あなたは力を受けます!

2003.10.19(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

新約聖書 ルカの福音書4章14節〜21節
イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった。イエスは、彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた。それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」

 ハレルヤ!今日は皆さんと共に、「あなたは力を受けます!」というタイトルで聖書から学びます。
 教会は元気のない人が、元気をもらう場所です。それはただ元気よくはしゃぐ場所ではなく、神から力をいただく場所なのです。今日、少し力を失っている方は、イエス様から力をいただいてください。
 小学生の女の子が学校から帰って来て、「お母さん、生きる力をなくしちゃった」と言うのです。お母さんは驚いて、「何か学校であったの。どうしたの?」と焦って問いかけました。すると女の子は、「生きる力という本をなくしちゃったの」と言いました。本をなくしたくらいなら良いのですが、今の時代、本当に生きる力をなくしている人が多くいます。しかしイエス様は、私たちに力を与えてくださる神です。
 元々人間は、力ある存在として造られました。なぜならば、神が人を造られたので、欠陥品はないからです。力みなぎる存在として、神が造られたのです。創世記二章七節に、
『その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。』
と記されています。人間の体は土で造られたのでもろいのです。しかし神は鼻から息吹を吹き込みました。これは神の力が人の中に入ったという記述です。神の霊が私たちに宿っていれば、本当は恐ろしいことは何もないはずです。
 神は過去・現在・未来を現在形でもっておられます。私たちは一瞬しか生きられません。次の瞬間に何が起こるのかわかりません。けれども、神は未来をも引き寄せて現在形でもっておられます。その方の息が、私たちに入っているならば、怖いものは何もないはずです。
 しかし人間が神の言いつけから離れ、罪を犯して迷い出てしまったのです。「神がおられるのに、なぜ、こんなに不幸になったのだろうか、神がおられたらもう少し良い世界でも良いのではないか」と言われる人がいます。
 人間は自由意志により罪を犯し、神から離れたのです。聖書には罪について書かれています。他宗教では罪については、あまり言いません。しかし教会に来ると、罪の基準がはっきりします。聖書の中に「十戒」が書かれています。私は小さな頃から、十戒をよく教え込まれました。罪に手を染めたら、幸せになることができません。教会に来て、罪の基準を知ったら、罪を犯さないように自分でも努力しなければなりません。人生には多くの罪の誘惑があります。その誘惑に勝つか負けるかは、その人次第です。そして、罪は力を失わせます。目の先では「楽しそうだ、皆やっているから良い」と思いますが、罪に手を出したら力を失っていきます。
 最近、薬物中毒で苦しんでいる人がいます。「覚醒剤をやってみるといいよ。二、三日寝なくても元気でいられるよ・・・」と言われて一度やったのが、その人を滅ぼしていきます。神は人の心に、罪の基準を与えたので、誰でも善悪がはっきりとわかります。皆さんの心には良心があります。これはどこの国の人でも同じです。人のものを盗んだら悪いとわかります。
 ある人が「良心は三角形だ」と言いました。悪いことをすると、中でくるっと回るそうです。回ると三角形の角が当たり、心が痛いのです。罪を犯すと心に痛みを感じます。しかし、いつもやっている内に、三角形がぐるぐる回りすぎて、角がとれて丸くなるというのです。何も感じなくなってしまいます。罪は私たちを弱くします。
 聖書の中から、特に、私たちを弱くする罪について、三つあげることができます。第一は「偶像礼拝の罪」、もう一つは「不品行、姦淫、性的な罪」です。
 今、社会にはそのような罪が蔓延しています。性的な罪は、家庭を破壊し、人生の車輪を焼きます。
 またもう一つは「憎しみ」です。誰を憎んでも自由ですが、憎しみはその人を蝕みます。だから私たちは注意しなければなりません。
 イエス・キリストを信じることは「強い人間性の回復」です。人が罪を犯したときに、神の息が出ていきました。人は未来について不安を覚えます。次に何が起こるのかと、不安があります。しかし、神の息が入っていたら、神は未来を知っているので人間には不安がないはずです。「私は将来に対する不安がある」と言う人がいますが、神の霊が戻ってくるときに力を受けるというのが聖書の教えです。
 最近の車には「カーナビ」がついています。カーナビに行き先を設定すると、そこまで誘導してくれます。指示に沿って運転すると、正しい道に導いてくれます。時々道から外れると、また新しい道が準備されます。「設定ルートから外れました。リルートを開始します」と言うのです。
 私たちの内側に、神の霊が宿っているとき、多少道から外れてもしっかりと正しい道に修正してくれます。クリスチャンは、そのような、人生ナビゲーションを持っています。もしも持っていなかったならば、不安です。イエス様はあなたに、新しい力を与え、目標をしっかりと設定してくれます。人生を終えてからも、どこに行くのかわかります。また、短期間の目標も設定してくれます。
 私はいつも朝、祈ります。「イエス様。あなたが今日一日の、私の目標を設定してください」そうすると、神が道を用意してくださいます。一人一人に、神の力が注がれ、神の力によって生きることができますように。ローマ一章十五節に、
『私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。』
と記されています。教会には、普段ではあまりなじみがない言葉があります。「福音」という言葉は、普段ではあまり使いません。しかし最近は時々耳にします。それは、普段ではできないことが、できるようになったという意味で使います。「目の見えない人に福音。足の不自由な人に福音。ガン患者に福音・・・」などと使います。
 福音、それは、普段では力不足でできないようなことが、できるようになることです。イエス様は、この地上に福音を伝えるために来られました。イエス様がどんなことをなされたのかについて記している箇所が、今日の言葉です。
 イエス様は神様でしたが、人間の姿をとってこの地上に来てくださいました。人類の代表者のようです。私たちがイエス様を信じて歩んで行くならば、イエス様と同じように力を帯びて歩むことができると教えています。
『イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった。』
 イエス様を信じると、神の霊が私たちに宿り、力が与えられ福音があなたを自由にします。この言葉は、預言者イザヤの書に預言されていたことでした。
『すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。』

 イエス様が安息日に会堂に入り、メッセージを語りました。講壇に立ち、イザヤ書を受け取ったのです。昔、聖書は本ではなく巻物でした。羊皮紙という羊の皮に書かれていたので、イザヤ書は太い巻物だったと思います。それを受け取って、一つの言葉を持ち出しました。聖書の言葉はすべて重要ですが、聖書全体のストーリーは「人類の救済」です。ですから、「人を救う」という箇所は、特に重要です。ですからイザヤ書六十一章が選び出されたことは重要です。イザヤ書六十一章一節から三節に、
『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。』
と記されています。「わたし」というのはイエス様のことであり、「心の傷ついた者」や「捕らわれ人」というところに、自分を当てはめて読んでみてください。
 人にはどうにもできないところを、神が力を与えて助けてくださるのです。教会に来ると、福音が実現するので弱い人が強められます。『良い知らせ』と記されています。これが「福音」と訳されている言葉です。『心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。』と記されています。
 最近の社会では、「心の傷」というテーマがクローズアップされています。また、「癒し」がテーマになっています。「癒し」という言葉は、数年前までは教会でしか聞きませんでしたが、現在では、一般でも聞くようになりました。しかし、何をしても完全な癒しはなかなか受け取ることができません。
 イエス様は、心傷ついた者を癒すために来てくださいました。イエス様は心の癒し主です。ここにおられる多くの方が、イエス様によって心を癒されてきたと思います。毎週、教会に来て賛美をしたり祈ったり、御言葉を聞いているうちに、心がリフレッシュされるのです。
 人間は傷つくと不安になります。不安の背後には傷があります。ある意味で、世界で一番傷ついた民がユダヤ人でした。だから、彼らには常に不安がありました。国を失い、踏みにじられ、「将来どうなるだろうか・・」と考えていたと思います。
 イエス様が生まれたとき、イスラエルはローマ帝国の属国でした。ですから彼らは、心傷ついて不安でした。そんな中、イエス様が来られて、「こころの傷ついた者を癒します。不安をなくしてあげます」と語られたのです。
 今日不安を持っている方は、イエス様から力を受け、傷を癒していただき、先行きの不安をなくしていただきましょう。
 新城教会には、日々、色々な奇跡が起きています。誰に何が起こったのかを、すべて語れませんが、常にドラマがあります。
 今年の春、一人の女性が教会に来ました。みんなで一生懸命伝道しましたが、その方は「イエス様がわからない」と言うのです。しかし、突然、目が開かれてイエス様についてわかるようになりました。その方はイエス様を信じて、バプテスマを受けました。そうしたら、奇跡が起こりました。女性には朗報だと思います。彼女が、バプテスマを受けてほんの一、二ヶ月で、体重が七キロ減ったというのです。突然、痩せたのでどうしたのかと聞くと、それまでは、「今日、地震が来て、家がつぶれて食べる物がなくなったらどうしよう」と思い、いつも不安で多く食べていたそうです。それが、イエス様を信じて、バプテスマを受けたら、不安がなくなってしまったそうです。食事も適量を守ることができるようになったそうです。それで痩せたのです。
 案外、不安と肥満はつながっているかも知れません。イエス様は、不安を取り除いてくださいます。
 それと共に、イエス様は心も体も癒してくださるお方です。人間には自然治癒力があります。手を切ったら血が出ますが、ずっとそのままではありません。しっかりとふさがります。また、病院も薬もあります。神が人間に癒しを願っている証拠です。そのような力を与えています。そして人間では、どうすることもできない分野を、神がカバーしてくださるのです。だから自然治癒力と、薬と、病院を使い、その上に超自然的な癒しをもらえば完璧です。
 クリスチャンでも、時々、色々な病や問題がありますが、祈れることは素晴らしいです。何かあったらすぐに、「イエス様、助けてください。力をください!」と祈ります。
 病気になると力がなくなります。風邪を引いて少し熱があると、力が入らなくなってしまいます。しかし教会には「超自然的な癒し」があります。それを受け取ってください。今、病の方は、「超自然的な癒しを与えてください」と祈ってください。イエス様は、あなたに癒しを与えてくださいます。
 教会の一週間には、様々なドラマがあり、私は常に、喜んだり、がっかりしたり、喜んだりしています。最近は携帯電話があり、情報がすぐに入ってきます。私はいつもスタンバイしていますから、いつでも電話してください。
 先日、ウォーキングをしていて、大宮の岩座神社にさしかかったので戦って祈っていると、携帯電話が鳴りました。それは、この教会に来ている一人の娘さんからでした。「先生!祈って、祈って、祈って・・・!」と取り乱していました。「何があったの?」と聞くと、「今、妹の息が止まっている!!」と言うのです。その方の妹さんは、肝臓の奧に大きな石ができて倒れ、救急車で運ばれたそうです。それは日本では例がない症例で、アフリカの原住民の年寄りにある病だと言われたそうです。大学病院に運ばれて、精密検査をしました。私はその人のために癒しを祈っていました。しかし、検査中に息が止まってしまったそうです。それでお姉さんが、慌てて電話をかかけてきました。みんなで真剣に祈りました。すると、息が戻りました。少しでも発見が遅れたら、死んでしまいます。
 先週は、もう一度検査があるというので、よく祈りました。そして再検査したら、前に腫れていてカメラが通らないようなところが、通るようになり、石も柔らかい物になっていて、これなら流れ出るだろうと言われ、様子を見ることになり今週、退院することになりました。イエス様は癒し主なので、不可能と思うときにはイエス様に頼り、真剣に祈りましょう。その時に神の力が注がれ、神の力が私たちを生かしてくださいます。そのような法則の中で生きるクリスチャンは、すばらしいです。何があっても、祈ることができる、祈りがなかったら不安です。イエス様は、私たちを癒してくださる神様です。
 教会は命がけで伝道します。「私は命がけで伝道します!」と言いますが、命がかかっているのは、自分ではなく「人の命」だと思います。人の命がかかっているのです。最近、自殺者が多いです。毎年、三万人以上だと言われます。新城の人口は約三万五千人です。一年で新城から誰もいなくなるようなものです。自殺する人が「私は自殺します」と登録はしませんので、統計以上の人数があるでしょう。
 最近インターネットで、自殺サイトがあります。自殺者を募集して、集団自殺をしたりするようです。
 しかし一つ知っていただきたいことは、人間は一秒でも長く生きようとする動物です。私も溺れたことがありますが、もがいて、もがいて一秒でも長く生きようとしました。それでも「死にたい・・。明日は死ぬ」というのは、人間の内側から起こっているのではありません。悪霊が耳元で「死ね!」と語っているのです。それは音にはなりませんが、心に響く声です。自殺という思いは、絶対に神が与えるものではありません。神は、「力を与えるからもっと生きて下さい」と言われます。
 しかし悪魔の訴えは死です。「死にたい」という思いが来たときには、「悪魔よ退け!」と戦わなければなりません。現在、多くの人が悪魔の声を聞いているのです。
 先々週、一人の人が教会に来られました。その人は自殺志願者でした。「こんな人とは出会ったことがない」というような人でした。腕は刃物でずたずたに切り裂かれており、明日にでも自殺するのではないかと思いました。私は胸騒ぎがしたので、「今、自殺の道具を持っているでしょう」と言うと、医療用のメスや薬をたくさん持っていました。「私が預かる」というと、「絶対に駄目だ」と言いました。「私は、この間テレビに出ていた集団自殺の中にいた」というのです。しかし、練炭の煙が出て、皆がおかしくなって、怖くなって逃げ出したと言っていました。それは悪魔の力です。教会はそのような人たちが生きるために働いているので、生かすために祈りました。その人は、イエス様の力なしに生きることはできません。イエス様の力は人を生かします。
 祈りの後も「死にます」というメールが来て、スタッフたちも心を騒がせましたが、私は「心配するな。祈ったから、イエス様が助けてくれる。明るくメールを返しておけ・・・」と指示しました。スタッフは明るく対応しました。先週、死のうとしていたら、声が聞こえたそうです。
 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している・・」とイエス様の声が聞こえたそうです。それで死ぬことを中止しました。ぜひ、そのような方のためにも祈ってください。御言葉をたくさん教えておかなければなりません。イエス様の力をもらったら、生きることができます。その背後に、暗闇の力があります。イエス様を信じると、悪霊を打ち砕く力が与えられます。「捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げる」と約束されています。私たちを殺そうとする、悪魔の力に打ち勝つのです。神の霊があなたに注がれるので、死という思いではなく、前向きに生きることができるのです。これがイエス様の福音です。今の時代、霊的な世界もわからず、何気なく生きていたら死にたくなるかも知れません。しかしイエス様がわかれば救われます。私たちは、日本の暗闇と死の霊が砕かれるように、祈らなければなりません。自殺、引きこもり、暴力、崩壊、病、借金など、悪いことがたくさんあります。その背後に、悪魔がいつも働き、人を破壊に引いていきます。しかしイエス様はそこから救い出してくださるお方です。
 先週、ドイツから一人の青年が来られました。彼はお父さんと共に来られました。私たちは福井県で家庭集会をしています。そこに三年程前に、一人の奥さんが来られました。その方はとても暗い顔をされていました。その背後に悪魔の力があること、また、イエス様は人を解放するために来られたと語りました。するとイエス様を信じ、偶像を全て捨てました。それから彼女は元気になり、やがてドイツで洗礼を受けてクリスチャンになりました。今回来た青年は、ドイツでその方から私のことを聞いて、新城教会に来られたのです。今回は、彼と一緒に祈ることができて良かったです。
 彼のために祈るときに、運転手としてついてきたお父さんに、「良かったら一緒に入ってください」と言いました。すると「私には関係ないですし、キリスト教ではないので・・・」としきりに言いました。私はその方と二度と会うことができないかも知れないと思い、伝道をしました。すると、「いや、私には関係がないから・・・」と言いました。
 すると、ふっと神の語りかけを受けました。「この人の家系には、精神的病がある・・」という事でした。私はその方に聞きました。すると「なぜ、わかるのですか。」と言われました。そして、「実は、私には、息子にも言えないようなことがあるのです・・」と言われました。そして、いろいろなことを話してくださいました。私は、人生には霊的な敵がいることと、イエス様を信じたら解放されて自由になると話しました。すると、お父さんは、私の話を真剣に聞くようになりました。最後には、教会は初めてだと言われましたが、「イエス様。私を解放してください。家系から、悪魔の力を取り除いてください。」と祈りました。
 最後に私は、お父さんと息子さんのために、按手して祈りました。すると彼らは、神の力を受けました。彼は、国際的ネットワークの中で新城に導かれてきましたが、彼に目を留めておられる以上に、イエス様は、お父さんにも目を留められておられました。
 今まで、家系の中に色々な不幸があっても、心配しないでください。イエス様は悪魔の力から解放するために、この世に来てくださったのです。そして、二度と悪魔に負けない力を与えてくださるというのが、聖書の教えです。六十一章二節の後半に、
『悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。』
と記されています。
 イエス様は、私たちに「喜びの力」を注いでくださるお方です。教会に来たら、喜びの油が注がれます。喜びの油が教会に満ちているので、暗い心が変えられて、喜びに満たされます。教会で皆が喜んでいる姿を見ることが、私の喜びです。
 そのような中でいつも思うことは、授産所から来ている方々です。ここにいる辻森兄は、二十数年間教会に来ています。私は十数年ほど前に、授産所の辻森君の部屋に入りショックを受けました。今は良くなりましたが、当時は六人部屋で、ベットの隙間が三十センチしかないようなところでした。「私では耐えられない」と思いました。しかし彼らに、「喜びの油」が注がれました。彼がイエス様を信じたことにより、三名が加えられました。彼があまりに喜んでいるので、他の人が不思議に思い、教会に導かれて来たのです。これは、神の力以外にはないのです。
 時々彼らは、私のところに電話をくれます。「順先生。喜びはありますか?」と言うのです。そして、私のために祈ってくださるのです。また、祈りながら、彼らにも喜びが与えられるのです。聖霊様は、私たちに喜びを与えてくださいます。今日喜びを失っている方は主に求めてください。ガラテヤ人への手紙五章二十二節に、
『しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。』
と記されています。神の力が与えられると、実を結ぶのです。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という実を結びます。
 神の霊が注がれると、無理なく、そのような実が結ばれます。果物の木が苦労して実を結んでいるのを見た事がありますか。夜中にりんご園の前を通ると、「ウー、ウー」とうなり声を上げて、実を結ぶのを見たことはありません。知らないうちに、実ができています。そして、実を結んだりんごの木は、自分ではその実を食べません。結ばれた実は、人のためです。
 私たちが神の力を受けると、今度は自分のためではなく、人のために実を結びます。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」それらは、他人を生かすための実です。力はただその人にとどまるのではなく、他の人のために使われるのです。
 実は、人間は、自ら力を求めて堕落したのです。力が欲しくて、力を失ったというのが聖書が告げる人の歴史です。しかし、私たちのクリスチャンの力は違います。使徒の働き一章八節に、

『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」』
と記されています。私たちが力を受けると、イエス様の証人となります。それは、イエス様の素晴らしさを知らせるための力です。自己実現のためではなく、他の人を助けるための力として用いられます。他の人に喜びを与え、愛を与えるための力です。その根源は、イエス様の証人としての力なのです。
 今日、求める者に力を注いでくださいます。先行き不安がある人も力を求めてください。病の人は健康を求めてください。喜びがない人は喜びを求めてください。また悪魔に打ち勝つ力が欲しい人も、力を求めてください。どんな力を何を求めてもいいですが、最終的には、その力は他の人への祝福となっていきます。イエス様の力を求めてお祈りしましょう。


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