決まりませんでした。なぜならば、私は全国を巡回しているために、行ったことのない県がないからです。それでも、比較的に行ったことのない場所が宮崎県でした。それで、宮崎に行くことにしました。しかし、四日間中、三日間はとりなしの祈りツアーになってしまいました。でも、楽しかったです。
 私は出掛けると、思い出の品を一つ買うことにしています。私は、サングラスを買うのが好きです。毎年買っています。なぜならば、毎年サングラスをなくすからです。いつも家内にしかられています。さて、今回買ったサングラスはいくらだと思いますか?
 以前、インドネシアでサングラスを買いました。向こうの物価は日本から見ると、たいへんやすいので、物が安く買えるのですが、インドネシア人に、「それの値段は、一ヶ月間働いて得る賃金だ」と言われました。少しは、インドネシアに貢献できたかと思いましたが・・・。
 今回、宮崎県で買ったサングラスは、なんと「百円」でした。しかし一万円のサングラスと、それ程変わりません。流通はどうなっているのか、と思います。百円のサングラスで充分です。何が本当なのかわからない時代です。安いのは良いのですが、ある意味で偽りの多い、今日この頃です。
 以前、アーサー・ホーランド先生とともに海外に行きました。歩いていると、先生が「良い物があったよ。」と言うので見に行くと、ロレックスの時計でした。それも数千円でした。それを聞いて、私も買いに出かけました。高価なロレックスだけど、もっと、安くしてくれるというのです。私は三日間かけて三百円程値切り、家内へのおみやげにしました。アーサー先生も買いました。彼はサングラスをかけて、かっこよくロレックスを腕にはめて椅子に座り、足を組んでいるのです。ふっと時計を見たとたん、「あ〜!・・・。」と叫びました。みると、ロレックスのシンボルである王冠が、時計の中で落ちて秒針と長針の間に引っかかっているのです。何とその時計は偽物でした。私も日本に帰り、家内に時計をプレゼントしました。そして「今、何時?」と聞くと、時間が遅れています。一時間に約十分ほど遅れていく時計でした。まだ、そのくらいならば可愛いものですが、絶対に騙されてはいけないことがあります。
 ある方は教会に来られ、教会も宗教の一派だから、そのうち騙されるのではないかと心配しているかも知れません。宗教は入り口では良いことを言うけど、奧に入れば入るほど、色々あるのではないかと思うかも知れません。しかし、教会では騙されることはありませんので、心配しないでください。
 この教会の歴史は五十数年です。五十年前から来られている方に聞いてみてください。「教会に来て、騙されたことはありましたか。イエスさまに、期待はずれのことはありましたか。」と聞いてください。そうしたら、「イエスさまは真実です!」と、自信を持って答えてくれると思います。イエスさまは裏切る方ではありません。人は裏切りますが、イエスさまはそうではありません。
 ペテロという弟子は、イエスさまとともに生活し、ずっとイエスさまを近くで見ていた人でした。彼は手紙の中で、こんなことを記しています。第一ペテロ二章二十二節に、
『キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。』
これは、イエスさまの一番近い弟子の証言です。私が死んだ後に、家内が私の伝記を書き、その中で、「私の夫・滝元順は、罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見出されませんでした。」と書いたら、「この大嘘つき!!」と言われるでしょう。そんなことは絶対に書けません。しかし、イエスさまは、罪を犯すこともなく、何の偽りもなかったとペテロは記しています。イエスさまは何の偽りもない方であり、決して裏切らないと信じてください。私たちクリスチャンは、イエスさまに似たものになりたいと願っています。そもそも「クリスチャン」とは、「キリストに似た者」という通称でした。「彼らはキリストのようだ」と噂され、「クリスチャン」と呼ばれるようになりました。ですから、「唇から偽りを取り除いてください」と祈ることが必要です。ダビデもそのように祈りました。詩篇一二〇篇二節、
『主よ。私を偽りのくちびる、欺きの舌から、救い出してください。』
幸せに生きる秘訣は、第一ペテロ三章十節から十一節に書かれています。
『「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。』
これは幸せに生きる秘訣です。「人の悪口を言わない」こと、「嘘を言わずに真実に生きる」こと、そして、「平和を求める」ことです。すぐに喧嘩をする人がいます。争い好きな人は、幸せに生きることはできません。平和を追い求めることが大切です。そして、偽りから遠ざかった生活をするならば、幸せに生きることができます。
 しかしこの世の中は、偽り、騙し事で満ちています。さて、「最大の騙し事」とは何でしょうか。騙しごとの発生源があります。ヨハネ八章四十四節に、
『悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。』
 偽りの父とは、悪魔のことです。「嘘・偽りの発生源は悪魔」です。もしも、嘘を言おうとさせる思いが来たときには、発生源に悪魔がいるのです。偽りの父は悪魔であることを覚えておかねばなりません。そして、悪魔が人類に対して語っている最も大きな騙し事は、本物の神がおられるのにも関わらず、偽の神を神と思い込ませていることです。日本人はこの最大の騙しごとにはまっています。日本人の信じている神は、全て人が手で作ったものです。石や木や金属を神として拝んでいます。
 もし、両親がいるのにも関わらず、川から二つの石を持て来て、「一つがお父さん、もう一つがお母さんだよ」と言い渡され、それを信じて石に向かって、「お母さん、お父さん、ありがとう」と言ったらどうですか。両親にとっては悲しいことです。
 同様に、日本人は手で作った神々を拝んでいるのです。教会に来ると、手で作った神々は神ではないことがはっきりわかります。しかし、単純なことですが、一般には、これがなかなかわからないようです。
 聖書は偶像は無意味であると教えています。ハバクク書二章十八節に、
『彫刻師の刻んだ彫像や鋳像、偽りを教える者が、何の役に立とう。物言わぬ偽りの神々を造って、これを造った者が、それにたよったところで、何の役に立とう。』
 彫刻師が刻んだものを拝んで、何か役に立つのでしょうか。よく考えると、役立たないことがわかります。
 しかし、日本人には、それらが役立っているので困ります。日本人の九十九パーセント以上が、石や木や金属の神々を拝んでいます。「それは空しいですよ。何の役にも立っていないですよ」と言ったらどうでしょうか。そうするなら、「いや、そんなことはありません。十分に役に立っています。」と言われるでしょう。なぜなら、手で作った神々の背後にいる、偽りの父、悪魔が人々を騙しているからです。
 そして、騙し事はそれだけに終わりません。もっと深いところに、強力な騙し事があります。クリスチャンは、イエスさまを信じて偶像礼拝から離れていますが、今から語る、「更に深い騙し事」から解放されているクリスチャンは、少ないのかも知れません。サタンの策略を暴き、騙し事から解放されなければなりません。それが、「偶像礼拝をもたらす考え方」です。
 日本人は偶像礼拝を何千年も維持してきました。偶像をただの石や木、金属と片づけることができない感覚、センスを持っています。それは、偶像を拝むと、何らかの霊的な存在が祈りを受け取りにくるという感覚を体験しているからです。これは、アジアの人々に共通する世界観ですが、「物の中に霊が宿る」という考え方があります。仏像、仏壇の中に、何らかの霊が宿っているという考えがなければ、偶像など、ばからしくて拝んでいられません。人々が仏壇を拝むのには、仏壇には先祖の霊が宿っていると信じているからです。仏像の中には、神々の霊が宿っている、という考え方があります。だから偶像礼拝が何千年も維持されているのです。「物の中に霊が宿る」とは、はたして本当か、嘘かを考えるべきです。
 二年程前にハワイのホノルル沖で、「えひめ丸」という船が沈没しました。その時、日本の若者が大勢亡くなりました。私はその事件の直後、ホノルルに行きました。世界中から報道チームが駆けつけていました。そのころ日本の遺族は、「一刻も早く、えひめ丸を引き上げてください」と訴えていました。すでに、沈没してから一週間以上が経っていて、生存者がいないことはわかっていました。しかしそれでも、日本人は声を大にして訴えていました。そんな日本人の行動を見て、欧米のマスコミは違った論調でその姿をレポートしていました。
 「なぜ日本人は、船内に生存者がいないのに、わざわざ引き上げろというのだろうか?」と報道していました。えひめ丸は水深六百メートルのところに沈みました。それを引き上げるためには、相当な技術と費用、そして、時間がかかると言われました。さらに、船体を引き上げたときには、遺体は多分骨になっているだろうと予測されていました。それで、「船体引き上げを諦め、その代わりに引き上げ費用を遺族に分けたらどうだろうか」と提案がなされていました。しかしそんな意見をよそに、日本側は、「一刻も早く引き上げてください!」と訴えていたのです。
 ハワイのパール・ハーバーには、日本軍の奇襲攻撃によりアメリカの戦艦、アリゾナが沈んでいます。そこには記念館が建てられています。戦艦アリゾナには千数百人の兵士が乗り込んでいたそうです。それが一瞬にして沈没し、全員がいのちを落としました。しかしアメリカは、その船内から遺体を引き出すことをしていません。未だに船内には、遺骨が残っているそうです。アメリカ人は、「骨をください」とは言いません。しかし、日本人は、「骨が欲しい」と言います。
 日本人はなぜ、骨を要求するのでしょうか。「子ども達を愛しているからです。」と言ったらどうでしょうか。そうしたらアメリカ人は怒ります。「私たちだって家族を愛していますよ。そんなこと、愛を基準に話すことではありません。」
 では、何が違うのでしょうか。それは愛の問題ではなく、「宗教観の違い」なのです。なぜならば、日本人にとって遺骨とは、ただの「骨」ではないのです。骨の中に、「霊が宿っている」と信じているからです。しかし、欧米の人々はそのようには考えないのです。人が死んだら、魂は神の元に行くので、骨はただの骨と考えます。しかし日本人は、骨の中に霊魂が残っていると考えるのです。だから、骨が欲しいのです。
 さて、皆さんの家族が乗っている船が沈没したとします。そして、船を引き上げて「骨を拾う」か、または船の引き上げをあきらめたら「一億円あげる」
 さて、「どちらかを選んでください」と言われたら、どちらを選択するでしょうか。「一億円」と言いたいところですが、案外、身内になるとどうでしょうか。「死んだ息子が、海の中で凍えている・・・やっぱり骨だ」と言うのが本音ではないでしょうか。
 もしも「骨がほしい」といわれる方は、まだまだ、悪魔に騙されています。骨の中には霊魂は残りません。聖書は、「肉体は土に返り、霊は神のところに戻る」と教えています。私たちがイエスさまを信じたら、私たちの本質の魂は、瞬間的に天国に入り、神と共に永遠に生きます。しかし、肉体は初めから土で作られているので、土に返り、骨には何の意味もありません。骨に執着があるのならば、「偶像礼拝的な考え方」が依然として残っている可能性があるのです。この騙し事から解放されなければなりません。
 聖霊に満たされて力強く生きる為には、騙し事からの解放が必要です。騙し事から解放されなければ、聖霊様はその領域を占領できません。
 神は天国において、私たちが永遠に宿る、朽ちない肉体を用意されています。神は色々な肉を造られました。牛の肉、魚、人間などの肉を造ることができたのですから、天上での朽ちない肉体を造れないはずがない、と聖書は告げています。この地上を去るならば、人は、二度と朽ちることがない、衰えない肉体に宿るのです。
 近頃、鏡を見るのが怖くなりました。しかし、人間はうまくできていると思います。自分の顔は、一生本物を見ることができないのです。鏡は虚像です。私は、自分の頭がはげていても、一度も本物を見たことがありません。私の家内は、「薄くなった」と言いますが、私には分かりません。しかし、天国に行ったら、二度とはげない頭がそこにあります。二度としわにならない肌、二度と抜けない歯・・・。しかし、悪魔は人を騙します。「死んだら霊は骨に残る」
 秋になるとトンボがたくさん出てきます。トンボの幼虫「ヤゴ」は泥の中に住みます。ヤゴにはヤゴの世界があると思います。ある時、ヤゴのおじいさん、おばあさんたちがゲート・ボールをして遊んでいました。すると、一人のヤゴじいさんが、「気持ちが悪いから、ちょっと失礼する・・。」と言って、ゲートボール場から出て行きました。すると、ヤゴじいさんは、近くの芦の茎に飛びつき、突然登り始めたかと思うと、水面に出てしまいました。残されたヤゴたちは、「じいさん、気持ちが悪いなどと言っていたけど、結構、元気いいじゃん。」と言って見ています。そのうち戻ってくると思ってゲームを続けていました。しかし、ヤゴじいさんは、いっこうに戻ってきません。
 ヤゴじいさんが、芦の先端に着いてしばらくすると、突然、体が固まり始めました。体が固まったと思ったら、次に、背中がミシミシと割れました。すると中から羽根が出て、やがてトンボになって大空に飛んでいきました。トンボになったら、二度とヤゴの世界には戻りません。
 芦の先には秋風にゆらゆら揺れながら、昔、ヤゴだった頃の抜け殻が、芦に引っかかったまま残されていました。ヤゴの本質は、その中にはありません。同様に、私たちも、死んで骨の中に霊魂が残ることはないのです。
 「物の中に霊魂が残っている」という考え方こそ、悪魔が日本人を騙すために使っている大きな策略であり、騙し事です。私たちはそこから解放されなければなりません。騙されてはいけません。偶像の中には霊は宿っていません。騙し事を信じているので、悪霊が物を媒体に関わるのです。騙された結果として、悪魔が色々な悪い働きをします。
 聖書は、「私たちは神の中に生き、動き、存在している」と告げています。また、エレミヤ書二十三章二十四節に、
『人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。__主の御告げ。__天にも地にも、わたしは満ちているではないか。__主の御告げ。__』
私たちの神は、天にも地にも満ちておられます。イエスさまを信じると、イエスさまが心の中に住んでくださいます。けれども、日本人的な考え方で、このことを理解してはいけません。日本人の世界観で理解すると、心の中に小型のキリスト像がはまっているかのように考えてしまうからです。そうではありません。神は天地を造られた大きなお方です。天にも地にも満ちておられるのです。イエスさまはどこにでもおられ、私たちは、イエスさまの中に生き、動き、存在しているのです。あなたがどこに身を隠しても、神の目から逃れることはできません。あなたは常に、神の中に生き、動き、存在しているのです。なぜならば、神は天にも地にも満ちておられるからです。決して、ある部分に限定され、存在することはないのです。
 教会は、見えない世界の必要を満たすところです。教会も社会の一員なのですから、社会の中で果たすべき役割があります。それが「霊的な役割」です。教会が社会において、霊的領域に関して、責任を果たせるように祈るべきです。
 皆さんはいつでも教会に、祈りを要請できます。困ったことがあったら、いつでも、教会に祈りの要請をしてください。教会の働き人は、祈りの専門家です。イエスさまの前に出て、とりなし祈るのが仕事です。
 いままで、色々な祈りの課題が教会に寄せられました。「豚が溝に落ちてけがをしたから祈ってください」と言われて、祈ったこともありました。
 先々週、素晴らしいことがありました。Y姉のご主人が救われて喜んでいましたら、事件が起こりました。里帰りに一緒に連れて行った犬がどこかに逃げてしまいました。「早く見つかるように祈ってください」と言われたので、真剣に祈りました。しかし、一週間も行方不明でした。事態はだんだんと深刻になりました。
 ペットを飼っていると、ペットは家族の一員で、たいへん愛着があるものです。私の家も、以前、犬を飼っていて、死んだときには悲しかったです。飼い主はペットを愛しているのです。小さな犬が一週間行方不明でした。真剣に祈っていましたが、日を追うごとに不安になりました。今度、バプテスマを受けようと準備している娘さんからも電話がありました。娘さんが一番愛しているらしく、何とか見つかるようにと祈りました。ここで祈りが聞かれなかったら、イエスさまは神ではないと言われてしまいそうな気がしました。私も真剣に祈りました。「イエスさま。子犬を見つけてください。子犬のところに天の軍勢を送って下さい。そして引き戻してください!」と祈りました。小さな犬ですが、どんどん移動し、車の往来が激しい道路を横断したという情報が寄せられ、さらに大変な状況にありました。しかし、ついに見つかったのです!
 イエスさまは人間だけではなく、動物にも目をかけてくださっています。かつて、アッシリヤの首都である、ニネベという町があまりにも罪深くなったので、ヨナという人物を遣わし、滅びの宣告がニネベになされました。その宣告を聞いたニネベの人々は、「私たちは罪を犯しました」と言って悔い改めました。それで神様は、ニネベを滅ぼすという計画を撤回されました。
 するとヨナは頭に来て、「俺のメンツがつぶれた。滅びると言うから宣告したのに・・・。何でニネベを滅ぼしてくれなかったのだ。」と神様に怒りました。自分勝手です。しかしその時、神は次のようにヨナに語られました。ヨナ書四章十一節に、
『まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。』
「右も左もわきまえない十二万以上の人間」とは、ニネベの町の「子どもたち」のことです。それと共に、神様は「家畜」も憐れみました。牛や馬などの家畜は、「経済動物」と言われます。経済動物は病気になっても、獣医の診断などは受けません。それらは人間が食べるためのものなので、病気になったら殺してしまいます。ペットは愛しますが、経済動物は愛される存在ではありません。しかし神は、そのような家畜さえも、憐れまれるお方です。
 しかし、悪魔はそんな中にも、色々な策略を持っています。クリスチャンはすべてのものを神からいただいたと信じています。子どもも、飼っているペットも、何もかも、神からのプレゼントと理解しています。
 けれども、日本人には、違う価値観があります。かつて徳川時代に、徳川幕府・五代将軍綱吉という人がいました。彼は変なおふれを出しました。それは「生類憐れみの令」というものでした。犬やイノシシ、野鳥などを殺してはいけない。殺したら人間の方が殺されるという法令を作りました。とくに「犬」を大切にするようにと言いました。それには、日本人の中にある、特殊な考え方の影響がありました。
 日本の動物愛護には、違った視点があると言われます。日本人には「輪廻」という考え方があるのです。「生類憐れみの令」を受け入れたのには、人間が地上で悪いことをすると、もしかして動物に生まれ変わってしまうかも知れないというのです。もしも人がイノシシになったら、イノシシを殺すことは、人と殺すことになるのです。
 この考え方は、ギリシアにもありました。ピタゴラスも輪廻を提唱しました。有名なストーリーに、子どもたちが犬を蹴っていたら、ピタゴラスが「やめろ。おれの友人の生まれ変わりに、何をするのだ」と言って止めたというのです。人が、動物に生まれ変わるという「輪廻」を信じていました。
 このように、日本人の考え方の根底に、「輪廻」があります。何かに生まれ変わるという世界観です。聖書は、この考え方を決してサポートしていません。これは偽りです。輪廻転生はありません。皆さんが人生を終え、続いて、犬や猿、魚に生まれ変わるようなことは決して、ありません。人間は人間で永遠を過ごします。神のところに引き上げられて、神と共に過ごすのです。しかし、悪魔は嘘を言います。「来世がある。あなたの前世は何か。あなたの首には赤いほくろがあるから赤犬かもね。」などと言います。決して、輪廻転生的な考え方を持たないでください。日本人に染み付いている考えです。これは悪魔の騙し事です。そこから離れなければなりません。
 先週、私は宮崎に行きましたが、そこは「神話の里」と言われています。そこは、日本神話の原点があると言われています。日本には、いくつかそのように言われる場所がありますが、九州はある意味で原点かもしれません。そこに行くと、日本の土台がよくわかります。日本が真実の上にではなく、偽りの上に建てられた国であることがよくわります。
 日本神話はばからしいストーリーです。初めにイザナミ、イザナギという二つの神があり、それが天から棒で海をかき回し、棒を抜くと滴が落ちて島が出来たというのです。そこに彼らが降りてきて、結婚して日本列島を産んだというのです。その子孫に、山幸彦(ヤマサチヒコ)と豊玉姫(トヨトミヒメ)という神がいて、この二人が結婚し、子どもができました。豊玉姫が「私が出産するところを、絶対に見ないでください」と言い隠れました。しかし山幸彦は興味を持って妻の出産を覗きました。すると、豊玉姫はワニだったというのです。それを見られた豊玉姫は、恥ずかしくなって海に帰ってしまったというのです。しかしその後、生まれ出た子どもと、豊玉姫の妹が結婚します。そして、4番目に産まれた子どもの名を「神武天皇」と言います。
 日本には天皇制があります。それは「神武天皇」から始まっています。今の平成天皇は神武天皇から数えると、百二十五代目だと言われています。天皇はワニの子なのでしょうか。ワニの子孫とは、おかしなことです。何で、こんなくだらない神話と天皇家が結びついたのでしょうか?それは、「天皇家は神の子孫」と言いたいのです。
 明治時代に「大日本帝国憲法」が発布されましたが、「天皇は神聖にして侵すべからず」とありました。神話に基づいて、天皇は現人神であると言い、日本は世界を侵略していきました。宮崎に行くと平和公園があります。そこに「八紘一宇(はっこういちう)」と書かれています。それは、「日本的世界統一の原理」のスローガンです。天皇を中心として、世界は皆兄弟ということです。それは世界侵略を正当化した標語として、一度削除されましたが、現在は再建されています。
 日本はどのような土台の上に立てられているのでしょうか。それは、「偽りの神話の上」です。よく考えてみると、おかしなことです。天皇がワニだったと誰が信じられますか。信じられないことです。しかし、それを信じている国民がいます。天皇は人間宣言をしましたが、今でも宮崎神宮では「神武天皇」を祀っています。そしてそこに、皇族が来て拝んでいます。それは暗に、「日本は神国であり、神話は真実であり、天皇家は神の子孫だ」ということを主張しているのです。
 日本人は目隠しされています。その騙し事から解放されるべきです。決して日本は神話が告げているように作られたのではありません。神が天地を創造した瞬間に、日本はイエスさまを土台として創造されたのです。
 もしも、私たちが、そのような騙し事の神話の上に立っていたら、祝福を受けることはできません。悪魔は知らない間に、色々な策略を日本に持ち込んでいます。それらを打ち破り、騙し事が暴かれること自体が聖霊様の働きであり、神の国の領域が拡大しているしるしです。コリント人への手紙第一三章十節から十一節に、

『与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。』
と記されています。騙し事に土台を置くことなく、イエスさまに土台をおいて人生を歩みましょう。
 今朝は、日本人が騙されている三つの事柄について学びましたが、それらから解放され、イエスさまという土台に人生を据えることができますよう、お祈りします。


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