神に会う備えをせよ

2003.11.23(SUN)
新城教会 滝元 明牧師

旧約聖書 アモス書 4章12節
それゆえ、イスラエルよ、わたしはあなたにこうしよう。わたしはあなたにこのことをするから、イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ。

 ハレルヤ!今日、このようにして、御言葉を学ぶことができ感謝します。アモスという人は、羊飼いでした。神が預言者として選び、ウジヤ王の時代に活躍した人です。
『それゆえ、イスラエルよ、わたしはあなたにこうしよう。わたしはあなたにこのことをするから、イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ。』
と記されています。尾山令仁先生の現代訳を見るとわかりやすいです。
『「それで、わたしはイスラエルにこうしよう。わたしはあなたを裁く。だから、あなたの神に会う備えをしなさい。」』
 イスラエルが罪を犯したので、神は何回となく疫病や戦争、飢饉を送り悔い改めに導こうとしました。しかし、なかなか悔い改めないので、神はさばきのメッセージを送りました。私たちはいつの日にか、神の前に出る時が来ると聖書は教えています。だから神に会う備えをするようにと教えています。
 今年は、この教会にとって、ある意味で、悲しいことがありました。六月十六日に、岡本正次兄が突然気分が悪くなられ、その日のうちに天に帰られました。前日には、礼拝に来ていましたが、次の日には召されました。八十六才でした。いつも決まって、前の席におられたので、とても寂しく思います。
 また十月三十一日には、尾崎千恵子姉が亡くなられました。自分の兄弟たちと共に食事をしたりして楽しみ、午後三時頃、皆と別れて夕方六時頃に突然召されました。
 しかし、クリスチャンには、望みがあります。岡本兄も、尾崎姉も召されて今天国にいます。これは素晴らしいことです。もし私たちに天国がなければ、永遠に別れなければなりませんが、また、再会できることは素晴らしいです。私たちも、自分自身のことはわかりません。おそらく、岡本兄もその前の日曜日にここに来た時は、まさか明日、自分が天国に行くとはわからなかったと思います。尾崎姉も、前の週には礼拝に来られていました。私たちも、いつのことかわりませんが、誰かのことではなく、神の前に出るときが来ます。だから、いつイエス様が召してくださっても、喜んで神の前に出ることができるように、神に会う備えをするべきです。
 特に今の時代は、イエス様の再臨が近いです。いつかわかりませんが、その日が来ます。イスラエル民族が、四百三十年間奴隷生活をしました。聖書には、このことについてイスラエルは「四百年間」奴隷となり、解放されると書かれていますが、結局は「四百三十年」後に解放されました。だから、イエス様が来られるのは三十年延びるか、百年延びるか、千年延びるのかわかりません。しかし確かに、イエス様が来られます。マタイの福音書二十四章四十四節に、
『だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。』
と記されています。いつイエス様が再臨されるかわかりませんが、思いがけない時に来るので、あなたがたはいつでも神に会う準備をしなさいというのです。ルカの福音書二十一章三十六節に、
『しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」』
と記されています。今日、もしもイエス様が来られたとしても、もし召されることがあっても、神の前に喜んで立つ準備をしておかなければなりません。「神に会う備えをしなさい」ということについて、人は一度死ぬことと、死後、神の前でさばきを受けることは決まっていると聖書は教えています。このことを信じても、信じなくても、人は一度は死にます。死んだ後に、神の前に出てそれぞれの行いに対して、神のさばきがあると教えてます。イエス様を信じたら罪は十字架で赦されて、天国に入ることができます。また、信じていなかったら「滅び」と書かれていますので、私たちはイエス様にお会いする準備をしなければなりません。
 神様にお会いするチャンスは、人生の中に何度かあると思います。最近、私の誕生日に、孫たちがビデオデッキを買ってくれました。それで、一九九三年の甲子園大会や、九八年の武道館での集会をビデオで見て恵まれています。私が甲子園で話したことの中に、「リバイバルを求めています。リバイバルとは何でしょう。それは神が訪れてくださる時です。だから今日、神は、あなたに触れてくださり、罪も赦され、病を癒されます」と説教していました。おそらく、甲子園に行かれた多くの方が、神にお会いしたと思います。人生の中で神に会う機会がありますが、私は間もなくリバイバルが来ると信じています。この教会に、また、日本にリバイバルが来ます。
 先日、名古屋で集会をした時に、キャロルさんという方が絵を見せてくださいました。彼女が、十年程前に幻を見ました。それは神様が天から聖霊の雨を降り注いで、日本にリバイバルをくださるという幻だったそうです。そして十年後、「見たことを絵に描きなさい」と語られ絵を描いたそうです。実は、その絵を、新城教会に持ってこられて、今、私の部屋に飾ってあります。
 また、アメリカである人が預言をし、「日本に大きなリバイバルが来る」と語りました。私には、幻も、預言もありません。しかし、私は御言葉を信じています。種を蒔いたら、収穫すると信じています。特に、今は、霊的戦いと、とりなしをしています。サタンの力が砕かれ、日本に突如として、大リバイバルが訪れ、神に人々がお会いするときが近づいていると信じます。
 今日は「新嘗祭」と言う日で、天皇が今年できた米を悪霊にささげるという、偶像の行事がある日です。
 日本を造られたのは誰でしょうか。天照ではありません。「はじめに神が天と地を創造した」とあります。神が造られました。太陽を造られたのも、日本を造られたのも、穀物を与えたのも神です。偶像礼拝は昔の神話です。私たちは、この日本が主の国であり、必ず、偉大なリバイバルを起こしてくださることを信じましょう。
 私たちの人生の中には、神にお会いするチャンスがあります。私は今日礼拝のためにお祈りしました。そして、創世記三十五章を読みました。ヤコブが、お兄さんから逃れておじさんのところに行き帰って来ました。彼はある時、神にお会いしました。ベテルという場所で寝ているときに、天からはしごが降りてきて、天の使いが上り下りしているのを見ました。その時彼は、「神様。もしあなたが私に食べ物を与え、着るものを与えてくださったら、私はここに祭壇を築き、十分の一をあなたにおささげします。」と祈りました。そして二十年後、彼が帰ったある日、神が彼に現れました。
『神はヤコブに仰せられた。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現われた神のために祭壇を築きなさい。」』
と語られました。そしてヤコブは自分と、自分の家族とに向かって、こう言いました。
『それでヤコブは自分の家族と、自分といっしょにいるすべての者とに言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。』
 神に会うためには、偶像を捨てることだと教えています。この教会に来られている方は偶像は持っていないと思います。偶像は悪霊に属するものです。ヤコブ自身が自分と共にいる者たちに、「異国のものを捨てよ」と言いました。ヤコブには、二人の兄弟がいました。妹のラケルは、お父さんから逃げる時にテラフィムという偶像をお父さんから盗み持っていきました。彼女はおそらく、どこかにその偶像を隠していました。
 クリスチャンでも、時々、偶像を隠しています。他のものは捨てたけど位牌だけは・・と言っていることがあります。「異国の神々を捨てなさい」と言われています。異国の神々を捨てるということについて、「身をきよめて着物を着替えなさい」と書かれています。神様にお会いするときに、偶像を捨て、きれいな着物を着て礼拝しなさいと言われます。
 礼拝を守ることは大切です。私は、自分の持っている一番良い物を着ます。そして靴を磨きます。神にお会いするのですから、きれいにするのです。ラケルはヨセフを産み、ベニヤミンを産んだ時に、お産がきつかったので死んだと書かれています。ある人は、ラケルは父の偶像を持っていたために、早死にしたと言われます。神に会うときに、偶像を捨て、きれいな着物を着て神の前に出ること、汚れを捨てて神の前に出ることです。
 間もなくリバイバルが来ますので、偶像を持っている方はすっきりと片づけてイエス様の前に出ることが大切です。イエス様がこの地上に来られる前に、バプテスマのヨハネという人が来て荒野で説教をしました。バプテスマのヨハネは、イスラエル人に悔い改めを叫びました。イザヤ書四十章三節から四節に、
『荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。』
と記されています。イエス様ご自身がこの地上に来られる前に、神に会う備えとして、バプテスマのヨハネを通して人々を悔い改めに導きました。
『 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。』
と記されています。私たちが神様にお会いするときに、すべての谷が埋め尽くされます。よく落ち込む人がいますが、その時は、「神が私を愛しておられる」と信じて立ち上がらなければなりません。たとえ悪いことがあっても、神はすべてのことを良くしてくださいます。だから、落ち込んだところを埋めなければなりません。
 また次に、「すべての山や丘は低くなる」と書かれていますが、高ぶりを捨てなければなりません。時々、人間は成功すると偉くなったように思います。イエス様がこの地上に来られた時には、神の栄光をすべて捨て、人間としてへりくだって馬小屋に生まれ、十字架の死に至るまで、己を捨ててへりくだられました。私たちも神様の前に、己を低くし、へりくだって神の前に出なければなりません。今日、神にお会いするために、高ぶりを捨てましょう。また、聖書には神にお会いした素晴らしい人々について書かれています。それは聖霊が降った時のことです。使徒の働き一章四節から五節に、
『彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」』
と記されています。イエス様が天に帰られる前に、弟子たちに「あなたがたは間もなく聖霊のバプテスマを受ける」と言われました。聖霊のバプテスマを受ける時は、神にお会いするときです。彼らは、イエス様が昇天されてから心を一つにして、祈っていました。それまでの彼らは、「誰が偉いか」と権力闘争をし、もめていました。しかしイエス様にお会いする前は、心を一つにして祈っていました。リバイバルが間もなく来ますので、クリスチャンは互いに心を一つにして、お祈りすることです。憎んでいる人も赦し、悪い人も祝福するべきです。へりくだってお祈りしなければなりません。
 一九九二年二月十三日に、県民の森で聖霊が降りました。しかし、このことを受け入れない方もいます。これは神が与えたことです。私たちは、イエス様にお会いする時に、その場所で祝福を受けなければなりません。
 中国の例えで、興味深い話があります。ある人が竜が好きで、竜の絵を描いていました。ある時、その人が竜の絵を描いていると、本物の竜が家の中に入ってきたそうです。「あなたは私が好きで、私をいつも書いてくれるので、一緒に住みましょう」と竜が言うと、彼は驚いて逃げ出しました。
 人々は「リバイバルを!」と求めていますが、本当にリバイバルが来て、皆が倒れたり、霊的戦いが始まると、「あれはごめんだ」という人もいます。しかし、私たちは神に会うために、「神様、どんな方法でも良いですから、私に会ってください。お願いします」と神に会う準備が必要です。
 聖書を見ると、最後にイエス様が再臨されることが書かれています。主が帰って来られる時に、全ての国民をさばく、その時に羊と山羊を分けるようにすると書かれています。羊は神様の子どもを象徴しており、従順に従います。しかし山羊は、いつも言うことを聞きません。マタイの福音書二十五章三十一節から四十一節に、
『人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。』
と記されています。神様に出会うとは、目の前に神がお立ちになられることもありますが、ここには、「わたしが空腹であったとき、私に食べるものを与えてくれた」と記されています。また、
『「わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」すると、すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
と記されています。劇的な、県民の森で聖霊が降ったというのも神に会う時ですが、また、ペンテコステの時のようなこともそうですが、ここには、神様にお会いする方法について教えています。
 「・・私が空腹であったとき、私に食べ物を与えてくれた」と書かれています。私たちが、「困った人、渇いた人、旅人、病気であった人のためにしたことはわたしにしたこと」と、イエス様が言われました。トルストイの書いた本に、「靴屋のマルチン」という本があります。その本はこの箇所を題材にしています。「明日あなたの家に、わたしが訪れるよ」と言われ、彼は靴を直しながら、イエス様が来られることを楽しみにしていました。それは雪の日でした。イエス様がいつ来られるだろうか、と待っていると、そこに貧しい女の人が来たので、家の中に入れて食べさせてあげました。それから旅人をもてなしたり、着物のない人に着せてあげたり・・・と親切にしました。
 夜になり彼は、「今日、主が来られると言われたけど、主は来られなかったなあ」と考えました。するとその夜、夢の中で「今日お前のところに行ったよ。」「貧しい格好をしていた女性、また年老いた人、着る物のない人などに良くしてくれたことは、わたしにしてくれたことだよ」と言うのです。
 私たちが主にお会いする方法は色々あります。
 東京に森本春子先生がおられます。彼女は、ホームレスの人々に食べ物を与えています。私は彼女を尊敬しています。つい最近、私のところに手紙が来ました。「これから寒くなり路上で寒さに凍えて、死んでしまう人がいるので、毛布でもあったらください」と書かれていました。教会は、そのような方々を助けます。
 この教会には、大学の先生や、医者や素晴らしい方がたくさんおられます。しかし精神的に弱い方々もおられます。私は、特別、彼らのために祈りが与えられます。時々、家庭が破壊されている方もいます。私たちはそのような方のために、心をかけなければなりません。優秀な方ばかりではなく、傷ついた人たちを助けることが大切です。貧しいとき、病んでいるとき、病気の人を訪問することは素晴らしいことです。クリスチャンであっても、なくても、困った人を助けること、裸の時に着せたとありますが、困っている人や旅人をもてなすことはイエス様にしたことなのです。その時、イエス様に出会っているのです。
 キリスト教の働きの中に、素晴らしいことをされた方がいます。浜松の聖霊病院を創立された長谷川保先生は偉い方です。結核患者に、一生懸命食べさせました。彼は天国で大きな報いをいただいていると思います。
 またハンセン病を持つ方々に手を差し伸べたのは、ほとんどがクリスチャンです。彼らは主にお会いした人たちです。毎日の生活の中で、弱い者いじめはよくありません。悲しんでいる人の友になることは、イエス様にお会いすることです。
 私も考えると嬉しいことがたくさんあります。今、とりなしを行っている望は、昔、家が貧乏だった時に、栄養失調になりました。すでに召された見城静江さんが、「私は望ちゃんのために、毎日牛乳をあげる」と言ってくださいました。やがて彼は、マラソンでも強くなるほど健康になりました。彼女は天国で報いを受けていると思います。神に会うとは、天国に行き、さばきの日に神の前に出ることができるように、また、再臨の日に主の前に出れるようにということだけではありません。毎日の生活の中で、高ぶりを捨ててへりくだり、偶像から離れて主にお会いすることができるように。
 今日午後からは賛美集会がありますが、賛美する時に主が訪れてくださいます。主にお会いするときです。互いに弱い人を顧みて助けましょう。愛のある生活をするときに素晴らしい祝福が訪れます。ホセア書の六章一節から三節に、
『「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」』
と記されています。
 間もなくリバイバルが来ます。主が来られます。喜んで主を迎えることができますように。主を喜んでいきましよう。


[バックナンバー]