ニューイヤー・イブ・キックオフ・ワーシップ
〜2004年に向けての御言葉〜
パート2


2003.12.31(Wen)
新城教会 四元 雅也副牧師
新城教会 公畑フェルナンド副牧師
新城教会 滝元 明牧師

四元雅也副牧師
 ハレルヤ!昨年の十二月三十一日、今晩と同じ越年の集会で、私は、「二〇〇三年、リバイバルを与えるので準備しなさい」と神様から語られたと証しし、アモス書九章十三節の御言葉からメッセージさせていただきました。

『見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日には、耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る。山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、すべての丘もこれを流す。』

この箇所から、更なる解放の前進、更なる魂の救いのわざの前進について話しましたが、二〇〇三年、神様は確かに祝福して下さり、現在までに新城教会に入会された方は四十六名いらっしゃいます。神様がこの群を増やしてくださっていることを覚える時、確かに二〇〇二年以上の素晴らしい恵みを、神様が新城教会に注いでくださったと言えます。しかし、同時に私の中では、これくらいではまだリバイバルと言うには物足りない感があり、十二月の声を聞き始めた時期から、私は昨年申し上げたことに責任を感じ、神様の前に焦りを覚えていました。年が改まるこの集会の中で、皆さんに何と語ったら良いのだろうか、このままでは昨年の言い訳をしなければならないかと思い、神様に、「昨年あなたが語ってくださったことは何だったのでしょうか?」、と祈ったりしていました。そんな中、十二月十五日に行われた県民の森祈祷会に参加しました。そこでは、「リバイバルの新しい扉が開かれるように」というテーマで祈りが導かれていました。私はそこで、いつにない素晴らしい恵みをいただきました。その中で私は、神様から再び語りかけをいただくことができました。それはただ一言、「完了した」という言葉でした。その御言葉は、ヨハネ十九章の中で、イエス様が十字架にかけられた時に語られた七つの言葉のうち最後の言葉ですが、その直前の二十八節に、『この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために・・・』と記されています。イエス様は完了したと言われましたが、その前にすべてが完了されたということを、御霊によって悟られたのです。また、ヨハネの福音書十一章に興味深い御言葉が語られています。四十一節から四十四節に、

『そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」』

と記されています。この箇所は、イエス様がベタニヤのラザロをよみがえらせた場面ですが、十一章の始めからこの物語は書かれています。イエス様のところに人々が来て「あなたの愛しているラザロが死にかかっています。」と言いました。その時、イエス様は四節に、「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためのものです。」と、何やら意味深な発言をされます。イエス様は、初めからこの出来事の結末を知っておられたかのように感じ取れる御言葉です。そして、いよいよ墓の前に立ち、入り口を塞いでいた墓石が除けられ、ラザロを呼び出す時、「ラザロよ、出て来なさい」と叫ばれたのですが、その前に、「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。そしてわたしが今から言うことはここにいる皆があなたがわたしを遣わされたことを信じるためにこう申し上げたのです」と言われてから、イエス様は「ラザロよ、出て来なさい」と命じられたのです。私たちはこの箇所から、イエス様の父なる神様に対する態度を通して、信仰の法則について学ぶことができます。

九月に開催された名古屋ミッションの中で、尾山令仁先生による聖書解釈のセミナーがありました。私は恵みによってそこに集い、学びの時を持つことができました。その中で先生は、「私たちの一般的な物事の考え方は、ギリシャ語的概念と言います」と教えられ、対して、「聖書のそれは、ヘブル語的概念と呼びます」と言われました。もっとわかりやすく言うと、「ギリシャ語的概念には、時間的概念がそこに含まれるのです」しかし、「ヘブル語的概念の中には時間的概念がない」と言うのです。ヘブル語では完了したか未完了かのどちらかで、言葉そのものに時間を提示する表現がありません。対してギリシャ語には過去形・現在形・未来形など、時間を指す表現が存在します。普段、私たちが物事を考えるとき、それが過去のことなのか現在なのか、また、これから起こることなのかを、無意識のうちに瞬間的に判断し区別しています。しかしヘブル語の中では完了か未完了しかないのです。ヘブル語で書かれた聖書でも同様です。例えば、イザヤ書四十五章に、神様が「油注がれた者クロスにこう仰せられた。」という下りから始まり、『わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。』と記されていますが、神様が仰せられた時点では、クロスはまだ生まれてもいません。しかし、聖書の中では神様が仰せられたことは、その時点で未完了であっても仰せられた時点で将来確実に起こるという意味から完了形で書かれてるというわけです。だから日本語の聖書では便宜上「‥仰せられた。」と過去形で表現しています。私たちは「仰せられた」と書かれているので、当然クロスは生きていると先入観を持ちます。しかし、実際はまだ誕生してもいないのです。このようにギリシャ語的概念では矛盾してしまう内容も、ヘブル語では時間の概念がないので表現可能なのです。私たちが一般的なギリシャ語的概念で聖書を読んでいくと、ヘブル語的概念との時間的なズレを解釈できず誤解してしまうことがあるので注意が必要です。忘れてはならないのは、神様の視点では、未来起こることも完了形で書かれているのです。

ヒュー・ロスというクリスチャンの天文学者がいます。余談になりますが、科学者の中で一番クリスチャンの割合が多いのは、天文学者だそうです。壮大な宇宙を研究していると「創造主なる神が存在する!」と感じざるを得ないのでしょうか。その彼がこう言いました。「宇宙が無限の無の中からビックバンによって誕生した。その際、時間・空間の法則が創られた。」これは宇宙が誕生する以前は時間・空間の法則がなかったという意味です。そして、「世界のあらゆる宗教書のうち、聖書だけが時間の有限性について述べ、神が時間・次元を超越した方であることを明確に述べている。聖書の神は、長さ、幅、高さ、時間という四次元の世界に縛られる方ではない。この神こそがそれらを創造された方である。更に聖書のみが四次元という制限された枠組みの中では説明できない神の特徴を述べている。」私たちは三次元の世界に住んでいます。これは時間・空間の枠の中に閉じこめられて生きていると言えます。その時間・空間の枠を超越した次元を、四次元の世界と呼んでいますが、博士は、「聖書の神は、四次元の枠にも束縛されない」と言っているのです。その神様の御性質を表現するのに適した言葉が、ヘブル語だと言えるでしょう。時間的な概念がないからです。

神様の次元では、神様が一度言われたことは既に完了形です。ですから、全能の神様の前にはリバイバルも完了形であると私は受け止めました。神様の前でそうならば、私たちは、「リバイバルは完了形である」として受け止めなければならないと、教えられました。私たちの人生には色々な問題があり、時にリバイバルのために祈るときも壁にぶちあたる思いがすることがあります。そんなとき、「神様、この日本は暗闇の世界の中にあります。人々は苦しめられています。悪魔によって滅ぼされています。何とかしてください。リバイバルを起こしてください。」と現状を告白するだけの祈りをしているなら、神様はこう言われるかも知れません。「私の中ではその件はもう解決しているのだよ。」ですから、私たちは神様の完了形を受け取って祈らなければならないと思います。神様はすべての戦いにすでに勝利をとられているという前提を、信仰により私たちのものとして受け止めて祈っていくことが大切です。クリスチャンにとって、神様の御業は信仰によってのみ受け取ることができるものです。二〇〇四年に向けて与えられた御言葉は、ヨハネ第一の五章十四節から十五節に、

『何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。』

と記されています。この霊的な法則を信仰によって握り、リバイバルのために毎日の生活を歩んでいきたいと思います。その時に、結果として勝利が私たちの手に与えられ、絶えず勝利し続ける生活が実現されるものと信じます。

 

公畑フェルナンド副牧師
 ハレルヤ!皆さんのお祈りを心から感謝します。二〇〇三年には個人的にも、教会にもたくさんの祝福をいただきました。二〇〇四年には、もっと神の祝福があると信じます。使徒の働き十四章二十一節から二十三節をお読みします。
『彼らはその町で福音を宣べ、多くの人を弟子としてから、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して、弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った。また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食をして祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねた。』
 今は新城教会が始まってから、一番、祝福を受けている時だと思います。その祝福は兄弟姉妹が互いに愛し合っていることや、新しい人々がたくさん救われていること、解放や回復が多く起こっていることです。このような教会にいることは、嬉しいことです。しかし神が今までしてくださったことばかりを見るのではなく、これから、もっと大きなことをしてくださると信じ、二〇〇四年は将来のために建て上げる年になると信じます。そのための「三つのポイント」を話します。
 第一は伝道による建て上げです。使徒十四章十九節から二十一節に、
『ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した。しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。彼らはその町で福音を宣べ、多くの人を弟子としてから、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して、』
と記されています。
 ここには、パウロは石打にされ死んだと思われましたが、生きていました。しかし弟子たちが周りに集まったときに起きあがり、皆はびっくりしました。同様に私たちも、この世に対して生きていることを、知らせる必要があります。そこから、パウロはデルベに行き、多くの魂を獲得しました。パウロの生涯の目的は、魂を獲得することでしたが、私たちもそのようにするべきです。
 この教会では色々な集会があり、友だちが福音を聞くチャンスが多くあります。ですから人々に福音を聞かせましょう。
 第二は、励ましによる祝福です。二十二節から二十三節に、
『弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った。また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食をして祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねた。』
と記されています。励ましは人に元気を与えます。パウロはいつも、クリスチャンたちに多くの信仰を持つように励ましました。私たちもそれに見習いましょう。元気のない人を励ましましょう。諦めそうな人、家族を励ましましょう。教会の先生方や、スタッフたちを励ましましょう。なぜなら、彼らも時々大変な時があるからです。そして信仰の家族を励ましましょう。自分を励まし、お互いを励まし合いましょう。
 第三は、支えによる建て上げです。使徒の働き十四章二十三節に、
『また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食をして祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねた。』
建て上げることは支えることです。私たちが共に教会を支えることは大切です。ある教会の人々は兄弟姉妹の悪口を言ったり、牧師批判をしたり、嘘の噂をながしたりして教会を壊そうとします。しかし、神はキリストの体として建て上げるために、私たちを呼びました。互いに愛し合い、赦し合い、神の国の建設のために共に働きましょう。
 新城教会の愛する兄弟姉妹。2004年は建て上げる年にしましょう。そのために必要な事は「伝道」と「励まし」と「支え合う」ことです。神の栄光のために建て上げましょう。

 

滝元 明牧師
 ハレルヤ!スウェーデンからの宣教師の所に奉仕に行ったときに、「金さえあれば、立派な会堂はできます。しかし、どんな大きな会堂を造っても、金では教会は成長しません。しかし、良い牧師がいれば、教会は必ず祝福されます」と言われましたが、この教会には、多くの素晴らしい先生方がおられ感謝しました。
 私は、今年一年間、皆さんの祈りに支えられ、素晴らしい年でした。多くの方々に祈っていただき、献金していただき、名古屋のミッションも素晴らしかったです。私はミッションに献金が送られてく来ると、祝福を祈ります。そのような方々に、お礼をしたくて、毎年、十二月には皆さんにクリスマスカードを送ります。
 また、私には、十二月になると重荷があります。それは、天皇に福音を伝えたいと思い、十二月二十三日の天皇誕生日には御言葉を送ります。毎年、違う御言葉を入れて手紙を送ります。今年はヨブ記四十二章十二節から十七節から送りました。十二節に、
『主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。』
そして、「毎日祈っています」と便せん三枚の手紙を送りました。
 ヨブには試練がありましたが、その後の半生はもっと祝福されたと書かれています。そのあとヨブは140年生きたとあります。四代まで見たとあります。もし私たちが本当に神に従うならば、前の半生よりも後の半生がもっと祝福されると確信するべきです。
 それには一つの条件があります。ヨブ記八章五節から七節に、
『もし、あなたが、熱心に神に求め、全能者にあわれみを請うなら、もし、あなたが純粋で正しいなら、まことに神は今すぐあなたのために起き上がり、あなたの義の住まいを回復される。あなたの始めは小さくても、その終わりは、はなはだ大きくなる。』
と記されています。イエス様に従ったら、はなはだ大きくなると書かれています。私は家内と共に開拓に出て五十三年ですが、何もないところからここまで祝福されました。「もしあなたが熱心に、こうなら」と書かれています。私たちが祝福されるためには熱心に神に求めていくこと。そしてあなたが純粋で正しかったらと書かれていますが、純粋な信仰を持ち従ったら、初めは小さくても終わりは、はなはだ大きくなると書かれています。聖書によればクリスチャンは必ず祝福されます。詩篇一篇一節から三節に、
『幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。』
と記されています。
 今、五名の先生方が二〇〇四年について語りました。これらの御言葉を実行し、「悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」と書かれていますので、昨年よりももっと祝福されると信じましょう。詩篇二十三篇六節に、
『まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。』
と記されています。本気になってイエス様に従ったら、生きている限りいつくしみと恵みとが追ってくるという約束です。信仰を持って生きましょう。イエス様が十字架にかかられる前に、マリヤがイエス様に油を注ぎました。マルコの十四章三節から九節に、
『イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」』
と記されています。マリヤについて記録されていることに「純粋」と書かれています。自分の持っている一番素晴らしいナルドの油を持ってきて注ぎました。弟子たちは「無駄にして・・三百デナリで売れたのに。」と言いました。日本金にすると三百万くらいだと思いますが、それをイエス様に注ぎました。葬りの準備をしましたが、私たちも来年は、イエス様の前に、最高のものでお仕えし、純粋に仕えたら必ず祝福されます。マルコ十章二十九節から三十節に、
『イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、
その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。』
と記されています。クリスチャン生活は、前の半生よりもあとの半生が祝福されるという原則がありますので、二〇〇四年は百倍になるとイエス様に期待しましょう。


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