源(みなもと)

2003.11.16(SUN)
新城教会 上條 実牧師

旧約聖書 列王記第二 2章19節〜22節
この町の人々がエリシャに言った。「あなたさまもご覧のとおり、この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産が多いのです。」すると、エリシャは言った。「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」人々は彼のところにそれを持って来た。エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう仰せられる。『わたしはこの水をいやした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」こうして、水は良くなり、今日に至っている。エリシャが言ったことばのとおりである。

 ハレルヤ!いつも皆様のお祈りを心から感謝します。名古屋ミッション直前の九月十五日月曜日の午後一時から、祈祷会をしました。その祈祷会の司会を私が担当し、名古屋リバイバルミッションの直前でもありましたので、祝福があるように真剣に祈っていました。
自分も真剣に祈っていた時、講壇の代わりにしていた譜面台に手を強く打ちつけてしまいました。そのとき右手の中指を切ってしまいました。痛いと思った時、血があふれ出したため、指をハンカチで止血をしながらその時を過ごしました。すぐに傷口がふさぐと思い、簡単な処置をしてその日は終わりました。しかし次の日になって良くなるどころか、腫れてきましたので、何か異常があってはいけないと思い、病院に行きました。検査の結果、骨には異常はありませんでしたが、傷が深く、腱が切れてしまっている、ということで処置を受けました。ギブスをはめたり大変な忍耐でした。それから約二ヶ月が経ち、だいぶ良くなり、指が曲がるようになったことを感謝します。皆さんのお祈りを心から感謝いたします。
 昨日は子ども達と共に楽しい祈祷会をさせていただきました。それは今度行われる、子どもクリスマス会が祝福されるように、「一日とりなし祈祷会」をしました。午前九時半から、教会で祈ったり、その後学校などにも出掛けて行き、子どもクリスマス会のために真剣に祈る事が出来ました。そして午後二時からは、ご褒美として岡本キヨ姉の親戚の方が経営されているみかん畑に連れて行って、みかん狩りをしました。楽しく祈祷会を行うことができました。
 さて今日は「源(みなもと)」というタイトルで学びます。先ほど読みました聖書の箇所は、預言者エリシャの記事です。エリシャはエリヤの二倍の力を受けました。その後エリコに行きました。そのエリコで起こった出来事です。エリコの人々がエリシャの所に集まってきて、「この町は住みやすいが水が悪いために流産が多いので何とかしてください」と訴えています。その時にエリシャは二十節に、
『すると、エリシャは言った。「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」人々は彼のところにそれを持って来た。エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう仰せられる。『わたしはこの水をいやした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」』
と記されています。不思議なことをしました。エリシャは塩を新しい皿に盛ってこさせ、水の源に投げつけました。二十二節に、
『ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」こうして、水は良くなり、今日に至っている。エリシャが言ったことばのとおりである。』
と記されています。エリシャは神の力によって奇跡を行いました。私はこの御言葉を読んで神様からのチャレンジを頂きました。私たちはイエス・キリストあって救われ、素晴らしい祝福をいただいています。また祈ったら必ず答えられると聖書に記されているのでそれを信じています。私たちは主からの祈りの答えていただくことができます。しかし正直、私も皆さんも体験していると思いますが、祈って、神様から答えを頂いていると思っても、答えられたと思っても知らないうちに、もとに引き戻されてしまっている。答えられていない。「流産」と書かれているように、子どもができたと、喜んだのも束の間、流産してしまう。答えられないことがたくさんあります。信じて祈っているが、答えられない。ある時は、祈ったのに現状よりもっと悪い事態になってしまう時があります。どうしてだろう?何でだろう?と考えてしまいます。自分はまだ信仰が足りないのだろうかとか、もっと時間をかけて祈らなければならないだろうか?と思います。聖書には断食の祈り、徹夜の祈り、早天の祈りと書かれていますので、私たちはどうしても答えていただきたい問題に対してそのように沢山、必死に祈らなくてはいけないのではないかと考えます。しかし現実聖書では、祈った祈りは必ず答えてくださるという約束。しかし現実はどうしてこうなってしまうのだろうかと思っていました。そんな中で今回、この御言葉をいただきました。エリシャが流産の多いエリコという町で、水の源に塩を投げ込み、水が全く生ける川に変えられて、流産がなくなったのです。今日祈りが答えられず、なにか祈りの答えが流産して、悪魔に持って行かれてしまっていると、意識しなければいけないと教えられました。私たちは毎日の生活の「支流」というか「枝葉」に関して、目をとめているが、「源流」を、神様に触れて頂く必要があると思います。「源」を今日変えていただきたいと思います。
 もしここで火事が起こったとします。煙も充満した時、あなただったらどうしますか?煙が充満して、視界が見えないので、窓を開け、煙を外に出したら、もうそれで良しと思いますか?それで終わってしまったら火がまわって会堂は全焼してしまい、使うことが出来ません。煙があると言うことは、必ず火がどこかで燃えているのです。早く消す事が必要です。火を消す。新しく作り替えて頂く必要があります。Uコリント五章十七節に
『 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』
とあります。私たちは神様を信じたときに全く新しくなります。新しくなったということは、すべての罪も問題もすべてが新しくなる。赦される。いやされる。解放されるのです。今までは苦労や、傷、悲しみがあり、耐えることができないことが沢山あったとしても、イエス・キリストを信じたら、古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。と、みことばにあるように、必ず新しくなり、すべてが良くなるというのが御言葉です。
しかしそれを知りながら、まだ新しい川が流れていないのです。ヨハネの福音書七章三十八節に、
『わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」』
と記されています。心の奥底は源のことです。私たちの心の奥底から私たちにいける水が流れるのです。エゼキエル書四十七章九節から十二節に、
『この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。』
と記されています。イエス様を信じると新しい川が心の奥底から流れてきます。私たちの祈りは川のほとりに植わった木のように実が生り、葉は茂り、最高の状態で育つとの約束です。しかし、まだ現状はみことば通り良くならないのです。四十七章十一節には、
『しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。』
と記されています。良くなるどころか、多くの人を傷つけ、汚し、トラブルを与えてしまっています。今日どうにかして源に触れていただき、全てが生きる祝福を頂きたいものです。
 源という言葉を辞書で調べると、
@川の水の流れる元。水源。A物事の起こり始まる元。起源。根源。
とありました。「源」を変えて頂きましょう。今日なぜ自分が祝福をいただくことができないか?考えなくてはいけません。私たちの源は何でしょうか。聖書に書かれている一番の中心は何でしょうか。それは「イエス様の十字架」です。私たちクリスチャンの源は十字架です。イエス様の十字架こそ、私たちが救われる源です。私たちの源は「十字架」です。今日あなたは十字架を信じているでしょうか?信じていると思います。信じているなら、私たちの罪ら赦され、私たちは永遠の命を持つことが出来ます。第一ヨハネ一章九節から十節に、
『もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。』
と記されています。「私たちが自分の罪を言い表すなら」と書かれています。今日十字架の意味をもっと深く知ってください。イエスキリストはあなたの罪のために十字架にかかり、葬られ、三日目に甦ってくださいました。確かにイエス様には力があり、勝利と奇跡、癒しを与えてくださる神様であると知っています。また問題を解決してくださる方であると言うことは素晴らしいことです。しかし一番素晴らしいことはイエス・キリストがあなたのすべての罪を赦してくださるということです。しかし一度赦された私たちが、再度罪を行ってしまう時があります。あなたのすべての罪を赦してくださいますが、「自分の罪を言い表すなら」と書かれています。
 今日皆さんにお語りしたい第一番目の源に触れることは、神様に告白することの出来ない、あけわたすことの出来ない罪を握りしめているならば、罪の源流に十字架の血潮を投げ込むことです。すべての罪はあなたが言い表すならば赦されると書かれています。今日自分の心を源を探ってみてください。罪を持ったままであると「流産してしまうのです。」源に十字架を受け入れてください。罪を告白してください。求める祈りは簡単にできますが、悔い改めることはなかなか難しく、苦しいことがあります。しかし十字架の血潮を源に投げ込んで頂きましょう。今日神様からの聖さをしっかりと握りましょう。昨日子どもたちと一緒に祈祷会をしました。その時真剣に祈ろうとした時、ある二人が喧嘩をして泣き出しました。私は二人に「お互いに謝りなさい」と言って、二人はすぐに祈ることができました。子どもはすぐに謝ることができます。しかし私たちは、ある人から言われたこと、やられたことに対して、すぐに赦すことができません。マタイ七章一節から五節に、
『さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。』
と記されています。私たちは人のことに対してはすぐに気がつきます。そしてなかなか赦すことができません。人のことは小さいことまで気がつきますが、自分の大きな罪は気づかないのです。悪魔はそのところに働いてきます。今日覚えてください。あなたの目に大きな梁が入っているというのです。命取りになるようなものが、あなたの目にものが入っていると教えています。第一ヨハネ一章九節に、
『もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』
と記されています。私たちは人を赦すことができない時があります。あなたの祈りが答えられるため、その人を赦し、あなたの罪を悔い改めることです。そしてその人を祝福して祈ることです。相手が絶対に悪い。こちらは正しいと言うときでも覚えてください。イエス・キリストは私を攻めずに、愛をもって全部赦してくださいました。そのイエス・キリストに習って、私たちは全てを赦しますと祈っていきたいと思います。私たちの目に大きな梁が入っていると読みました。それを取るには大きな痛みが伴う時があります。しかし今日「源」に触れていただきましょう。イエス様にすべての罪を赦していただき、口で告白して救われるとありますから、その方を赦しますと本気で祈り、愛し始めてください。その方のために祝福を祈り始めてください。霊的戦いを私たちは必要としています。まず憎しみに働く暗闇の力が打ち砕かれるように祈りましょう。戦いの祈りの前に、自分を点検しましょう。あなたは、その人の顔が頭に浮かんだだけで、憎くて仕方がない。赦せないと言う人がいるかも知れませんが、神の前に、赦しの祈りをささげていきたいと思います。「受けるよりも与える方が幸いである」というみことばがありますが、与えたときに大きな祝福が帰ってくることを覚えてください。また私たちの中に他の罪が隠れているならば、その罪を悔い改めましょう。神の前に心を開き、源まで十字架の血潮を注いで頂きましょう。そうしたら水が変わります。生きた川が流れ出て、多くの実を結びます。祈りが答えられるのです。
 そして二番目に触れて頂きたいことは、「心の傷」です。心の傷もイエス様によって触れて頂きましょう。ここだけは触れないでください。私はこの扉だけは開けたくありませんと、ある領域に蓋をしてしまっています。毎日喜びを持って生活していきたいと思い、祈りますがいつも悩みや心配が満ちている方がいるかも知れません。神様は心の傷を全部明け渡しなさいと語られています。イザヤ書五十三章四節から五節に、
『まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』
と記されています。「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」とあります。体の病いの癒しと同時に、今まで傷ついて苦しんでいる方、その部分にも触れてもらいましょう。そこに触れられると痛くて痛くてたまらない。そこに触れて欲しくない、歯の痛いところにアイスキャンディーが触れるとしみるのと同じようなものです。人を傷つけてしまった。傷つけられた等悩み、祈れなくさせるのです。主の勝利を見えなくさせてしまいます。ペテロ第一の手紙二章二十四節に、
『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』
と記されています。打ち傷のゆえに私たちは癒されるのです。今日まず先に救われたクリスチャンの源が癒されるなら、必ず今度は大きな収穫ができることを覚えてください。黙示録三章二十節に、
『見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。』
と記されてます。あなたが今もっている罪、あなたがもっている心の傷について、イエス様が心の扉をノックしています。あなたが源である十字架の血潮によって、すべての罪が赦され、十字架の傷によって癒されるとあります。あなたが触れたくない、触れられたくないところにイエス様を歓迎して、迎え入れてください。心の扉をイエス様がノックしています。開けてください。「源」をイエス様に触れてもらいましょう。祈りが答えられない理由、「流産」して流れてしまう。そうすると悪魔は私たちの心に「お前は駄目だ。お前が弱いからだ。いやあの人のせいだ・・・」などと色々なことを悪魔が囁いてきます。今日もう一度あなたの心の中に十字架を覚えてください。イエス・キリストの流された十字架の血潮によってすべての罪が赦されます。誰が何と言おうと、私たちはイエス様の血潮によってすべての罪が赦されるです。また打ち傷によってすべてが癒されます。源を触れてもらいましょう。今まで開けなかった部分に「イエス様、触れてください。」とお祈りしてください。多くの実を結び祝福をいただくことができます。私たちは永遠を見つめていきましょう。あなたの罪のために十字架にかかり、葬られ、三日目によみがえってくださいました。これは私たちを永遠の御国・天国に入れてくださるための素晴らしい祝福です。
 この教会も悲しいことがありました。先日も尾崎千恵子姉が突然亡くなり、父の日の礼拝に出席して次の日岡本政次兄が亡くなられました。私たちはいつどのようになるかわかりません。いつどんなときでも、「源」である永遠に目を留めましょう。痛いから後回しにしよう。とか明日になどと考えないで、今日触れていただきましょう。今日十字架を仰ぎ、源である十字架を私たちの心の真ん中に置き、心の奥底まで十字架を差し込んで動くことがないように、信じていきましょう。「イエス様、私の罪を赦してください。この傷をいやしてください。」とあなたが第一歩を祈りはじめてください。あなたのために十字架にかかられ、血を流してくださったイエスキリストは赦し、癒してくださいます。エリシャが水の源に塩を投げました。今日クリスチャンの源である十字架を私たちの心に信じましょう。十字架が源です。イエス様はあなたを癒し、赦してくださいます。そして多くの実を結び、多くの流れを流すことができるという約束です。源を変えて頂き、多くの実を結び、生ける水が流れていくことを信じていきましょう。お祈りします。


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