バルテマイのように叫ぼう!

2003.12.7(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

新約聖書 マルコの福音書 10章45節〜52節
人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

 ハレルヤ!クリスマスおめでとうございます。十二月に入って、新城教会では、クリスマス集会が始まっています。皆さんの祈りに支えられて、祝福されていることを感謝します。
 昨日は、「子どもクリスマス集会」があり、五〇〇名以上の子どもたちが集まりました。そこでは、ストレートに福音が語られました。イエス様を信じると永遠のいのちを得て、天国に行くことができると語られました。イエス様を信じるならば、人生は死では終わらず、天国に行くことができるのです。それと共に、人生の旅路においても、神は素晴らしいことをしてくださいます。
 聖書は、目に見えない神と、どのように関われば良いのかについての情報を提供しています。
 イエス様とは、神が人となられたお方です。神がただ一度だけ、人となってこの地上を歩まれました。人々はイエス様と関わり、奇跡や救いを体験しました。今の時代においてイエス様は、目には見えませんが、同じプロセスで関わることができるのです。
 今日は「バルテマイ」という、盲人がイエス様に出会い、目が癒されたストーリーを通して、神と関わる方法について学びます。
 さて、バルテマイは、どのようにしてイエス様と出会い、癒されたのでしょうか。十章五十一節に、
『そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」』
 今日もイエス様は、「わたしに何をしてほしいのか?」と、問いかけられています。
 先週も学びましたが、礼拝とは、神と出会うチャンスです。人生には何度か、神に出会うチャンスがあります。チャンスをものにしなくてはなりません。
 バルテマイは盲人であり、普通には働くことができませんでした。彼の日常は、エリコの城壁の前に座り込んで、物乞いをする毎日でした。「私にめぐんでください・・」と三六五日間、同じ場所で同じスタイルで過ごしていたと思います。しかし、そんな単純な生活の中に、大チャンスが訪れたのです。それはイエス様が、彼の前を通りかかったからです。
 バルテマイは、チャンスを捕まえました。それまでは、目が癒されるなどとは、思ってもみなかったでしょう。しかし、目が癒されるという大奇跡を体験したのです。
 私たちの生活も、三六五日、あまり変わらない生活かも知れません。しかし、イエス様はそんな生活のただ中に、チャンスを与えられるのです。
 日本人は、神と出会う為には深い山中に入り、滝にうたれて難行苦行しなければ無理のような気がしますが、そうではありません。日常生活のただ中で、神に出会うことができるのです。
 私は何度か、イスラエルに行ったことがあります。イスラエルに行くと、物乞いをしている人がいます。可哀想だと思います。ぼろぼろの服を着て、乳飲み子を抱き「お金をください」と近づいてくるおばさんがいます。私は哀れに思い、持っていたドル紙幣をあげたことがありました。私は「良いことをした」と嬉しくなりました。
 しかし二年ほど経ち、同じ場所に行くと、また、同じおばさんがいるのです。しかも、赤ちゃんのサイズまでも同じです。それを見て、「これはちょっとおかしい・・」と思いました。
 バルテマイに限っては、そうではありませんでした。彼には、自分ではどうにもならない状況がありました。しかし、そんな彼の前を、イエス様が通りかかったのです。彼に、絶好のチャンスが訪れました。
 バルテマイは叫びました。「ダビデの子よ。わたしをあわれんでください!!」
 彼はイエス様について、日頃から多少は聞いていたと思います。「最近、ナザレの町で育ったイエスという男が、すごいことをしているらしい・・。彼の祈りによって、病気は治るし、問題は解決する。彼はダビデ王の子孫らしい・・・」と、うわさを聞いていたと思います。だから、彼は、イエス様が通りかかったとき、あまり多くの情報はなかったかとは思いますが、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫んだのです。
 彼は盲人でしたので、イエス様の姿が見えたわけではありません。ただ、雰囲気をつかみました。空気の動きや、周囲のざわつきで何かが起こっていると感じたと思います。
 「何が起こっているのですか?」「今、イエス様がそばを通りかかっています」
 それを聞いた彼は、なりふり構わず、「ダビデの子よ。私をあわれんでください!!」と叫び出しました。群衆は、彼があまりにも狂ったように叫び出したので、「そんな大声で叫ぶのはやめろ」とたしなめました。しかし、この男は制止を振り切って叫び続けました。
 するとイエス様が、その声を聞きました。そして「彼を呼んで来なさい」と言われました。
 バルテマイが来るとイエス様は、「何をしてほしいのか」と聞きました。彼はすかさず、「目が開くことです!」と答えました。すると目が癒されました。
 もしも、この時、彼が叫ばなかったら、イエス様は通り過ぎてしまったでしょう。
 私たちは毎週礼拝に来ますが、イエス様が毎回講壇に立たれたら、どんなに良いかと思います。イエス様が、「今日は何がしてほしいですか?」と聞かれたら嬉しいですね。私は一週間かけて、祈りの課題をごっそりともって行くと思います。そして「イエス様これをしてください」とお願いすれば、簡単に受けてくださるでしょう。
 しかしながら現代は、イエス様は目には見えません。けれども、バルテマイと同じように、イエス様が目の前を通っておられる雰囲気は、感じることが出来ます。
 今日の賛美の中で、イエス様がおられる雰囲気を感じましたか?私は、賛美の中で主の臨在を強く感じて、涙が出て仕方ありませんでした。イエス様がここにおられる雰囲気、臨在を感じます。
 その時に私たちは、バルテマイのように、「イエス様。私をあわれんでください!!」と叫ぶことが大切です。
 クリスチャンは、ある時には、常識を越えるような態度を必要としているのかも知れません。案外、クリスチャンは、小さくまとまる傾向がありますが、真理は案外、ちょっと常識を越えたところにあるのかも知れません。それは、非常識というのではなく、超常識というのでしょうか。一般的な考え方を超越したようなところに、神の祝福や恵みがあるのだと思います。
 昨日、子どもクリスマスに、五〇〇名以上の子どもたちが集まりました。なぜ、そんなに多くの子どもたちが集まったのでしょうか。それは、イエス様を求めて集まったのではなく、クリスマス・プレゼントを求めてやって来ているのです。すでに、毎年恒例の集まりになっており、ファミコンやゲームカセットなど、色々な賞品が当たるのです。それを求めて、多くの子どもたちが集まります。
 子どもクリスマスのプログラムはどんなものかと思ったら、始めにダンスがあり、次にイエス様をお迎えするのかと思ったら、いきなり「抽選会」が始まりました。
 しかし、その後、一つの映像劇がありました。それは「天国と地獄」をダイレクトに表現した「あなたはどっち?」という劇でした。とてもわかりやすい劇でした。
 人間は一度死ぬことと、死んだ後、神の前に出なければならないことを、鋭く劇で現していました。死んだ人が神の係官の前に立たされていました。係官は大きな本を開いて、「お前の名前は、ここにはないから地獄だ・・・」と言うのです。
 それはちょっと常識はずれの劇だと思いますが、子どもたちにとって、一生涯忘れられない劇になったと思います。「イエス様を信じたら、天国に行ける。しかし、信じないと地獄に行ってしまう・・」と強く心に残ったと思います。
 バルテマイもある意味で、非常識なほどに「ダビデの子よ。私を助けてください!!」と叫びました。その時、イエス様が彼に触れてくださいました。
 教会に来たら、決して小さくまとまらずに、大胆に神を求めてください。大胆に叫び、力一杯、賛美してください。他の人のことを忘れて、神と交わるときに神は私たちに触れてくださいます。
 神は、私たちの心意気を見ているのだと思います。神と人という厳然たる関係の中で、人がどれだけ神を真剣に求めるのか、というところを見て動いてくださるのだと思います。
 バルテマイは何回も繰り返して、イエス様に呼びました。するとイエス様が彼を呼んでくれました。その時、バルテマイは何をしたのでしょうか。十章五十節に、
『すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。』
と記されています。
 私が家でくつろいでいるときに、突然の訪問者が来ることがあります。私は家にいるときにはリラックスして、シャツ一枚で転がっていることがあります。すると、「順先生はいますか。」と誰かがやって来るのです。その時には、すぐに「上着を着て」出ていきます。
 しかしここには、バルテマイは「上着を脱いで出て行った」と記されています。これには色々な理由があると思います。イスラエルは砂漠地帯で、ほこりっぽいのです。だから、バルテマイはイエス様に会うために、上着を脱いだのかもしれません。または、あまりにも上着が汚れていたためかもしれません。
 しかし、「上着を脱いだ」のは、ただ、物理的な理由で脱いだだけではなく、「霊的な意味合い」をも、含んでいるのだと思います。
 旧約聖書に「上着を脱いだ」、「脱がされた」ということを記した箇所があります。それが、ゼカリヤ書三章一節から四節に記されています。これは、ゼカリヤという預言者に見せられた幻です。
『主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。主はサタンに仰せられた。「サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。」ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」』
 大祭司ヨシュアは、イスラエルを代表する祭司でした。彼が神の前に立っている光景を、ゼカリヤは見せられたのです。
 さて、「大祭司ヨシュア」とは、今を生きる「私たち」のことをも現しています。新約時代は万民祭司の時代であり、すべて主を信じる者は皆、神の前に立つことができます。特に、教会に来たときには、神の前に立っているときです。
 ゼカリヤは、ここで、もう一つの光景を見せられました。それは、主の前に立っている大祭司ヨシュアと共に、「ヨシュアを訴えようとしているサタン」を見せられたのです。
 人間には、見える領域だけではなく、同時に、見えない領域もあります。私たちは今、現実の世界に立っていますが、目に見えない領域にも立っているのです。見えない領域では、神のみ前に立っているのです。それと共に、私たちを訴える、サタンも一緒に立っているのです。日々の生活の中で、気づこうと気づかまいと、神の前と同時にサタンが私たちの側に立っているのを、知ることが必要です。
 サタンが訴えていたのは、「ヨシュアの衣が汚い」と言うことでした。「衣の汚れ」とは「罪」です。罪の汚れがあると、悪魔から訴えられるのです。
 私たちは、教会に来て、罪の汚れを十字架の血潮で洗ってもらうのです。毎週行われる聖餐式には、そのような意味あいがあります。また、御言葉を聞いている内に、罪が示されます。「罪を悔い改めなくては」と、悔い改める気持ちになります。これは「汚い衣を脱ぐ」ことになります。
 ヨシュアは汚い衣を着ていたゆえに、悪魔に訴えられていたのです。しかしその時に、「汚い衣を脱がせ、礼服を着せてください」と言いました。
 私たちも、神の前に出るときに「上着を脱がなければならない」のです。神のみ前に出るとき、悪魔から訴えられるのはごめんです。そのために必要なのは、「汚い衣を脱ぐ」ことです。
 大祭司ヨシュアは、イスラエルを代表する人物でした。特に彼が訴えられていたのは、イスラエルの偶像礼拝の罪でした。天でヨシュアが悪魔に訴えられていたとき、地上では敵が来て、彼らを訴えていました。敵により、ユダヤ人全体のための神の宮の工事を、中止させられそうになっていました。
 教会に来て気づかされるのは、現実の世界と、目に見えない世界が連動していることです。現実の世界で問題に出会うと、現実の世界の情報だけで問題を解こうとします。しかし、なかなか解くことができない事柄が多いのです。多くの問題が、見えない世界でサタンに訴えられているがゆえに、地上においては事件となって現れることが多いのです。
 サタンが訴えるのは「衣が汚い」ということです。日々、汚い衣を脱ぎ捨てることが大切です。
 バルテマイが汚い衣を脱いで、イエス様のところに行ったのと同じように、私たちも罪の衣を脱ぐようにと教えています。
 聖書が語っている、悪魔に訴えられる罪とは何でしょうか。その一番大きなものは「偶像礼拝」です。偶像礼拝は三代、四代の呪いです。良いことは何もありません。偶像礼拝は罪です。偶像礼拝という汚い衣を脱ぎ捨てると、状況が変わります。
 最近ある女性が教会に来られました。その方は、一週間の大半を病院通いに費やしていました。そして、あげくの果てには、精神的にも病んでいました。そんな中、友人の紹介で、教会に来られました。
 私はまず、その方の汚れた衣を点検しました。彼女は、一生懸命偶像礼拝をしていました。密教系の新興宗教の信者でした。また地域の神社、仏閣を一生懸命に拝んでいました。私は、それらをやめるように勧め、汚れた衣をイエス様の血潮によって洗う祈りをしました。すると、祈ったその日から変化し、病院通いもなくなり、精神的にも癒されたのです。周りの人からも「何が起こったのか」と聞かれるほど、癒されました。偶像礼拝は恐ろしい罪です。
 人間には、霊、肉、魂があります。霊的な罪は「偶像礼拝」です。そして魂の罪とは「憎しみ」です。誰かを許すことができないのには理由があります。しかし、許さなければなりません。どんな理由があっても、人を恨んでいると悪魔が機会を捕らえます。あなたが許さないのは勝手ですが、許さなければあなたの後ろに悪魔が回り込み、あなたを捕まえます。
 またもう一つの領域は「肉体の領域」です。それが、「不品行、姦淫」という「性的な罪」です。これは深刻な罪です。不品行、姦淫は人生を燃やしてしまうのです。
 火は人間に、どうしても必要なものです。ストーブや暖房器具がないと冬は生きることができません。朝起きてすぐにストーブをつけて、暖かくすると快適に生活できます。しかし、石油ストーブの中だけで火が燃えているなら良いのですが、その火が、外に出たら家が燃えてしまいます。
 昨夜、私はこの地域を歩いて祈っていました。すると空がたいへん明るいのです。明るい方向を見ると、火柱が立っていました。それは火事でした。よく見ると、教会に来られている方の家の近くのようでしたので驚き、走って見にいきました。すると、火事はもっと遠くの家でした。その火事によって四軒が燃えてしまい、一人のおばあさんが亡くなられたことを聞き、心が痛くなりました。
 小さな火の不始末が、あんな大きな事件になってしまいました。
 同様に、性的な事柄は、子孫を残す為にどうしても必要なことです。それは、夫婦の間だけに限定して許されていることです。しかし、その枠組みを越えると、人生が焼けて無くなり、他人の人生も燃やしてしまいます。
 「偶像礼拝」と「憎しみ」そして、「性的な罪」は絶対に注意してください。教会はこれらの危険性を人々に告げる責任があります。しかし注意は、各人に任されています。罪があると、サタンが「衣が汚い」と訴えます。その結果として、人生が燃え、破壊されてしまうのです。神の前に出る前に、バルテマイが汚い衣を脱いだように、私たちも衣を脱いで出ていきましょう。イエス様の十字架の血潮によって、罪は赦されるのです。もしも、罪があったら「汚い衣を脱ぎます」と悔い改めて祈ってください。罪が赦されて、清くなることができます。しかし、「赦されるから罪を犯しても良い」と言ってはいけません。「悔い改め」とは、「悔いる」ことだけではなく、「改める」必要があるからです。このように、バルテマイの行動は霊的な世界についても教えています。
 先週、十二年間長血を負った女性が癒されたことを学びました。それは、「イエス様の衣に触れたら癒される」と女が「信じた結果」として癒されました。
 イエス様は、「あなたの信仰があなたを癒したのです。安心して帰りなさい。」と語られました。
 私たちが、信仰を持ってイエス様に触れるときに、イエス様は癒してくださいます。マルコの福音書五章は、「信仰によって癒された」記録です。しかし六章は、「不信仰」によってイエス様がわざを行うことができなかった記録です。
 私たちも信仰を持たなければなりません。「信仰」とは、イエス様に対する「全幅の期待」です。バルテマイも信仰によって癒されたと記されています。マルコ十章五十二節に、
『するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。』
 イエス様に対する信頼が、あなたを救います。教会に来てもイエス様を信用できないと、なかなか救われません。イエス様について、完全にはわからなくても「イエス様を信頼します」と言って、飛び込む姿勢が必要です。信仰も大きな信仰は必要ありません。聖書は、「からし種ほどの信仰」があれば十分だと教えています。
 皆さんがテレビを見るときにどうやって見ますか。テレビを買ってから、「テレビはどうして映るのか・・。どんな回路になっているのか・・」などと言って、回路図を取り寄せ、「まず、電源が入ったなら、電気信号がこうなって・・・、その結果、ブラウン管に画面がでる」と、すべてを納得した上で、「よし。テレビが映ることに関して、理論的には間違いはない。では、スイッチを入れよう」などと、言う人はいません。ただ単に、テレビを買ってきて、スイッチを入れるだけです。回路図などはどうでも良いのです。電源を差し込み、アンテナを差し込んで、スイッチをオンにしたら簡単に映ります。それだけの知識で十分です。
 ある意味で、信仰生活も同じです。「聖書を全部理解して、確かめなければ・・」と言わなくても良いのです。聖書はすでに、二千年間も確かめられているので、いまさらあなたがやらなくても良いのです。二千年間、世界の多くの人が、イエス様を信じて救われました。ですから、あなたは、ただ、スイッチだけを押せば良いのです。「イエス様。私はあなたを信頼します。あなたを信じます」と告白するのです。
 「信じてバプテスマを受けるものは救われる」と聖書に書かれているので、信じてバプテスマを受ければ良いのです。そうすれば、救われるのです。スイッチを押すか、押さないか、小さな信仰が必要です。信仰によって、神が働いてくださるのです。信仰を働かせてください。
 バルテマイはイエス様に、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫びました。この叫びは「祈り」を表しています。彼の叫びによって、そこに信仰が生じました。
 信仰を得るためには「叫び」が必要です。叫びとは、祈りです。祈りは、私たちに信仰をもたらします。また、信仰は、私たちに更なる祈りをもたらすのです。「信仰と祈り」は、「表裏一体」です。
 私は三週間前に、韓国に行きました。韓国教会に行くと、祈りについて教えられます。日本とは祈りが違います。日本の教会は「祈りましょう」と言うと、虫が鳴いているかのようです。しかし韓国のクリスチャンは「主よ!!」と主を叫び求めます。隣の人は関係ないのです。会堂が揺れるほどの祈りです。あの位にならなければなりません。昔は新城教会もそうでしたが、最近は結構祈りの品が良いので、ぼそぼそと祈ることが多いようです。
 叫んで祈るときに、信仰が与えられます。神は時々、私たちに信仰を与えるために、叫ばなければならないようなことを起こされます。
 私は教会の息子として生まれたので、「あなたはいつクリスチャンになったのですか」と聞かれても、「いつだろうか・・」と困りました。「個人的な救いの証をしてください」と言われると、劇的な証がないので困りました。知らないうちにクリスチャンになったようで、なかなか実感が湧きませんでした。しかし、イエス様を信じていました。
 そんな私の人生の中に、目が覚めるようなことが起こりました。目覚まし時計をかけておくと、驚いて目覚めるときがあります。私は、外部に奉仕に出たときには、目覚ましをかけます。しかし私は結構無防備なので、どこで寝ているのか全く忘れてしまうことがあります。目覚ましが鳴り、「はたして、私は今、どこにいるのだろうか」と思うことがあります。そして、はっと気づいて行動が始まるのです。
 人生で、突然神が目覚まし時計のように、警告を発せられることがあります。そんな時には、叫んで祈らなければなりません。
 私は今から十数年前に牧師になりました。牧師就任式の時に、皆が私に手を置いて祈ってくれました。私はそれが嫌でした。牧師などという大役をもらったら、きっと何か事件が起こるだろうと思いました。だから変に警戒していました。
 やはり、神は私を訓練されました。どうしても祈りを必要とする事柄が起こったのです。この詳細につきましては、『主が立ち上がられた日/プレイズ出版』に書かれていますので、ぜひ、お読みください。私の家内が病気になったりして、真剣に祈らなければなりませんでした。
 牧師が祈らなければ、教会スタッフも祈りません。牧師が祈りを勧めないからです。私が教会で働き始めたとき、何をして良いのかわかりませんでした。私にとって伝道は苦手な分野でした。この会堂ができたとき、私はスタッフになりましたが、伝道が一番嫌いでした。特に、個人伝道はどうやって良いのか、わかりませんでした。自分でも、イエス様をどうやって信じたのかわからないのに、どうやって他人に勧めたら良いのかわかりません。新しい人が来ると、「お前が話せ・・」などと内輪もめしているような状態でした。
 祈りはほどんどせず、一番好きな伝道方法はトラクト配布でした。それも、集合住宅が好きでした。よく、三ヶ日方面にトラクト配布に行きました。なぜならば、三ヶ日は知らない人ばかりで、しかも、終わったらすぐに釣りができるからです。(すみません)
 しかし私のところに警報が鳴りました。ある冬に、私はリュックサックに水筒とおにぎりを持って、愛知県民の森に行きました。そこで徹夜で祈ったときに、天が開かれました。私は帰ってきて、教会スタッフたちに、「みんなで祈ろう!」と言いました。「何があったのか・・」とかなりのインパクトがあったように思います。
 それから、県民の森祈祷会が始まりました。約二十年程、毎週、県民の森で祈りが続いています。真剣に、叫んで祈るようになりました。その中で、神が出会ってくださる体験がありました。
 神が「祈るように」という信号を与えられたときには、ぜひ祈ってください。ルカの福音書六章十二節に、

『このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。』

と記されています。祈りも体裁のよい祈りではなく、バルテマイのように叫んで祈ることを一度してみてください。必ず、主が訪れてくださいます。明日は、十三時間連鎖祈祷があります。ぜひ祈ってください。また今日の午後は、油注ぎの祈祷会がありますのでぜひ、ご参加くださり、お祈りください。今週の金曜日までは、「ツリー下祈祷会」と「吉祥山々頂祈祷会」が毎晩あります。街を見ながら真剣に叫んで祈ります。天が開かれます。皆さんも、自分の祈り場を持ってください。叫んでも、誰にも聞こえないような場所を選んで祈ることです。
 祈りは神の命令であり、一つの霊的法則です。私たちは祈りが答えられるために、法則を学ばなければなりません。一つは「激しく叫んで祈る」ことです。また、ヨハネの手紙第一三章二十二節から二十四節に、
『また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。』
と記されています。
 「神の命令を守って祈る」ならば「祈りが聞かれ」ます。この命令とは、「互いに愛し合う」ことです。憎しみは、祈りを止めます。愛の欠如は祈りを止めます。祈るときには心を点検し、「愛せない人がいないだろうか、苦々しい思いを持っていないだろうか、誰かに対して批判的な思いを持っていないだろうか・・」人間関係を修復してから、神の前に出ることです。互いに愛し合うときに、神が祈りを聞いてくださいます。
 またもう一つの法則は、エペソ人への手紙六章十八節に、
『すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』
と記されています。
 祈りは「御霊によって祈る」ことが大切です。今週、御霊によって祈ることができますように。聖霊様が、私たちに祈りを与えてくださいます。御霊によって、絶えず祈りなさいと教えています。ふだんの生活を祈り心でするのです。常に、祈り心で生活するならば、決して罪に負けることがありません。また、祈り心で生活すると、聖霊様は祈りの課題を与えてくださいます。それを捕まえて祈るならば、祈りは聞かれるのです。
 あなたもバルテマイのように、「何をしてほしいですか」と聞いていただくことができますように。そして、あなたの願いが叶いますように・・。
 けれども、祈りは、願いが叶えられることが中心ではいけません。
 十章五十二節に、
『するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。』
 バルテマイは癒された後、イエス様についていきました。私たちの願いが、自己実現的なものではなく、神の栄光が現される為であることが大切です。更に主に従うことができますように・・。
 今日は「主よ!」と叫んで祈りましょう。今から聖餐式を行いますが、聖餐式の教えの中に、「自分自身を吟味しなさい」と書かれています。それは、「汚れた衣を脱ぐ」意味です。霊、肉、魂において、決してサタンに訴えられる領域がないように、汚い衣を脱がせてくださいと祈りましょう。


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