ニューイヤー・セレブレーション・ワーシップ

2004.1.1(木)
新城教会 滝元 順牧師

エペソ人への手紙六章十節から十八節
終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

 ハレルヤ!新年おめでとうございます。今日は新しい一年の始まりの日に、主を賛美し、御言葉から学べることを感謝します。
 一月一日とは、十二月二十五日がクリスマスですが、それから数えて八日目になります。ユダヤ教の習慣では、子どもが産まれて、特に、男子が生まれたときに八日間は名前がついていても、名前を呼びませんでした。八日目になり、割礼という儀式がありはじめて名前が呼ばれました。イエス様が十二月二十五日に生まれたという根拠は薄いですが、イエス様が生まれて八日目に割礼を受けて「イエス」と呼ばれるようになったことは確かです。そして、太陽暦において、「イエス」と呼ばれ始めた日が新年と定められました。今日は、「一月一日」という新しい年をお祝いしています。日本人は一月一日に神社を参拝に行きますが、これは、意味的に間違っています。本当は「イエス」という名前が呼ばれ始めたのが新年ですから、イエス様のところに礼拝に来なくてはなりません。
 私たちクリスチャンは一月一日に教会に来て礼拝しますが、それは、法則通りであり素晴らしいことです。今年一年、イエス様の御名によって一年間を始めるならば、不確定な時代にあっても決して揺るぐことなく、神によって支えられます。これが私たちの信仰です。今日、イエス様という名前で、この一年を始めたいと願います。
 神は過去・現在・未来を現在形でもっておられます。私たちの過去は取り戻すことが出来ませんが、神の手には過去も現在形です。私たちは未来を作ることはできませんが、神は未来をも、現在形で持っておられます。そんな方と共に歩むことができれば、過去・現在・未来において、私たちは回復を受け、祝福を受け、力強く生きることができます。
 一年の始めの日に、天地宇宙を創られたイエス様と共に始める宣言をします。
 教会に来ると、目に見えない世界の構造を知ることができます。そもそも、神は目に見えない存在です。そして、私たちの周りには、目に見えない世界が共にあります。電波は目に見えないものです。携帯電話が普及していますが、目に見えない電波によって音が伝えられます。私たちは電波を見ることもできませんが、電波が存在していることは知っています。なぜならば、受信機である携帯電話を持ち出したら、音を聞くことができるからです。
 同様に私たちの神は生きておられ、目に見えない、耳では聞くことができない情報を発しておられいます。しかし、教会に来て御言葉と共に神を礼拝し始めると、普段では見えない神、聞けない神の声を聞くことができます。昨年は、多くの方がこの教会に加えられました。それは神の声を聞いたからです。神の声は聞いたことがないといわれるかも知れませんが、そもそもクリスチャンになったのは、目に見えない神の声を聞いたからです。神の姿を見たからです。
 同時に目に見えない存在が、ただ神だけではなく、昼と闇があるように「暗闇の世界」があることにも気付かされます。
 時代は年を追う度に、悪くなります。どこに原因があるのでしょうか。
 ひとりひとりが携わる仕事や立場は、すべて回復のためにあります。職業は回復のためにあると言ってもいいでしよう。例えば、教師であれば、学校に来ている生徒たちが今日よりも明日、もっと良い子になるようにと教育します。明日よりも明後日、もっと悪くしようと言う先生はいません。また病院に行くならば、医者は患者に対して、今日よりも明日はもっと良くなるようにと最大限の努力をします。薬局に行くと、薬は人々の病気を治すためにあります。また、自動車の修理工場ならば、壊れた車が直るように働きます。世界中の人々が回復のために努力しています。にも関わらず、社会が回復ではなく破壊の方向に向かっていくのは、どこに原因があるのでしょうか。
 皆が努力しているにも関わらず、破壊が起こるのは、破壊を専門に働く悪魔が存在するからです。私たちの人生の中に、神の存在と、人生を破壊する悪魔の存在に気付くことは重要だと思います。
 エペソ人への手紙は、使徒パウロが、エペソの町に住んでいるクリスチャンに送った手紙です。この手紙は、どのような時代に書かれたというと、それはパウロの生涯の晩年でした。彼の働きについては、「使徒の働き」に記録されています。彼はパワフルな働きをしました。多くの人が彼を通して解放され癒され、悪霊も追い出されました。彼には権威がありました。しかし、ある時には悪霊を追い出すようなわざも行いましたが、使徒の働きを読むと、本当の意味で彼は霊的戦いについて理解をしていたのか、疑わしい部分もあります。そこだけを見ると、「あまり霊的戦いは必要ではない」と思うようなところがあります。
 しかし聖書の記事は、時間的、時代的推移と共に理解する必要があります。エペソ人への手紙は、パウロがローマにおいて投獄された時に、普段の忙しい仕事から解き放たれた期間に、人生を振り返りながら主から教えられた事柄を書いた手紙です。そして、その最後に、最も重要な結論として書いたのが六章です。ここに、「終わりに言います」と書かれています。「最後に言っておきたいことがある」という意味です。それは、「主にあってその大能の力によって強められなさい」と言うのです。私たちは、神の能力によって強められる必要があるのです。人間の知恵や知識だけでは生きられないことに、気付かなければなりません。そして次に、
『私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』
と言い切っています。この地球は究極的には神の持ち物ですが、現在は、悪魔の持ち物であり、生まれながらの人間は、悪魔に属するというのです。だから、放っておけば罪を犯し、悪くなるのです。
 しかしイエス様を信じると、暗闇から光に、悪魔の支配下から神の支配下に変えられることを意味しています。悪魔が支配する国の中で、神の支配権を受け取って生きるのがクリスチャンです。
 私は時々、海外に行きますが、アメリカに行っても、日本人としての立場は変わりません。アメリカに入国した途端、アメリカ人になることはありません。アメリカに行っても、南米に行っても、アフリカに行っても、日本人は日本人です。同様に私たちはどんな暗闇があっても、イエス様を信じるならば神の支配に生きることができます。
 今年この国に、どんな暗闇があるとしても、あなたは光なる神の子なので、神の支配に生きることができます。
 今日始めて教会に来られた方は、イエス・キリストを信じてください。そうすれば、悪魔の影響を受けずに、神の支配を受けて生きることができます。
先日イラクで戦争があり、それぞれの国は自国民を守ることを考え、準備をしました。日本国政府も、イラクや中東近辺にいる邦人救出をプラン立てしました。もしも、危険が迫ってきたら、政府専用機や特別機を出し「日本人だけ」を救出するプログラムを立てました。
 同様に神の子どもに対しては、神が関心を持っておられます。私たちの住んでいる環境がどんなに悪くなったとしても、神は私たちに関心を持たれ、神の子どもを助け出してくださいます。イエス様は今年、あなたを助け、支えてくださるお方です。
 それと共に、国民は、自分の身は自分で守らなければならない責任をも嫁せられます。海外では、日本とは違う心持ちが必要です。日本の治安が悪くなったと言いますが、肩にバックをかけて歩くことができます。しかし、ある国においては、そんなふうにバックをかけていたらすぐに引ったくられてしまいます。そのような国に行くならば、いくら日本人の立場を持っていても、自分の身は自分で守らなければなりません。ですから、どんなにファッション性が悪くても、バックはしっかりと自分の前に抱えなければ危ないのです。
 聖書の中でも、神が守ってくださる領域とともに、もう一つは自分で自分を守る必要についても教えています。特に、エペソ六章で教えています。
『私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』
と記されています。人生の中で起こってくる諸問題は、決して人や環境が相手ではないのです。そのようには見えますが、目に見えない敵との戦いであると教えています。
 パウロが若くて、ばりばり働いていた時には、そのことについてはっきり気付きませんでした。彼の人生はパワフルでしたが、結構、苦しい試練に出会い、危険な目にも多く会いました。
 しかし彼は晩年になって気付いたのです。「あれはただの問題ではなかった・・。あの時は人が敵だと思っていたが、そうではなかった。背後に悪魔の力があった・・、もっと早く気付けば良かった」
 だから彼は、急遽手紙を書きました。エペソは、アルテミス神殿が建っており、偶像に満ちていました。一番霊的戦いの多い教会に手紙を送りました。暗闇の力との戦いに気づくのがあなたの人生の晩年ではなく、早めに気付かなければなりません。今年、もしも、何か問題が起こったら、それがタダの人間的な問題や環境的な問題ではなく、その背後に、悪魔の力が関わっていることに気付いてください。
 自分の身を守るために一番必要なことは、「敵を知る」ことです。戦争に行った兵士が、敵について知らなければ、戦争になりません。また戦争に行った兵士が、戦争だと気付いていなかったら、そんな悲惨なことはありません。案外、クリスチャンであっても、クリスチャン生活が戦いであることに気付いていない人が多いようです。クリスチャン生活を、ピクニック気分で歩んでいる人がいます。しかし聖書は、クリスチャンの生活は、血肉の戦いではなく、霊的戦いであると教えています。人生には敵がいて、戦いであり、神の大能の力によって強められる必要があると知ってください。六章十三節から十七節に、
『ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』
と記されています。パウロは、ローマの軍人の姿を目の前に見ていました。彼は、牢屋に入れられ、自分を監視するローマ兵の姿を常に見ていました。彼らは武装しており、武具に身を固めていました。ローマ兵は腰に太いベルトをしていました。パウロはそれを見て、「腰には真理の帯を締めなければならない」と言いました。
 真理の帯とは「わたしは道であり、真理であり、いのちです」とイエス様が語られましたが、「イエス様ご自身」です。イエス様をしっかりと中心に据えなければなりません。そうするならば、その他の武具が落ちることはありません。
 また、「正義の胸当てを付けなさい」と教えています。胸当てとは、矢が心臓を目がけて飛んできても、それを跳ね返すものです。
 それはイエス様の正義を、自分の正義とすることです。「神の国と神の義を第一に求めなさい」とあるように、神の教えを常に心に留めなければなりません。教会に来ると、何が悪いことで、何が良いかがわかります。
 今の社会で困ったことは、道徳の規準がないことです。毎年、道徳基準が変わります。去年まで悪かった事なのに、今年は悪いと言わなくなってしまった事もあります。昔はたいそうなことが、今はたいそうなことではないように変わっています。
 たとえば、現代は離婚する人が多いです。三組に一組くらいあるそうです。しかし私が小学校の頃には、離婚はあまりありませんでした。「あそこの夫婦が離婚した」などと聞いたら、「本当か?」と疑うほど、珍しいことでした。しかし今はどうですか。多くが離婚して、珍しいことではなくなりました。最近は離婚のことを「バツイチ」と言います。バツイチがあれば、バツニも、バツサンもあると思います。言葉が柔らかくなっています。昔は性的な罪も「不品行」、「姦淫」「売春」という言葉が使われていました。今はそんなことも、「援助交際」などという言葉に変えられています。あまり、悪いことではないかのように聞こえます。これは誰の策略でしょうか。悪魔の策略です。
 私たち、クリスチャンは、どんな時代にあっても基準が変わってはいけません。聖書の基準を中心に据えるなら、あなたは敵の力に負けることはありません。
 今年一年間、聖書を基準として聖く歩むことを、心がけなければなりません。人間は心の思いに支配されます。だから、常に私たちは、神の思いを自分の思いとして歩むべきです。聖書はその為の情報で満ちています。エペソの六章に、
『胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。』
と書かれています。「平和の福音の備え」とは何でしょうか。それは「福音を伝える」ということです。イエス様を信じるまでは、足がどこに向かっていたでしょうか。悪いところに向かっていました。一月一日は神社へと初詣に行ったかも知れません。しかし、現在、教会に来ているとは、足の方向が変わったのです。これは既に、足に「平和の福音の備え」をはいている証拠です。
 同時に、私たちは、救いを誰かに持っていく使命があります。私たちが誰かに福音を伝えているときには、罪からも守られます。隠れキリスタンになると、罪に負けてしまいます。今年は、イエス様の名前を誇りましょう。一人でも多くの人々に、イエス様を伝えましょう。イエス様があなたに成されたことを、伝えてください。そのために、あなたの足が用いられますように。続いて、十六節に、
『信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。』
とあります。クリスチャン生活には「信仰」が必要です。聖書は信仰について、「まだ見ていないものを先に受け取ること」とあります。
 昨日は夜の九時から十二時過ぎまで集会をしました。私を除く六名の先生方が神から導かれた御言葉を語りました。それらは神の民に対する希望の言葉でした。神がこの二〇〇四年に、あなたを祝福されると語りました。
 朝のニュースは一月一日であるにも関わらず、良いものではありませんでした。希望が持てるような内容はあまりありませんでした。しかし、昨晩は、二〇〇四年に対する希望の言葉が語られました。それを受け取る為には「信仰」が必要です。信仰を持つと神が働かれます。
 悪魔は、どのように働くのでしょうか。それは信仰の前に「不」という字を付けるのです。それは「不信仰」です。「イエス様に従って本当に良いのだろうか・・。本当に私に責任を持ってくれるのだろうか・・。迫害があったら、やめてしまおうか・・・」と悪魔は不信仰な言葉をかけてきます。不信仰は、「信仰の大盾で跳ね返せ!」と教えています。十六節に、
『これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。』と記されています。信仰が一番大切です。悪いものが放つ火矢を「みな」消すことができるというのですから、信仰の大盾を持たなければなりません。
 まず、信仰の大盾をしっかりと確認して歩み出してください。悪魔がどんな火矢を打ち込んできても「神は私と共にいる」と、信仰の大盾で不信仰を跳ね返してください。十七節に、
『救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。』
 教会では、神の言葉が語られます。私は今日、神の言葉を紹介しています。神の言葉は聖書の中にあります。聖書をよく読むことが大切です。
 聖書は何千年も前に書かれた不思議な書物です。旧約聖書は四千年近く経った書物です。新約聖書も二千年ほど前の書物です。言うならば「古文書」です。ふつう、古文書を読むのには苦労します。「私は毎晩、古文書を読んでから眠ります・・」と言われる人はそうはいないと思います。そんな古文書のような聖書が、世界中で読まれています。これは驚異的なことです。なぜなら言葉が生きているからです。聖書を読んでいると、時々、あたかも、自分に語りかけられているかのように感じることがあります。それを体験されていると思います。それは「御言葉の剣」です。ぜひ、聖書の中から、神が特別に与えようとされている御言葉の剣を受け取ってください。聖霊様が、剣となる御言葉を与えてくださいます。
 新年は神の前に出て、一年のテーマとなるような御言葉を受け取る必要があります。そうしたら、その剣を攻撃に用いることができます。悪魔が攻めてくるときに、それで打ち勝つことができます。ある意味で、今日、私が語っている御言葉は、新城教会に対する剣です。今年、この御言葉をつかんだら、それで敵を打ち破ることができます。ぜひ、受け取ってください。
 悪魔は現実に、どのような働きをしているのでしょうか。ヨハネ八章四十四節に、
『あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。』
と記されています。悪魔の働きは「偽り」です。時々、私たちも生活の中で、嘘を言ってしまいたいという衝動に駆られることがあります。
 何年か前に、車で豊橋に行く途中に、赤い棒が前に出てきて止められました。それは何と、スピード違反の取り締まりでした。私はスピードオーバーで捕まってしまいました。
 事務的に、「あなたは何キロオーバーです」と言われ、すぐに切符を切られました。住所、名前を記入したあとで、「職業は何ですか?」と聞かれました。そこで私はとっさに「ぼ、僕は、会社員です」と言ってしまいました。すると警官は、「会社員」と記入していました。そのコピーをもらってから、私の心は責められました。「私は会社員ではなく、牧師ではないか。なぜこんな嘘を言ってしまったのだろう・・」と責められました。
 しかし、その後、もう一回捕まりました。するとまた職業を聞かれました。私は、「牧師です」と答えました。「気を付けてください」と言われました。「牧師は忙しいのです。だから急いでいたのです」と言いました。「この先でも取り締まりをしていますから、気を付けてください。」と言われました。しかし、その時は平安でした。私たちは時々、間違いを犯しますが、真実に悔い改めなければなりません。「偽り」は悪魔を父としているので、私たちの中に偽りの思いがわき上がってくるときは、黄色信号の点滅です。
 今年は真実に生きることに、心がけてください。そうすれば、霊的な戦いに勝つことができると聖書は教えています。
 今は偽りが多い時代です。偽りに引っかかると、騙されて大変になります。最近、経済的に苦しめられて、教会に相談に来られる人がいます。教会は、お金の工面は出来ませんがアドバイスをします。その中で大変だと思うのが、サラ金地獄、「090金融」と呼ばれるものです。電柱に、「お金貸します。決して不正はありません」などと張り紙があります。それが破滅の序曲となります。一度借りたら二度と返せず、利子はどんどん増えていきます。初めはほんの数万円借りたのが、気がつくと何百万円となり、また、何千万円になり、取り立てが厳しくて借り主だけではなく、家族や親族にまで脅しがかかり、苦しんでいる人が多くいます。それらは初めはよく見えますが、後ろに、色々な偽りの策略があるので罠にはまります。現実の世界でも、騙されないでください。経済的に守られるよう、よく祈ってください。お金の管理も、正しくできるよう、危ない領域に手を出すことがないように祈ってください。
 背後に巧妙な罠があります。それは偽りの父、悪魔が偽りの力を人に与えているからです。だから引っかかるのです。悪魔が効果的に働いているのが偽りです。
 特に国民のほとんどが引っかかっている偽りが、「神とは、人間が手で作り出したもの」という偽りです。正月三が日に神社に初詣する人は、八千万人以上というのです。なぜ、初詣するのかと言えば、社の中に神が住んでいると信じているからです。
 先日私は、とりなしの祈りの為に伊勢神宮に行きました。人々が解放されるように祈りました。そこには大勢の人が来ており、賽銭を投げて真剣に祈っていました。私は横から声をかけたい気持ちでした。「それは神ではない。本物の神様は、決してこんな社には住んでいない!」と叫びたかったです。
 クリスチャンになると、そのような騙し事から解放されます。手で作ったところに神が住むはずがない。石や木の中には住むことはないと知っています。騙し事から解放されたので、今日ここにいます。これからも、二度と私たちは騙されてはいけません。神は天地宇宙を造られた方なので、決して木や石や金属の中には住まわれません。私たちこそ、神の中に生き、動き、存在しているのです。私たちは、常に、神の中に生かされています。日本人の根底には、「ものに霊が宿る」という考え方が強くあります。この考えが偶像礼拝に至らせる基本的な考え方です。
 「私はイエス様を信じました」と言いますが、偶像礼拝の基本的な考え方から解放されていないことが多いのです。日本の仏教は、他国の仏教に比べて一つの特徴があるそうです。それは「強い遺骨信仰」です。今年で、太平洋戦争が終って五十九年になりますが、海外にまで遺骨を探しに出かけている国は、日本くらいです。日本は国レベルで南方のジャングルに遺骨収集に出かけ、日本に持ち帰っています。
 骨は科学的にいえばカルシウムの固まりです。しかし日本人は、そのように考えてはいません。「骨の中に霊魂が宿っている」と考えます。だから、ただのカルシウムの固まりとは、割り切ることができません。
 以前、えひめ丸が沈没したときに、日本の遺族は、一刻も早く船を引き上げてくださいと言いました。引き上げるには、何ヶ月もかかるので体は溶けてしまい、骨があるだけだと言いました。しかし、何とか引き上げて欲しいというのです。
 西洋のマスコミはそれを見て、「六百メートルもの海底に沈んでいる船を引き上げるには金もかかり、危険も伴うから、引き上げ費用を遺族に分けた方が良いのではないか」と報道していました。
 しかしそれは日本人には受け入れ難いことでした。いくらお金がかかっても、骨を拾ってくださいと言いました。日本人は骨の中に霊魂が宿っていると考えるからです。それが「悪魔の騙し事」です。決して人間は、死んだら骨の中には宿りません。ものの中に霊魂が宿るという、悪魔の嘘に騙されています。死んだら骨の中に宿る、位牌の中に宿るというのです。悪魔に騙されて真剣に拝みます。騙されている範囲内では、悪魔は自由自在に動くことが出来るのです。仏壇を拝んでいるときに、霊体験があったと言いますが、なぜかと言うと、それは騙されているからです。騙されている領域においては、悪魔が自由に悪さをします。絶対に騙されてはいけません。神や霊的な存在は決して、ものの中に宿るような存在ではありません。人間の魂も、骨の中には宿りません。人間は死んだら、魂は神の手に戻ります。なぜならば、神が人間を造られたからです。フワフワ浮いていたり、骨の中や、仏壇に宿るようなことはありません。
 私たちは悪魔の策略を見抜き、悪魔の偽りを見抜くことができます。そうしたら私たちの人生は祝福されます。今年一年間、悪魔に騙されず、神の中に生き、動き、存在しているということを知って歩みましょう。また六章十八節に、
『すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』
と記されています。
 私たちが霊的戦いに勝利する秘訣は「祈り」です。祈りを中心にしなければなりません。私は牧師をしているので、よくわかります。祈りがなければやっていくことはできません。祈るならば神が働いてくださることを、体験的に知っています。祈りなくては人々にメッセージは伝わりません。聖霊様も働かれません。祈るときに、神が私たちに力を注がれ、知恵が注がれることを体験しています。この原則は誰においても同じです。私たちが戦いに勝つには、祈ることです。今年もよく祈ってください。
 聖書は「絶えず祈りなさいと」教えています。絶えず祈るとは、「常に祈り心でいる」ということです。何をするにも、イエス様のことが頭から離れず、祈りながらイエス様と対話しながら生きるならば、絶対に間違いはありません。
 私たちは瞬間瞬間、正しい判断をしなければならない局面に立たされます。ある時は、重要な決断や判断があります。けれども、普段の小さな決断と判断が将来を変えていきます。私たちが将来をうまくやっていくためには、普段の小さな判断を神に任せることです。一つの判断も、祈り心を持って、「私に、正しい判断力を与えてください・・」と祈るのです。そのようにすれば、一つ一つ、神のみこころを歯車のようにつかむことができます。それがやがて、大きな神のみこころにつながるのを、私も経験しています。
 今年はごく小さなことも、よく祈ってください。祈り心で生活してください。必ず、あなたに選ぶべき道を備えて下さいます。
 名前は悪いですが、「あみだくじ」というのがあります。偶像の名前が付いているので言いたくありませんが、それはどこに横線を入れるかで結果が変わります。案外、人生とはあみだくじに横線を入れているようなものです。「上にしようか、下にしようか・・・」一本の線をどこに入れるのかで結果が変わります。最悪が最高にもなります。
 同様に、主のタイミングをつかむためには祈りが必要です。今年一年間、祈り中心に歩むならば、皆さんの人生は広いところに導かれると確信します。
 それと共に「すべての聖徒のために忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい」と二回祈りという言葉が出てきます。これは「とりなしの祈り」です。誰かのために祈ることです。互いに祈り合うことです。
 あなたは、何人の祈りの友を持っていますか。あなたのために祈ってくれる友がいますか。ぜひ、誰かと祈りの契約を結んでください。互いに祈り合うときに、戦いに勝利することができます。
 今年も新城教会の働きの中心は、祈りです。祈りで始まり、祈りで終わらなければなりません。この教会に祈りがあれば、神はみこころの道に導いてくださいます。しかし祈りがなくなると、段々と舵がそれていきます。教会が大きくなればなるほど、祈りが必要です。どんな大きな船でも小さな舵でコントロールされるように、祈りがあれば正しい道に導いてくださいます。今年、祈り中心に歩んで行くならば、必ず導いてくださいます。神の大能の力に導かれて歩めるようにお祈りしましょう。
 また、大能の力とは、聖霊の油注ぎです。クリスチャンになって素晴らしいのは、聖霊の油注ぎです。神の知恵、聖霊の油注ぎを受けるときに、私たちは戦いに勝つことができます。新年をイエス様の名によって始めましたが、イエス様も受けていた聖霊の油注ぎを受けて騙し事を打ち破り、武具を身にまとって始めるならば、決して間違いはありません。今日イエス・キリストをあなたの中心とし、真理の帯を締めて一年を始めてください。必ず、来年の今日は「人生が変わった」と言えると確信しています。
 本気でイエス様に頼って失望した人を見たことがありません。イエス様は真実なお方なので、本気で頼るならば、真実を尽くしてくださいます。主の前に立って祈りましょう。一年の戦いに勝利が与えられるように、また剣を受け取らせていただけるように、イエス様の名前でお祈りしましょう。
 
「主イエス様。今私は、一年をイエス様の名前で始めます。今年一年の霊的戦いに、完全な勝利を与えてください。今、私たちはイエス様の名によってしっかりと立ちます。腰には真理の帯をイエス様の名前で締めます。私の胸には、正義の胸当てである、あなたの思いを受け取ります。私の胸に正義の胸当てを与えてください。足を守ってください。決して悪い道に向かいませんように。悪魔の騙し事の道に向かうことがないように。私の足を捕らえてください。足に平和の福音の備えをはかせてください。今私は、信仰の大盾を受け取ります。一切の悪魔の火矢を打ち破ることができますように。今、信仰の大盾を受け取らせてください。イエス様に信頼します。一切の悪魔の与える悪い思いを跳ね返すことができるように助けてください。頭には、救いのかぶとをかぶらせてください。常に救いから離れることがないように。確信を失うことがないように。頭に救いのヘルメットをかぶらせてください。今、私は神の言葉である御霊の与える剣を手に受け受け取ります。今年一年の戦いに、完全勝利するための御言葉の剣を受け取らせてください。御言葉の剣を受け取ります。勝利を与えてください。今年一年間、神の判断を受け取ることができますように。常に祈り心を与えてください。祈りから離れることがないように。どんなに忙しくても、祈りから離れることがないように。絶えず祈りの心を私たちに与えてください。御霊によるとりなしの祈りを与えてください。互いに祈ることができるように。聖霊様、満たしてください。油を注いでください。今年一年間勝利であることを宣言します。一切の悪魔の策略を打ち破ります。勝利の勇士として私を用いてください。今年私の中に、周りに、神の栄光が現されますように。イエス様の名によって勝利を宣言して祈ります。アーメン!」


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