心配ご無用

2003.11.9(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

旧約聖書 詩篇55章22節
あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。

 ハレルヤ!御言葉を取り次ぐことができて感謝します。永遠のベストセラーであり、人間の生きるマニュアルである聖書から学んでいきます。
 これは聖書の話しとは違いますが、二匹の蛇が散歩に出掛けたそうです。すると一匹が、「俺たちには毒があるんだよな?」と聞きました。するともう一匹が、「当たり前じゃないか。俺たちは毒蛇だから、毒があるのに決まっている。」と答えまた。
 しばらくして、先ほどの蛇が再び訪ねました。「ね〜、俺たちには毒があるんだよな。」「当たり前じゃないか。俺たちは、世界最強の毒をもった毒蛇じゃあないか。・・・でも、何でそんなこと聞くんだ?」
 するともう一方の蛇が答えました。「さっき、舌を噛んでしまったから・・・」
 誰にでも心配事があります。心配事は人生にはつきものです。しかし今日は、素晴らしい聖書の言葉を学びます。
『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。』
 何か重荷や心配事があったら、イエス様に委ねてください。イエス様は神様ですから、神があなたの事を心配してくださるのです。大きな励ましを与える言葉です。今日初めて教会に来られた方も、この言葉を信じてください。イエス様に信頼したら、イエス様があなたの人生を支えてくださいます。
 かつて、アメリカは希望の国と呼ばれ、世界中から人々が集まりました。「あの国に行ったら幸せになれる・・」
 ある男が、アメリカに移民することになりました。それで、アメリカに着いたらどうしたら良いかを、ある人に訪ねました。すると、「アメリカの港に着いたら、まず、真っ先に駅に行って切符を買え。そして北に向え。そうしたら幸せを手に入れることができる。」と言われました。
 彼はその言葉を信じて港に着きました。彼は、言われた通り、すぐに駅を見つけて切符を買いました。そして、その切符を持って、まっしぐらに線路に沿って北に向かい、歩き始めました。しかしなかなか、幸せのある町には着きませんでした。
 イエス様を信じたら、永遠のいのちの切符がもらえます。しかし、切符を手に入れても、電車に乗るという方法を知らなければ、目的地には着かないのです。同様に、聖書の御言葉は、信じて実行しなければなりません。御言葉を信じ、実行するならば人生が変わります。聖書は、「あなたの重荷を委ねてください。主があなたのことを心配してくださる」と教えています。
 「心配してくださる」と訳されていますが、この訳はあまり良い訳ではありません。「心配する」とは、問題の周りで、おろおろしているイメージがあるからです。時々、お母さんは子どもたちのことを心配します。
 先日もある方から電話があり、「息子がバイクで遠くに行きます。心配なので祈ってください」と言われ、お祈りさせていただきましたが、お母さんにとってはたいへん心配だと思います。「あなたの重荷を主に委ねよ。主があなたのことを心配してくださる。」の「心配」は、英語の聖書では、「支える」と訳しています。
 詩篇は旧約聖書にあり、旧約聖書はヘブライ語で書かれています。ヘブライ語の「心配する」には、もっと広い意味があります。そこには、「支える、養う、育てる、備える、背負う、阻止する、守る、擁護する」という、一般生活に適応する意味があります。
 あなたの重荷をイエス様にお任せしたら、あなたの重荷を背負ってくださり、あらゆる敵から守り、阻止してくださり、擁護し、養い、育て、支えてくださるのです。重荷があったら、全部イエス様にお任せして下さい。
 英語では、“Cast your burden on the Lord”となっています。“cast”には「投げる」という意味があります。
 さて、今日は選挙ですが、皆さんはすでに投票に行かれましたか?クリスチャンは社会的責任を果たさなければなりません。私は今朝、祈って投票をしましたが、日本の政治も、世界も、これからどうなっていくのか心配です。
 ちかごろ、「丸投げ」という言葉をよく耳にします。小泉さんは問題を官僚に丸投げにし、仕事をしていないなどと批判されていますが、イエス様には「丸投げ」で良いのです。「イエス様、全部よろしく!」と、丸投げでお願いしたら良いのです。今日はイエス様に、問題の全てを丸投げし、お任せしてみてください。イエス様があなたのことを心配してくださいます。
 同時に聖書は、「重荷を任せる具体的な方法」についても教えています。マタイの福音書六章三十三節から三十四節に、

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』

と記されています。誰でも明日のことは心配です。しかしここには、明日を心配しない方法について書かれています。
『神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます』
この御言葉は賛美歌にもなっています。
神の国と神の義を まず求めなさい
そうすれば みな与えられる
ハレル ハレルヤ
 明日のことが「心配ご無用」になるためには、「神の国とその義をまず第一に求める」そうすれば、「心配無用」になると教えています。これは、私たちの生活の中心に、イエス様を据えるということです。
 さて、皆さんの思いの中心は何でしょうか。教会に来た時にはイエス様のことを考えるかも知れませんが、一週間、何が心の中心にあるでしょうか。
 ある人はガールフレンド、ボーイフレンド、お金について、いつも考えているかも知れません。死ぬ前のうわごとは、その人が常に考えていたことが出るようです。気をつけなければならないと思います。人生の思いの中心が、イエス様でありたいです。イエス様のことをいつも考えていると、イエス様も、あなたのことを心配してくださいます。信仰生活は、イエス様と相思相愛の関係です。人間も、愛してもらっていると愛します。同様に、私たちがイエス様を慕わしく愛していると、イエス様も心配してくださいます。教会に来ると、一度も見たこともない、イエス様を愛するようになり、イエス様のことを考えるようになります。そうすると、神の国が人生に現わされます。
 イエス様を信じていたら、やがて天国に入ることができます。天国は素晴らしい所です。そこには悪いものは何もなく、苦しみも病もありません。また、泥棒もいないし、悪霊は一匹もいません。
 しかしそこは、死んでから行くだけに止まりません。私たちが生きているただ中に、神の国が現されるのです。そして、そこには、悪いものがないので、結局、明日のための心配がなくなるのです。
 思いの中心をイエス様にすることは、重荷を主に委ねることです。今週、自分の思いを点検し、常に軌道修正して歩んでください。
 教会に来ると色々な奇跡を体験できます。最近、この教会に奇跡が多く起こっています。なぜ奇跡が起こるのでしょうか。それは、今までイエス様のことを考えていなかった人たちが、イエス様のことを考えるようになり、神の国が訪れるからです。神の国には病気もないので、病気が癒されるのです。
 家内のいとこが近頃、イエス様を信じ、名古屋ミッション後にあったはずの腫瘍がなくなっていました。その事については、先日すでに、お話しさせていただきました。
 実は、八月に家内と旅行に行ったとき、家内が「今朝はすごい夢を見た」と言いました。それは、いとこが検査室から、「腫瘍がなくなった」と言いながら出てきて、抱き合って喜んだという夢だったそうです。
 私は、それを聞いて、「そんなことがあったら良いなあ」と思っていましたが、本当に、夢の通りになりました。なぜなら、いとこは偶像を全て捨て、「イエス様。あなたしか助け主はいません。私を助けてください」と祈ったからです。
 しかし医者は病気を疑うのが仕事です。結果を聞きに行くと、「今回は、見つけることができませんでした」と言われました。それで、もっと詳しい検査をする事になりました。名古屋に二〜三ミリのガンもすべて見つける最新鋭の機械があるそうです。その機械で検査することになりました。
 私は、「ガンが見つかったらどうしよう・・。すでにいやされたと証してしまったし・・」と弁解することを考えていました。その検査するのには、十万円かかるそうです。
 しかし、最新鋭の機械で検査した結果、何の異常もなかったのです。イエス様は癒し主です。神の国が人に訪れるときに、癒しと解放が起こります。
 神の国に生きるには、「神の国とその義を第一に求めること」です。それは、「イエス様のことを考え、イエス様の教えを心にとどめること」です。そうすれば、知らないうちに神の国が訪れ、悩みや苦しみがなくなります。
 最近、新城教会に多くの方が来てくださっています。これは神による回復であり、教会に神の国が訪れた結果です。神の国が訪れると、最悪であったことが、最高に変えられます。神様は、最悪の種から、最高の結果を創造してくださいます。
 今から二年半ほど前、教会の留守電話に伝言が入っていました。それで私はその方に何回か連絡しましたが、なかなか出てくれませんでした。その人は閉じこもって、あまり人と会わないような生活をしていました。それで、「教会に来て祈ったら良くなりますよ」と話しましたが、なかなか来ませんでした。でも、何回か連絡をとっているうちに、やっと教会に来られました。彼女は教会に来ても、なかなか中に入って来ませんでした。しかし、何回か来るうちに、教会に入れるようになり祈ることができ、やがて、解放されました。
 すると、その人を中心に、その人の関係者が教会に多く導かれてきました。先日、数えてみると、現在三十名近くが来られるようになりました。いまその人は、とても元気です。神の国と神の義を第一に求めると、私たちの中に神の国が現されます。明日の心配は無用です。
 「明日は、明日が心配する」と記されていますが、「明日」とは何でしょうか。明日とは、神様のことです。人間には、明日があるようですが、ないのかも知れません。明日を確実に持っている方は、神様しかありません。神の国と義を求めると、神があなたの明日を作ってくださるのです。ですから、クリスチャンには明日があります。明日とは十一月十日ではなく、明日は「神の日」です。一日一日を神の日として、生きてください。そうすれば幸せに生きることができます。
 十一月七日は私の結婚記念日でした。今年で結婚して二十七年が経ちました。家内が私に「今日がどういう日か知ってる?」と聞きました。一瞬、考えてしまいましたが・・。
 「よく、ここまでやって来れた・・」と思い、主に感謝しました。イエス様が一緒におられなければ、夫婦には難しいことが多くあります。イエス様が共におられたら、夫婦に神の国が訪れるので、結婚が祝福されます。なぜならば、明日を支配している神が、私たちのただ中におられるからです。
 「心配」という言葉は、ギリシア的世界観から見ると、「パートに分ける」という意味があります。私には一つの趣味があり、機械を分解するのが好きです。コンピューターや機械をバラバラにするのが好きです。私は理工学部出身ですので、科学的なことが好きです。しかしバラバラにすると、後から回復が難しいときがあります。よく家内に、「あんたバラバラにするのは良いけど、元通りにしておいてよ。」と言われます。元通りにしたつもりでも、一個ネジが残る時があります。それで、使い物にならなくなった物が多くあります。
 心配とは、一つの物事をバラバラにすることにあるのかも知れません。お腹が痛い時に、ただお腹が痛いだけで終われば良いのですが、「もしかしたら、ガンかも知れない」と思います。やがて、「そうだ。ガンに違いない」と考えます。また次の日になると、「そういえば、腸も痛かった・・。腸もガンかも知れない」と考えます。「前には頭痛もあった。そうだ、脳腫瘍に違いない・・・」と、どんどん心配事が広がっていきます。
 昔、この教会に来られていた、ひとりのおじいちゃんがいました。私は彼の家をよく訪問しました。毎日、こたつの同じ位置に、はんてんを着て座っていました。テーブルの上に聖書が置いてあるかと思えば、いつも「家庭の医学」がおいてありました。おじいちゃんは、それを見て、毎日一喜一憂していました。「おじいちゃん、大丈夫だよ。そんな病気ではないから」と励ましますが、「私の症状は、ここに書いてある病気にぴったりだ!」というのです。そう言いながらも、彼は八十数才まで生きて、天に帰りました。心配しないでいたら、もっと楽しく生活できたと思います。心配事があっても、分解せず、イエス様に丸投げして助けを求めたら良いのです。詩篇六十八篇十九節に、
『ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。』

と記されています。イエス様は日々、私たちの重荷を担ってくださるお方です。神は、私たちの人生を見て、「もうちょっと頑張れ・・」と言うのではなく、「日々」私たちの重荷を担ってくださるのです。素晴らしい愛に感謝しましょう。
 今週も、「日々」、「瞬間瞬間」イエス様は、あなたの重荷を担ってくださいます。ですから、心配しないでください。
 「日々」というのは、「日、時、年、生涯、時間、期間、今日、明日」という、すべての領域を含んでいます。
 聖書を読むと、大変な人生を歩んだ人々について、多くのレポートがあります。そして、私たちは、そこからいろいろと学ぶことができます。日々のストレスが最も多かったと思われる人物は「モーセ」です。モーセは、エジプトに奴隷となっていたイスラエルを、一人で解放しました。もちろん神がついていましたが、一人でエジプトの王パロと交渉し、ユダヤ人全員を解放しました。その後、モーセは、徒歩で歩ける人だけで六十万人と共に、荒野を渡り、カナンの地まで、それも四十年ほどかかって帰ってきたのです。
 今日の午後は、モーセの生涯をアニメ化した、「プリンス・オブ・エジプト」を上映します。ぜひ、ご覧になって下さい。
 モーセにはすごいストレスがあったと思います。始めは気が張っていたので、多くの仕事をこなすことが出来ました。
 しかしある時、舅のイテロがモーセを訪問しました。そしてモーセの仕事ぶりを見て、「モーセ。その仕事を一人でやっていたら、やがてつぶれちゃうよ。私の忠告を聞きなさい。百人、五十人とグループを作って、長を割り当て、どうにもならない問題だけが来るように、組織を作ったら。」と忠告しました。モーセはイテロの忠告を聞いて、事なきを得たのです。
 悩みや重荷がなくなる方法として、神は「忠告を聞く」という方法を用意されています。忠告を聞くことは大切なことです。箴言十二章十五節に、
『愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。』
と記されています。忠告を聞いて物事を決めるべきです。特に、結婚されている方々は、夫婦間で互いの忠告を聞くことが大切です。私も、妻の忠告を聞くようにしています。時には厳しい忠告もあります。それを突っ切ると、あまり良い結果にはなりません。忠告は愛があっての忠告です。時々「どうして?」と思うこともありますが、その時には、へりくだって聞かなければなりません。
 私が毎週語るメッセージについても、「あの話は、新しい人にはわからないよ・・・」と忠告されます。私は、「そんなことはないよ・・・」と言いますが、最終的にはその忠告を受け入れて話すと、うまくいきます。色々な忠告があってこそ、人生はうまくいきます。ベターハーフとはよく言ったものです。
 また、友だち同士で忠告し合うことも大切です。忠告によって、重荷がなくなっていきます。モーセも忠告を聞いたことにより、うまくいきました。
 しかし、それから二年後、イテロの忠告に従って組織は作ったものの、モーセはどうにもならない状況に追い込まれていました。それは、エジプトから出てきた人たちが、文句を言い出したからです。彼らには、神から与えられた食物、「マナ」がありました。しかし、その食べ物に飽きて、「肉が食べたい、魚が食べたい、にんにくが食べたい・・」と文句を言い出したからです。特に、ユダヤ人と一緒についてきた、外国人たちが文句を言いました。
 肉が食べたいと文句を言ったのがブラジル人、魚が食べたいと言って文句をつけたのが日本人、にんにくが食べたいと言ったは韓国人かも知れません。(もちろん、冗談です)お国柄で、食べ物の好みが違いますので、それぞれ文句を言ったのだと思います。私もイスラエルのモーセが歩いた荒野を見た時、「文句が出てもおかしくない」と思いました。
 六十万人に文句を言われ、モーセはすべてのものを放り投げてしまいたいような心境に陥った事でしょう。民数記十一章十一節に、

『モーセは主に申し上げた。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。なぜ、私はあなたのご厚意をいただけないのでしょう。なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう。』
と記されています。その時に神が一つの答えをモーセに与えられました。

『わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう。』

 神が降りてきて、モーセに与えられていた、神の霊を皆に置きました。これは「聖霊の注ぎ」を意味します。
 クリスチャン生活で大切なことは、「聖霊に満たされる」ことです。家族全員が聖霊に満たされたら、重荷がなくなります。教会も、教会に来られている全員が神の霊に満たされたら、重荷がなくなります。心配事がなくなるためには、究極的には、「神の霊に満たされる」ことです。神の霊に満たされると、重荷が打ち砕かれます。「聖霊の油注ぎはくびきを砕く」と記されています。聖霊に満たされるならば、重荷がなくなります。主に重荷を委ねることは、聖霊に満たされることです。聖霊に満たされることを求めてください。
 神様には三つのご人格があります。それは「父、子、聖霊」です。そして、聖霊様は「助け主」です。だから、私たちを助けてくださるのです。
 私も、聖霊様に触れていただいてから、重荷がなくなりました。なぜならば、聖霊様が私を支えてくださっているからです。私はたいへん寝付きが良いです。「眠れない」という方は、聖霊様を求めて下さい。そうしたら眠れるようになります。聖霊に満たされると、重荷がなくなるのです。
 重荷を取り去るという約束の言葉は、マタイの十一章二十八節から十九節に記されています。
『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。』

 この言葉は、単体でよく知られており、前後関係があまり重視されていません。しかし聖書は、文脈をよく知って理解しなければなりません。この御言葉が語られた状況を知る必要があります。それは、「マタイ十一章」とともに「ルカ十章」を見てください。聖書は互いに補完しながら成り立っています。この言葉が語られた状況は、ルカの十章を見るとよくわかります。七十人の弟子たちが、「あなたの御名を使うならば、悪霊どもも服従します」と喜んで帰ってきた時に、イエス様が語られた言葉です。
 これは、霊的戦いを知るときに、勝利を得ることができると教えています。霊的な戦いの重荷を持っている人は、わたしのところに来なさい。そうしたら、悪魔の力が打ち破られて、あなたは重荷から解放されると教えているのです。霊的戦いを知るときに重荷がなくなるのです。
 イスラエルはエジプトから出てきたとき、文句ばかり言っていました。それは、彼らが解放された真の意味を知らなかったからです。それがただ単に、エジプトの王、パロの圧制から解放されたという理解に止まっていたからです。
 彼らがエジプトから解放されたのは、どのような意味があったのでしょうか。民数記三十三章四節に、
『エジプトは、彼らの間で主が打ち殺されたすべての初子を埋葬していた。主は彼らの神々にさばきを下された。』

と記されています。エジプトからの解放は「エジプトの神々、すなわち、悪霊からの解放」でした。イスラエルがエジプトから解放されたのは、実は、霊的解放であり、霊的勝利であったことを知りませんでした。だから文句ばかり言いました。
 彼らは問題を、ただ単に、目に見える領域の問題としてしか、扱いませんでした。しかしそれらは、「霊的戦い」でした。
 私たちの人生に起こってくる問題は、すべて霊的戦いです。それがわかっていないと、人生には、重荷ばかりです。イエス様を信じると、悩みや苦しみを与える悪魔の力を打ち破ることができるようになります。だからイエス様は、「荷は軽い」と言われるのです。
 問題の背後に霊的戦いがあることを知ってください。イエス様は地上に来られたとき、霊的戦いに勝利されたのです。私たちもイエス様と同じように、問題に打ち勝つことができます。このことを、ルカ十章とマタイ十一章で教えています。
 霊的な戦いに気づくときに、私たちの重荷がなくなります。あなたの重荷を主に委ねてください。主はあなたを心配してくださいます。主は、あなたが決して揺らぐことがないように、支えてくださいます。お祈りします。


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