ニューイヤー・イブ・キックオフ・ワーシップ
〜2004年に向けての御言葉〜
パート1


2003.12.31(Wen)
新城教会 上條 実牧師
新城教会 滝元 開副牧師
新城教会 岡本 信弘牧師

上條 実牧師
ハレルヤ!二〇〇三年も祝福の中、無事過ごすことができましたことを感謝します。二〇〇三年は祈りで始まり、祈りで終わったような一年でした。年が明けた一月一日の新年礼拝には出席せずに、早朝から「飛行機一日乗り放題一万円」のチケットで、名古屋空港から北海道、そして東京、福岡と飛び、名古屋に戻ってくるというコースで、上空から日本をとりなすことができました。また毎週地域のために祈ることができ、つい先日も一日とりなし祈祷で京都を祈ることができました。一年間救い主であり、勝利者であるイエスキリストに祈ることが赦されたことは幸いな一年でした。私に与えられた二〇〇三年のみことばはエレミヤ書二十三章二十九節のみことばでした。

『わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。――主の御告げ。――』

このみことばを信じて、一年間みことばを大胆に宣言させていただきたいと思いました。先ほど言いましたように一月一日から日本の祝福を祈り、また私にとって初めての海外でのとりなし、インドネシアのバリ島に祈りに行くことができました。バリでは特に「ヒンドゥー教と日本の仏教と神道」とのつながりを断ち切る祈りをすることができました。バリ島から帰ってきて、日本の神社仏閣にとりなしの祈りに行くと、全くバリで見た建物の色づかいなどにそっくりな建物等を見て、ここはバリ島なのかと錯覚してしまう程、ヒンドゥー教は、日本にすごく影響を及ぼしていると感じます。しかし神のみことばは権威があります。信仰を持ってみことばを宣言する時、必ず勝利を与えて下さいます。今年一年間金槌で岩を砕くごとく、みことばで祈ることができた一年であったことを感謝します。
 また九月におこなわれた名古屋ミッションでも奉仕ができたことを感謝します。大変祝福された大会となり、決起大会を取らせて頂いたり、大会の運営にたずさわることができたことを感謝いたします。しかし九月十五日の午後一時からスタッフの方々と一緒に祈祷会を行っていた時に怪我をしてしまいました。右手中指の腱を切断してしまい、三週間ギブスをしていました。その中で神様が色々なことを教えてくださいました。ギブスを生まれて初めて経験しましたが、とにかく大変不自由でした。忍耐の時でした。しかしそのギブスを外した時の解放感は忘れることのできない時でした。今多くの方々が解放を必要とされています。苦しんでいます。自分が手の怪我でキブス外れただけで、ものすごい解放感を体験したように、問題や悩みをお持ちの方々が、霊的に解放が与えられ、神から喜びを頂かなくてはならないと思わされました。一年間ただ恵みだけを頂いたことを感謝いたします。
 さて二〇〇四年に向けて、教会にまた私にどんなみことばを下さるのですかと真剣にお祈りました。すると教会に、また私に神様はみことばを下さいました。それは有名なみことばですが第一コリント二章九節です。

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

二〇〇四年に向けて神様がこの御言葉を与えてくださいました。

『「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

二〇〇三年バリ島で祈るなんて考えもしませんでした。そのバリ島に行ったこともなく、行きたいとも思ったことすらない場所でした。しかし神様が不思議の中で導いてくださり、大きな祝福である、戦いが更に前進させて下さいました。更に新しい二〇〇四年は『「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』神様が、新城教会がまた私が、今まで見たことも聞いたことも思いに浮かんだこともないような祝福を与えてくださるという約束なのです。信じましょう。私にこの御言葉が与えられましたが、私は疑い深く、神様に更に与えて下さったみことばが本当に私にくださったものか分かるように、確信を与えて下さいと祈りました。すると神様はもう一つの御言葉を与えてくださいました。それは箴言三章十三節から二十節の御言葉です。

『幸いなことよ。知恵を見いだす人、英知をいただく人は。それの儲けは銀の儲けにまさり、その収穫は黄金にまさるからだ。知恵は真珠よりも尊く、あなたの望むどんなものも、これとは比べられない。その右の手には長寿があり、その左の手には富と誉れがある。その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である。知恵は、これを堅く握る者にはいのちの木である。これをつかんでいる者は幸いである。主は知恵をもって地の基を定め、英知をもって天を堅く立てられた。深淵はその知識によって張り裂け、雲は露を注ぐ。』

「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。」を神様が与えてくださると約束と同時に、「それの儲け(教会の祝福)は銀の儲けにまさり、その収穫は黄金にまさるからだ。知恵は真珠よりも尊く、あなたの望むどんなものも、これとは比べられない」と語ってくださいました。また「その右の手には長寿があり」これは教会員の方々が長生きし、「その左の手には富と誉れがある」経済的祝福がある。「その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である」また兄姉が毎日楽しい時を頂き、いつも平安な人生を歩み続けることができるということなのです。今まで霊的戦いの中で新城教会が苦しみ、どうしたら良いのかと立ち止まってしまったことが多くありました。今年は祝福の道を前進させて頂く年として下さるというのです。箴言三章の御言葉をぜひよくお読みください。素晴らしい御言葉です。皆さんに素晴らしい祝福を与えてくださる。またこの教会にも素晴らしい約束を下さいました。「岩を砕く金槌のようではないか」御言葉をしっかりと握り、今までは大変なところがあったかも知れませんが二〇〇四年は神様が大いに祝福してくださると信じて宣言して行きましょう。今まで教会や私たちを踏みにじり、支配を与えてきた悪魔・悪霊が打ち砕かれ、「見たことも、聞いたことも、思いに浮かんだこともないことを神が備えてくださっている」と信じましょう。収穫を神様が与えてくださり、私にとっても神様の素晴らしい祝福の年になると語っていただきました。二〇〇四年は神の祝福で大喜びし、来年には感謝で満ち溢れるような一年、ビックリするような祝福の報告をいただけると信仰を持って進んでいきましょう。

 

滝元 開副牧師
ハレルヤ!あっと言う間に一年が過ぎ、ここで御言葉を語ることができる恵みを心から感謝します。二〇〇三年に神様が創世記十五章五節の御言葉が与えられました。

『そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」』

今年神様がこの御言葉通りのことを行ってくださったと感じています。アブラムが信じられずにいた時に神様が「天幕から外に出て空を見上げるように」と導かれ、空を見上げた時に数え切れないほどの星があり、「そのような祝福をわたしはあなたに与える」と神様がアブラムに言われました。この教会にとっても私自身の日々の歩みにおいてもこの御言葉が形になった年であったと感じました。この教会のとりなしの枠も一つの天幕から出て海外へと広げられ神様の御わざが現されました。また、ざわめきの働きにおいても皆様のお祈りに支えられ、二月にはライブCDのレコーディングをさせていただき、これも私が考えることができない祝福でした。また日本中色々な所でざわめきワーシップシャウトをさせていただき、神様が私たちの行く先々にご臨在を現され、大きな勝利を見せていただきました。神様が日本に働いてくださっていると強く感じる一年でした。また、家内と二人で毎月ストリートで賛美をささげる働きを通しても大きな神様のご臨在を見させていただきました。賛美の中で毎回新しい方との出会いがあり、そこに神様の栄光が現されました。また、十二月十三日には初めて少年刑務所で賛美させていただきました。そこには二十代から三十代の百五十二名の方がおられ刑務官がいる中でのコンサートでしたが、神様のご臨在を感じました。ざわめきの働きで色々なところで賛美をし、最後に神のご臨在が満ちているのを感じる時がよくありましたが、その刑務所でも神様がおられることを強く感じ、神様の御名をあがめました。神様の御言葉がストレートに語れ、そこにいる方々が受け止めてくださっているのを見て神様がここにも来てくださったと信じ、感謝しました。イエス様は「わたしは罪人を招くために来た」と言われましたが、コンサートの中でそれを見ることができました。リバイバルの視点の中でイエス様がそのような中に来てくださっていることを強く感じました。私たちはそこから引き揚げますが、「そこに聖霊様とどまってください」と祈って帰って来ました。イエス様ご自身のご臨在がそこにありました。日本の罪深い所にイエス様が来てくださり、この日本を変えてくださいと心から祈ってます。祝福をたくさんいただいた一年でした。皆さんのお祈りを心から感謝しています。
 リバイバルの働きは人の手によるものではありません。神様の御手が動くか動かないかです。私たちがどんなに手を動かしてもどうにもならないようなところに神様の御手が動き始めることがリバイバルです。二〇〇四年に向けて与えられた御言葉はダニエル書二章三十四節です。

『あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。』

ダニエル書には終わりの日に対する預言の御言葉がたくさん書かれています。神様の働きは私たちの手によるものではなく、神様の御手の働きです。人手によらず神が切り出された石が転がって行きその像を打ち砕いたように神様の新しい御わざが既に動き始めていると信じています。聖書を読むと、神様の御手の勝利についてたくさん書かれています。ざわめきの働きにおいて二〇〇三年は第二歴代誌二十章の御言葉が与えられていました。『「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」』神様に賛美をささげる中で神様の御手が動き、敵を打ち破られたという記事があります。私たちの働きが人の手によるのではなく、神の手による御わざを現していただきたいです。師士記の中にギデオンという勇士が出てきます。彼が十三万五千人のミデヤン人と戦うときに、神様は勇士を三百人まで削減されました。そして十三万五千人に対して三百人で勝利するためには大きな信仰が必要でした。師士記七章二節に、

『「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。』

と記されています。神様がくださる勝利は神様ご自身の御手が動かされるものです。人間の手が動いてしまうと「私たちはやった。この手で自分を救った」と思うのです。だから神様はギデオンに勇士を削減するように言われ、三百人で十三万五千人を打ち滅ぼしました。
 また出エジプトの時も、モーセが大きな勝利をもたらしたようですが、働かれたのは神様の強い御手でした。モーセが引き出されて最初に神様は「あなたの手にあるものは何か」と言われました。モーセの手には杖がありましたが神様は「その杖を投げなさい」と言われました。あなたの手でやるのではなく、その杖を投げなさいと言われました。そしてその杖を投げると、その杖が奇跡を起こし呪術者の力を打ち砕く働きなどをしました。モーセも自分の手でしようとする時には大きな失敗をし、神様の御手が動いたときには大きな祝福がありました。モーセがカナンの地に入れなかった原因の一つは、神様が「岩に命じたら水が出る」と言われたにも関わらず、彼は自分の杖を手でもって岩を打って水を出しました。それゆえに彼はカナンの地に入ることができませんでした。出エジプト記六章一節に、

『それで主はモーセに仰せられた。「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる。すなわち強い手で、彼は彼らを出て行かせる。強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう。」』

神様の強い御手が大きな勝利をもたらしました。聖書の記事はこのように物語っています。人の手が動いたときに神様の御手が引いてしまいます。二〇〇四年は神様が必ず大きな祝福を与えてくださると信じ、私たちの手ではなく、神様の御手が動かされるようにと教えられています。人手によることがなく、神様ご自身の切り出された石が転がり始め、日本の根底にある悪しきものが既に打ち破られていることを信じて進んでいきたいと思います。その時に神様の大いなるわざが現されると信じています。ダニエル書二章四十五節に、

『あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。その夢は正夢で、その解き明かしも確かです。」』

と書かれています。山から切り出された石によって神様の勝利がもたらされました。人手によらず成されたわざが大きな勝利でした。二〇〇四年には人手によらず、神の御わざが神の御手によって現されることを信じています。使徒の働き十一章二十一節に、

『そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。』

と記されています。使徒たちとともに主ご自身の御手があった時、多くの人が主に立ち返ったとあります。確かに今年も主がともにおられて御わざを始めてくださいました。更に二〇〇四年に主の働きが前進することを願っています。私たちと共に神様ご自身の御手があることを信じます。

 

岡本信弘牧師
 ハレルヤ!主の御名を賛美します。こうして二〇〇三年最後の日に共に主を賛美することができ、感謝します。この一年間、健康が支えられ、数々の恵みをいただき、守られて、喜んで奉仕できたことを、心から感謝します。
 仕事においては、不況と言われる中、思いもよらずたくさんの仕事が与えられ、プレイズ出版の働きが祝福されていることを感謝しています。教会においては多くのメンバーが加えられました。ミッションの働きも、九月の名古屋ミッションが祝福され、また、リバイバル聖書神学校の校舎が建てられる準備がされています。確かに主が、甲子園ミッション以来動いてくださっていることを感じることができ、感謝しています。
 個人的には、父の召天という突然の出来事が思い出されます。今年の六月というのに、随分遠い昔のように感じられますが・・・。その日はちょうどミッションの会議があり、出かけることになっていましたが、朝、母から父の調子が少し悪いから一度来てほしいと言われて実家に行きました。いつもは早く起きる父が床に伏していて、「調子はどうか」と聞くと、あまり弱音を吐かない父でしたが、「調子が良くないなぁ」と言っていました。私は、「一度病院で見てもらった方がいいぞ」と言って、祈って八時頃出かけました。それが父と交わした最後の会話でした。午前中の話し合いを終え昼食を取っているとき、「親父が倒れた」と連絡がありすぐに帰ってきましたが、一時半頃、すでに父は召されていました。しかし、父が生前願っていたように、八十五才という年齢を全うし、喜んで天に凱旋して行ったのを知ることができました。私は父親を思うとき、私を可愛がってくれて、ここまで来れたことを感謝しています。
 そんなことも含めて一年間を振り返り、感謝しながら恵みを数えていましたが、私の中にふと、神様の祝福、計画はこんなものではないと感じました。そして与えられたのがエペソ人への手紙一章十節から十二節の御言葉です。

『時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです』

 ここには「私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです」とありますが、ヨハネの福音書十五章十六節には、『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです』とあり、私たちは神に選ばれた者であるとも書かれています。
 神様は私たちを選ばれました。日本においてはクリスチャン人口が少ない中で、なぜ神様は私をわざわざ選んだのだろうかと思います。しかし、無差別に選ばれたのではなく、神様は目的を持って指名され、任命されて選ばれたとあります。「みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです」とあるように、神様には私たち一人ひとりに計画があり、目的があります。神様の一番の目的は、多くの人の救いです。ヨハネ三章十六節には、『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである』とあるように、救いを実現するために神様はいろいろな計画を持っておられたと思います。しかし、その計画が計画どおりに進んだかというと、実現されなかったことが多いのではないかと思います。
 私は、神様が私に対して立てておられた計画を、どこまで実現することができたかなぁと反省しました。新しい年二〇〇四年に、私自身、またこの教会に神様が持っておられる計画を達成するためのプロセスをこなしていくならば、私たちが願う、また神様が願っているリバイバルが与えられると信じています。では私たちは何をしたら良いのでしょうか。

『また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。』エペソ一章十八節〜十九節。

 ここに「あなたがたの心の目がはっきりと見えるようになって・・・」とあります。私たちは今、肉眼で神様を見ることができませんが、私たちのそばに、いつも神様がおられると信じています。目には見えませんが、神様は私たちをいつも見つめられ、私たちを導いてくださっています。
 私はクリスチャンホームに生まれました。イエス様がいつも見ている、と教えられてきました。悪いことを考えたとき、やろうとするとき、イエス様は全部お見通しだと思うと恐ろしさもあります。しかし一方では、安心感もあります。
 私の子どもたちは二人とも家を出て暮らしています。一人は春日井に、一人はアメリカにいるので、私たちは夫婦二人で新婚時代のような生活をしています。子どもたちが中学・高校のときには、休みになると友だちのところに遊びに行って家にいないことがよくありました。私は子どもに甘く、やりたい放題させていますが、年末・年始の集会には必ず出席し、三十一日の聖会が終わったと、家に帰って一緒に祈るようにしていました。そして、「今は何でも自由の時代だけど、親は忘れても、神様のことを忘れるな。親が見ていなくても神様は絶対に見ているから、そのことは絶対忘れないように」と言い聞かせてきました。今も、離れて暮らしている娘にメールするとき、「イエス様が見ていることを忘れるなよ」と言葉を付け加えます。イエス様は私たちをいつも見ておられ、決して見放されません。
 この二〇〇四年、心の目がはっきりと開かれて神によって与えられた召しがどのようなものか、私たちが受け継ぐものはどんなものかを知らせていただきましょう。私たちには、思いもつかなかったような大きな祝福を神様から備えられており、それを実現に至らせるための働きが委ねられています。しかし、私たちが努力すると同時に、神様が聖霊を送り、私たちに与えられているそれぞれの神様の計画が実現させるように導いてくださいます。
 エペソ人への手紙一章二十二節に、

『また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。』

と記されています。私たちはそれぞれがキリストのからだであり、各器官であり、一人ひとりがキリストのからだを建て上げる教会です。私たちがしっかりと組み合わさっていくならば、この教会をリバイバルを建て上げる教会として神様は用いてくださいます。個々の力は小さいですが、神様から与えられた計画を一つ一つ行っていくならば、大いなる主のわざが現されていくと信じています。

『人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。』箴言十九章二十一節

 みなさんもそれぞれ計画を持っておられると思います。しかし主が成そうとされていることが成ると教えています。また、聖書はへりくだりを教えています。「子どもは両親に従いなさい」、「主人は自分のしもべに対して仕えなさい」。私たちがへりくだって主に仕えていくならば、必ず勝利が与えられ、主のわざが現されると信じます。私たちがへりくだり、主のみ声を聞き、主のみこころを行うことが教会の前進であり、リバイバルであると信じます。


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