実行しよう!

2003.9.21(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

新約聖書 ルカの福音書10章25節〜28節
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

 ハレルヤ!現在、「名古屋リバイバルミッション」の真っ最中ですが、このように皆さんと共に、新城で礼拝を守ることができ感謝します。
 この教会は、ちょうど軍事基地のようです。戦争が始まると、兵隊たちが戦地に出掛けて戦いをします。しかし、戦いが終わると、皆、基地に戻ってくるのです。今朝は既に、多くの兄弟姉妹が名古屋でリバイバルの戦いを準備をしています。しかし、今朝は、「名古屋リバイバルミッション」のために、全国から集まられた方々が新城教会に集ってくださっていて感謝します。名古屋から新城まで遠かったと思いますが、心から歓迎いたします。北海道、四国、九州からも来てくださいました。
 私たちの教会は、全日本のリバイバルを求めて祈っていますが、名古屋は地理的に、日本の中心地です。名古屋ミッションは、既に二日間行われましたが大変素晴らしい集会で盛り上がっています。この礼拝が終わると、十二時半に出発し、二時半からの集会に参加する予定です。初めて行かれる方は期待して下さい。
 私は、昨日、午前のセミナーと午後の「解放集会」で奉仕させていただきました。また、昨夜の集会では、田中先生が司会をされましたが、横文字が多くて苦労されていました。私も司会をする機会がありますので、ぜひお祈りください。
 今日は、人生で最も大切なこととして、イエス様が教えられた事柄を学びたいと思います。ルカの福音書十章二十五節から二十八節から学びます。
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」
イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
 この御言葉は、マタイの福音書二十二章にも書かれています。これは、一番重要な事としてイエス様が語られたことです。人生の中で最も重要なことは、
『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』
 自分の持てるすべてを尽くして、主を愛していくならば、いのちを得るいことができるというです。「いのちを得る」とは「幸せ」も含んでいますので、イエス様を心から愛していく生活は、私たちに幸せをもたらすものです。そして、それは「永遠のいのち」に続くのです。
 もう一つ大切なことは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということです。自分だけではなく、隣人をも愛しなさいということです。神を愛し、隣人を愛するなら、幸せになるという教えです。これをただ聞くだけでなく、「実行して」みてください。これが、「いのちがわき上がる法則」であると教えてくださいました。
 ルカの福音書十章を見ると、続くストーリーが「良きサマリヤ人」の話です。このストーリーを通して、隣人を愛することをイエス様は教えられたのです。しかし隣人を愛することが必要であることは、わかりきっています。けれども、私たちにとって一番近い隣人は誰でしょうか。隣人として、家族のメンバーとか、友人が思いつきますが、ある意味で、一番近い隣人は、自分自身かも知れません。「自分自身のように」愛しなさいとありますが、案外、自分自身という隣人を愛せない人が多いのではないかと思います。
 名古屋ミッションでは、祈りの時間があります。祈りを求めて多くの方が来られます。お一人、ひとりのお話を聞いて、祈りをささげるようにすると良いのですが、時間もありませんので、ただ、手を置くだけです。しかし、その時、神の霊が注がれますので、それは力を受ける瞬間です。今日も祈りの時間がありますので、ご期待ください。
 そんな中でも「ちょっと聞いてください」と無理矢理、話し出す方がおられます。「私の生まれは・・」と生い立ちから話されると、大変なことになります。そんな中、「私は自分自身と受け入れることができません。自分が嫌でたまらないのです。自分を愛することができるように祈ってください」と言われる方が多いのです。自分自身を愛することができなければ不幸です。「あなたの隣人を自分自身のように愛せよ」という言葉は、「自分自身を喜んで受け入れる」ということも含んでいます。エペソ人への手紙二章十節に、
『私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。』
 私はこの御言葉が大好きです。私たちは「神の作品」です。ここにおられる方は皆、神の作品です。
 さて、「作品」と対照的なものに「製品」があります。作品と製品とは違います。皆さんが座っておられる椅子は作品ではなく、製品です。製品は規格通りにできます。大量生産なのです。しかし作品は、一つ一つ作者が心を込めて造り出したものです。だから、一つとして同じものがありません。茶碗でも、手ひねりで作られた茶碗と、大量生産して型にはめて作った茶碗とでは違います。一つ一つ手ひねりで作った茶碗には味があります。
 以前、新城教会の遠足で陶芸に行きました。あの企画はなかなか楽しかったです。自分が造った物が、やがて焼き上がって手元に届きました。もう少し良いものができるかと期待していましたが、いびつで変なものでした。しかし、それは自分自身の作品なので、捨てられません。時々、私は食卓に「マイ茶碗」を持ってきてご飯を食べると、冷や飯でも古米でも美味しくいただけます。なぜならば、茶碗に思い入れがあるからです。やはり作品は違います。
 私たちは「神の作品」です。今日ここにおられる、一人ひとりは皆違った顔をしています。「よくぞこれだけ違う」と思います。若者からお年寄りまで集まっていますが、一人として、同じではないのは神の作品の証拠です。あなたがどんな状況にあっても、一人一人がいとおしくてたまらないのです。だからあなたは、自分を喜んで受け入れてください、というのです。
 今お読みした聖書の中に、『・・・神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。』と記されています。
 私たちは、「これからどうしたら良いのか・・」とよく悩みます。来春、卒業を控えておられる方は「何をしようか・・・」と悩まれているかも知れません。また、リストラに会い、退職しなければならない人も悩んでいるかも知れません。今日この言葉を、神があなたに語っておられる言葉として受け取ってください。なぜならば、神様はただの器を造っただけではありません。器が使われるための「良い行い」をも、同時に創造してくださっているのです。老後のことも心配しないでください。老後に備えられている「良い人生」が用意されています。いくらリストラにあっても、その後のことを神は心配してくださっているのです。卒業後も、神が心配してくださっています。そのよい行いを、あらかじめ備えてくださったと記されています。
 ギリシア語では「すでに創造済」という意味です。ということは、イエス様を信じると、知らないうちに人生は二転、三転しながら神の計画の中に引き込まれていくのです。そして神が用意してくださったものを、受け取ることができるようになります。始めはそれに気付きません。何とか自分で人生を切り開こうと一生懸命あくせくしますが、教会に来ているうちに、神からもらった祝福に気付くのです。そのうち、吹っ切れるときがあります。そして、振り返ると奇跡が見えるのです。
 新城教会も五十数年の歴史がありますが、すべてが順調ではなかったかも知れません。色々なことがありました。悲しみ、苦しみもありましたが、今振り返ると神の御手があったと感動します。
 先日、世界体操がありましたが、高得点を出す選手は、宙返りしたり、ひねったりと、空中で考えられないことが起こります。そのまま真っ逆さまに落ちたら、死んでしまいます。しかし、最後にくるっと廻ってしっかりと着地して、高得点が出ます。私たちの人生も同じです。時にはひねりが入ったり、逆さまになったりしてどうなるのかと思うこともありますが、イエス様は着地を決めてくださいます。ですから、心配してはいけません。
 イエス様は、「自分自身をよき隣人として、受け入れてください」とあなたに語っています。今日皆さんの人生に、神の計画があり、良きものが既に準備されていることを信じてください。けれども、皆さんが信じようと、信じまいとそれは既に用意されています。だから、今は疑っていても、教会に来ていればそのうち気付くときが来ます。
 トマスという男は疑い深い男でした。イエス様がよみがえられたと聞いて、「そんなばかな・・。信じられない」と言っていましたが、トマスによみがえったイエス様が現れてくださいました。疑っていても良いのです。はっきりとわかる日が来るからです。
 同時に、あなたの隣人を愛しなさいというのは、次のストーリー、「よきサマリヤ人」に意味があります。
 ある人が、エルサレムからエリコに下る途中、一つの事件に遭遇しました。それは、ある人が強盗に襲われて倒れていました。それもユダヤ人が倒れていました。そこを通りかかったのが、サマリヤ地方の人でした。
 イスラエルには、パレスチナ問題があります。なかなか、わかりにくい問題です。なぜ、あんな狭いところでけんかしているのだろうか、もう少し、仲良くできないものかと思います。しかしあのけんかは、数千年間続いているのです。ある意味で、その発端がサマリヤ事件なのかも知れません。それはイスラエルが、アッシリアに捕囚されたとき、残された人々が、敵のアッシリア人と混血になりました。ユダヤ人は混血を嫌うので、「国を売った人々」として、純粋なユダヤ人たちは、サマリヤ人たちを毛嫌いしました。イエス様がおられた当時も、お互い服装が違い「あいつらはサマリヤ人だ」と一見してわかる感じでした。
 サマリヤ人が、エルサレムからエリコに下って行ったら、自分たちの大嫌いなユダヤ人が倒れていました。
 時々私たちは、ふっと、喜びに浸るときがあります。それは、「目の上のたんこぶのような人が倒れた」という知らせを聞いた瞬間です。「お気の毒ですね・・」と言いながらも、「良かった」と喜んでしまう残酷なところがあります。
 しかし、そのようなとき、どのような態度をとるかは重要です。サマリヤ人とユダヤ人は互いに緊張の中にあり、一般に倒れたユダヤ人を見たサマリヤ人は、「蹴って殺してやりたい」という心境かもしれません。けれども、互いに敵同士であったのに助けてあげたというのです。それを、「あなたの隣人を愛しなさい」という説明につなげています。
 私たちが幸せに生きる秘訣は、簡単に愛せる人を愛するというのではなく、愛せない人を愛するなら幸せになる、ということです。
 しかし、それは頭ではわかるけど、なかなか出来ないことかも知れません。けれども、イエス・キリストを信じる信仰の中に、それら全ては含まれているのです。あなたは、神から与えられた愛で隣人を愛しなさいということです。
 名古屋ミッションは既に、色々な集会が行われました。講師の一人として、東京から尾山令仁先生が来てくださり昨日、一昨日と奉仕してくださいました。私は、尾山令仁先生を尊敬しています。先生は本を百冊以上著したというのです。私はまだ、四冊しか書いていませんが、本を書くのはなかなか大変です。それを百冊も書いたというのですから、すごいことです。それも聖書を自分で訳されました。旧約聖書から、新約聖書まで、自分で訳してしまったのです。私は先日、先生と並んでだところに鏡があり、写っている頭を見ました。すると、私の頭の方がずっと大きかったのです。私より頭が小さい先生が、なぜ私より、頭がいいのだろうかと思いました。
 今回の尾山令仁先生のメッセージには大へん感動しました。またテープを購入して、聞いてください。信仰は聞くだけでは駄目で、実行しなければならないという話でした。特に「敵を愛する」というテーマで話されました。先生は現在、素晴らしい教会の牧師ですが、いままで色々と苦労し、戦いを経験されています。
 信じられないような事件が、教会に起こったようです。教会を建てるための献金を、ある人に管理を任せたそうです。すると、その人は、そのお金を全部使い込んでしまったそうです。それを無断で担保にして、自分の仕事のためにお金を借りたそうです。しかし、手形が落とせずに、会堂献金が全てなくなってしまったそうです。ひどい話です。そんな話、日本の教会では聞いたことのない話です。それで先生は、大へん苦しんだそうです。それで多くの人から批判されたそうです。なんと、先生自身が使い込んだと誤解され、その噂が広まったそうです。先生は、自分でアルバイトをし、その穴を全部埋めたそうです。すごいと思いました。しかし、穴を埋めたことによって、「お前がやったのではないか・・」と噂になったそうです。それで、すごい試練に陥ったそうです。色々な怪文書が出回り、立場はどんどん苦しくなったそうです。「金を使い込む牧師の教会なんかに行っては大変だ」と、多くの人が教会から出て行きました。それで、新会堂建築どころではなくなったそうです。
 一人、積極的に噂を言い広めた人物がいたそうです。その人は、毎年、正月になると、お年玉付きの年賀はがきで年賀状を送ってきたそうです。そして、年賀状に書かれていることは、「眠れぬ夜を過ごしてはいませんか?早く悔い改めた方が身のためだ・・・」などと、毎年、脅迫まがいのものを送りつけてきたそうです。それを見て、始めは「お年玉が当たっても、もらってやるものか」と怒っていたそうです。しかしある時、神が心の中に、「あなたの隣人を愛せよ」と語られたそうです。それで先生は、心探られたそうです。脅迫じみたはがきは二度と見たくないと思っていたのですが、年賀はがきの一番上にそれを置き、一年間保存して毎日、その人の祝福を祈るようになったそうです。
 それから教会が息を吹き返しました。今、先生の教会は、地下二階、地上七階建ての、日本でも最も大きい、恵まれた教会になりました。
 時々私たちは、「隣人を愛しなさい」といわれ、簡単に愛せる時はいいのですが、そうでないときがあります。しかし、あなたに敵対する人をも愛しなさい。そうしたらあなたは祝福を受けることができるのです。
 今日、「あの人はあまり好きではない」と感じている人の、祝福を祈ってあげてください。その時に、主はあなたに祝福を与えてくださいます。
 私たちの教会に、今から十年位前、問題が起こりました。聖霊が注がれ霊的戦いが始まったとき、教会が二つに分かれてしまうようなことがありました。「これからどうなるのだろうか」と思いました。しかしそんな時、敵対する人のために祝福を祈ることを教えられました。それから十年ちょっと経ちましたが、主が、新城教会を回復してくださいました。今週の週報を見たら、先週は、「三三三名」礼拝に来られたと報告されています。私は人数にはこだわりませんが、知らないうちに主が教会に救われる魂を起こしてくださり、試練を乗り越えさせてくださいました。その背景に「あなたの隣人を愛しなさい」、「愛しづらい人を愛すること」を教えてくださり、祝福できたからこそ、今の祝福があります。心から神様をほめたたえています。
 これは霊的法則なので、ぜひ、実行してみてください。聖書は憎しみの背後に悪魔がいると教えています。「くそ〜、あいつは憎らしい!もう、絶対に許せない!」という時があります。その時には、背後に悪魔がいて「もっと憎め・・・」と言っているのです。火に油を注ぐようなものです。そうするともっと憎みます。憎しみパワーの最後は、その力が、自分にかぶってきます。そして最後には、憎しみを持っている人が倒れます。
 しかし、憎むのではなく、愛と祝福のパワーを置くときに、背後の悪霊が倒れます。そして、問題は解決に向かいます。憎しみの背後に悪魔がいることを知ってください。これは大変重要なことです。
 イエス様は、『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』と言われました。お互い、これが出来たらもめ事はないと思います。自分にして欲しいがごとく、隣人にしてあげることが大切です。これらは、道徳の時間に習うことではなく、神が人間に教えている「霊的法則」です。
 同時に最も大切なことは「神を愛すること」です。ルカの十章では神を愛し、隣人を愛することが記されている次に、良きサマリヤ人の話が出てきます。それに続いて、三十八節からは、マリヤとマルタという二人の女性の話が出てきます。イエス様がマリヤとマルタの家に行ったときに、マルタはイエス様を真剣にもてなすために働きました。皆さんも、お客さんが家に来たら、何とかもてなそうと一生懸命働くでしょう。同じように、ユダヤ人もお客さんには良くしました。イエス様のために食事を用意し、泊まる部屋も用意しました。これは普通のことです。
 しかし妹のマリヤは、接待の仕事を全く手伝わずに、イエス様の側で話を聞いていました。それを見た姉のマルタは、マリヤに切れました。「イエス様、マリヤを見てあなたは何とも思われないのですか?私一人が一生懸命働いて、マリヤは何もせずにあなたと話しているではないですか。手伝うように言ってください」と怒りました。
 このストーリーを通して教えているのは、働くことが悪いことでイエス様の話を聞くことが良い、という対比ではなく、この話の着目点は「神を愛する」ということが、いかに大切であるかについて教えています。
『「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。」』
 「マリヤは良い方を選んだ」とは、さきに述べられた「神を愛する」ということについて教えているのです。
 人生の中で、一番大切なことは「神を愛すること」です。人生の中で一番重要なことは、イエス様について気遣うことです。さて、皆さんは一日の中で、どのくらいイエス様のことが頭を巡っていますか?
 調査してみると、通常人間は、たいてい過去の事柄が頭に巡っています。それも過去の失敗ばかり考えているというのです。私たちが生活の中で一番気づかうべきことは、イエス様のことです。
 聖書は「絶えず祈りなさい」とあります。私が常に心がけていることは、祈りながら物事を行うことです。私は牧師で、色々な方と話さなくてはなりません。そして、色々なアドバイスを求められます。私が悪いアドバイスを語ったら、その人の人生がおかしくなってしまいます。
 ときどき、「私の判断は正しいのだろうか・・」と思います。未熟な五十二年間の人生の中で得た情報では、アドバイスできない事柄がたくさんあります。そんな時はいつも「神様、私はこの方に何を話したら良いでしょうか・・」と祈ります。「私の口を通して最善のアドバイスをさせてください」と常に祈りながら話します。そんな中、神は不思議と唇に言葉を与えてくださることを体験しています。
 皆さんも、どう判断して良いのかわからないときには、常に祈り心で対処することが大切です。祈りはイエス様との対話なのです。
 「イエス様、どう判断したら良いですか・・」と、いつも心に祈りがわき上がる中での生活が、神を愛することにつながります。神を愛するときに、神が私たちに祝福をもたらし、答えを与えてくださいます。
 私の好きな御言葉があります。ホセア書六章三節。
『私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。』
『私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう』という御言葉の後に、「そうすれば」という接続詞を入れて読むとよくわかります。
『私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。(そうすれば)主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」』
 私たちは今リバイバルを求めています。日本に神のわざが現されるようにと祈っています。どうしたら、リバイバルが来るのだろうかと考えますが、この御言葉はリバイバルの秘訣を教えています。それは、「神を愛すること」であり、その中身は「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう・・」
 主イエス様を、今日よりも明日、明日よりも明後日・・・・もっと、もっと、深く知りたいと願うことです。マリヤが、「イエス様のことをもっと知りたいと願っていた」のと同じように、生活の中心に主を置くならば、「主は暁の光のように確かに現れる」と教えています。
 夜が来て、朝が来るのは確実なことです。夜が来て、ずっと夜ということはありません。やがて太陽が昇ります。同様に、主を知ることを切に求めると、夜が来て朝が来るのと同じ百パーセントの確率で、主が私たちに訪れてくださるのです。
 「大雨のように私たちのところに来て、後の雨のように地を潤される。」これは、イスラエルの季節と収穫を表しています。望んだものを収穫できるです。私たちには、色々な願いがあります。そのような中でも、願い以上に、主を知ることを切に求めてください。そうすれば、夜が来て朝がある確実さで、神があなたのところに現れてくださいます。そして、「あなたに収穫を与えてくださる」というのが聖書の教えです。
 今週、「主を知ること」を切に求めてください。「主を知ることを真剣に試してみましょう」と訳されている英語聖書があります。今まではマルタのように、一般的な事柄に気遣っていたかも知れませんが、それをちょっと横に置いて、今週は「主を知る」ということを中心に試してください。そうしたら、主があなたのところに訪れてくださる。そして、人生が実り多い、収穫あるものになるというのが聖書の教えです。
 イエス様から教えられた、最も大切なことを、自分自身のものとしましょう。聞くだけではなく、実行しましょう。
隣人を愛すること。
自分自身を神の作品として受け入れる。もう一つの隣人、ちょっと憎らしいような人を祝福して祈る。
神を愛すること。
日頃の生活で中心となっていることを置いて、常にイエス様に祈り、イエス様を中心として、主を知ることを切に求めること。そうするときに、いのちがわき上がってくるというのです。
これがイエス様が教えてくださった、いのちを得る秘訣です。今日、私たちはこれを実行しましょう。その時に神の栄光が現され、リバイバルが広がっていくと信じます。最後にお祈りします。


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