バラムの道に注意しょう!

2003.11.2(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

新約聖書 ペテロの手紙第二 2章15節〜17節
彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。この人たちは、水のない泉、突風に吹き払われる霧です。彼らに用意されているものは、まっ暗なやみです。

 ハレルヤ!このように皆さんと共に、礼拝できることを感謝します。
 先週は一つ、悲しい出来事がありました。それは、この教会で三十年近く、共に礼拝を守ってきた、尾崎千恵子姉が突然召天されたからです。彼女は以前から持病があり、少し障害をもっておられましたが、お風呂に入った三十分くらいの間に、倒れて亡くなられました。私たちも、また、ご家族の方々も大変驚きました。
 人生には、時々、突然のことがあります。しかしクリスチャンには、永遠の希望があります。私たちは永遠のいのちを持っているので、天国でもう一度、再会できるという希望があります。人が死んでそれっきりなくなってしまったら、そんなに寂しく、悲しいことはありません。愛し合って築いてきた家庭が、家族が、一瞬にして世界から全く消えたとするならば、そんな悲しいことはありません。
 しかし、聖書の究極的な救いの結果は、永遠の命と共に神の国において、「再会できること」です。地上は「仮の宿」です。本物の家は、天にあります。天とは、上空ではなく、「次元の違うところ」です。主を信じる者は、神の住まいに入り、永遠に生きるのです。地上で別れた人たちと、やがて顔と顔とを合わせて会うのです。
 神はすべての祈りには、答えてくださらないのかもしれません。いくら祈っても、動かない事柄もあります。なぜなら、すべて私たちが思うとおりに祈りが聞かれたら、人は神以上の者になってしまうからです。だから祈りが聞かれないようなこともあるかも知れません。しかし神は、永遠のスケールで私たちの人生を考えておられます。地上は私たちにとって、仮の宿であり、また、永遠を過ごす場所を選択する期間でもあります。教会が伝道するのは、永遠のいのちがあるからです。イエスさまを信じたら、「滅びることなく、永遠のいのちを得る」ことができます。
 しかし、イエスさまを信じなければ、人は悪魔の奴隷です。奴隷は、その主人の国について行かなければなりません。もしも奴隷として、永遠を悪魔の国で過ごすとしたら、どんなに悲しいでしょう。
 イエスさまを信じたら、永遠の救いが備えられるのです。ですから、私たちは伝道するのです。決してキリスト教を宗教だと思わないでください。これは宗教ではありません。これは真理なのです。私は牧師をしていますが、宗教としてではなく、事実として信じています。自分の両親がいて、それを認めるのは宗教ではありません。それは事実だからです。同様に神様がおられることを認めるのは宗教ではなく、真理です。クリスチャンになるとは、宗教にはいるのではなく、真理の道に入ることです。
 そして、一度真理を知ったならば、その道をまっしぐらに進んでください。決してそこから離れず、まっすぐに永遠の国、天国に向かって進んでください。ゴールである永遠の国まで、信仰を全うしたいものです。
 今日は「バラムの道に注意しよう!」というタイトルで学びます。聖書には、色々な人物が登場します。そして、ある人物の生き方や行動を通して、今を生きる私たちに、生きる道を教え、励ましを与え、警告を与えています。
 「バラム」という人物は、民数記に登場します。彼は神の声を聞くことができる、預言的な能力が与えられていた人物でした。しかし、彼の結末は、「あのような人物になってはいけない!」と警告のために用いられる、悪い人物となってしまいました。
 イスラエルは四三〇年間、エジプトの奴隷となっていました。しかし指導者モーセにより出エジプトし、荒野を旅して約束の地カナンに入ることができました。
 カナンの地に入る直前、イスラエルはモアブという草原まで来て宿営しました。ヨルダン川を渡れば、待ちに待った、カナンの地の玄関であるエリコという町でした。「さあ。約束の地に入る!」という直前で、一つの事件が起こりました。
 モアブ地域には「バラク」という王がいました。バラクは、かねがねイスラエルの噂を聞いていました。「あいつらは、奴隷から解放されて以来、難民のように砂漠を漂って来たのではなく、勇敢な国々を打ち破ってここまで来た。今度は、我々がやられる番かもしれない・・。」と恐れたのです。
 そこでバラクは考えた結果、バラムという人物に頼みました。バラムには霊的な力があり、国民を祝福したり呪ったりするような能力がありました。彼は、そのような預言者風の人物でした。だからバラクは、バラムにイスラエルを呪ってもらおうと願ったのです。
 戦争とは、ただ単なる力のぶつかり合いではありません。古代から現代に至るまで、戦争には祈祷師や占い師がついていて、互いに呪いを掛け合って来ました。この地域でも「設楽原の戦い」がありましたが、織田信長と徳川家康の連合軍、合い対する武田勝頼の軍隊には、それぞれ呪術師がついており、互いに呪い合っていました。また、第二次世界大戦も、宗教的ベースにおいて戦いがなされました。
 モアブの王バラクは、バラムに頼むことにしました。バラクはバラムに使いを送り、イスラエルの軍隊を呪ってくれるようにと頼みました。
 するとバラムは、「ちょっと待ってください。私は神の声を聞かずして、何もできないので一度祈ってみます。」と言いました。すると神様がバラムに語られました。
 「絶対にイスラエルを呪ってはいけない。彼らは、祝福された民だから」そして、「バラクの使いと一緒に行くな。」と言われました。
 そこでバラムはバラクの使いに言いました。「私はあなた達と一緒に行かない。」
 さて、「イスラエル」とは、何を意味しているのでしょうか。それは「クリスチャン」を意味しています。クリスチャンは、元はエジプト、すなわち、悪魔の奴隷でしたが、その中から解放された民です。エジプトから脱出した後も、イスラエルに色々な苦しみや悲しみもありましたが、彼らは砂漠において一度も食糧が不足したことはなく、着る物も履き物もすり減らず、病にもかかることなく守られました。なぜならば、神が彼らを守ったからです。神はイスラエルの民を特別に守られました。
 同様に、イエスさまを信じると、砂漠のような人生も、特別に守られます。ある時にはクリスチャンを悪魔が訴えます。「この人を呪って良いですか・・」しかし、神様は「呪ってはいけない!」と言われ、逆にあなたを祝福されます。
 バラムはイスラエルを呪おうとしましたが、神様はそれを許されませんでした。次にバラクは、もっと位の高い人たちをバラムのところに送って、もう一度願いました。
 「イスラエルを呪ってください。もしも、あなたが呪いの祈りをしてくれたら、バラク王はあなたに、すごいプレゼントを用意しています。あなたを大歓迎してもてなしますから、お願いします」と言いました。
 バラムはその言葉を聞いて、心がぐらつきました。それで、もう一度、神に聞きました。すると「よし、行きなさい」と言われました。彼は、ワクワクしてバラクのところに出かけて行きました。けれども、神の怒りが燃え上がり、ロバの口が開かれて道を止められたと、書かれています。動物が話すなどとは聞いたことがありませんが、聖書にはロバが話したとか、蛇が話したとか書かれています。そのような超自然的な方法で、彼はバラクのところに行くのを止められました。
 しかし最終的に、バラムはバラクのところに行き、イスラエルを呪わずに、ただ祝福しました。
 けれども、結果的には、イスラエルは呪われたのです。それはバラムが一つの作戦を、バラクに授けたからです。
 「私はイスラエルを直接、呪いませんでしたが、一つのことを教えます。こうしたらイスラエルは、神によって裁かれるから、私の言う通り実行しなさい」・・・それが、新約聖書の告げる「バラムの教えに従ってはいけない」という警告です。
 さて、バラムがバラクに教えたことは何でしょうか。黙示録二章十四節に、
『しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。』

と記されています。この記述のオリジナルは、民数記二十五章一節から三節に記されています。
『イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらなことをし始めた。娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。こうしてイスラエルは、バアル・ペオルを慕うようになったので、主の怒りはイスラエルに対して燃え上がった。』
 第二ペテロの手紙が警告しているように、バラムの道は、「水のない泉、突風に吹き払われる霧、真っ暗な闇」です。案外、このような人生を歩んでいる人が、多くいるかも知れません。人生の井戸を掘り当てたとしても、水が出てこない。財産がたまったと思っても、いつの間にか消えてしまう。人生、お先真っ暗、と言われる人がいるかも知れません。
 「夜は暗い」と言いますが、本当の暗さはこんなものではありません。皆さんは真っ暗闇を体験したことがありますか?結構怖いものです。
 私はリバイバルミッションの働きで、奄美大島の隣にある「喜界島」に行ったことがあります。私たちは夜、自動販売機でジュースを買おうとか、コンビニに行こうとします。喜界島で宿泊所から、夜、外に出てみました。すると、何も見えないのです。街灯は一つもなく、自動販売機もなく、コンビニもなく真っ暗でした。闇とはこんなに暗いものかとびっくりしました。普段私たちが、町で体験している闇は、本物の闇ではないと思いました。真っ暗闇とは、十センチ先も見えないくらいでした。
 さて、人生が、そのようになってしまうのには、どのような原因があるのでしょうか?それには、まず、「二つの原因」があります。
 その一つが、「偶像礼拝」です。教会に来ると、天地を造られた唯一の神を礼拝します。日本人は、「それは排他的ではないですか」と言います。しかし、本物の神がおられたら、その方を拝むべきです。人間が自分で造った神は拝むべきではありません。それも、自分に都合の良い神を作って拝むことは、本物の神様に対して大きな冒涜です。聖書は、「偶像礼拝をやめなさい」と教えています。「どんなに像の前で霊感を感じたとしても、それは神の霊ではないから拝んではいけない」それは「神ではなく、悪霊だ」と教えています。
 私は毎週のように、色々な方々の問題を伺い、問題解決のために、イエスさまに祈る仕事をしています。しかし、この地上での解放やいやしは、ある意味、一時的なものです。本当のいやしと解放は、永遠のいのちです。けれども、神は、人生を明るく、楽しく過ごすことを願われています。ですから、問題解決のために祈ると、不思議なことが多く起こります。
 私は二週間ほど前、北海道に行きました。そこで、七十才過ぎのおじさんが、「足が曲がっていて、あぐらをかいて座れない」と言うのです。北海道は開拓者達が厳しい環境の中で開拓しました。その人のお父さんは、生活態度にも厳しい人だったので、変な格好で座ったりすると、火箸で叩かれたそうです。それで足を悪くし、女性のような座り方しかできないので、「直るように祈ってください」というのです。
 それを聞いて私は、「それは、年のせいもあるから、あきらめた方が良い・・」と言ってしまいそうでした。でも、その方のいやしのために、あまり信仰はありませんでしたが祈りました。
 私はいやしを祈る前に、必ず、偶像礼拝の背後にある、悪魔とのつながりを断ち切る祈りをします。その方もクリスチャンになる前には、色々な偶像を拝んでいました。特に、その地域では馬を多く飼っていて、その為に「馬頭観音」が祀ってあり、拝んでいたそうです。だから、いやしを祈る前に、馬頭観音の背後の悪霊が砕かれるようにと祈りました。それから、彼のいやしのために祈りました。すると、主が強く触れてくださいました。
 神の力が人に触れると、時々、人は立っていることができないで倒れてしまうことがあります。おじさんは、倒れてしまいました。その時、骨が元通りになるように、命じて祈る必要があるような気がしたので、そのように祈りました。すると、おじさんの両足が、突然、動きを始めました。始め私は、わざと足を動かしていると思い、しばらく見ていました。けれども、足は複雑な動きをしていました。それは聖霊様の働きでした。
 おじさんは立ち上がると、「あっ!直った」と言っているのです。男らしく座ることができるようになり、嬉しくて、皆にそのことを言いふらしているようです。イエスさまはいやし主です。
 背後に偶像礼拝があると、悪魔が人生をつかんでいます。偶像礼拝は、人々を暗闇に落とします。
 日本人は偶像を拝んで、色々な霊体験をします。仏壇を拝んでいると、先祖らしきものがいるような気がします。しかしそれは、先祖ではありません。
 人は死んだら瞬間的に神の領域にいきます。死んだら、どこかにふわふわ浮いているようなことは、決してありません。瞬間的に神の領域に入るのです。その後、地上から死後の世界に信号を送ることも、その逆も出来ません。死後の世界には手が届きません。しかし、向こうからこちらは見えるようです。聖書は、「私たちは、雲のように証人たちに囲まれている」と教えています。
 多分、天国には大画面モニターがあり、今朝も、先に天に帰った兄弟姉妹が集まって、新城教会の礼拝の様子を見ていることでしょう。リバイバルを応援していることでしょう。それは、天国に行ってからわかる事だと思います。
 人間は死んだら、決して行くところがわからず、迷うようなことはないのです。イエスさまを信じていたら、瞬間的に天国です。しかし、イエスさまを信じていないと、瞬間的に悪魔の国に行ってしまいます。だから、生きているときに、イエスさまを選ばなければなりません。
 人間は決して、死んでから後に化けて、生きている人の所に現れたりは出来ません。にも関わらず、仏壇を拝んでいたら霊感を感じ、おばあちゃんが亡くなってから七日目に、枕元に立ったとしたら、それは、何者でしょうか?それは、おばあちゃんではありません。おばあちゃんの振りをしている「死の霊」です。
 先週一人の方が教会に来られて、共にお祈りをしました。私は、教会に初めて来られる方に必ず、一つの質問をします。それは、「今までに、何らかの霊体験がありましたか?」という質問です。すると、八割位の方が、「あります」と答えます。金縛りにあったとか、仏壇の部屋で声を聞いたとか、死んだはずのおばあちゃんが出てきたなどと言われます。日本人には、結構、そのような体験が多いのです。しかしそれは、決して先祖ではありません。「先祖のふりをした悪霊」です。
 その方に質問すると、「はい、あります。私の友だちが交通事故で死にました。それからしばらくして、死んだはずの友だちが、手でつかめるくらいの大きさになって私の腹の上に乗っていたのです。そして、声をかけるたびに大きくなり、見ると友達は血塗れでした。」と言いました。
 また母親が亡くなってしばらくして、死んだ母親が車椅子で現れたというのです。しかし、これは、絶対にお母さんではありません。私は、その方に、「それはあなたを狙っている、死の霊だ」と言いました。
 神はそのような体験を通して、人に警告の信号を送っているのです。血塗れ姿の友人は、その人をも、血塗れにしようとする悪魔の策略があるというサインです。車椅子姿の母親は、母親ではなく、事故か何かで歩けなくしようする悪魔の存在を示す、サインかも知れないと話しました。すると、彼は、イエスさまを信じて、悪霊との関係を断ち切って祈りました。
 過去に、どんな霊体験があったとしても、だまされてはいけません。偶像礼拝の背後には、必ず、恐怖の霊体験が付き物です。それは悪魔とのつながりを示すものです。悪魔の声を聞き、その道を歩んでしまえば、人生は真っ暗闇になるのです。「バラムの道」とは、「偶像礼拝の道」です。
 さて、続くバラムの道とは、何でしょうか。イスラエルがシティムにとどまっていた時に、
『民はモアブの娘たちと、みだらなことをし始めた。娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。こうしてイスラエルは、バアル・ペオルを慕うようになったので、主の怒りはイスラエルに対して燃え上がった。』
と記されています。神が人類に対して怒られるのは、偶像礼拝と共に「不品行、姦淫」という「性的な罪」です。今は性的な罪が多い時代です。性的な罪に対して、神の怒りが燃え上がるのてす。マスコミやメディアで、性的な罪を助長する情報が多く流されていますが、絶対に性的な罪に陥らないでください。性的な罪は、馬の目の前のニンジンのようなものです。「こっちにおいで、美味しいよ・・」しかし、行きつく先は「真っ暗闇」の世界です。性的な罪で幸せになった人は見たことがありません。悪魔が好んで使う策略です。カナンの地を目前にして、悪魔は狙っています。不品行や姦淫という罪によって、信仰の道から外そうとします。夫婦関係以外の性行為は罪です。神の怒りが燃え上がるのです。「注意してください!」と神は警告しています。
 聖書は、結婚は神聖なものとして描かれています。「ふたりの者は一体となる」と教えています。結婚すると、妻と夫は一心同体です。体も、心も、霊的な領域も全て共有するのです。一人の男性と、女性が結婚すると、「キリストと教会が一つ」という等式が家庭に当てはまります。「一人の男性+一人の女性=キリスト+教会」なのです。
 イエスさまは、すべての富を持っておられます。それが教会と一体ということは、教会が神の資産を共有出来ると言うことです。そして、この、「キリストと教会」という関係が、「夫婦の関係」に当てはまるのです。
 クレジット・カードや現金引き出しカードを持っていると思いますが、例えば、銀行口座に一億円入っていたとし、自由に使って良いと言われてカードを渡されたらどうしますか。たいへん嬉しいと思います。残高を気にしなくて使って良い、と言われたらすごいです。
 ある意味で、教会はそのようなところです。神は無限の富と力を持っておられます。ある所には大きな教会があり、また小さな教会もあります。しかし、教会の最小単位は個人です。個人で神の富を引き出すことができるのです(もちろん、主の御心の範囲ですが)。そして、最も神の富を自由に引き出すことができる場所が、夫婦関係の中にあります。夫婦が一つになっていると、神の富があなたにもたらされるのです。
 今の時代はどうでしょうか?多くの家庭が、壊れています。夫婦関係がうまくいきません。愛し合って結婚したのに、世界最大の敵となっています。アメリカ対イラクの構図が、夫対妻の関係に当てはまっていたりします。
 そこには、結婚前の不品行や、結婚後の浮気や不倫というような、姦淫の罪があるのです。その為に、神の素晴らしい祝福が崩れるのです。性的な罪の領域から守られ、聖い生活をすることが祝福の秘訣です。ですから罪の誘惑に負けてはいけません。結婚するまで、誘惑に負けないように、罪から離れなければなりません。また、結婚後は、絶対に夫婦以外の関係を持たないことです。失敗した方は悔い改めて、断ち切りを祈らなければなりません。
 この教会では、必ず、「霊・肉・魂」という領域で、悪霊とのつながりが断ち切られるように祈ります。祈ったら、悪しき関係から解放されます。不品行・姦淫など、性的な罪の行き先は、真っ暗闇です。これが「バラムの道」です。
 特に悪魔は、天の御国に入る寸前まで、毒矢をいかけてきます。私たちは悪魔の攻撃に負けてはいけません。バラムの道に進んではいけません。
 
 神の怒りが燃え上がる罪が、「偶像礼拝と不品行」であると覚えてください。そのようにバラムのストーリーを通して教えています。
 
 さて、今まで語ったことがらは、バラムの道に関する「基本コース」です。しかし聖書は、もっと深いレベルで、このストーリーから教えています。それを最後に学びましょう。
 バラムは、神の声が聞けるような人物でした。しかし、バラクからたくさんの贈り物が与えられることを聞いて、心が揺らぎました。それで、もう一度、バラムは神の前に自分の欲のために出たのです。
 時々私たちも、「これ以上、進んではいけない」と語られたのにも関わらず、自分の欲のために一歩進んでしまうことがあります。これが、私たちの将来を閉ざすものになる、と教えていると思います。
 バラムは、「不義の報酬を愛した」と記されました。彼には、「自分のため」という意識が強くありました。クリスチャン生活は、自分のためではなく、「神の栄光のために」という人生です。あなたがどんなに頭が良くても、地位や、名誉や、お金があっても、それはあなたのためではなく、「神の栄光のため」です。
 しかし人間は、常に自己中心です。それが「バラムの道」に通じるのです。バラムは自分の利益のためにバラクの誘いに応じ、その道に従ってしまいました。しかし、彼には依然として、神の声が聞こえました。その中では、イエスさまの誕生を示唆するような預言さえ、語っています。けれども、彼の人生は全く評価されませんでした。
 
 私たちも注意しなければなリません。神の声が聞こえるとしても、自己中心的な心があると、「バラムの道」に迷い込んでしまうのです。
 人類が散らされたのは、そもそも、一つの原因がありました。創世記十一章四節に、
『そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」』

 人々は、「名をあげるため」に高い塔を作りました。その結果、
『それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。』
と記されています。
 自分の名前ではなく、「イエスさまの名前のため」に人生を送るべきです。そうしたらバラムの道に迷うことなく、幸せに歩むことができるのです。
 私は時々、他教会から招きを受けて、奉仕に行くことがあります。十人くらいしか集まっていない、小さな教会に頼まれて奉仕することもあります。そんな時、「小さな教会だ。家庭集会よりも小さいではないか・・。こんなところで、私が奉仕するのはもったいない・・」などと、高ぶった思いを持ってしまうことがあります。ふっと、自分が何者かであるかのような錯覚をし、高ぶりの思いを持つのです。
 そんな時私は、「バラムの道よ、退け!」と祈ります。自分が何者かであるかのように考えるときに、悪魔に負けます。いくら賜物にたけていても、神のわざが働きの中に伴っていたとしても、「あなたの働きは、自分の名前のためだった。それはバラムの道だと」と言われます。どんなときにも、純粋に、イエスさまの名前のために、どこでも、喜んで奉仕できることを願っています。私のために、是非ともお祈り下さい。
 「新城教会のビジョンは何ですか。目標は何ですか?」と聞かれるとき、私はあえて、「特にありません」と答える事にしています。
 ある教会では、「千名教会を目指せ!」と目標を掲げています。目標は別に悪くありませんが、それだけが全面に出てしまうと、人々を愛することよりも、人々を集めて大きな教会にして名をあげよう、という誘惑が生じるからです。人数のためにではなく、「一人の魂」のために、主の御名のために真剣に働き、その結果として、多くの人々が集まるのなら良いですが、先に目標があると、罠にかかりやすいのです。教会が大きくても、小さくても良いのです。自分の働く教会はたとえ小さくても、その働きを通して、他の教会が盛んになるのが主の御心ならば、それでよいと思います。なにしろ、「主の名」を中心に歩むべきです。
 毎週私たちは「主の祈り」を祈ります。これはとても重要な祈りです。しかし案外、主の祈りを初めから終わりまで、真剣に祈ることができません。すぐに、よそ事を考えてしまいます。
 昨日、ある本を読んでいたら、「主の祈りを雑念なく唱えることができたら、私の馬をあげよう」という話があり、「天にまします 我らの神よ・・・」と祈ったところで、「すみません。その馬には鞍がついていますか?」と質問した、という小話がありました。案外、そんなものです。私も祈りながら、「今日の昼は何を食べよう」と考えたりします。やはり、そこには、強い悪魔の挑戦と、霊的戦いがあるのです。なぜならば、主の祈りには、
『御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。』
という、重要な祈りを含んでいるからです。
 私たちの人生が、決して自分の思いが天になるのではなく、天の思いが自分の思いになり、天で行われることが、自分を通して地に行われなければならないのです。自分の計画ではなく、神の計画がなりますように、という一言に尽きるのです。
 そのように生きるのはたいへん難しいですが、ぜひ、意識して、自分の名前のためではなく、イエスさまの名前のために生きましょう。
 「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように・・・・その為に、私を使ってください」
 神を中心として生きるときに、バラムの道ではなく、祝福の道を歩むことができるのです。
 今週バラムの道に注意してください。偶像礼拝や、不品行から守られますように、また神の思いを突っ切って歩むことがないように、常に、みこころの中心をつかんで歩むことができるよう、祈りましょう。


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