イエス様のように生きよう。

2003.10.12(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

新約聖書 ルカの福音書 10章30節〜37節
イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

 ハレルヤ!今日、このように皆さんと共に主を礼拝できる事を、心から感謝します。
今日まで生きることができたのは、イエス様が人生を導いてくださっているからです。初めて教会に来られた方も、イエス様がここに導かれたと信じてください。
 クリスチャンとは、「キリストに似た者」という意味です。私たちは、イエス様に似た者として生きていきたいものです。今日お読みした箇所は、有名な「良きサマリヤ人」の例えです。
 一人のサマリヤ人が旅の途中、強盗に襲われ傷つき倒れている旅人を見つけました。すると彼は、倒れている旅人に駆け寄り助けてあげたのです。イエスさまは、この物語を通して「隣人とは何か」について教えられたのです。
 同時に、このサマリヤ人は、イエス様ご自身を表しています。イエス様は、ご自分をこのストーリーを通して、自己紹介されたのです。イエス様は、この物語に出てくる、良きサマリヤ人のような性格をお持ちの方です。
 サマリヤ人は、強盗に出会って、死にかけていた旅人のところに自ら近づいていきました。彼には行き先と、自分の仕事がありました。しかし、それを放り出してまで、見ず知らずの傷ついた旅人を助け、介抱したのです。まず現場でオリーブ油とぶどう酒で緊急手当をし、自分の家畜に乗せて宿屋にまで連れていきました。そして、自らも宿屋で介抱し、翌日、宿屋の主人に介抱を頼み、宿屋代も支払い、お金が足りなかったら帰りに払うと告げて、自分の仕事に出かけて行きました。
 彼は見ず知らずの人を助けたのです。これはイエス様ご自身の姿です。イエス様はこのサマリヤ人のように、最後の最後まで責任を持ってくださるお方です。
 人間は時には裏切ったり、物事を途中で放り投げたりしてしまいます。一度は助けても、途中で嫌になったり、疲れてしまうことがあります。しかしイエス様は、最後まで責任を持って導いてくださるのです。
 この御言葉を、自分に語られている言葉として受け取ってください。イエス様を信じるならば、イエス様はあなたを最後まで導いてくださり、助けてくださいます。途中で、「どうしようもない、お手上げだ」と言われません。最後の最後まで、責任を持って導いてくださるお方です。このことを知るなら、大変心強いです。
 イエス様はこのストーリーを通して「隣人とは何か」という問いに答えられ、続いて「あなたも行って同じようにしなさい」と告げられました。これは誰に対して語られているのでしょうか。それはイエス様を信じている者たちに対する言葉です。イエス様がこのような性格であるように、「あなたも行って同じようにしなさい」と語られています。イエス様が今、あなたに期待されていることは、「わたしと同じように行動してください。わたしと同じように生きてください」ということです。
 人は時間の経過と共に、相手に対する期待が変わります。先日あるところに、こんなことが書かれていました。「女性が男性に望むことは、年代とともに変わる」ということです。
 二十代女性がボーイ・フレンドや婚約者に期待することは、まず、「顔が良い。人の話を聞くのがうまい。ウィットに富んでいる。スタイルが良い。服のセンスが良い。ロマンチック。」などです。
 しかし、三十代になると、その期待は少し変わります。「見た目が許せる、髪の毛がふさふさ。車のドアを開けてくれる。お金持ち。ジョークで笑わせてくれる。買い物の荷物を持ってくれる。手料理に感謝する。誕生日や記念日は忘れない。そこそこ、ロマンチック。」
 四十代になると「不細工すぎない。ハゲはOK!こっちが車に戻るまでは発車しない。老後の資金を稼ぐ。人と話をしている時はせめてうなずく。平日くらいは髭を剃る。家具の移動のためにも健康であって欲しい。時にはロマンチック。」
 六十代になるともっと変わります。「顔とわかれば良い。トイレの場所を忘れない。自分で立ち上がれるほどに健康であって欲しい。何で笑っていたのか、忘れないで欲しい。入れ歯の置き場所を忘れない。週末であることを忘れない。ロマンチックってどんなものかを覚えている。」七十代になると、「息をしていてくれればいい・・・」
 人間の期待はどんどん変わっていきます。しかしイエス様の期待は、あなたに関して一時も変わりません。いつもあなたに期待しています。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と言われます。どんなに年をとっても、しわが増えても、「あなたは高価で尊い。あなたを愛している」と語って下さいます。愛されている事を知ると心強いです。イエス様は、私たちを常に愛しておられます。またイエス様の生き様を、あなたも生きて欲しいと期待されているのです。クリスチャンとは、「イエス様のように生きたい」というのが望みです。
 あと二週間程すると、若者たちが主催する「サウンド・フィーチャー」という集会があります。それはライブ・ハウスのような環境の中で、賛美伝道をするのです。私もそこに入れてほしいというと、「おじさんは駄目」と言われました。若者の集会だそうです。今回は万年諭先生が来てくださいます。彼の歌はロマンチックです。彼の歌の中に、
     僕の願いはただ一つ 
     あなたを見つめていること 
     ただそれだけ・・
という歌があります。それを聞いて、いつも感動します。私たちクリスチャンの願いはただ一つ、イエス様と同じように生きることです。イエス様は「完全さが人となったお方」です。
 時々私たちは、誰かを人生の目標にします。「私もあの人のようになりたい!」と目標にします。他の教会に奉仕に行くと、「僕も順先生のようになって働きたい」と言ってくれる人がいます。嬉しいです。しかし私は、「やめておけ、俺みたいにはげるぞ!」と言います。何れにしても、人を目標にして生きていくと、途中でがっかりすることがあります。なぜならば、人は不完全だからです。いくら期待しても、がっかりすることがあります。
 しかし、イエス様を手本にして生きていけば、絶対に間違いはありません。私たちクリスチャンは、イエス様のように生きていきたいと願います。良きサマリヤ人のストーリーは、イエス様のキャラクターを現しており、そのように生きるならば、あなたも完全さを身につけて、幸せに生きることができるのです。
 しかしこの実行はたいへん難しそうです。予定外の仕事が入ってくるのは、きついものがあります。しかも、強盗に傷つけられて倒れた人、誰も寄りつかない人のところに行って手当して、家畜に乗せて宿屋に連れていき、宿代も支払い、最後まで面倒を見る・・。こんなことは、なかなか容易ではありません。
 このストーリーをよく読むと、イエス様は厳しいことを要求しています。しかし、自分のために生きるのではなく、人のために生きることが幸せの秘訣なのです。
 私は六月にとりなしの祈りのために、ローマに行きました。ローマ空港の近くのホテルに泊まりましたが、ホテルの食事は高いので、空港の立ち食いコーナーに食べに行きました。あまり美味しくありませんでした。ご飯を食べ終えて帰ろうとすると、二十才くらいの男性が汗を流しながら来て「あの〜、日本人ですか」と言うのです。「はい。どうしたのですか?」と聞くと、「僕は今、大変なんです。助けてくれますか。」と涙をためて言うのです。訳を聞くと、ローマ経由でミラノに行こうとしているそうですが、トイレに行こうとして、荷物やチケットを中に残したまま、なぜか、税関を通らずに外に出てしまい、証明がなくて出発ロビーに戻ることができずに困っていたのです。彼は英語も全然できず、状況を伝えることが出来ず、あと十分で飛行機が出てしまうというのです。私は、「やっかいだ」と少し思いましたが、すぐに一緒に税関に行き、係官と掛け合いました。一生懸命状況を説明しましたが、「駄目だ。ここから入ることは出来ない。」と言うのです。「私たちは人を無断で出入りさせないのが仕事だ」というのです。彼は誤って、外に出てしまったのです。どうしても、「証明がないから駄目だ」と言うのです。「証明がないなら、この人のお母さんが荷物のところにいるから、あなたがこの人と一緒に行って、確認すれば良いではないか!」と強く訴えました。しかし、「私には仕事がある」と言って、係官は行ってしまいました。そして、「警察に行け」と言われました。私は頭に来てしまいました。
 しかし、しょうがないので警察の場所を聞き、彼と一緒に走っていき警官に事情を説明しました。すると警察はよくわかってくれて、すぐに中に入れてくれました。私は、息子を助けるような気持ちで彼を助けました。
 彼を助けてあげた後、大変すがすがしい気持ちでした。自分のためではなく、誰かのために働くことは素晴らしいです。
 「あなたも、誰かの隣人になってください。」と言うのが、良きサマリヤ人のストーリーの教えの一つです。今週、全く予定外の、誰かを助けてあげなければならない事柄に遭遇したら、祭司やレビ人のように通り過ぎずに、助けてあげてください。
 しかし、このストーリーの助け方は徹底しています。私たちの廻りには、助けてあげなくてはならない人たちがたくさんいますが、「助けたいけれど、助けようがない」という現状があります。
 イエス様は毎日のように、傷ついた人、苦しんでいる人、悪霊の束縛を受けている人、病の人たちを解放しました。イエス様のような力があったらできるけど、私たちには、どうにもなりません。しかし、イエス様は、「あなたも行って、同じようにしなさい」と言われているのです。聖書の語っている事柄をそのまま実行するのは、大変難しいことです。
 けれども御言葉の理解は一部分からではなく、聖書全体で語られている事柄から一つの概念を導き出す必要があります。
 イエス様は十字架にかかって、死なれ、三日目によみがえられて天に帰られ、今も生きておられます。私たちはイエス様の「現在の仕事」を知り、地上におられた時のお仕事と重ねて、「何をすべきか」について学ぶ必要があるのです。イエス様の今の仕事については、ローマ書八章三十四節に書かれています。
『罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。』
 「神」とは、父なる神、子なる神、聖霊なる神、すなわち、三位一体なるお方であり、それぞれに役割があります。イエス様は父なる神様の右に座っておられ、私たちのために「とりなし」ていてくださるのです。悪魔が、「この者は罪人だ、苦しみを受けて当然!」と訴えるとき、イエス様が悪魔と父なる神様の間に入って、とりなしてくださるのです。
 「とりなし」とは、中継ぎをして事が良くなるようにする働きです。イエス様の今の仕事は「とりなしの祈り」です。そして、現代のクリスチャンに、神が最も願っておられることは、「良きサマリヤ人のような心を持った、とりなし手」です。そのようなとりなし手を、主は、世界中に求めておられます。
 今日、ここにおられるすべての方が、「良きサマリヤ人のような心を持った、とりなしの祈り手」になったら世界が変わります。今、周りを見ると、手のつけようのない、誰も解決できない問題がたくさんありますが、良きサマリヤ人の性格を持ってとりなし祈る働きが必要です。そうすけば周囲は変わります。
 「とりなし」という言葉は、英語で「インターセッション」と言います。この言葉はラテン語の「インテル」と「ケデーレ」という二つの言葉によって出来ました。「インテル」とは、「何かと何かの間」という意味です。「ケデーレ」とは、「そこに行く、仕える、代価を払う」という意味です。したがって、「とりなし」とは、「ある事柄の中に入っていき、代価を払う」ということです。例えば、誰かが問題を抱えていたら、神様と問題を持っている人の間に入って、代価を払って祈るのです。また、ある人が悪魔から攻撃を受けていたら、人と悪魔の間に入り、代価を払って祈る仕事です。または、神と悪霊の真ん中に入り、イエス様と同じようにとりなすのです。
 良きサマリヤ人の話をした後、イエス様は律法学者に聞きました。「この中で隣人になった人は誰ですか?」
 すると律法学者は、「その人に、憐れみをかけてやった人だ」と答えました。律法学者は、「隣人は、サマリヤ人です」とは答えませんでした。なぜならば、律法学者はユダヤ人であり、ユダヤ人とサマリヤ人とはお互いに敵対していたからです。だから、「隣人はサマリヤ人だ」とは、答えたくなかったのです。「その人に憐れみをかけた人」と答えたのです。
 時々、人生には、なかなか好きになれない人がいます。「あの人と関わりたくない。あの人のことは考えたくない」と思うことがありますが、ただ中に入って祈るべきです。
 とりなしの祈りには、「憐れみの心」が必要です。「憐れみ」とは英語で「コンパッション」と言います。これもまたラテン語で、一つは「コム」という言葉です。「コム」とは、「共に」という意味です。もう一つは「パティ」という言葉です。「パティ」とは、「痛みを覚える」という意味です。「憐れみ」とは、「共に苦しみ、痛みを覚える」ということです。
 日本語の「憐れみ」という言葉には、上から下を見るイメージがあります。何年か前に、東京ミッションがありました。その時、ホームレスの人々に伝道しました。食事を提供して福音を語りました。六百人ほどが集まって、静かに福音を聞いていました。そこには、常に「食事をあげるから・・」という、上から下へのイメージがあります。それが憐れみと理解されやすいのですが、「憐れみの心を持つ」とは、同じ目線で、共に痛みを覚えるという意味です。
 人生の中で、何らかの痛みを覚えた経験があると思います。大手術をした人は、手術の大変さや痛みについて知っています。そのような方は、同じように手術をした人に対して憐れみの心があります。同じ目線で、その人のために祈ることができます。クリスチャンになって素晴らしいことは、過去のマイナスの出来事がプラスに転換される事です。他の人に対して、同じ目線でのとりなしの祈りをすることができます。皆さんが経験したマイナスの出来事は、神の力が現されるためだけでなく、その経験が「哀れみの心」の伴った、良きサマリヤ人の性格を持つとりなしの祈りに用いられるのです。一人ひとりの人生には違いがあります。教会とは、それぞれの経験や背景を持った者たちが社会の様々な問題の中に入っていき、とりなし祈る集団です。
 皆さんの経験を通して、同じ痛みを持っている人たちのために、とりなし祈ってください。そうしたら、あなたはイエス様と同じ人生を歩むことができる、と聖書は教えています。
 最近、毎日のように、殺人事件や誘拐事件などがあります。だから、私たちの心が麻痺しているところがあります。「そんな事件は頻繁にあるものだ・・」ひどいと思っても、すぐに忘れて通り過ぎてしまうのです。しかし当事者となったら大変です。
 「私は祈りが五分と続かない」と言われる人がいます。「五分祈ったら、祈りの課題がなくなってしまい、何を祈って良いのかわからなくなってしまう」と言われます。そういう人は、新聞を開いて祈ってみてください。「殺人事件で悲しんでいる家族を癒してください。また犯人の背後で働いた、悪魔の力を打ち破ってください・・」と祈ってください。とりなしの祈りは重要です。憐れみの心を持って、問題のただ中に入って祈ることはできます。今週、ぜひそのように祈ってみてください。
 聖書に「イエス様は、やがて帰って来られる」と預言されています。マタイの二十五章三十一節に、
『人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。』
と記されています。今、世界は、国連がどう頑張ってもうまくいきません。滝壺に飲み込まれていく小舟のようなものです。最後に、誰かが止めなければ、地球はひどい星になります。人間が罪を犯し続けた結末は、死と破壊です。神を認めない世界の終わりの日が来ます。やがてイエス様が、御使いたちを従えて栄光をもってこの地上に帰ってこられる日が来るのです。その日はあまり遠くないのかも知れません。しかし「いつ」かはわかりません。「いつ」と特定された日を聞いても、信じてはいけません。けれども準備しなくてはなりません。イエス様が、いつ帰って来ても良いように、私たちは聖い歩みをすべきです。
 私が小さな頃、両親はよく再臨の話をしました。それは結構恐怖でした。「お父さんと、お母さんが天国に行って、あなたたちだけが取り残されることがないように」と聞かされ、いつもビクビクしていました。だから学校から帰って来て、家に誰もいないと「イエス様が帰ってきたのか?!」とびっくりしたこともありました。
 神が人類の歴史をストップさせるとき、一つのことがあるのです。二十五節から三十一節に記されています。、
『人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
 最後の日に、羊飼いイエス様は、「羊と山羊を分ける」というのです。「羊グループ」は、「祝福された者たちであり、天の御国を受け継ぐ人たち」です。けれども、「山羊グループ」は神から遠く離たれてしまうのです。
 羊グループとは何でしょう。それは、イエス様が空腹であったとき、食べる物を与え、渇いていたとき飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸のときに着る物を与え、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪問した人です。これを聞いて、羊グループの人たちは、イエス様に、「あなたはいつご病気でしたか。あなたがいつお腹を空かしていましたか。いつ裸でしたか・・」と聞いています。そうしたらイエス様の答えは、
『すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
 良きサマリヤ人のストーリーと、マタイ二十五章を重ね合わせると、また一つのことが浮かび上がってきます。倒れていた人をサマリヤ人が助けました。「サマリヤ人はイエス様」です。そして、その役割を果たすように教えています。マタイ二十五章でイエス様は、「倒れた人を助けることは、わたしを助けること」である語っています。ということは、「倒れていた旅人も、イエス様であった」といえます。私たちがそのような人々に奉仕をすることは、まさに、イエス様に対する奉仕であるのです。
 皆さんが今週、悲しんでいる人に声をかけたり、祈ってあげることは誰に対することでしょうか?それは、「イエス様に対すること」です。
 皆さんの周りに、色々な問題を持って悲しんでいる人がいたとしたら、決して見過ごさず、その人のために祈ってあげてください。そして、声をかけてあげてください。自分のロバに乗せて、「宿屋」に連れて来てください。「宿屋とは教会」です。教会とは、神が本格的な治療を施してくださる場所です。周りに苦しんでいた人がいたら、あなたというロバに乗せて、教会にお連れください。
 「羊グループ」とは、「父から祝福を受けた人たち」、「御国を受け継ぐ人たち」と言われました。これは終わりの日についての教えですが、ただそれだけではなく、祝福される道についても教えています。私たちが、サマリヤ人のような気持ちになって人々を支えることは、「父なる神から祝福を受ける」道です。また、「御国が来ますように」と祈っていますが、「神の国があなたに訪れる」素晴らしい生き方なのです。
 だれでも自分のためには祈りますが、それ以上に、隣人のために祈ってあげてください。それが父の祝福を受け、御国を受け継ぐ重要な霊的法則です。使徒二十章三十五節に、
このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」
 パウロが常に人々に語ってきたのは、「弱い者を助けること」また、「受けるよりも与える方が幸いである」ということでした。受けるばかりではなく、与える人生を歩みましょう。祈りが苦しんでいる人、悲しんでいる人に対して向きますように。
 羊グループの人は、「いつあなたは苦しんでいましたか。私は知りませんでした」と答えました。彼らは意識せずにとりなしを行っていたのです。羊のグループの人々は、忘れてしまうくらい、常に良きサマリヤ人の性格を持ち、祈りを持って実際的な働きをもって歩んでいた人たちのグループでした。
 アンドリュー・マーレーという祈りの器がいましたが、彼はこのような言葉を残しました。「人の祈り方は、その人の生き方を現している。祈っているのは、その人の人生なのである」
 皆さんの祈りは、あなたの人生そのものを現しているのです。もしも、あなたが自分のこと以外は祈っていなかったならば、自己中心なのかも知れません。自分のことだけではなく、人のことを祈る人はイエス様のように生きる人たちです。そのような人生を歩みたいです。そこに幸せの秘訣があります。これが聖書の真理です。
 まず、できるところから始めてください。新聞を開いて、一つでもとりなしの祈りを始めてください。また、隣近所で悪い噂を聞いたら、そのことを祈ってください。
 良きサマリヤ人としての極めは、イエス様の十字架でした。イエス様は、十字架にかかられ自分のいのちを捨ててくださいました。人間の罪の身代わりとなって、いのちを捨ててくださいました。「そこに愛がある」と聖書は教えています。今から、聖餐式を行いますが、聖餐式はイエス様が最大の隣人であることを確認するときです。
 イエス様は最後まで責任を持ってくださるお方です。そして「あなたも行って同じようにしなさい」と教えています。「イエス様のように生きることが出来るように、良きサマリヤ人としてください」という思いで聖餐式を行いましょう。


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