健康でありますように!

2003.11.30(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

新約聖書 マルコの福音書 5章34節
そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

 ハレルヤ!今日皆さんと共に、礼拝を守ることができて感謝します。一年間は早いもので、明日からは十二月です。皆さんにとって、今年はどんな一年でしたか。それぞれに、神の目が注がれ、恵みが注がれた一年であったと信じます。
 マルコの福音書五章三十四節の御言葉から学びます。それは、十二年間婦人病で出血が止まらなかった女性が、イエス様に触れたときに癒されたのです。そしてこの御言葉は、その後、イエス様が癒された婦人に語られた言葉です。
『そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」』
 そして、この言葉が、癒された婦人だけでなく、私たちに対しても語られている言葉であると信じましょう。「病気にかからず、すこやかでいなさい」
 今日はこの言葉を受け取り、安心して帰ることができるように願います。
 先週は「神に会う備えをしなさい」という御言葉を聞きましたが、神は人生に時を与え、チャンスを与えてくださいます。ある意味で、礼拝は神の時であり、神があなたに与えてくださる、大きなチャンスです。この機会を生かし、チャンスをしっかりとつかまなければなりません。
 牧師は、礼拝メッセージに、何を語れば良いのかを真剣に祈ります。「主よ。何を語ったら良いですか。一番必要な言葉を語らせてください。」と祈ります。今週は「健康でありなさい」と主が語っておられると信じます。ですから、健康が回復されるチャンスです。「安心して帰ることができますように・・」。
 私事で申し訳ないのですが、私の息子が一昨年ベース・ギターを勉強するためにロサンゼルスに留学しました。そして今年、彼は、大きなチャンスをつかみました。ぜひ、覚えて祈っていただきたいのですが、それは、世界的に有名なロン・ブラウン・バンドのベーシストに起用されたからです。何を間違ったのか、または、ロンさんの大きな勇気をたたえたいのですが、ベーシストはバンドの要です。明日からコンサート・ツアーが始まりますので、ぜひ、祈ってください。親心では、ちょっと心配もあります。
 先日彼は、ロサンゼルスまで打ち合わせに行きましたが、彼らが使うベースは一般で売っているような楽器ではなく、オーダーメイドです。事細かく注文し、自分の手に合わせて作ります。彼はスミティ・スミスという世界的ベーシストの紹介で、有名なクラフトマンにベースを作ってもらいました。今回は、ベースを調整するために持っていったそうです。ロサンゼルスのハリウッドというところに、有名なベーシストたちがオーダーメイドするような楽器屋さんがあります。彼は、「実は、今度ロン・バンドのベーシストになりました」と言うと、「おめでとうございます!」と言われ、態度が変わってVIP待遇になり、「もう、あなたはこれからお金はいらない。調整はタダです」と言われたそうです。人生、どこでチャンスが訪れるのかわかりません。しかし、明日からのコンサートで失敗すると、天国から地獄に落ちるので真剣にやらなければなりませんが・・。
 神は私たちにチャンスをくださいます。それをつかまえなければなりません。神様は公平な方ですので、全員にチャンスが巡ってきます。それを捕まえるのが、クリスチャン人生です。
 十二年間長血を患っていた女性は、全く希望を失っていました。どの病院に行っても治らず、そのために財産全てを使い果たし、経済的にも、精神的にも、肉体的にも、ぼろぼろ状態でした。
 そんな時に、一つの希望の言葉を聞きました。「最近、イエス様という方がおられ、その人に祈ってもらうと病気は全て治ってしまう・・。」
 しかし彼女には、人前に出る勇気がありませんでした。身なりも、外観も、人目にさらせるようではなかったと思います。だから、彼女はイエス様の衣に、少しでも触ったら癒される、という信仰を持ちました。
 イエス様が来られた日、彼女はそっと通りに出ていきました。そしてちょうど群衆の列が裂けたとき、彼女はイエス様に近づき、衣にちょっと触れました。するとその瞬間、癒されました。イエス様の体から力が流れ出て、病が完全に癒されたのです。
 その結果、仕事ができるようになったと思います。きっと経済的にも回復したでしょう。心も癒され、すべての領域に安らぎが来たと思います。
 そのとき、彼女はイエスさまに声をかけていただきました。「安心して行きなさい。病気にかからず、すこやかでいないさい」
 この教会には、多くの方がおられますが、日本ではクリスチャンになりにくい環境があります。「クリスチャンにはなりたいけれど、家族や親族、会社や学校で何と言われるだろうか・・」と心配があります。しかし人ではなく、イエス様が目の前にお立ちの時は、すぐにタッチしなければなりません。
 先日、名古屋リバイバルミッションの時に、中野雄一郎先生も語っておられましたが、一隻の船が沈みそうになったそうです。船長は船から人々を避難させようとしましたが、乗客がなかなか避難しませんでした。船長は、皆を海に飛び込ませようとしましたが、なかなか飛び込みません。そこには色々な国の人々がいました。彼は考えてこう叫んだそうです。
 「イギリス人の皆さん、皆さんの中で、紳士と思われる方は飛び込んでください!」するとイギリス人たち全員が飛び込みました。次にドイツ人がいました。ドイツはかつて軍事大国でした。彼は考えて、「艦長の命令だ。飛び込め!」と言うと、皆、飛び込みました。続いて、アメリカ人に対しては、「保険がかかっていますよ。飛び込んでください」というと、皆、飛び込んだそうです。
 さて、最後は日本人です。日本人にはどうしたら良いかと考えました。そして、「日本人の皆さん。すでに、みーんな飛び込んでいますよ!」と言うと、全員が飛び込んだみました。
 日本人は、「赤信号。みんなで渡れば怖くない」という感じで、皆がクリスチャンにならないと、なかなかクリスチャンになれない環境があります。しかし、人生のチャンスはそう多くありません。特に、神が私たちの目の前に来てくださるようなチャンスは、そうはないのかもしれません。
 ある意味で、クリスチャンはチャンスを掴んだ人々です。チャンスを捕まえてください。聖書は、神は人類が健康で長生きすること願っている、と教えています。第三ヨハネ二節に、
『愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。』
 神は、私たちが「すべての点で幸いを得て」、「健康である」ように願われています。また、第一テサロニケ五章二十三節に、

『平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。』
と記されています。ここでは、人間の構造についても教えています。人間は、体だけの存在ではなく、魂と霊が備わっています。
 誰にでも「魂」があります。魂の定義とは、「人格から体を除いたもの。自我、自己」となっていました。体を除いても一つの物が残ります。それが魂です。その魂が、幸いを得ますように、健康であるようにと述べられています。
 今日、皆さんの魂は平和を得、健康を持っておられますか。教会に来ると、痛んだ魂が徐々に回復します。
 現代は悲しいことに、多くの人が精神的傷を負い、病を持っておられます。しかしこの状況は神の御心ではないのです。神は精神が癒されることを願っておられます。魂が傷ついている人に対して「あんたはそのまま我慢しなさい」とは言われません。今、魂に病をもっていたり弱っていたら、神は「あなたの魂が健康でありますように!」と語っておられます。
 今日本には、「引きこもり」といわれる方々が百二十万人ほどいるそうです。日本では大きな社会問題になっていますが、他の国々ではそれほどではないようです。先々週、韓国に行きましたが、韓国の人に聞いたら、「少しはあるけれど、そんなに社会問題にはなっていない」と言われました。何年か前にアフリカに行きましたが、「みんな外に出ているよ。そんなのないよ。」と言われました。引きこもっているのは日本人だけのようです。その方々がイエス様によって癒されたら素晴らしいです。「新城教会に来たら癒される」というような噂が立ったら素晴らしいです。そうしたら、百二十万人がイエス様のところに来れます。イエス様はそのことを願っておられます。「魂に平和が、安らぎが来るように」と願われています。鬱病の方々は三百万人以上いるそうです。そのような方々もイエス様は癒してくださいます。この言葉をキャッチしてください。
 魂に平安が来る秘訣は、ある意味で「愛されていることを知る」ことです。誰かが愛してくれると魂は安定します。子どもは親から愛され支えられていたら、健やかに育ちます。愛が欠如していたら心に傷を受け、元気がなくなります。
 しかし、人間の愛には限りがあります。けれども、神が私たちにどのように語られているのかを知る必要があります。イザヤ書四十三章四節に、

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』

 「わたし」とは「神」のことです。神の言葉を知ることは、チャンスをつかむことです。今日は神に愛されていると確信して帰ってください。私の好きな御言葉に、エペソ人への手紙二章十節があります。
『私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。』

と記されています。私たちは「神の作品」だと教えています。私たちが見ている物のほとんどは「製品」です。ここにあるマイクロフォンも製品です。製品は同じ物を同じように作ります。同じように作らなければ、製品になりません。工場では厳しい品質管理がなされ、同じ物を作ります。それが製品です。しかし作品は一点一点違います。
 何年か前に、新城教会の遠足で、瀬戸にある陶芸教室に行きました。粘土の固まりを受け取って、思い思いに手ひねりで茶碗や皿を作りました。あの遠足は、想い出深かったですね。私も参加しましたが、なかなか思うようには出来ませんでした。自分なりに良い作品ができたと思いました。それを窯に入れて焼き、一ヶ月後に届けてくれました。私は湯飲みを作りました。完成を楽しみに待っていました。やがて手元に私の作品が届きました。しかしお茶を飲んでみると、毎回、口当たりが違います。よく見ると、飲む場所によって厚みが違うので口当たりが違ったのです。「何だこれは・・・」と感じますが、しかしそれは世界に一つしかない、私の作品です。だから、重くても、変でも捨てません。時々、それを出して使います。
 私たちは神の製品ではなく、作品です。神の思い入れがあります。今日ここにおられるお一人一人、よくぞこれほどまでデザインを変えたと思うほど、違います。神様が思いを込めて、造ってくださいました。
『私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。』
 そして、神は、人を造りっぱなしで放って置かれるのではありません。「良い行ない」とは、あなたの人生に起こる「良いこと」です。人生そのものが神の作品なのです。将来、何が起こるのか私たちにはわかりません。しかし、神は未来の行動までも創造しておられると教えています。
 神様のみこころを知ることはとても素晴らしいです。体だけでなく、私たちの歩みをも、神は全て創造済なのです。これを知るなら、魂に平安が来ます。クリスチャン生活は、神の言葉を受け取るところにあります。この言葉が、他人に語られているのではなく、自分自身に語られている言葉として受け取ることが大切です。
 今日あなたにとって良いものが、備えられています。あなた自身は悪いものではなく、良いものです。聖書は、誰一人として、無駄な人はおらず、「皆、重要です」と語っています。
 私は牧師をしていますが、教会に来られる方、お一人ひとりが重要だと常に感じています。教会には問題を持って来られたり、傷ついて来られますが、イエスさまによって洗われていくと、神の素晴らしい計画が出現します。
 ラクダの親子がいました。ラクダの子どもがお母さんに聞きました。「僕たちはなぜこんなに首が長いの。」するとお母さんが、「それは広い砂漠を遠くまで見渡せるようにだよ。」
 「じゃあ、僕たちの足はなぜ、こんなに太くてひずめが割れているの。」「それはね、砂漠にめり込まないように、安定して歩くことができるようにだよ。」
 「では、なぜ、まつげが長いの。」「それは強い太陽に、目をやられないように保護しているのよ。それから、砂漠では砂嵐があるでしょう。砂が目に入らないように、保護しているの。」と言いました。
 続けて、「なぜ、僕たちには、こんなこぶが二つあるの。」「それは、砂漠には水がないから、水をためるタンクだよ。」
 するとラクダの子どもは言いました。「じゃあ、なぜ、僕たちは動物園の檻の中にいるの?」
 人間は神の作品であり、良いものだと言いましたが、案外こんなものかも知れません。「良いものは何もない」と言われる人が多いのです。なぜでしょうか?
 人間には肉体、魂とともに「霊」がありました。霊とは何でしょうか。霊の定義が案外あいまいです。第一テサロニケ五章二十三節の御言葉に、
『あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。』
と記されています。霊は人間だけに与えられている機能であり、神と結び神と交わる機能です。人間は「霊的な存在」と通信できるのです。
 現代はほとんどの人が携帯電話を持っています。どこにいても、個人が通信手段を持っています。
 私の娘が先週、中国に行っていました。彼女は携帯電話を持って行きました。「今どこにいるの?」と聞くと、「北京にいる」と言うのです。またしばらくして聞くと「上海にいる」というのです。通信機能があれば、世界中どこにいても、どうってことありません。人間は「霊」という通信機能、すなわち、神様に電話する機能を持っています。だから人間の力では何もできないときには、神に助けを求めることができるのです。
 初めの人間、アダムとエバは、造られてすぐに神と会話しています。神は目に見えない方ですが、その神と会話ができました。
 その後、蛇が近づいてきました。蛇とは悪魔を表しています。悪魔も霊的な存在です。そこで人は蛇と会話しています。霊的な存在との関わりです。
 ということは、人間には、神や悪魔などと話す機能があるのです。霊の健康度は、「霊という機能によって、どこにつながれているのか」ということです。イエス・キリストを信じる前は、知らないうちに神のふりをした悪魔・悪霊につながっています。悪魔につながっていれば、そこから指示が来ます。だから、人生が惨めになるのです。
 けれども、イエス様を信じるときに、霊機能のスイッチが転換され、本物の神につながります。そうすると、本物の神からの情報が入って来るので、安全に生きることができるのです。
 最近はコンピューター社会ですから、あなたも電子メールを使っているかも知れません。しかし気をつけなければ、コンピューター・ウィルスが入ってきます。私のところには、多いときには週二、三回ウイルスが来ます。ちゃんとプロテクトしているので安全ですが、放っておくと危ない時代です。
 何年か前、ウィルスがまだ珍しい時代に、旅先でメールをチェックをしました。寝る前にメールをチェックし、そのままコンピューターを置いておくと、翌朝、私は何も触っていないのに、コンピューターが勝手に電話をした形跡がありました。何かミスをしたのだろうかと思い、元に戻して仕事をしていると、また勝手にダイヤルしているのです。
 すると、友人から電話が来ました。「○○さんからのメールは開かないように・・・」と言うのです。私は、既に開いていました。何と、それは、コンピューターウィルスでした。
 一度コンピューターウィルスがコンピューターに入ると、今度は中で悪さをします。自動的に電話して、変なところに結んで中にあるデータを持ちだしたり、壊したりするのです。それは大変なことです。私のコンピューターからデータを盗んだら、盗んだ人はクリスチャンになるかも知れません(説教の題材が入っていますから)。しかし会社では大変なことになってしまいます。
 同様に、イエス様を信じていない人生は、知らない内に霊の機能が悪魔・悪霊につながっており、入ってくるのはウィルスのような「破壊」です。
 コンピューターウイルスも気づかないところで動きます。入っても始めは何も起きません。しかし、特定な日に、突然動き出します。突如として、コンピューターのデータが壊れ始めるのです。
 私たちの人生も同じです。悪魔につながっていると、悪魔は私たちにウィルスを入れます。それも、いつウィルスが入ったのかわかりません。「イエス様を信じていなくても何も変わらない。幸せだ。別に、神様は必要がない。」
 しかし、そのウィルスは家系の中で生き続けます。おじいちゃんに入ったウィルスは、息子、そして孫、曾孫と移動し、突如として壊されることが多くあります。
 イエス・キリストを信じるとは、悪魔につながっていたものを、本物の神につなぐことです。霊の健康がある意味で、一番大切です。皆さんの中で、まだつなぎ替えがなされていない方がいたら、イエス様のところにつないでください。手で作った神々は、皆、悪魔の領域です。イエス・キリスト以外に神は存在しないのです。排他的と思われるかも知れませんが、神はお一人です。「神々」というのはおかしいのです。
 私は先々週、韓国に行きました。韓国教会の方々と共に、とりなしの祈りに行きました。初めて会った方々でしたが、とても親切にしてくださり、良い交わりができました。今回訪問した教会の牧師は、歯医者さんでした。教会に連れて行かれると思っていたら、歯科医院に連れて行かれました。そして、「日本から来られた皆さん。歯をチェックしましょう。」と言われ、治療してくれました。その方は、歯の治療を通して患者さんに伝道しているようです。私も何かお返ししてあげなくては、と思いました。
 すると、一人の方が、「私のために祈ってくれませんか」と言われました。そして、「私の人生は、たいへん惨めです。家系の中に、恐ろしいことばかり起こっています。苦しんでいます。」と言われました。それで私は、霊の世界をつなぎかえしなければならない、と話しました。歯科医院で、歯の治療を受ける一方、私は、歯科医院の待合室で、「霊的解放医院」を開き、解放の祈りをしました。すると聖霊様が強く働かれ、背後に隠れていた悪霊が暴かれ、韓国の方々に素晴らしい解放が訪れました。
 今回、私たちの通訳をしてくださった方は、とても日本語が上手でした。その方は、「私は以前、占い師でした」と言われました。韓国にはムダンと呼ばれる「霊能者」が四十万人ほどいるそうです。霊を降ろして、予言するそうです。その女性は、ある霊感師の老婆について、洞穴に入って修行したそうです。なぜ、そんなふうになったのかと聞きました。すると、「私の家は不幸で、両親は若くして二人の子どもを残して、二人とも脳溢血で死んでしまいました。また、姉も精神的な病になりました。なぜ、こんな人生なんだろうと、霊的なものを求め始めました。それである時、強烈な霊体験をしました。」と言いました。それから一生懸命修行したそうです。しかしいくら修行しても、心には平安がなく、やればやるほど塩水を飲んでいるかのようで、韓国にはいられなくなり日本に逃げたて来たそうです。しかし日本でイエス様を信じ、変えられたと言われていました。
 その人は手で作った神々を本物の神だと信じて、それらの背後に感じる霊感に頼り、霊の機能を悪魔につないでいました。その結果、入ってくるものは悪霊のウィルスばかりで、人生はめちゃくちゃになったのです。
 その方のためにお祈りをしましたが、聖霊様が強く働いてくださいました。その方の家系の祝福を取り戻す祈りをしました。祈る場所も、預言的な場所が与えられました。
 今回、私たちは、日本人として、日本が犯した罪を韓国で悔い改めなければならないと思って行きました。なぜ、釜山に行ったのかというと、釜山は日本と深い関わりがあるからです。豊臣秀吉の時代から、日本は釜山から攻め込んで朝鮮半島を牛耳ったからです。豊臣秀吉は愛知県の人です。朝鮮半島に攻め込んで、多くの人たちを虐殺しました。一人殺したらいくらと懸賞をかけ、その証拠に、首を取ってくるように命じました。しかし首だと運ぶのが重いということで、後に、耳と鼻を切り取って送るようにしました。それらが全て、釜山港から持ち出されたのです。日本はその後も、日韓併合や朝鮮人強制徴用によって、日本は韓国の人々を苦しめました。それも、すべて、釜山港経由で出入りしました。
 釜山港は悲しみの港です。日本人が持ち込んだ悪しき呪いが解かれるようにと祈りました。韓国の兄弟姉妹と共に祈れば、霊的な壁が崩れると信じて祈りました。
 「日本が犯した罪を赦してください。悪い契約を断ち切って下さい。」と祈りました。その時、大きな壁が壊れたように感じました。
 その後、霊能者をしていた方の解放の祈りをしました。すると、大きな破れがありました。釜山港にかつて日本人が置いた呪いが解かれ、釜山港において日本人によって、韓国の方々の束縛を解く祈りがなされたことは、大きな預言的な意味があったと感じました。これから、日本がそのような働きのために用いられるようにと祈りました。
 悪魔はどこの国に関しても、策略を持っており、人々の霊を悪魔につなぎ、国々や人々を対立させ、人生を惨めにし、家系を壊すのです。しかしその霊の機能が取り戻され、神につながるときに、良きものが流れます。
 今週、霊の機能を絶対に悪魔につながないでください。それが健康の秘訣です。常にイエス様につなぐことです。教会から帰っても、聖書を読んだり、お祈りしたり、イエス様のことをよく考えてください。それは、霊の機能を神のところにつなぐための作業です。聖書は聖く歩むことを勧めています。「罪から離れなさい。」と語っています。
 なぜそのように言われるのでしょうか。罪を犯すならば、悪魔の領域につながれるからです。悪いものが流れるので、健康になれないのです。「神の命令をしっかりと聞き、イエス様につないでください」というのが聖書が勧めるところです。
 霊的な健康が確立するときに、魂は繁栄し、やがて肉体にも影響が及びます。イエス様は霊・肉・魂の癒し主です。今日すべての領域が癒され、健康になって帰ってください。
『そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」』
と言われました。
 「信仰」とは何でしょうか。「イエス様に対する信頼」です。イエス様に対して信頼し続けるならば、あなたの霊・肉・魂が健康になると教えています。
 しかしマルコ六章には、「大いなる不信仰」について記されています。ここには二つの対比があります。六章三節から六節に、
『この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。』
と記されています。五章は「信仰によって癒された」ことが書かれていますが、六章には、ナザレ人たちのイエス様に対する評価が書かれています。
 イエス様はナザレでの業ができませんでした。なぜならば、彼らは「不信仰」であったからです。イエス様を神の子として認めることができなかったからです。彼らは、イエス様に対して信頼感が湧きませんでした。
 五章と六章において、信仰と不信仰について教えています。十二年間長血を負った女は、イエス様に対して信頼しました。それによって彼女は健康になりました。あなたがイエス様に対して信頼を失わなければ、「安心して帰りなさい」と語ってくださいます。イエス様に対する、全幅の信頼を寄せて歩みましょう。お祈りします。


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