神が人となられた日

2003.12.21(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

新約聖書 ヨハネの福音書 1章1節〜14節
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 ハレルヤ!クリスマスおめでとうございます。今日は、素晴らしいクリスマス礼拝を守ることができて感謝します。この礼拝で、クリスマス気分を満喫していると思います。しかし、案外、クリスマスの本当の意味を知らない人が多いのです。
 一般では、「クリスマスって何の日?」と子どもたちから聞かれて、答えることができない親もいるかも知れません。親にとっては、プレゼントをあげなければならないから「クルシミマスだよ・・・」などと言ってごまかしたり、Xmasと書くのでXは未知数なので、わけの解らないお祭りだとか、または、サンタクロースの誕生日だと考えている人も、いるかも知れません。
 クリスマスは、イエス様の誕生日です。神が人となられた日、それがクリスマスです。なぜ、クリスマスにプレゼントを贈り合うのかというと、神が人類にプレゼントを下さったからです。決して、サンタクロースがプレゼントをくれたのではありません。
 クリスマスになると親は子どもに嘘をつきます。「良い子にしていると、朝になるとサンタクロースがプレゼントを持って来てくれるよ・・・。」
 朝起きると、遠い国からプレゼントが届いているのです。遠い国からサンタクロースがそりに乗って、プレゼントを運んでくれると子どもは夢を見ているのです。
 クリスマスの朝、ある子どものところに、素晴らしいプレゼントがあったそうです。子どもは感動して、「お母さん、サンタクロースが私にプレゼントをくれたの。でも、サンタクロースって、以外に近くに住んでいるんじゃあないの?」と聞きました。
 「なんでそんなことわかるの?」「だって・・・プレゼントの包装紙がユニーのだもん」
 クリスマスは人を楽しませ、心に希望を与える季節です。イエス様がこの地上に来て下さったことが、今、全世界でお祝いされています。
 聖書は、『初めに、神が天と地を創造した。』と記しており、人も神が造られたと教えています。すべての前提がここにあります。
 日本人がなかなか神を知ることができないのは、神々を信じているようで、実は、進化論を真理かのように信じているからです。聖書は、すべては神によって創造され、私たちも被造物であると教えています。創世記一章二十七節に、
『神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。』
と記されています。世界中の人々が、このことを理解したら世界は変わると思います。一人ひとりが神の作品です。
 しかし、私たちの周りを見るときに、神によって創造されたのにも関わらず、世界は混沌としていて多くの問題があります。今年一年間を振り返っても、あまり良いニュースはなく、悪いニュースが飛び交いました。これから世界はどうなってしまうのだろうか・・、と心配になります。なぜこんなに不幸な世界ができてしまったのでしょうか。
 それは、人間が罪を犯したからです。神の言いつけ通りに歩めば良いのですが、神の言いつけに背き、その結果、エデンの園という楽園を追い出され、人類に不幸が入りました。創世記三章二十三節に、
『そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。』
と記されています。初め、人類は「エデンの園」という、何不自由のない楽園に生かされていました。しかし神が一つだけ人に言われました。「この楽園で自由に過ごして良いけれど、一つだけ守って欲しいことがある。それは、善悪を知る木の実だけはとって食べてはいけない」神が一つだけ、人間に守るように規定を置かれました。
 しかしその中に、一つの存在が関わってきました。それが「蛇」でした。「蛇」とは、「悪魔」を象徴しています。
 悪魔が来て、「アダムさん、エバさん、食べても大丈夫ですよ。食べると神のようになれますよ。」と誘惑しました。それでアダムとエバは神の声ではなく、悪魔の声に従い善悪を知る木の実を食べたのです。ゆえに、人はエデンの園から追放されました。
 人類の不幸の原点は、神の言葉に従わなかったことです。私たちは教会に来て、神の言葉を学びます。日本の学校では聖書を教えてくれません。普段でも、聖書を学ぶ機会はありません。しかし、教会は神の言葉を学ぶところです。神の言葉を学ぶときに、幸せに生きることができます。
 それと共に、人間が不幸になった原因は、神の言葉よりも、「悪魔の声を聞いたこと」にあります。人間はもともと、霊的な世界に対して耳が開かれた存在です。
 神も悪魔も、目に見えない霊的存在です。神は、天地万物を造ったのですから、体があったとしたら、とても大きな存在です。地球、太陽、星など全部を造られたとしたら、体があったら大きすぎて見えるはずがありません。
 しかし、神は目に見えない霊的な存在なのです。悪魔や悪霊も霊的な存在なので、目には見えません。アダムとエバは、それら、霊的存在と会話しているのです。ということは、人間には元々、霊感というか、霊的な存在とコミュニケーションする機能が備わっているのです。神の声も、悪魔の声も、どちらも聞こえるのです。けれども、どうも悪魔の声の方がよく聞こえるようです。
 聖書は、悪魔の声を聞いてしまうと不幸になる、と最初に教えています。教会に来ると、神様の声がよく聞こえるようになります。そして、いままで人生の中で、悪魔の声をたくさん聞いていたことに気づかされるのです。何が悪魔の声なのか、神の声なのか、わかるようになり、正しい霊的コミュニケーションが回復します。
 初めの人間アダムとエバが罪を犯し、悪魔の声に従ったことにより、人類の中に不幸が入ったのです。そのため世界は混沌とし、今まで続いています。
 神様は、人間をご自分の作品として造られたので、その世界を回復するために、救いのプログラムを開始されました。
 聖書全体を「救い」というテーマで読むと、よくわかります。聖書は、神が人間をどのようにして救おうとされたのかの記録です。
 神はサタンに渡った人類を、どうやって救おうかと考えました。それでまずは、人類の中に「預言者」を送りました。それまで人類は、神の言葉が聞こえなくなっていましたが、特別、神の言葉を聞くことができる機能を持たせた、預言者を地上に送りました。人々が預言者の語る言葉を聞くならば、神の意志を知ることができるという、救いのプログラムから始められました。
 預言者は、この世の占い師とは全く違います。預言者とは、特別、神に選ばれた存在でした。
 日本には、まやかしものの占い師が多くいますが、そんなところに行ってはいけません。占い師はまず人を見て、「あなたのお父さんは死んでいませんね」と言います。すでに、父親が亡くなっていたら、「死んでいません」と理解します。しかし、もしも生きていたら「死んではいません」と理解するのです。
 神の預言者は、この世の占い師とは全く違います。世の中には存在しないような概念を人に語りました。例えば、イエス様の誕生に関しても、イエス様が生まれる七百年前に、預言者イザヤがはっきりと預言しています。当時は、天地万物を造られた神が人となる、などという概念は全くありませんでした。しかし、イザヤ書九章六節には、
『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。』
「ひとりの男が生まれる。その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」と記されています。これはイエス様のことです。「神が人となられる」とイザヤはここで、当時の人々が思いもよらない事柄を預言しています。
 聖書をしっかりと勉強したら、これは不思議な書物であると思うはずです。イエス様の誕生が架空のおとぎ話ではなく、事実であることがわかります。もしも疑問に感じたら、イザヤ書を歴史的に調べてみて下さい。これはイエス様が生まれる七百年前に書かれた書物です。その中に、イエス・キリストの誕生にかかわる預言があるのです。
 このように、初め神は、預言者を通して人類に話しかけました。人々が預言者から聞くならば、神の意志を確認できたのです。
 しかしそんな言葉だけを人類にかけていた神が、その存在を現わされた瞬間がありました。それが「クリスマス」です。ヨハネの福音書一章十四節に、
『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。』
 旧約聖書の時代には、言葉しか聞こえませんでしたが、その言葉を語っていた神ご自身が人となって現れて下さったのです。
 時々電話で話をしていても、顔を見たことがない人がいます。また、メールは届いても、一度もお会いしたことがないという方もいます。旧約聖書の時代は、ちょうど電話だけであったり、メールが届いているだけのような時代でした。語っている方と、お会いしたことがなく、顔がわかりませんでした。
 しかし新約聖書の時代になり、クリスマスを通して、神が人となって現れて下さいました。それで「人類にずっと語り続けて下さっていたのは、この方だった!」と分かったのです。
 ヨハネの福音書の著者は、「その方、イエス様」に会いました。そして、イエス様がどんな方であったのかについて記録しています。
 「この方は恵みとまことに満ちていた」と記されています。旧約聖書の中に、神が人類に送ったラブレターのような、素晴らしい言葉があります。それがイザヤ書四十三章四節に記されています。一度は罪を犯し、荒野に出てしまった人類に対して、神はメッセージを送っています。
『わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。』
 「わたし」とは、神様のことです。「あなた」とは私であり、あなたです。神様の目にはあなたは高価で尊い。神様はあなたを愛しているという言葉です。神が人を愛している、と言うのが聖書のメッセージです。
 これは日本人には、なかなか受け取りにくいメッセージです。神が人を愛するなどとは、およそ日本人には信用できません。なぜなら、日本で拝まれている神々は、怖い鬼のような顔をしているからです。それは仁王であったり、閻魔であったりします。そんな神々に愛してもらってはたまらないと思いませんか?
 皆さんがクリスチャンになる前には、神社仏閣に行き、「神」と信じて拝んでいたものはどんなものでしたか?
 しかし日本人と同じように、ユダヤ人も神を信用していなかったのかも知れません。「神が愛してくれる」などと言われても、神は裁きを行う怖い存在ではないかと思っていました。
 しかし、神が人となられて、言葉が人となって人の間に住まわれ、その光景を見ました。そして「恵みとまことに満ちていた」とレポートしました。
 イザヤが預言した、「わたしの目には、あなたが高価で尊い。わたしはあなたを愛している」という言葉が、真実であると分かったのです。神とは角が出ていて、手がたくさん生えていて、何か持ってこないと罰を与えるような存在ではなく、人を愛される素晴らしい存在だと人類が確認した瞬間、それがクリスマスです。
 私たちが仕え、信じている神様は、恐ろしい存在ではなく、「恵みと愛で満ちておられる方」です。「わたしの目にはあなたが高価で尊い、わたしはあなたを愛している」・・愛されていることを知るだけで、人は安らぎます。
 今日皆さんは誰かから愛されていますか。ご主人から愛されている奥さんは幸せです。「主人から愛されている」と信じている、私の家内は幸せです。互いに、愛し合っているので平安があります。
 また子どもたちや、周りの人たちの愛を知ることは嬉しいです。教会に来ると、皆、ファミリーになります。遠い親戚よりも、ずっと近く、互いに愛し合うことができます。
 しかし人間の愛には限度があります。だから、教会に来て、「ここには愛がある」と思っても、そこでとどめて下さい。もちろん教会には愛がありますが、教会で人間の愛だけを求めたら、必ず失望します。人に対して愛をかけようと思っても、限度があります。
 私も牧師として、一人ひとりを愛して仕えたいと願いますが、自分に限度があるとよくわかります。人の愛には限度があります。しかし、神の愛は無限です。無限の愛で私たちを愛して下さっています。神から迷い出ていったような人をも愛し、イエス様は、人となってこの地上に来て下さいました。このクリスマスは、神の愛を確認するときです。
 今日、神が愛して下さっていることを確認し、その愛をつかむことができたら、幸せになります。神は一人ひとりの名を呼んで「わたしはあなたを愛している」と言われます。
 聖書の中にザアカイという人物が出てきます。彼は悪い人でしたが、イエス様が彼に出会ったとき、初対面にもかかわらず、木の上に登っているザアカイを見て「ザアカイよ!」と個人名を呼ばれました。
 今日、イエス様は、一人ひとりの名前を知っておられます。私たちは神に愛されている、高価で尊い存在です。神の愛が人類に示された日、それがクリスマスです。
 先週はロンブラウン・クリスマスコンサートがありました。素晴らしいコンサートでした。今回は、昨年のゴスペルコンサートに比べて、はじめ少し集まりが悪かったので心配していました。文化会館を人でいっぱいにするのには、どうしたら良いのかと考え、祈っていました。
 しかし、そこにも神の計画がありました。今回は私の心に、はじめから「通りに出て行って」という言葉が響いていました。普段、教会に来ることのできない人に、イエス様の愛を知らせるために通りに出て行って、引っ張って来なくてはいけないという思いが与えられました。
 コンサート開催の週の月曜日、会場がいっぱいになるのか不安になり、お昼に祈っていました。すると突然、「教会員全員に招待券を送り、誰かに、その招待券を渡すようにしなさい」という思いが与えられました。それで、午後すぐに招待券を発送しました。火曜日くらいには皆さんの手元に届いたと思います。また、その招待券をいろいろな人に手渡すことができたと思います。あれは神が与えて下さった知恵だと感謝しています。それにより、予定外の人々が多く来られました。神様は、私たちが予定している枠を越えて、人々を愛されていると実感しました。
 私はいま歯の治療をしています。その週には予約はなかったのですが、突然、仮歯がとれてしまいました。それで歯医者に電話をしました。すると、「明日は休みだ」と言われました。でも一日我慢をして、チケットを手渡そうと考えました。翌々日チケットを贈呈すると、奥様が来て下さいました。神はすべての人を愛されており、私たちが普段ではあまり考えない人たちにも、同じ愛が注がれています。
 数年前に、全米で八十万部以上のベストセラーになった絵本があります。それは『大切なきみ 〜You are special〜』です。それは、神が人間を愛されているということを題材にしたストーリーです。
 エリという彫刻家が、「ウイミックス」という小人を多く作りました。すると、その小人たちが動き出して、社会を作りました。そして彼らは、自分たちでルールを作り生活を始めました。そのルールとは、「失敗をしたら灰色シール」、「成功したら金色シール」を貼り合うというものでした。小人たちは常にシールを持ち歩いていました。誰かが失敗すると、すぐに飛んでいき灰色シールを貼りました。また、成功したときには金色シールを貼ってもらうのです。
 道を行き交う人を見ると、すぐにわかります。金色のシールを貼っている人は、堂々と歩き、灰色のシールを貼られた人は隠れるように通りを歩くような社会でした。
 その中に「パンチネロ」という小人がいました。彼は要領が悪く、失敗ばかりして、たくさんの灰色シールが貼られていました。だから、ちょっと引きこもっていました。外に出たくないとぼやいているときに、ルシアという元気な女の子に会いました。その子は不思議な子でした。彼女はどちらのシールも貼られていませんでした。それで彼女に興味を持ち、「なぜ、シールが貼られていないの。でも、元気だね・・。」するとルシアが、「私たちを作った、エリおじさんの所に行くと理由がわかるよ」と言いました。
 ある日パンチネロは、大変、落ち込むことがあり、「俺は駄目だ」と考えているときに、ルシアから聞いた話を思い出しました。それでエリおじさんの所に行き、エリおじさんの工房をそっと覗くと、おじさんは忙しそうに働いていました。目が合うと、優しい目で、「おー、パンチネロ。元気か?」と言いました。
 「僕のことを知っているのですか?」「当たり前だよ。私が君を作ったのだから・・・。知らないはずがない。」
 パンチネロはエリの近くに行きます。そして色々と弁解し始めました。「僕は一生懸命やったんだよ。でもこんなふうになっちゃって・・・。」
 するとエリおじさんは彼を抱き上げて、作業台の上に置きました。「何もかも、わかっているよ。このシールは、私が貼ったのではない。同じ、ウイミックスが張ったんじゃあないか。私にとっては、一つ一つが愛おしい存在だ。パンチネロ、君を愛しているよ。」と言いました。
 その言葉を聞いたパンチネロは、心が明るくなり、気づくと灰色のシールが落ちていたという物語です。
 案外、今の時代はそのようではないでしょうか。色々な問題が世界中に起こっていますが、原点は、人間が人間を互いに評価し合っているところにあります。
 かつて日本は、「日本民族は最高だ、俺たちだけが金色シールだ。他の国々は皆、灰色シールだ!」といってアジア諸国に出て行き、灰色シールを貼りまくった歴史があります。それは、人間の高ぶりです。
 また、最近では、日本は経済的に悪くなったという理由で、他国から灰色シールが貼られています。
 ちょっとだけ肌の色が違うだけで、シールを張り合ったり、少し勉強ができたり、できなかったりでシールを貼り合っているのが現実です。
 ある方は、「私はたくさん灰色シールが貼られている」と言われるかもしれません。しかし人間社会でどのような評価があったとしても、神は同じ評価をされません。一人ひとりを愛されており、高価で尊いというのです。パンチネロを抱き上げたエリおじさんのように、「あなたを愛しているよ。なぜなら、わたしがあなたを造ったから」と語っておられます。
 今日もしも、灰色シールが貼られていたらイエス様を見上げて下さい。イエス様の所に行くと、灰色シールが落ちます。私たちは毎週礼拝に集い、一週間に貼られた、灰色シールや金色シールを剥がすのです。何も貼られていない人が一番元気です。私たちは神の作品で、互いに素晴らしい作品であることを認め合えることは素晴らしいです。
 最近、テレビで、高知競馬の「ハルウララ」という馬が話題になっています。私は競馬には興味はありませんが、ハルウララには興味があります。この馬は、初出走以来、今までになんと九十九連敗しており、先日は、百戦目があったそうです。今度こそ勝利するようにという応援歌が作られ、「頑張れハルウララ」と書かれた横幕まで出して多くの人が応援しましたが、またもや負けてしまい、百敗を期しました。
 そんなハルウララですが、さらに人気が出て、「ハルウララ号応援ツアー」が旅行社から売り出されています。
 負け馬に、なぜ人気が出るのだろうかと思います。馬自身は勝っても負けても関係ないのです。人々は、ハルウララ号の連敗を、自分の人生に重ねているのではないでしょうか。また、現代の日本ともだぶるからではないでしょうか。失敗にめげずに、立ち上がるところが受けていると思います。過去、どんな失敗があっても、神は決して見捨てられません。九十九連敗しても、見捨てないというのが聖書のメッセージです。
 ロッキーという映画がありますが、それも、ダウンしてもまた立ち上がるから共感を呼びます。「明日のジョー」もそうです。ノック・ダウンさせられても、ノック・アウトされないところが共感を呼びます。
 クリスチャンの人生も、時として、ノック・ダウンさせられることがありますが、絶対に、ノック・アウトされることはありません。今日、ノック・ダウンされている人がいるかも知れませんが、信じて下さい。「あなたは、ノック・アウトはされません。」
 最後には、ロッキーのように勝つのです。クリスチャンの人生は、最終的には勝利します。
 アメリカの新聞に「この男を見よ。勇気が湧く」という記事が載ったそうです。
「もし君が時に落胆することがあったら、この男のことを考えてごらん。
小学校を中退した。田舎の雑貨屋を営んだ。
破産した。借金を返すのに十五年かかった。
結婚した。不幸な結婚だった。
下院に立候補。二回落選。上院に立候補。二回落選。
歴史に残る演説をぶったが、聴衆は無関心。
新聞には毎日叩かれ、国の半分からは嫌われた。
こんな有様にも関わらず、想像して欲しい。
世界中至るところの、どんなに多くの人々が、この不器用な、不細工な、むっつりものに啓発されたことかを。
その男は、自分の名前をいとも簡単にサインした。アブラハム・リンカーン」
 アブラハム・リンカーンという、アメリカの奴隷制度に終止符を打つという偉業を成し遂げた男の人生を見ると、ノック・ダウンの連続でした。しかし、何度も立ち上がり、最後にはアメリカの大統領となり、世界で最も自由な国アメリカの基礎を作りました。今でも世論調査をすると、リンカーンを尊敬するという人が一番多いのです。
 彼はなぜ、立ち上がることができたのでしょうか?それは、彼がイエス様を救い主として信じていたからです。神が人となられた方・イエス様を救い主として信じていたゆえに、彼は立ち上がることが出来たのです。
 イエス様はこの地上に来て下さいました。ノック・ダウンされて倒れている人を助けるために来て下さいました。
 人類は誰によってノック・ダウンされたのでしょうか。人類が最初、楽園から追い出されたきっかけは何だったでしょうか?それは、神の声ではなく、「悪魔の声」を聞いたゆえでした。イエス様がこの地上に来られた目的は、ヨハネの手紙第一三章八節に、
『罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。』
と記されています。イエス様がこの地上に来られた究極的な目的は、「悪魔の仕業を打ちこわすため」でした。
 人の不幸の根源に、悪魔の仕業があります。しかし、イエス様が来て下さり、楽園から追い出された根源である、蛇の力を打ち破って下さったのが、クリスマスです。
 イエス様を信じるときに、蛇の力を打ち負かすことができます。なぜならば、悪魔の力を打ちこわすために、イエス様は来られたからです。
 今までノック・ダウンされていた人々が、イエス様によって立ち上がるのは、イエス・キリストによって悪魔の仕業が打ち破られた結果です。教会は唯一、イエス様の力によって、悪魔の力に勝利できる場所です。世界中の軍隊が出動しても、悪霊一匹やっつけることはできませんが、教会が立ち上がるならば、また、イエス・キリストによって立ち上がるならば、悪魔は即座に倒れます。
 そのために、イエス様は人となってこの地上に来て下さったというのが、クリスマスのメッセージです。
 今日一人ひとりに、神の目が注がれ、愛が注がれています。どんなに、灰色シールが貼られていても、ノック・ダウンされていても、立ち上がることができます。
 なぜならば、イエス様が既に、世に勝ってくださり、悪魔に勝ってくださったからです。今日、神が人となって下さったこの日に、人からの評価ではなく、神の愛に満たされて帰っていただきたいと願います。お祈りします。


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