回復の時が来ます

2004.1.4(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

新約聖書 使徒の働き 3章19節〜20節
そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。

 ハレルヤ!新年、おめでとうございます。新城教会においては、年末から今日に至るまで、毎日集会が行われており、今日が何曜日なのか少々混乱していますが、今年初めての日曜日に、礼拝を守ることができて感謝します。
 先日もお話ししましたように、一月一日は聖書の基づいて決められています。十二月二十五日のクリスマスから、八日目が西暦において新年と決められました。それはイエス様が割礼を受けた日であり、初めて「イエス」と呼ばれた記念日です。日本人はそれを知らずに一年を始めていますが、そもそも、一月一日には聖書的な意味合いがあるのです。イエス様の名によって一年が始まったのです。
 社会情勢を見ると、黒い雲が立ちこめている今日この頃です。しかし私たちが、真の神と共に歩めることは素晴らしい恵みです。神様は過去・現在・未来を現在形でもっておられるお方です。今年一年間は、神の手の中にあります。神がすべてを支配されています。この世の中がどんなに暗くなっても、神はあなたを支えてくださるというのが聖書のメッセージです。イエス・キリストに信頼するならば、預言的に生きることができます。なぜならば、神は未来を創り出されるお方だからです。その方と一緒に歩んで行くならば、決して暗いことはありません。人生が預言的に導かれていきます。私たちの歩みを一歩一歩、確実に導いてくださいます。
 時に、人生には、がっかりすることが起こります。私も、新年早々がっかりしたことがありました。・・・とは言っても、それほど大したことではありませんが。
 昨日、家内が教会で私とすれ違い様に、「毛ガニもらったから・・・。」と言いました。「やった!」と思いました。昨日は、朝の四時頃から夜の九時過ぎまで、家に帰れないくらいの忙しいスケジュールを送っていたので、家に帰って毛ガニを食べるのを楽しみにしていました。
 九時過ぎに家に戻り、さっそく家内に言いました。「ねぇ、毛ガニ出してよ・・・」すると家内は、「毛ガニ?そんなものないよ・・・」「えっ、先に食べちゃったの?さっき毛ガニもらったって言ったじゃない。」と言うと、「そんなのもらっていないよ。」「じゃあ、何もらったの。」「何言ってるの、あんた。毛ガニじゃあなくて、手紙。手紙だよ・・・」
 「何だ。手紙か〜、毛ガニじゃあないんだ・・・」と、とてもがっかりしました。なぜ、毛ガニと聞き間違えたのかというと、その前に、宅急便屋さんが発泡スチロールの箱を持って、教会に入ってくるのを見たからです。毛ガニならぬ、手紙を開いてみると、「私のために祈ってください・・」と祈りの課題が、びっしりと書かれていました。もちろん祈らせていただきましたが・・。
 時々、人生の中にがっかりすることが起こります。しかし、イエス様は回復を与えてくださるというのが、今から語るメッセージです。
『それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。』
とあります。
 人間は一度ダメージを受けると、なかなか回復が難しいものです。あるときは、一度受けたダメージがずっと続くかも知れません。ダメージを受けると、どんなに周りに楽しい事があっても楽しめません。
 十数年程前に、この教会に英会話教室があり、その教室主催でアメリカツアーを行いました。息子が小学生の時代の話ですが、ニューヨークに行きました。その時、息子の友だちのT君が参加しました。彼は初の海外旅行で、行く前からうきうきしていました。彼は新調した服に、新しいシマウマ柄のバックを持って、さっそうと出掛けました。
 ニューヨークに着いて、彼があまりにもうきうきしていたので、私は言いました。「絶対にバックを車内に忘れるなよ。バスに乗るときには、しっかりと抱えて持っていろよ。」
 バックの中には、財布も、パスポートも、大切なものが何もかも入っていました。だから私は彼に、注意深くしっかりと自分で管理するように言いました。
 やがて私たちは、有名な五番街に降り立ちました。「これか・・・。ニューヨーク五番街は・・・。」
 そしてふっと、彼を見ると、何と、シマウマ柄のバックを持っていないのです。「バックはどうしたの!」と聞くと、「・・・バスの中に忘れちゃった。」と小さな声で言うのです。みんな、青ざめました。
 私はすぐに持っていた地図を調べて、バスを追いかけました。ニューヨークは、一方通行が多いので、走っていけばバスに追いつけると思ったからです。バスがどのような経路を走るのかを調べて、私は路地を走り、先回りをしてバスに追いついたのです。そして、無事にバックをバスの中から、受け取ることができました。
 しかし彼は、その失敗を通して、すごいダメージを受けていました。それからというもの、落ち込んでアメリカ旅行が全然楽しくなくなってしまいました。彼はずっと、しくしく泣いているのです。だから私は、五十ドルを払い、その夜はマンハッタンの夜景をヘリコプターに乗って見るツアーに彼を連れて行きました。一緒に行った人たちは、興奮して、みんな大騒ぎでした。
 でも、一人だけ浮かない顔をしている男がいました。それがT君でした。彼はどんなに楽しいことが周りにあっても、常に悲しそうな暗い顔をしていました。可哀想に思いましたがどうにもなりませんでした。しかし、一週間程して、ツアー後半になってやっと彼は立ち直り、旅を楽しんでいました。彼は、今でも「ニューヨーク」と聞くと、悪いイメージがあるようです。
 しかし、人生の中で受けた、様々な傷が癒されて回復が与えられるというのが、聖書のメッセージです。教会に関わっているうちに、神はあなたの新しい未来を創り出して下さいます。そして、やがて回復が訪れます。
 私は毎年、楽しみにしている集会があります。それは、十二月三十一日の夜九時から行われる越年の集会です。なぜならば、この教会の牧師たちが、新年に関する神からの御言葉を受け取って語るからです。「彼らは、どんな御言葉を語るのだろうか」と、私はとても楽しみにしています。それを聞いて、自分が主から導かれていることと、彼らが導かれている事柄の、整合性を見るのが楽しみです。主は、毎年、一年の指針となるような御言葉をその中で語ってくださいます。今回も、主が個人や教会に対して持っておられる計画について語られました。とても重要なメッセージです。それを短く紹介します。
 
 最初に上條実先生が、第一コリント二章九節から語りました。
『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』
 昨年上條先生は、自分では考えてもみなかった事柄を体験したそうです。そして、二〇〇四年のために祈っている中で、この御言葉が与えられ、この年も主は、私たちが見たことも、聞いたことも、思いに浮かんだこともないようなことを、教会に備えておられるので期待してください、というメッセージでした。
 この御言葉を共有して、神からの言葉として受け取りましょう。今年は皆さんにとって、見たことも、聞いたことも、思いに浮かんだこともないような祝福が注がれる年となりますように。
 イエス様と共に歩むならば、今、どんなに最悪のように見えても、神は良きものを創造することができるお方です。そして私たちの概念にはない、素晴らしい祝福を与えてくださるというメッセージでした。
 次に滝元開副牧師が語ったのは、ダニエル書二章三十四節からの御言葉です。
『あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。』
 これは、バビロンの王ネブカデネザルが見た夢の記録ですが、今年は人手によらない一つの石が動く年であると語りました。「一つの石が人手によらずに切り出されて、その像を打ち倒した」とありますが、時々、私たちの前には、どうにもできないような大きな問題の山が来るときがあります。人間的な手法を使い尽くしても、どうにもならない時があります。しかし神は、人手によらずに切り出された武器を使って下さいます。それが問題の山を打ち砕くのです。もしも、今、人間の力ではどうにもならない問題が山積みと言われる方がおられたら、今年は人手によらずに神が動いてくださるという信仰を持ってください。人間の力には限界があります。しかし、神が動かれるときに、人間が何百年かかってもできないことを、瞬間的に行われます。
 昨年も、この教会において多くの不思議な主のみ業が起こりました。それは人手によらず、神の手が動いたからです。神の領域から一つの石が切り出され、問題の山を打ち破ったのを多く見せていただきました。しかし、今年はさらに、皆さんの人生に、人手によらず、神の手が強く動くことを期待します。
 また、岡本信弘牧師の語ったメッセージは、エペソ人への手紙一章十節から十二節です。
『時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。』
 私たちの人生には、色々な祝福がもたらされますが、本来、神の計画は、そんなちっぽけなものではないはずだ、と語りました。神は私たちのために、たくさんの良いものを準備されているはずです。しかし、私たちが、神のみこころをしっかりとつかむことができないがゆえに、「神の計画の一部しか、味わっていないのではないか」と語られました。本来は、もっと大きなものを神の手から受け取ることができる、だから、今年は神のみこころを忠実に行う者となりましょう、というメッセージでした。
 神のみこころと、心が一つになるときに、業が起こされます。時々、私たちは自分の思いだけで行動をして失敗します。今年は、常に、神の心はどうなのだろうか。イエス様はこのことについて、どのように考えておられるのだろうかと祈り求め、イエス様の思いと私たちの思いが一つならば、神の偉大な力を体験できるのです。
 続いて、四元雅也副牧師が語ったメッセージは素晴らしかったです。彼のメッセージは、言い訳から始まりました。なぜなら、彼が語った二〇〇三年に対するメッセージは、「リバイバルを起こすからあなたは準備しなさい」というものであったからです。彼は、二〇〇三年、主が、リバイバルを起こしてくださると確信をもって、歩んできたそうです。しかし、二〇〇三年を終えるに当たり考えてみると、「リバイバルは起こったのだろうか。色々なことが起こったけれど、自分自身の中にはまだ、主の言葉は実現していない・・。私は間違ったことを語ってしまったのではないか・・・」と心配になったそうです。
 そのような中で、2004年の為の御言葉を求めているときに、一つの言葉を神様から受け取ったそうです。それは、ヨハネの十九章二十八節の中の一語です。
『この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。』
 県民の森祈祷会の中で、「完了した」という一語を、語りかけられたそうです。「完了した」と聞いたときに、「まだ、何も起こっていないのに、なぜ完了したのだろうか」と、ますます混乱したそうです。
 それに先だって、名古屋リバイバルミッションの時に、尾山令仁先生の「正しい聖書解釈」というセミナーに出たそうです。そこで、私たち日本人はギリシャ的な時間感覚で物事を受け取っているけれど、本来聖書は、ギリシャ的時間感覚ではなく、ヘブル的時間感覚で書かれていると語られたそうです。
 ギリシャ的時間感覚とは、たとえば、私たちが一つの事柄を聞いた時に、その事柄が、現在、過去、未来のどこに当てはまるのかを、瞬時に仕訳をする時間的観念です。
 しかし、ヘブル的時間感覚とは、その分類がありません。ヘブル的な時間感覚は、正に神の時間感覚に似ていると言われます。それは、「完了」か「未完了」のどちらかだというのです。その二つしかありません。
 旧約聖書の預言は、神は時間をも造られた方なので、語られた時点でまだそれが起こっていないとしても、それが「完了形」で書かれているというのです。だから神が言葉を出されたときには、既に、その時点で「完了」しているというのです。ですから私たちに神が言葉を与えてくださったならば、それはまだ起こっていないかも知れませんが、既に完了していると語りました。
 第一ヨハネ五章十四節から十五節。
『何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。』
 それで、神様のみこころと一つになった願い事ならば、神はそのことを既に完了形で扱っておられるというのです。ですから、既に祈りは聞かれているのです。神のみこころを求めて神のみこころを祈るならば、その時点では、物事は起こっていないかも知れませんが、神の領域においては完了形です。今、あなたには、色々な祈りの課題があると思いますが、それが神のみこころであれば、既に、完了形なのです。
 例えば、「日本にリバイバルが起こされるように」と祈ることは、神のみこころです。聖書には、「神はすべての人が悔い改めて、救われることを願っている」とあるからです。「日本のリバイバルは遅い、神はなかなか動いてくださらない」と思いますが、既にそれは完了形なのです。
 皆さんの家族がまだ救われておらず、いつになったら救われるのだろうか、と祈っておられるかも知れませんが、聖書は、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます」という約束があります。ということは、家族がまだクリスチャンになっていないとしても、あなたが祈っているならば、これは神の領域においては完了形です。
 今年は、完了形信仰を持って進んでください。そうすれば、神のみわざが現されますと語られました。
 続いて公畑フェルナンド副牧師は、使徒の働き十四章二十一節から二十三節から語りました。
『彼らはその町で福音を宣べ、多くの人を弟子としてから、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して、弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った。また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食をして祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねた。』
 初代教会は、聖霊によって導かれた教会でしたが、そこに集った人たちが教会を建て上げるために働きました。教会を建て上げることが、神のみこころであると語りました。
 それは第一に、「伝道によって建て上げる」と語りました。多くの人にイエス様のことを知らせましょう。そして第二に「励ましによって建て上げる」と語りました。
 時々私たちの前に、励ましを必要としている人がいます。それを見過ごさずに、互いに励まし合って建て上げるのです。
 もう一つは、「支えによる建て上げ」と語りました。今年は教会を通して、ひとりひとりを建て上げてくださると語られました。
 また最後に、滝元明牧師は、ヨブ記四十二章十二節から十七節から語りました。
『主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。それで彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。また、息子七人、娘三人を持った。彼はその第一の娘をエミマ、第二の娘をケツィア、第三の娘をケレン・ハプクと名づけた。ヨブの娘たちほど美しい女はこの国のどこにもいなかった。彼らの父は、彼女たちにも、その兄弟たちの間に相続地を与えた。この後ヨブは百四十年生き、自分の子と、その子の子たちを四代目まで見た。こうしてヨブは老年を迎え、長寿を全うして死んだ。』
 ここに「主はヨブの前の半生より、あとの半生をもっと祝福された。」と書かれています。「これからの人生が祝福される」とは、私の父も年を取ってきたので、個人的な願望も少しは入っているかも知れませんが、今までの人生はともかくとして、あなたの、これからの人生を主は祝福しようとされているのです。神は私たちに罰を当てたり、苦しみを与える方ではなく、祝福を与える神です。
 これらの御言葉を通して、神が新城教会に今年、行おうとされている事柄の軸が見えて来たように思います。
 そして、私にも、主は御言葉を与えてくださいました。それは、エレミヤ書三十一章三節から六節です。
『主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる。エフライムの山では見張る者たちが、『さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう。』と呼ばわる日が来るからだ。」』
「おとめイスラエルよ」という賛美があります。先日の県民の森の祈祷会の最中に、突如としてこの賛美が、私に飛び込んできました。
 おとめイスラエルよ わたしは再び 
 あなたを建て直し あなたは建て直される
 再びあなたは タンバリンで身を飾り
 喜び 笑う者たちの 踊りの輪に出ていこう
そして、この御言葉から「今年は回復の年である」と語られました。
『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。』
とあります。教会に来られる方々の約九割が、人生に何らかの問題を持って来られます。ある人は、どうにもならない問題と共に教会に来ます。「どうして私の人生は、こんなに壊れてしまったのだろうか。本当に神はおられるのだろうか。神様なんてわからない」と言う心境で教会に来られるかも知れません。
 時々、先が真っ暗で何も見えないという状況の中に入ることがありますが、そんな中にも主はおられるのです。
 「主は遠くから私に現れた」とあります。時々、神が自分の目の前に現れて、「わたしが神だ。わたしがあなたを助けてあげよう」と語ってくださったら、どんなに幸いだろうと思います。「神様。私の前に出てきてください」という心境になるときがあります。しかし、神の方法は、人間の方法とは少し違います。主が姿を現される方法は、目の前に現れるというよりも「主は遠くから、わたしに現われた」とあります。神が私たちを助けるときに、遠くに立たれるのです。そんな中、暗中模索のような環境を通してへりくだりが与えられ、やがて、広いところに引き出されるのです。教会に来るきっかけは、それぞれ違いますが、その時点では、神の姿は見えなかったかも知れません。しかし、神は遠くから私たちに現れて、徐々に近づいてくださいます。遠くに現れてくださった神は、遠くでも近くでも、「わたしはあなたに誠実を尽くし続けました」と語ってくださいます。
 今どのような状況にあっても、既にイエス様と関わりができているならば、人生の中に主が立たれているのです。徐々にイエス様に近づくことができるのです。やがて主は、「おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。」と語ってくださいます。また、現実にも、私たちの状況を建て直してくださいます。
 「おとめイスラエル」とは神を信じる民です。すなわち、あなたが「おとめイスラエル」です。イエス様はあなたに誠実を尽くされます。また今年、あなたの人生を建て直してあげると語ってくださっていると信じます。
 最近、私の家の周りに大きな変化があります。それは何十年と周りにあった、思い出の古い家々が取り壊されて、建て替えられようとしているからです。駅前にあった古いマルイチの建て物も取り壊されましたし、製材所の古い倉庫もなくなり、近所の建物が新しいものに建て替えられるようです。「リバイバル聖書神学校」も建築準備をしています。それを見ながら、今年主は、色々な領域において、建て直される年ではないかと期待しています。
 皆さんの人生の中にも回復が来ると、また、既に神が語られた時点で回復が完了していると受け取りましょう。
 さて、新城教会の牧師たちが語ったメッセージを総合すると、次のようになると思います。
 「主は思いに浮かんだことのない事柄を、人手によらず起こそうとされています。そのためには、神のみこころをつかむ必要があります。新城教会に対するリバイバルの働きは、すべて神の前では完了済であり、すでに叶えられたと信じ、信仰によって教会を建て上げるなら、今年は、今までにないほどの祝福が注がれ、『さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう。』と呼ばわる日、すなわち、リバイバルが起こります。」
 今年主が、私たちの中に、偉大なる回復のみわざを起こしてくださることを期待しましょう。私たちの人生がいかなる状況にあったとしても、私たちの神は回復の主です。
 今日お読みした「使徒の働き」の状況は次のようです。ペテロとヨハネという弟子が「美くしの門」にさしかかった時に、生まれつき足のきかない男と出会いました。そして、この男がイエス様の名によって癒されるという、奇跡が起こりました。そのことが話題になり、結果的には五千人の人々がイエス様が主であると信じました。そんな中でペテロが語ったメッセージは、
『そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。』
 
と語りました。これは彼らが聖霊を受けた後に、起こったことです。彼らが主の前で祈っているときに、神の霊が注がれ、彼らは聖霊に満たされました。しかし、ペテロとヨハネは続けて祈りの場所に向かっていきました。
 彼らは、毎日のように祈りの場に行っていました。けれども、それまでは門の前に毎日座っている、足なえの男には関心を持ちませんでした。しかし彼らが聖霊を受けたときに、この男に感心を持ったのです。そして、彼が立ち上がるように祈り奇跡が起こったのです。
 今年、回復を求める中で、必要なことをこの御言葉から学ぶことができます。
『ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。』
 彼らは、定期的な祈りの生活をしていたということです。私たちが、毎日、神の前に出て祈ることは、神のみこころをつかむためにはどうしても必要なことです。ペテロとヨハネは聖霊の力を受けましたが、その後も、常に祈りを習慣とし、祈りのポジションから離れませんでした。彼らが聖霊の支配を受けていたので、今まで関心がなかった人に関心を払うことができたのです。三章四節に、

『ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。』
とあります。私たちが聖霊に満たされると、神が色々なことがらに関心を持たせてくださいます。そして、神が定められたときに、神の場所に行き、神の業が訪れるという原則を見ることができます。ここでペテロとヨハネは、イエス様の名前の権威を使いました。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」とイエス様の名前の権威によって、足なえの男を立ち上がらせることができました。今年、イエス様の名前の権威によって歩んでください。イエス様の名前の権威は、私たちを守ります。また、その時に奇跡が起こりました。
 その後に、なにが起こったのでしょうか。八節に、
『おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。』
と書かれています。これは「主への礼拝」です。
 ここから学べることは、私たちが「常に祈る」ことと、今まで私たちが無関心であった領域に「聖霊によって関心を抱く」こと、「イエス様の名前の権威を使う」こと、そして、「神を礼拝するものとなる」ときに、回復のわざが訪れると学ぶことができます。
 今年一年間、ペテロやヨハネと同じように、私たちも権威をいただき回復の年として歩ませていただくことが私の願いです。
 今年皆さんの人生に、新しい回復が現されますように。また、建て直されますように。そして、広いところに導かれますよう、お祈りします。
 最後に、「おとめイスラエルよ」を讃美しましょう。「おとめイスラエル」が、皆さんの家庭、自分自身、また地域、国であると信じ、祈りを持って賛美しましょう。

おとめイスラエルよ あなたは再び
あなたを建て直し あなたは建て直される
再びあなたは タンバリンで身を飾り
喜び 笑う者たちの
踊りの輪に 出ていこう


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