思い違いをしてはいけません

2003.12.14(SUN)
新城教会 滝元 明牧師

新約聖書 ガラテヤ人への手紙6章7節〜10節
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。

 ハレルヤ!クリスマスおめでとうございます。昨日は、素晴らしいコンサートがあり、祝福されました。
 今回、私は心を決めて、集中してコンサートに出ようと列に並び、良い席を取って最後までコンサートに出ることができました。私は感動しました。素晴らしい曲を聞きながら、色々なことを考えました。自分の故郷の風景を想像しました。川が流れ、清水があり、イノシシがでるような山の中から救われ、こんな素晴らしいコンサートに出ることができてイエス様に感謝しました。
 かつてオーストリアにいったときに、ベートーベンの家を見学に行ったことがありました。彼は野山を見ながら作曲しました。風景を見ると幸せです。
 昨日、私の周りにいた方々は、豊橋から来られた方が多かったです。「とても安くて、良いコンサートだ」と喜ばれていました。香川県の高松市のホテルでのコンサートでは、一番良い席が一万八千円で、次は一万五千円で三百五十人限定だったそうですが、そこにもたくさんの方が集まられたそうです。「それでも安い」と言われていました。
 しかし、私は、コンサートに出て、お金では買うことのできない、素晴らしい喜びを経験しました。音楽を聴きながら、何回も感動して涙を流しました。今晩も、コンサートが行われることは素晴らしいです。
 隣に座られた豊橋の方が、「失礼ですが、この田舎に、よくぞこんな人たちが来てくださったものですね」と言われました。イエス様との出会いにより、ロンさんたちが来られ、孫の堅志が出ていたのも、とても嬉しかったです。すべての栄光を、イエス様にお返しします。
 今日はガラテヤ人への手紙、六章七節から十節の御言葉から学びます。時々、私たちの人生の中では、「思い違い」をします。
 数週間前の礼拝に来るときに着替えたのですが、何かおかしいのです。服を着てみると、何か窮屈なのです。なぜかと思って脱いでみると、私のタンスの中に、家内の下着が入っていたようでした。私はそれを着ていました。すぐに脱いで、着替えました。
 人間は、時々思い違いをすることがあります。今年、「全日本リバイバルミッション」の働きの為に、多くの方がささげてくださったことに感謝をしたいと思い、クリスマスカードを送りました。約二千人に送りました。写真屋さんに行き、写真撮影をし、カードにして送りました。クリスマスカード一枚一枚に、私のサインをし、御言葉を書いて送りました。御言葉を四十ほど出して書きました。
 私が書いた中に、「エベン・エゼル」という言葉があります。この言葉は、サムエルが語っている言葉で、「神が今日まで助けてくださった」という言葉です。私はカードに一生懸命、「第一サムエル記八章十二節」と書いて、たくさん送りました。
 すると、ある方から電話があり、「先生。クリスマスカードを、ありがとうございました。写真立てに入れて飾っておきます。ところで先生。あの御言葉はどういう意味ですか。」と聞くのです。
 「あれは、神様が、今日まで助けてくださったという御言葉ですよ・・。」「でも、先生。八章十二節の御言葉をお読みしますが、『自分のために彼らを千人隊の長、五十人隊の長として、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や、戦車の部品を作らせる。』という御言葉ではないですか?」と言われました。
 「えっ、ちょっと待って・・・」と言って見てみると、本当は、八章ではなく「七章」でした。「しまった!」と・・。
 私は、間違えていたのです。新城教会の兄弟姉妹のカードの中にも、その御言葉の人がいないかをチェックしました。御言葉を間違えることは残念なことです。その言葉が行った方には申し訳ないです。『自分の耕地をたがやかせ・・・』と書かれていたら、「今年は耕すのか・・」と思うのかも知れません。
 数年ほど前に、ある教会の結婚式に招かれました。はじめに聖書朗読がなされました。おそらく、牧師は、「第一ヨハネ四章七節からの御言葉を読んでください」と頼んだと思います。
 しかし朗読者は間違えて、「ヨハネの福音書四章七節」からの御言葉を読みました。それはイエス様がスカルの街に行き、悪い女に出会った場面です。その中でも、最後の十六節から十八節の言葉を朗読しました。
 『イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 」』と読みました。
 結婚式で間違えてはいけません。時々、私のたちの人生の中で、間違いがあります。毎日の生活で蒔く種を、いつか収穫するときが来る、だから思い違いをしては行けないと書かれています。第一コリント六章七節から八節に、
『そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。ところが、それどころか、あなたがたは、不正を行なう、だまし取る、しかもそのようなことを兄弟に対してしているのです。』
と書かれています。しかしこの御言葉も私は間違えました。本当は、聖書を見ると、第一コリントの六章九節からを見たいのです。
『あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。』
と記されています。これを尾山令仁先生の「現代訳聖書」では、
『正しくないものが神の国を告げないことは知っているはずではないか。思い違いをしては行けません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、同性愛にふける者、盗む者、どん欲な者、酒に酔う者、人を中傷する者、略奪する者はだれでも神の国を継ぐことはできません。』
と訳されています。
 間もなく、新城にもリバイバルが来ると思います。ある地域は、組中でクリスチャンになろうという時が来ると思います。ある集落も、「俺たちも部落を上げて、全部クリスチャンになろう」というときが来ると思います。
 昨晩は、千四十名ほどがコンサートに来られました。しかし、そのような人たちが、そのままで教会に来る可能性があります。「生まれ変わり、悔い改めなし」で、教会に来る人がいるので、聖書は戒めています。新改訳聖書では、
『あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。』
と書かれています。今世界には、クリスチャンと呼ばれる人はたくさんいます。「私の国の宗教はキリスト教」と言っています。しかしキリスト教だと言っているから、皆、天国に行けるというのではありません。「アメリカは、クリスチャンの国ではありませんか。なぜ、戦争をするのですか」と言われますが、本当のクリスチャンは少ないのです。部分的にはクリスチャンがいますが、クリスチャンといっても、クリスチャンではないというのは、「悔い改めがない」からです。
 あなたがもし、本当に神の国に入りたかったら、「罪から離れて悔い改めて信じなければいけない」と教えています。
 特にここには、「騙されてはいけません。不品行な者」と書かれています。
 今の世の中は、随分変わりました。昔は、「世界で一番純潔度が高い女性は日本人女性」と思っていました。しかし今はどこに行っても、ラブホテルがあります。結婚する前にも大きなお腹をしている人がいます。結婚式まで、純潔を守ることは考えないと思います。しかし世の中がどうあっても、聖書はそうではありません。
 ヘブル人への手紙十一章四節には、「結婚を尊ばなければならない」と書かれています。「神は寝床を汚す者をさばかれる、不品行な者をさばかれる」と書かれています。不品行は結婚前の肉体関係です。今世の中は、愛し合えば大丈夫といいますが、本当は大丈夫ではありません。これは悪魔の罠です。結婚式まで、待たなければなりません。相手がどんな愛しているといっても、待つべきです。結婚は素晴らしいことですが、誘惑も多いのです。
 私もかつて、家内と熱烈な恋愛をしました。私の本の中に、『若き日の伝道者の恋』という本がありますが、愛していると早く一緒になりたいと思います。しかしいくら愛し合っても、越えてはならない線があります。私は一人で伝道に出ました。しばらく別れていました。それも誘惑に勝つためには良いことだと思いました。
 あるとき、会いたくて仕方なく、家内に手紙を書きました。「一度会いたいから、豊橋まで来てください」と書きました。二キロほどの道のりを歩いて、手紙をポストに入れて、豊橋で会えると思っていました。
 しかし、その後、聖書を開くと、「肉のために備えをするな」という箇所に目が留まりました。私は、「嫌なところを開いてしまった・・」と思いましたが、すぐに速達を出しました。
 「イエス様が、肉のために備えをするな、と言われたので、豊橋で会うのはやめましょう」と書きました。すると、「私も、あなたの手紙を見て、すぐにそう思いました」と手紙が来ました。
 もしもあの時、私が豊橋に行っていたら、誘惑に負けていたかも知れません。しかしその時、はっきりしたので、結婚式まで神が守ってくださいました。
 私の家内は、結婚式まで紫外線焼けした黒い顔をしていました。当時は、何も化粧をしませんでした。しかし母親が、「清子、白粉くらいつけなさい」と言うのです。すると家内は、「私は、神様から与えられた素顔で良いです」と言いました。しかし、その時、つき人の娘さんが「斉藤先生。白ろうみたいな顔」と言うのです。結婚式で神の栄光が表されました。あとからお母さんが、「あまり黒いから、イエス様が白くしてくれたんだよ」と言っていました。何はともあれ、感謝な事は、今日まで守られたことです。
 結婚は素晴らしいですが、我慢することが必要です。だから不品行はいけません。失敗した人は、悔い改めなければなりません。
 また「偶像を礼拝する者」とあります。クリスチャンは、今までの偶像礼拝から離れなければなりません。
 どんな時代にあっても、「姦淫してはいけません」
自分の奥さんに、死ぬまで貞節を守ることです。
また、「男色をする者」と書かれていますが、尾山令仁師先生の聖書には「同性愛」と訳されています。世界は今大変です。エイズという病気は、同性愛から来たと言います。同性愛もいけません。続いて、
『盗む者、どん欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな神の国を相続することができません。』
と書かれています。イエス様にお会いすることは、素晴らしいです。私は、終戦前に悪いことをたくさんしました。しかし、「罪人でした。赦して下さい」と悔い改めて、イエス様を信じることにより、イエス様にお会いすることができました。世の中の基準ではなく、「罪から離れる決心をしなくてはならない」と教えています。
 第一コリント十五章三十三節から三十四節に、
『思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私はあなたがたをはずかしめるために、こう言っているのです。』
と記されています。良い友だちを持つことは大切です。悪い友だちを持つことはよくありません。クリスチャンの良い友だちを持ってください。クリスチャンになることは最高です。クリスチャンは、年輩者から若い人まで良い友だちになります。教会に来て聖書を学ぶことにより、きよらかな生活ができることは素晴らしいです。第二コリント五章十節に、
『なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。』
と記されています。
 私たちがなぜ、正しい生活をすべきかというと、「いつの日にか神の前で報いを受ける日があるからだ」と書かれています。神の前に出て祈るときに、イエス様を信じ、十字架の血で全ての罪が赦されることは感謝です。
 「だれでも、キリストのうちにある者は・・古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」私はイエス様を信じて救われ感謝します。聖書の中には、いつか私たちが、キリストのさばきの座に出て、さばきを受けるときが来るから、正しい生活をするようにと教えています。
 この世の中だけで終わるならば、悪いことをしてもいいかも知れません。しかし最後には「神の審判」があります。マタイの十六章二十七節に、
『人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。』
と記されています。イエス様が「報いを携えてくる」と書かれています。
 先週、順牧師が、「皆さん、一度でも吉祥山で祈りましょう」と言われました。私も一日でも良いからと思って、祈りに行きました。とても恵まれました。若い人は歩くのが早いです。一生懸命について行きました。
 吉祥山々頂から新城の町がよく見えます。豊橋も浜松も蒲郡も豊川も見えます。そこで、「町を覆っている、サタンの暗闇が全て打ち破られるように祈りましょう」と祈りが導かれました。「覆っている雲が取り除かれ、皆が救われますように!」と祈っているうちに、段々、雲が晴れました。神様が象徴的に、天に答えを現されました。主は、祈りを喜んでくださいます。これから、素晴らしいことが起きると信じます。私たちが祈ったこと、ささげたこと、主の前にしたことを、神が報いてくださいます。
 私は、吉祥山から帰って来て休みました。しかし、夜中の一時頃、目が覚めて心配になりました。そして、「今、新潟からスタッフたちが、ロン・ブラウンさんと共に帰ってくるから、祈るように」と語られました。
 それで、私は起きあがって、夜中の一時頃から三時頃まで、会堂に来て叫んで祈りました。彼らの守りを祈りました。
 帰ってきてから彼らに聞くと、「本当に守られて感謝だった。トラックを運転していた時に、隣のトラックが居眠りして接近してきて、後、三センチくらいのところまで来た。」というのです。
 機材を積んでいて、ぶつけられたらコンサートができなくなってしまいます。神の前に祈ることは大切です。人のために祝福を祈ることは大切です。必ず、神が報いてくださいます。伝道者の書の十一章九節に、
『若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。』
 とありますが、その後に、『しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。』とあります。
 時々、思い違いをして、「神なんかいない、さばきはない」と思いますが、イエス様はあなたに、「神を恐れて生活しなさい」と言われます。
 しかし「一番大きな思い違い」は何でしょうか。それは、「神に対する思い違い」です。私は鉱山の土方をしていました。廻りはみんな良い人たちでしたが、ひとりだけ、おじさんが私を嫌いました。彼は酒の好きな人で「やい、小僧待て。アメリカから金をもらっているのだろう・・」と怒鳴られました。私も当時若かったので、ムカッとして「何?誰がそんなことを言った・・。」と喧嘩を売ったことがあります。
 「おじさん、イエス様がどこで生まれたか知ってるか?」と言うと、「ばかやろう。そんなことは小学校で聞いて知ってるわ」
「言って見ろ。」
「アメリカの宗教にほれ込んで・・」と言うのです。
 おじさんは思い違いをしていました。日本人は思い違いをしています。もし、イエス様のことが本当にわかったら、何も言わなくても教会に来ます。イエス様が救い主だとわかったら、みんな教会に来ると思います。
 イザヤ書を見ると、イエス様が生まれる七百年ほど前に、イザヤが預言をしました。五十三章一節から六節に、
『アモツの子イザヤの幻。これは彼が、ユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。
天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行なう者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。あなたがたは、なおもどこを打たれようというのか。反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。』
と記されています。
 昨晩、ティム・ケプラーさんが、マリヤの歌をコンサートで歌いました。それは、「マリヤが、イエス様に乳を飲ませるときに、この方が救い主であり、創造主であることを知っていただろうか・・。マリヤが一緒に生活していたときに、この方こそ天地創造主であったことを知っていたか・・」という歌を歌いました。本当に感動しました。
 イエス様はこの地上の、馬小屋に生まれました。イエス様は三十才まで、両親に仕え、大工の息子として生活しました。その時に、誰が彼を「人類の救い主」と知っていたか、ということです。
 一番の思い違いは何でしょうか?ある人が、「キリストは幸せな人だ。ちょうど良い、クリスマスの時に生まれて・・・運の良い男だ」と言いました。
 イエス様がお生まれになったから、クリスマスがあるのです。なぜ、世界中で、クリスマスがお祝いされるのでしょう。王の王である神が人類を救うために、神の栄光の座を全部捨てて、この歴史の中に神が人となってくださったのです。やがて、イエス様は刺し通され、十字架につけられて殺されるために、この地上にお生まれくださいました。それがイエス様です。ヨハネの福音書一章一節から三節に、
『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。』
と記されています。言葉なる神、それがイエス様です。イエス様が世界を造られました。イエス様があなたを造られました。あなたの神です。あなたを愛して、罪から救い、天国に入れるために、十字架にかかられて死なれたことを、あなたは知っていますか?
 「思い違いをしてはいけません」どんなに、過去に罪があっても救われます。私は十九才まで悪いことをし、偶像を拝みました。しかしイエス様にお会いしたことによって罪が赦され、罪から救われて、新しく生まれ変わって、天国に行くことができることは何と素晴らしいことでしょうか。
 今日は、死んだらどこに行くのか不安な人、努力しても悪いことから解放されない人がおられたら、この時にお祈りしましょう。
 「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来た」と書かれていますので、どんな罪があっても赦されます。ですから、罪を認めて、「自分が悪かった。私のために、イエス様が死んでくださった」と信じたら、素晴らしいクリスマスを迎えることができます。お祈りしましょう。


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