その名はイエス

2003.12.28(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

新約聖書 ルカの福音書 2章21節
八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。

 ハレルヤ!今日はいよいよ、二〇〇三年最後の日曜日となりました。あなたにとって今年はどのような年でしたか?
 先日の新聞に、新城市長の談話がのっていました。それは、「今年は、二十数年の政治生活の中で最悪の年でした。日本中を騒がした誘拐殺人事件や、一度に数人が亡くなった東名高速道路での事故も起こりました。ヘリコプターでも借りて、上空から街に塩でもまいた方が良いのではないか、という意見まで出たほどでした。」と語っていました。今年は新城市にとっては大変な年でした。
 しかし、私にとっては、五十二年間の人生の中で、最高の年だったと言うことができます。妻をゲットした時も最高だと思いましたが、それ以上に、今年は最高でした。主が私と共に働かれ、新しい扉が開かれた一年でした。来年は更に、素晴らしい年になると信じています。「主のご計画は、素晴らしい」と実感した年でした。来年もイエス様が共におられたら、最高の年となります。「今、最低だ」と言う人もいるかも知れませんが、イエス様に期待してください。今は、あなたの人生を最高に導く、過程上にあるのです。
 「二〇〇四年は、あなたにとって最高の年となります!」と預言的に宣言し合ってください。
 あと数日すると二〇〇四年となりますが、なぜこの時期に「一月一日」が設定されたのかを、考えたことがありますか?そこには、聖書的な意味合いがあります。
 さて、先週まで、クリスマスをお祝いしていましたが、イエス様の誕生日が「十二月二十五日」という、聖書的根拠はありません。イスラエルの十二月は寒いのです。羊飼いが外で夜番できるような時期ではありません。
 では、なぜ十二月二十五日がクリスマスに設定されたかというと、かつて、ローマ帝国は偶像礼拝の国でした。ローマは宗教的には、ギリシアからの強い影響を受け、ギリシア神話の神々を自国の神々とした国です。特に、彼らは熱心に太陽礼拝をしていました。そんな中、特に、真剣に太陽を礼拝したのが「冬至」でした。
 冬至は、一年で一番日が短くなる日です。人々は二度と太陽が出てこないのではないかと不安になり、太陽を礼拝しました。すると、その日を境にまた、日が長くなります。昔は科学も発達していなかったので、そのように考えたのでしょう。太陽を拝むのではなく、太陽を造られた神を拝まなければなりません。
 そんなローマに、クリスチャンが福音を伝えました。多くの偶像がある中で、困難に耐えながら福音が伝えられ、やがて国が変えられていきました。そして、ついには、四世紀にキリスト教が国教とまでなりました。
 キリスト教が国教となったため、皇帝はいままでの太陽礼拝の日を、そのままイエス様の誕生日に置き換えたのです。それが現在のクリスマスとして、定着したのです。根源には、太陽礼拝がありますので、主の日としてとりもどす宣言をしなければなりません。太陽を造られ、すべてを支配されている神であるイエス様を、私たちは礼拝しなければなりません。
 クリスマスにはそんな背景がありますが、新年は、十二月二十五日から数えて八日目です。それにはどのような意味があるのでしょうか?ルカの二章二十一節に、
『八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。』
と記されています。昔のユダヤ教の習慣では、男の子は生まれて八日目に割礼を施して、それから名前を呼びました。名前が決まっていても、八日間は名を呼んではいけませんでした。そのため、イエス様も、八日目の割礼を受けた日から、「イエス」と呼ばれました。そんなわけで新年とは、「イエスと呼ばれはじめた記念日」です。
 日本が西暦に置き換えられたのは、明治のことです。明治五年十二月二日の翌日を、明治六年の一月一日と定めました。それまで日本は、太陰太陽暦という、月の満ち欠けと太陽の運行を混ぜた暦を使っていました。それまでは一年が十二ヶ月の年と十三ヶ月の年があり、三年に一度閏月が繰り返すものでした。そのため、ときには季節感がずれました。
 日本人は一月一日に初詣に行きます。偶像のところに行き、偶像を拝んでいますが、現在の「一月一日」は、「イエス」という名が全世界に宣言された日なのです。
 ですから、一年は「イエス」という名前から始まるのです。あなたの年はイエス様と共に始まります。「イエス」という名前で呼ばれた日、それが私たちにとっての新年です。
 イエスという名前は、御使いによって付けられていたと記されています。聖書の預言は、始め影が来て、その後、実体が来るという順序と展開があります。始めに預言があり、やがてそれが実現します。
 ある意味で、私たちの人生も原則は同じです。まず神は私たちに、サンプルとなるような影を示し、やがて、それが本格的に実現します。時には、神の人による預言があるかも知れません。または、人生に何か、しるしとなるような事柄を起こされるのかも知れません。しかし、やがて、神の計画が本格的に始まる日が来ます。
 新城教会にも、九十二年にその影が訪れました。それは聖霊の激しい訪れでした。その時、私も聖霊に触れられ変えられました。それまでは、「滝元明先生は良かったが、息子の代で新城教会は消滅するだろう」と言われていました。しかしそれを神は許されませんでした。主は私を、変えてくださいました。九十二年に私に聖霊が注がれなかったら、皆さんが今ここにいても、あまり良いことはなかったかも知れません。しかし、聖霊様によって、私も、皆さんも変えられました。
 聖霊の注ぎとは、一つの影です。その後、必ず、実体が訪れます。神がその人や教会に持っておられる使命を明らかにされるのです。そのために、聖霊は注がれます。九十二年に、聖霊の注ぎがあったことは、やがて何かを、新城教会に本格的に行うための前ぶれであったと信じます。ですから、私は「二〇〇四年」に期待してます。
 さて、私にとって二〇〇三年は、神の偉大な力を見た一年でした。私は、一月から自分の意志とは違ったところに導かれていきました。特に、日本の霊的戦いだけではなく、世界をとりなすようにと、主は私を導いてくださいました。三月には、ブラジルにも行きました。ブラジルにはたくさんの教会があります。それを見て、日本もそのようになると信じて帰ってきました。他にも、色々な国々に導かれました。二〇〇三年は、私が考えていなかったことを主が起こしてくださいました。ですから、二〇〇四年は、神の計画がさらに明らかにされる年になると、大きく期待しています。
 遡れば聖霊様が訪れられた「一九九二年」、それは、私たちにとって大きな試練の年でもありました。聖霊が注がれ、続けて霊的戦いが始まり、色々な問題が起こり、教会はとても弱くなっていました。私はがっかりしていました。「これから、どうしたら良いのですか・・」と、毎日、主の前に叫んで祈っていました。
 そんな時、アメリカから、シンディ・ジェィコブス先生が来られてこの場で、預言されました。それは、「やがて主は、この教会に御手を伸べられ、素晴らしいことをなされます」と言うことでした。その中で、「この教会に印刷所ができます」と言われました。当時にも印刷所がありました。岡本信弘先生が六畳の部屋で、小さな印刷機を動かしていました。しかしこの十年で、「プレイズ出版」ができました。また、「神学校ができる」とも語られました。「そんなものが、果たしてできるだろうか」と思っていましたが、本当に神学校ができました。そして一月からは、新校舎の工事が始まります。
 また、「この教会から、新しい賛美がたくさんできます。また、それが外国語に翻訳され、海外でも歌われるようになります」と語られました。
 昨日、渥美町でヘブンリー・キングダムのコンサートがありました。町が主催するコンサートでした。「こんなにストレートに、福音が語られて良いのだろうか」と心配になるほど素晴らしいコンサートでした。その中で、この教会でできた賛美が英語で歌われました。
 神ははじめ、影を見せてくださいます。しかし、徐々にその実体が見えてきます。皆さんの人生にとっても同じです。クリスチャンの人生は、決して敗北はありません。先週語ったように、ノック・ダウンさせられても、絶対にノック・アウトはありません。ロッキーのように、明日のジョーのように倒れても立ち上がり、最後には相手をノック・アウトするのです。
 イエス様の名前が付けれられるとは、すごいことです。「旧約聖書の時代」は、影の時代でした。やがて、救い主が生まれるということを、人々に知らせるための影の時代でした。そのような視点で聖書を読むと、聖書がよくわかります。
 旧約時代の礼拝は大変でした。自分勝手な場所では、礼拝できませんでした。祈りもそうでした。神は、ただ一ヶ所、エルサレムに宮を建てられました。そこに行って祈れば、神は祈りを聞くと言われました。しかし「祈りたい」と思っても、神の宮に行かなければなりません。成人男子は、エルサレム巡礼が年に三度ほど決まっていました。神の宮に行き祈ると、神は祈りを聞くというシステムでした。
 家で子どもが病気になり、百キロ先の神の宮に走って祈りにいくうちに、子どもが亡くなったこともあったと思います。しかし、なにしろ神の宮に行くことが要求されたのです。
 歴代誌第二の五章には、神の宮が完成した奉献式の様子が書かれています。五章十三節、十四節に、
『ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」と主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。 祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。』
と記されています。人々が宮に集まり、賛美したら、その宮が雲で満ちたとあります。神の栄光の雲が宮に満ちて、祭司たちはそこに立つことができませんでした。
 そんな礼拝に参加してみたいですね。来年は、新城教会も、そのような礼拝がささげられる場所になりたいです。皆が心を一つにして、主をほめたたえるときに、主がそこに臨在をもたらされます。
 かつて、エジプトから脱出したイスラエルを、昼は「雲の柱」が導きました。それは主の臨在です。同様に、主の臨在が宮に満ちたと記されています。しかしこれは、後に始まる事柄の影でした。
 歴代誌第二七章十一節から十四節に、
『こうしてソロモンは、主の宮と、王宮とを建て終え、主の宮と自分の宮殿に対して実施しようとソロモンが思っていたすべてのことをみごとに実現した。すると、主が夜ソロモンに現われ、彼に仰せられた。「わたしはあなたの祈りを聞いた。また、わたしのために、この所をいけにえをささげる宮として選んだ。もし、わたしが天を閉ざしたため雨が降らなくなった場合、また、いなごに命じてこの地を食い尽くさせた場合、また、もし、わたしの民に対して疫病を送った場合、わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。』
 ソロモンは、神の名が付けられている宮に行き祈るときに、「その地をいやしてくださる」という約束を神からいただきました。
 来年は、国のために真剣に祈る必要があります。日本の情勢を見ても、世界的な大きな悪の渦にだんだん引き込まれているのを感じます。第二次大戦後、五十数年間にわたって日本は戦争をしないで来ました。しかし、イラクに自衛隊が派遣されたりして、段々と日本も戦争に巻き込まれてしまうのではないかという、不安もあります。何か、どうにもならない、世界的な渦があります。
 また国内にも、悪いことがたくさん起こっています。十年前と比べると、今の方がずっと悪いです。ということは、十年後はもっと悪くなります。それは歴史が物語っています。放っておくと、国はどんどん悪くなります。それは、悪魔が真剣に国を破壊しようとしているからです。こんな時、神の宮に集うものたち、すなわち、イエスの名を身に帯びた者たちが祈るなら地を癒す、という約束を信じて、町や国のために祈らなければならないのです。
 そもそも、日本の町にはイエス様の名ではなく、悪魔の名が付けられています。偶像、すなわち、悪魔の名の下に町が建てられています。何気なく私たちは住んでいますが、新城市は、神話上の「大国主」を本宮山頂に招いて作ったとあります。この町には、イエス様の名ではなく、悪魔の名前が付けられています。この町のために祈らなければなりません。霊的な土台をとられています。
 
 実は、二週間前に私は、中国に行きました。なぜなら、主が中国で祈るようにと、迫られたからです。私の娘は中国語を勉強しているので、彼女が卒業する前に、中国とりなしツアーを行いました。人生ではじめて、娘が頼りになりました。
 北京を調査し、日本との悪いつながりが断ち切られるようにと、祈ってきました。かつてギリシャがローマに影響を与えたように、日本は中国からの影響を受けて成り立っています。日本の町や国作りは、中国の影響を強く受けています。特に、「風水」が大きく関わっています。それはオカルト・システムです。
 北京の町は風水で作られています。真の神の名が付けられておらず、龍の名が付けられいます。その中に、主の栄光が現されるためには、イエス・キリストの名が付けられている主の民が祈ることが大切であると教えています。
 旧約の神の宮が影だと言いましたが、実は、神の宮の実体は「私たち自身」でした。私たちは、動く神の宮なのです。第二コリント六章十六節に、
『神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。』
と記されています。私たちは、「生ける神の宮」です。かつて、神の宮にいかなければ礼拝できませんでした。しかし、それは古い契約の時代でした。今は、イエス様の十字架と復活による新しい契約によって、私たちが神の宮であり、私たちと共に神が住んでくださるのです。
 マリヤは処女でした。しかし、マリヤはただの人でした。カトリックは、マリヤには罪がなかったと言いますが、それは完全な間違いです。
 イエス様が「処女」からではなく、ヨセフとの間に生まれたのならば、私たちの信仰は、何の意味もありません。人と人との間に生まれた者は、すべて罪人だからです。罪の遺伝子が皆にあります。赤ちゃんが産まれて、「罪も汚れもない子だ」とはじめは言いますが、やがて誰も教えないのに罪を犯すようになります。イエス様が、もしも夫婦の間に生まれたのならば、神ではなくただの人です。処女マリヤからイエス様が生まれたのは、汚れた人間に、聖霊により宿ったためです。
 それはあたかも、神の宮のようです。かつて、旧約時代に、神の宮に臨在が現れたのと同じように、私たちの中にも主の臨在が現されるという、預言的なことでした。
 あなたと共に神がおられます。イエス様が共におられます。なぜならば、イエス様の名前があなたに付けられているからです。イエス様の名を中心にして生きるならば、間違いはありません。聖書は、「イエス・キリスト以外に救いはない」と、はっきり宣言しています。使徒の四章十二節に、
『この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」』
と記されています。ヨハネ一章十二節に、
『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』

と記されています。あなたがイエス様を信じるならば、神の子となる特権が与えられます。またヨハネの福音書十四章十三節から十四節に、
『またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。』

と記されています。
 あなた自身が神の宮なので、イエス様の名前で求めるならば、与えられるのです。かつて神の宮に主の名が付けられていたがゆえに、そこで祈った祈りは神の元に届きました。そして今は、その実体が来ているので、私たちが祈る祈りは、どこからでも父なる神の元に直行します。神はあなたの祈りを聞いてくださるのです。
 今週は、二〇〇三年の最後の週を迎えていますが、来る二〇〇四年はイエス様の名で始まる年であることを意識し、二〇〇四年がイエス様の年であることを宣言しましょう。
 さて、ルカの福音書二章二十一節に、
『八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。』
 ここに、「割礼」という儀式について記されています。割礼はユダヤ人の誇りでした。それは「神の民に属する」という意味がありました。割礼を受けているか否かは、神の民に属するか、否かをシンボルしていました。新約時代になって、弟子たちの間で、異邦人に割礼を受けさせるか否かについて、激しい論議がありました。
 しかし、最終的には、割礼も一つの影でした。聖書は、割礼の意味についても教えています。ピリピ人への手紙三章二節から三節に、
『どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。』
と記されています。犬とは悪い働き人です。肉体だけの割礼の者であると書かれています。これはただの形式だけのクリスチャンを指しています。クリスチャンもただの形式だけでやっていたら、何の意味もありません。クリスチャンが、ただのアクセサリーではいけないのです。口先の、伝統的なクリスチャンではいけないのです。三節に、
『神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。』

と記されています。「割礼の日」とは、一年の祝福をも含んでいると思います。来年はこの中にある、「三つのポイント」を大切にしたいと願います。
 まず第一に、「神の御霊によって礼拝する」と記されています。
 来年は神の御霊によって礼拝することを、心がけてください。教会に来て、賛美がわき上がり、自主的に主を礼拝したいという思いになるのは、御霊の働きです。日頃の生活の中で、御霊によって礼拝することは、霊的割礼を受けた証拠です。それは一年を主と共に過ごす秘訣です。
 また、神の御霊によって礼拝することについて、ローマの十二章一節から二節に、
『そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』
と記されています。霊的な礼拝とは、「聖い、生きた供え物」を神にささげることです。それは、「聖く生きる」ことです。世の中は罪が満ちていますが、罪と戦い、聖さを保つことです。これが、霊的な礼拝であると教えています。そうすれば、主がともにおられます。罪から離れることです。罪を犯したら、悔い改めることです。悔いるだけではなく、「改め」なければなりません。ローマ十二章二節に、
『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』
 今年、「心の一新」ということを主は私に語られました。信仰は恵みによるのですが、救われたものは、「心の一新」が大切です。何が神に一番受け入れられるのか、何を神が喜んでくださるのかを考えながら、心の一新によって神の前に聖く歩むことが神の民としての義務でもあり、御霊による礼拝です。
 第二に、「キリストイエスを誇り」とあります。社会において、イエス様を恥じてはいけません。
 礼拝に行くときに、隣の人が「朝早くからお出かけですか。どこに行かれますか・・・」と聞かれると、「いゃ、ちょっと、そこまで」と言うのではいけません。次の週に「今日もお出かけですか。先週もそうでしたね。」と言われ、「ちょっと・・・」というのではいけません。「教会に通っています」とはっきり告げるべきです。イエス様を誇ることが大切です。「あなたって、クリスチャンだったの・・。隠れキリスタンみたいじゃん」と言われるようではいけません。
 来年は、イエス様の名前を高く掲げて、会社や家庭など、どこででもイエス様の名前を誇って下さい。イエス様の名前を恥じずにいたら、イエス様が共にいてくださいます。ルカ十二章九節に、
『しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。』
と記されています。「神の御使い」とは、救いを相続する者たちのところに遣わされる存在で、私たちを助ける存在です。しかし私たちがイエス様を誇っていないと、「神の御使いたちの前でも知らないと言われる」と記されています。それは御使いによる守りに支障が出るという意味かもしれません。イエス様を誇る者たちには、主の使いの守りが与えられます。
 第三に、「人間的なものを頼みとしない」と記されています。人間的なものではなく、御霊に寄り頼む者になること、御霊に導かれる人生を祈ってください。
 私は、今年、御霊に導かれたのを感じました。しかし、導きを感じたということは、裏返せば、人間的になった事柄も多くあったのではないか、と反省しました。
 「処女が身ごもる」とは、人間的なものではありませんでした。聖霊により、身ごもったのです。クリスチャン生活も同じです。罪あるものに、十字架により、御霊が直接介入してくださるのです。
 イエス様の十字架の勝利を通して、人間的なものではなく、御霊に頼ることが大切です。この教会が来年も祝福されるとしたら、御霊に頼るならば祝福されます。ですから、私のためにも祈ってください。常に、主が御霊によって導き、語りかけて下さるように祈ってください。
 ヘブンリー・キングダムが歌っているゴスペルに、「I pray for you. pray for me.」という歌詞の賛美があります。「私のために祈って!あなたのためにも祈りますから・・・」という賛美です。
 何を祈るのでしょうか。「御霊によって導かれるように」です。そうしたら、あなたは割礼を受けた者、すなわち、神の民に属する者です。
 来年が、イエス様の名が宣言される年となりますように。一年を終える最後の週に、もう一度、神のみ前に出て、イエス様の名前が付けられている者として、「生ける神の宮として、動く神の宮として私を遣わしてください。」と祈りましょう。
 神の御霊によって礼拝し、イエス様を誇りとし、人間的なものを頼みとせず、聖霊によって導かれる人生となるよう祈りましょう。
 今日は聖餐式がありますが、これはイエス様の十字架を記念するものです。すべての罪汚れをきよめていただきましょう。共にお祈りしましょう。


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