あなたの足の靴を脱げ

2003.9.7(SUN)
新城教会 滝元 明牧師

旧約聖書 出エジプト記 3章1節〜10節
モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ。」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」

 ハレルヤ!皆さんおはようございます。八月は私にとって、とても忙しいときでしたが、皆さんのお祈りによって健康が支えられ、ここに立つことができることを感謝します。
 「名古屋リバイバルミッション」が、あと十二日に迫りました。期待してください。
 私は、二月から、「名古屋リバイバルミッション」のために、日本中、八十五以上の教会を廻りました。先週は、三日間、名古屋地区の教会を廻って挨拶をし、協力を要請をしました。私が想像しているよりも、イエス様が働かれています。名古屋ミッションのために、私たちが今まで、あまり知らないような教会から献金が届きました。その教会にも訪問しました。すると「ミッションには喜んで、教会をあげて参加させていただきます。」と言われました。知多半島にも大きな教会がありますが、その教会も「ミッションを応援します」と言われました。何か、主が良いことをしてくださると期待しています。引き続き、お祈りください。
 今日は、出エジプト記三章から御言葉を学びます。そして、もう一箇所、ヨシュア記五章十三節から十五節に、
『さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。』
と記されています。今日は、「あなたの足の靴を脱げ」というタイトルで学びます。出エジプト記は、神がホレブの山でモーセに現れたことが記されています。柴が燃えていて火が消えないので見に行くと、神が、「あなたの立っている所は聖なる地である。あなたの靴を脱げ」と言われました。そこでモーセは、神の前に出ました。
 またヨシュア記でも、同じ神が現れました。ヨシュアが、「あなたはわたしの味方ですか。敵ですか」と聞くと、「わたしは軍の将として来た。あなたの立っている所は聖なる地だから、あなたの足の靴を脱げ」と、同じことを言われました。神様が大きなことをする時には一人の指導者を立てて、「あなたの靴を脱げ」と言われました。
 「モーセ」とは、「引き出されたもの」という意味があります。イスラエルは四百三十年間エジプトで奴隷生活をし、随分苦しめられました。エジプトの王パロは、男の子ができたら全部殺すように命令を出しました。しかし、モーセのお母さんは、赤ちゃんが生まれた時にあまりにも美しいのを見て、三ヶ月間隠しておりました。隠しきれなくなって、かごに入れてナイル川に流しました。草が生えているところに、見つからないように置きました。それを、お姉さんのミリアムが見ていると、エジプトの王女たちが水泳に来ました。すると、きれいなかごが置いてありました。開けてみると、可愛い男の子でした。これはイスラエルの子だと思い、あまりにも可愛いから「私の子どもにしよう」と憐れみの心を持ちました。そこにミレアムが行き、乳母を呼びました。彼が成長するまで、乳を与えました。そして彼は、王宮で育ち、王子として学問、武術を学び、力ある者となりました。彼は自分がイスラエル人であることを知っており、四十才になったある時に、イスラエル人が虐待を受けているのを見て、周りに誰もいないのを知りエジプト人を殺しました。彼は、イスラエル人が自分を通して救われるだろう、と信じました。
 次の日に、彼が出ていくとイスラエル人同士が戦っているので仲裁に入りました。「同じ民族同士でなぜ争うか」というと、一人が「だれがあなたを私たちの司としたのか。昨日、エジプト人を殺したように、私も殺す気か?」と言いました。
 彼はドキッとしました。わからないように殺したことが暴露されていたのです。そのことが王の耳に入り、モーセは殺されそうになったので、彼はエジプトから逃げました。彼はシナイ半島で羊飼いになり、四十年間荒野で生活をしました。彼は王宮での生活を忘れ、八十才になったときにホレブの山で神が現れ、「モーセ、モーセ。あなたの立っているところは聖なる地である。私はエジプトにいるイスラエルの民を見た。彼らの苦しみ、虐待を見た。あなたを解放者として遣わす。行きなさい」と言われました。その時に彼は、「私は駄目です。もう八十才です。口べたです」と言いました。しかし、神様は「あなたの口はわたしだ」と言われました。そして、彼はエジプトに遣わされ、エジブトから徒歩で歩ける人六十万人、総計、二百万人ほどを解放しました。その前に神が「あなたの靴を脱げ」と言われました。またもう一つの箇所には、四十年荒野をさまよって、カナンに入りエリコの町を征服する前に、指導者ヨシュアに神が現れて「あなたの靴を脱げ」と言われました。
 さて、「靴を脱ぐ」とはどのような意味があるのでしょうか。ルツ記四章七節から八節に、
『昔、イスラエルでは、買い戻しや権利の譲渡をする場合、すべての取り引きを有効にするために、一方が自分のはきものを脱いで、それを相手に渡す習慣があった。これがイスラエルにおける証明の方法であった。それで、この買い戻しの権利のある親類の人はボアズに、「あなたがお買いなさい。」と言って、自分のはきものを脱いだ。』
「履き物を脱ぐ」とは、「権利の譲渡」です。「あなたの足の靴を脱げ」とは、モーセに対して「あなたの権利をわたしに全部譲りなさい」と語られたのです。「あなたは神のものになりなさい」と言うことです。
 ヨシュアに向かっても、同じことを言われました。大きな働きをする前に、「これからはあなたの力ではなく、わたしがやるから、あなたの力を全部譲渡しなさい。」ということでした。
 私は考えました。もしモーセが四十才の時に自分の民族を解放しようとしていたら、自分の力でできたかも知れません。彼には知恵と力があったからです。しかし、神は彼に力があった時にはさせませんでした。荒野に来て、自分の力ではできなくなったとき、「モーセ、あなたの足の靴を脱げ」と言われました。神がモーセに、「あなたの力ではなく、わたしに任せなさい。」と言われました。
 ですから私たちも、名古屋ミッションを前にして、自分の力を神の前に譲渡してください。必ず神があなたに栄光を現してくださいます。ヨシュア記二十三章一節から三節に、
『主が周囲のすべての敵から守って、イスラエルに安住を許されて後、多くの日がたち、ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。ヨシュアは全イスラエル、その長老たちや、かしらたちや、さばきつかさたち、およびつかさたちを呼び寄せて彼らに言った。「私は年を重ねて、老人になった。あなたがたは、あなたがたの神、主が、あなたがたのために、これらすべての国々に行なったことをことごとく見た。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主だからである。』
と記されています。自分の足の靴を脱ぎ、神様の前に全部お委ねしたときに、ヨシュアは大勝利しました。年をとってから、彼が言ったことです。
 私も最近鏡の前に立つと、「白髪のおじさんが立っているなあ」と思います。いつの間にか年をとりました。ヨシュアは百十才でした。
 昨日私は、名古屋一麦教会の牧師、松原向先生にお会いしました。松原先先生は主任牧師です。お年を聞くと、「今年で九十一才になります」と言われました。彼女は主任牧師として今も説教されています。私は、先生を見て希望を持ちました。私は今月、七十四才になりますが、まだ九十才までは時間があります。まして、ヨシュアは百十才でした。彼が生涯を振り返って語った言葉は、三節。
『あなたがたは、あなたがたの神、主が、あなたがたのために、これらすべての国々に行なったことをことごとく見た。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主だからである。』
 勝利を与えたのは、自分ではなく、主の力だと言いました。「名古屋リバイバルミッション」についても、多くの働きがありますが、私たちは「主が戦ってくださる。勝利をくださったのは主である」と、すべての栄光を神にお返ししたいと思います。ですから、足の靴を脱いで、主のために用いられる者になってください。
 一九八八年十月に韓国ソウルでオリンピックがありました。同年八月に、ソウルのヨイド広場で、韓国のクリスチャンが集まり、魂のオリンピックがありました。その時、私たちの教会からも出掛けていきました。私は団長として、百何十人とともに行きました。その時に、私は心に決めました。オリンピックは四年ごとに世界を巡ります。ちょうどそれと同じように、リバイバルも色々なところにバトンタッチされていきます。初めはエルサレムから始まり、サマリヤから地の果てまで、ヨーロッパやアメリカに行き、東南アジア、韓国に、中国、インドネシアにリバイバルが起こっています。しかし、日本にはリバイバルがありません。私は、一九八八年にどうしてもリバイバルの火を日本に持ってこようという気持ちで出掛けました。その大会において、聖霊の火を受けて日本に持ち帰ることができますように、と祈りました。その時に、どのくらい集まったのかわかりませんが、韓国の先生方は、「参加者が少ない」と失望していました。申先生に、「今日はどのくらい、人々が集まっているか」と聞くと、「七十万人くらいかなあ」と言われました。
 一九七七年にはヨイド広場に、二百万人近くが集まりました。私は、その時にも行きました。韓国はリバイバルが起こっています。私は、リバイバルの火を求めようと、真剣に望みました。わたしは四階の席に座りました。第二日目に、午前中雨が降りました。韓国の方々は日本人とは違い、信仰が徹底しています。どんなに雨が降っても集会を続けます。私はお祈りしました。雨が止みますように。すると午後には雨が止みました。そこは飛行場跡なので、色々なものを敷いて人々は地べたに座っています。そこで説教を聞いていると、先生が「皆さん、今日私はここに来て、雨が止むように祈りました。すると雨が止みました。」と言われました。彼は自分の祈りが聞かれたと信じていました。
 そして説教の後、「今日は聖霊を受けましょう。聖霊に満たされたい人は立ちなさい」と言われました。私の座っている席は、各国の有名な先生方がおられ、赤いじゅうたんが敷かれているのです。「聖霊に満たされたい人は立ちなさい」と言われ、私は、すぐに立ち上がりました。他の先生方は立ちませんでした。
 悪魔が、「お前、日本の団長として、恥ずかしくないか」と囁きましたが、そんなことはどうでも良いから、日本のために聖霊に満たされたいと思い、「サタンよ、退け。私を聖霊で満たしてください」と真剣に祈りました。
 また、夜の集会が始まり、司会者が「これからへりくだって、聖霊を受けるために、ひざまずいて祈りましょう」と言われました。コンクリートの上に座っている人々が、ひざまずくくらい、大したことはありません。しかし、私はその席でひざまずきました。絨毯は先ほどの雨でたっぷりと水を吸っていて、びしょびしょでした。そのとき、わたしは良い服を着ていました。その前の週に、今の天皇夫妻(当時は皇太子)に招待された時にはじめて着た、作ったばかりの背広を着ていたのです。すぐに私は「ズボンが汚れる」と思い、ひざまずかずに立てひざで「主よ!」と叫びました。
 その時、聖霊の声かわかりませんが、私を導いた、穐近先生の声が心に響きました。「滝元兄と僕はちょっと違う・・」私の脳裏に、一つのことがよみがえったのです。
 一九八五年に、イスラエル旅行に行きました。シナイ山に登りました。先生は八十才でしたが、私は、彼と共にが山頂まで登りました。山から下りると、サンタ・カタリーナという修道院がありました。そこには、モーセが娘たちを助けたといわれる井戸がありました。また柴の木がありました。「ここに、神がモーセに現われた」と書かれていました。穐近先生は純粋なので、私に、「ここにモーセが現れたんだ。その時に何て言われたか知ってるか?」と言うのです。私は「知っています。あなたの靴を脱げと言われました」と答えました。「私たちも、日本の救いのために足の靴を脱いで祈ろう」と言われました。それで、私も、足の靴を脱ぎお祈りしました。心から祈りました。その時に、東京の牧師が写真を撮りました。その写真を大きく引き延ばして見ると、穐近先生は、靴下も脱いで裸足になっているのです。しかし、私は、靴下をはいたままで祈っていました。それを見た先生が、「僕は靴下も脱ぎ、裸足になっている。君は靴下をはいたままで祈っている。僕と私はちょっと違う」と言うのです。
 違うというのは、「信仰の度合いが違う」というのです。その言葉が韓国で祈っているときに聞こえました。私はリバイバルを求めて韓国に来たのに、リバイバルとズボンとは、どちらが大切かと考えました。考えて見れば、ズボンが汚れたらクリーニングに出せば良いのです。また、駄目になったら新しいのを買えば良いのです。私はリバイバルのためにと、言いながらズボンの方が大切でした。
 「私の信仰は不徹底なところがあります。悔い改めます。」それから、私はひざまずいて「イエス様、私をささげます。リバイバルのために用いてください」と真剣に祈り求めました。ひざまずいた時に、私に新しい力が来ました。
 信仰は徹底しなければなりません。半分は世の中、半分はイエス様ではなく、「あなたの足の靴を脱げ」と言われるのは、あなたの権利を譲渡することです。
 また、一九七四年にキャンパスクルセードが主催する賛美集会がヨイド広場でありました。その時にも雨が降りました。ヨイド広場は水が溢れました。韓国の方は偉いです。どんなに雨が降っていても、そこに座って御言葉に聞き入っているのです。わたしは雨が降っていたので逃げてきました。韓国の牧師たちは「日本の方々。座っていてください。」と言いました。私は一目散にバスまで逃げると、日本人は皆、ついてきました。みんな集まりました。「やはり信仰には常識が必要だ。韓国の人には常識がない。雨の中で座っていたら、風邪を引いてしまう。常識が必要だ」と言いました。しかし、日本人の問題は常識です。
 以前、そんな体験がありましたから、一九八八年に雨が降っても、私は逃げませんでした。信仰も中途半端はいけません。その時は、皆、ずぶぬれになりながら、真剣に神の前に出ました。
 新約聖書を見ると、イエス様がこの地上に来て言われたことは、マタイの福音書、マルコの福音書で「わたしに従ってきなさい。」と言われました。そして弟子たちは、「一切を捨てて従った」と書かれています。本当に神様に一切とささげた人を用いられました。
 名古屋ミッションも足の靴を脱いでください。「喜んで従います」という心が大切です。私は、一九八八年に靴を脱いでひざまずいた時から、変えられました。
 その年の暮れに、初めて愛知県民の森で祈ろうと思いました。イエス様が山に登り夜を徹して祈った、と書かれているから祈ろうと思い、切に朝まで祈りました。神様に力を求めました。その時から神は私を祝福されたと思います。
 一九九三年には甲子園で集会をしました。もし足の靴を脱がなかったら、神様は私に甲子園の集会を委ねられなかったと思います。神様は、今日ここにおられるすべての方々を祝福されます。中途半端ではなく、主に求めましょう。罪を持ったままではいけません。「あなたの立っているところは聖なる地である」と神は言われました。イザヤ書には、イザヤに天が開かれ、御座の側で天使たちが踊っている姿を見ました。「聖なるかな。聖なるかな。万軍の主」と歌っているのを見たとき、イザヤは、「私は汚れた唇であるのに神を見たから死ぬばかりだ」と言いました。神に出会ったときに示されるのは「自分の罪」です。私たちも神の前に出るときに、汚れた唇を捨てなければなりません。噂話、偽り、汚れた言葉など、唇をきよめていただかなくてはなりません。
 イザヤがこう言ったときに、天の使いが炭火を持ってきて、彼の口に触れ、「あなたの唇はきよめられた。」と言われました。聖書を見ると、神はまず唇をきよめられます。私たちが人生を神にささげるときに、神は唇をきよめられます。ペンテコステの時に、聖霊が臨んだときに、彼らは他国の言葉で話し出したとあります。彼らの口が捕らえられました。私たちを神様が用いるために、まず唇をきよめられます。悪口、憎しみ、罪から離れる必要があります。
 八月末に、千葉で青年たちのキャンプがありました。ほとんどが大学生でした。二百名くらいの青年たちでした。韓国人、日本人、中国人、ミャンマー人など、留学生が多かったです。私はその時に、三回説教しました。しかし何となく、空気が重くて、集会中眠っている人がいました。良い集会でしたが、何となく御言葉が入っていないと思いました。
 昼の休憩があり、中国人の娘さんと話しました。「あなたはどこの出身ですか?」と聞くと、満州出身の方でした。「戦争中、日本が中国に迷惑かけてすみませんでした。」と言うと、色々話出し、彼女がこう言いました。「私のおじいさんは、日本人に殺されました。」
 満州のその町は、一気に三十万人ほどが殺されました。韓国、中国、ミャンマーの人たちの中に、日本に対して許せない気持ちがあることがわかりました。それで私は、その夜の説教に心を決めました。「今日、ここにいる皆さんに、私は日本を代表することはできませんが、日本の一牧師として、かつて戦争で迷惑をかけたことを赦してください」と謝りました。
 その時に、不思議なことが起こり、その場の空気が変わりました。眠っている人はいませんでした。先生から、「明日、バプテスマがあります。今、四人決心していますが、決心を迷っている人がたくさんいるから、大勢バプテスマを受けられるように話してください」と言われていました。
 私がお詫びしたときに空気が変わり、最後に招きをしました。すると、十一名がバプテスマを受けたいと決心しました。そして、皆、バプテスマを受けて喜んでいました。悔い改めがこんなに力があるとは、思いませんでした。憎んでいたら聖霊は働かれません。赦し合うことです。
 また昼にバーベキューがあり、食べながら中国人と話していると、横に日本人の娘さんがおりました。彼女は顔と体にアトピーがひどいのです。顔が粉を吹いたような感じになっているのです。一人でぽつんと食事をしていたので、私は彼女の側に行きました。「あなたは教会に何回目ですか。」と聞くと、「初めてです」と言われました。アトピーは生まれてからずっとと言われるのです。私は、彼女に話しました。聖書には、イエス様が癒し主だと書いてあり、病める者に手を置いたら癒されると書かれているから、あなたのために祈ってあげると言いました。
 彼女に手を置き祈りました。「イエス様、今日、この方に癒しを通して神の栄光を現してください。」と祈りました。そして次の日の朝、食事に行くと、彼女が来ていました。驚きました。きれいな顔になっているのです。癒されていたのです。
 「先生、昨日は気持ちよく眠れました。何だか新しい力が与えられました」と喜ばれていました。神様は生きておられます。
 今日はたくさんの方がバプテスマを受けられます。長年来られていた、朏さんがバプテスマを受けられます。おそらく、彼は一番古い時代からの人です。ダンスホールで集会していたときに、ふらりと教会に来られました。聖書には、
信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。〕』
と記されています。今の時代、本気なって信じたら、主が伴うしるしを持って訪れてくださいます。神は愛です。足の靴を脱ぎましょう。「これだけは・・」と離すことができない部分も、お委ねしてください。必ず、神が皆さんを用いてくださいます。神の栄光を願っていきましょう。お祈りします。


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