待ち望め。主を。

2004.1.11(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

旧約聖書 詩篇27篇14節
待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。

 ハレルヤ!今朝も、皆さんとともに礼拝を守ることができて、感謝します。新年が始まり早、十一日目になりますが、すでに普段の生活に戻られたかも知れません。今年一年がイエス様とともに始まったことを覚えて、感謝します。
 教会では神を礼拝しますが、それと同時に、天地宇宙を造られた神様とお付き合いする方法を学びます。人は神の法則の中に生きています。ですから、神様とつき合う方法、神の法則を学ばなければ、お交わりができません。今年一年間、神であるイエス様と良いお付き合いができるならば、あなたの人生は決して揺らぐことはありません。
 今朝は、詩篇二十七篇十四節の御言葉から学びます。
『待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。』
 とても素晴らしい御言葉です。この言葉を、今年一年の「御言葉の剣」の一本に加えてください。これは賛美にもなっています。簡単な賛美です。
待ち望め主を 雄々しくあれ
心を強くせよ 待ち望め主を
 神の法則と、人間の法則とではかなり異なります。イエス様は人となられ、神の法則を人々に紹介されました。そんな中で、イエス様が語られた山上のメッセージは有名です。マタイ五章三節から六節に、
『「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
  悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
  柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
  義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。』
 これを見ると、一般の世界の常識とはかなり違います。通常「幸せ者」とは、「心の貧しい者」とは言わないと思います。「心豊かな人が幸せ」と言います。心が貧しい人は可哀想だと思います。しかしイエス様は、「心の貧しい者は幸い」と言われました。
 またイエス様は、「悲しむ者は幸せ者だ」と言われました。悲しんでいる人を見たら、不幸だと思います。しかしイエス様は、悲しむ者は幸せ者だと言われました。
 また「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです」と言われました。柔和な者が地を相続するとはとても思えません。今の時代、遺産相続でよくもめます。そのような中でたくさんの遺産を手に入れるのは、たいてい、ずる賢い人です。人の常識では、「ずる賢い者は幸せです。その人はたくさんの財産を手に入れるでしょう」となるかも知れません。
 しかしイエス様は、「柔和な者は幸いです」と言われました。
 ある意味で、神の国の法則は、普段の常識の反対側にあります。ですから、私たちが普段持っている常識で神様とつき合っても、なかなか、かみ合わないのです。
 しかし、聖書に親しむと、神様とお付き合いするための常識がわかってきます。そうするとそこに真理がありますから、本物の幸せがあります。今日も神の国の法則と、神の国の常識を手に入れて帰ってください。
 「待ち望め主を」という言葉も、この世の法則とは逆かも知れません。今の時代は、待つことに不快感を持ちます。「待つのが大嫌い」という時代なのかも知れません。ある意味で、その象徴が「コンビニ」かも知れません。コンビニは待つことの嫌いな人々が集まる場所です(私もよく行きますが)。そこに行くと、待たずにすぐに手に入ります。食べ物もほとんど調理済みで、すぐにその場で食べることができますし、電気屋に行かなくても電池なども買うことができます。小さなラジオなども買えます。最近では、下着も買うことができます。
 「コンビニエンス」とは英語で「便利」「好都合」という意味です。先日、中国に行きましたが、中国人は気の長い人たちだと思っていましたが、すでにコンビニが溢れていました。中国ではコンビニのことを「便利商店」と言います。日本では横文字ですが、中国語は意味がダイレクトです。
 待つことのできない時代にありますが、神様とお付き合いするには気を長く持ち「待ち望む」ところから始まります。「待ち望む」ところに鍵があります。クリスチャンになったら、神を待ち望むことを体験する必要があります。
 ある方は一生懸命祈っているにも関わらず、なかなか祈りが答えられないのは、何でだろう、と不安になっているかも知れません。しかし聖書は、「待ち望め」と教えています。
 マタイ五章三節の『「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。』は、山上で、イエス様が語られたメッセージの主題です。この「心」とは、「スピリット/霊」を指しています。人間には、肉体と魂、そして、霊があります。「霊の貧しい人は幸いです。神の国はあなたのものです」、「霊的にハングリーな人は幸いです」という意味です。
 教会に来られた人は、おそらく、日頃から霊的ハングリー精神を持っていた人だと思います。「人生はこれで良いのだろうか。もっと、深いところに、何かあるのでは・・」と飢え渇きを覚え、教会に来て、イエス様に出会ったことでしょう。霊的に貧しさを覚え、主を待ち望む中に、天の御国がその人のものになるのです。
 「待ち望め主を」とは、どこかの病院の待合室を想像するかも知れませんが、そうではありません。待ち望んでいるただ中に、神の国が訪れることを意味しているのです。
 時々私たちは、忍耐を強いられる時があります。しかしそれは、サウナの中でじっとがまんしているようではなく、待っているただ中に、神の国が現されるのです。困難があっても、雄々しく、心を強くして、主を待ち望んでいくならば、神の国が来ると教えています。
 私は、今年、この教会でたくさんの結婚式があるようにと、祈っています。結婚適齢期の方がたくさんおられます。しかし適齢期も、人が決めたことなので、あまり気にしないでください。神の時に結婚へと導かれたら良いのです。最近は、老人ホームでも結婚式があるようです。
 クリスチャン同士の結婚は素晴らしいです。霊的な領域を共有できるので、結婚生活がとてもうまくいきます。
 クリスチャン男性が、クリスチャン女性に結婚を申し込むときに、クリスチャン女性の決まり文句があります。
 「私と結婚してください」とプロポーズすると、思慮深いクリスチャン女性ならば、「祈らせていただきます」と答えます。それが決まり文句です。そう答えるとうまくいきます。
 しかし、「祈らせていただきます」と聞いた男性は、その日から苦しみの日々が始まります。一日千秋のように、男性は彼女からの答えを待ち望み、真剣に祈ります。申し込んでから、答えが来るまではとても長く感じます。
 私にも経験があります。家内に結婚を申し込んだときに、「祈らせていただきます」と言われました。待ち望むことは辛いですが、神はその中で、御国を現してくださいます。これが、神様とつき合う霊的な法則です。
 さて、クリスチャンは、何を待ち望むのでしょうか?クリスチャンになり立ての人は「神の御手」を待ち望みます。「神様、わざを行ってください」と祈ります。これも素晴らしい祈りですが、徐々に信仰が成長してくると、「神の御顔」を待ち望むようになります。今年、私たちは神のみ顔、神ご自身を待ち望む者になりたいです。
 なぜ結婚を申し込んだ男性が、一日千秋の思いで待ち望むかというと、その人の全人格を愛しているからす。決して、彼女の顔だけ、パーツがきれいというのではなく、すべてを愛しているからこそ、待ち望みます。私たちも、神を待ち望み、神のみ顔を慕い求めるときに、神の国が到来します。
 「待ち望む」というキーワードで聖書を検索してみると、たくさんの情報を手にすることができます。詩篇二十五篇三節に、
『まことに、あなたを待ち望む者はだれも恥を見ません。ゆえもなく裏切る者は恥を見ます。』
 主を信頼して待ち望めば、「決して恥を見ない」とあります。また詩篇三十七篇三十四節に、
『主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高く上げて、地を受け継がせてくださる。あなたは悪者が断ち切られるのを見よう。』
またイザヤ書三十章十八節に、
『それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。』
 主を待ち望むなら、主はあなたを恵んでくださるのです。
 また、力を受けるためにも、主を待ち望むことです。イザヤ書四十章三十一節に、
『しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。』
 私たちは時に力を失います。しかし主を待ち望むなら回復します。この御言葉も賛美になっています。
主を待ち望む者は 新しく力を 力を得る
鷲のように 翼をはって
高く高く 舞い上がる
走ってもたゆまず 歩いても疲れない
 二十年程前に、私の人生に試練がありました。家内が倒れて、起きあがることができませんでした。どうしたら良いのかわかりませんでした。それと共に、悪いことが続けて起こりました。教会にも色々な問題が起こりました。また、上條実先生が突然変な咳をし始め、段々痩せて衰えていきました。それで東京の病院に入院しました。肺がおかしいとか、骨にガンがあるとか言われました。「これからどうなるのか・・」と思いました。
 そんな時、私は初めて、主を真剣に待ち望み、み顔を求めるようになりました。一人で夜、山に入って真剣に祈りました。しかし、いくら祈っても、物事は動きませんでした。見かねたように、新城教会のスタッフが断食して祈ってくれたり、一緒に山で祈ってくれるようになりました。それが現在毎週行われている、県民の森祈祷会に発展しました。
 しかし何年も主を待ち望み、祈っている中で、徐々に主の御手が現れ始めました。そしてついに、一九九二年二月十三日、聖霊が注がれ、私は変えられました。『主が立ち上がられた日』をお読みください。その時の様子が記録されています。その結果、教会も変えられました。きっかけは、皆が主を待ち望み、祈るようになったからです。背後に問題をもたらす悪魔・悪霊の存在がわかり、皆の目が、霊的戦いに開かれました。
 現在、新城教会に来られる方は、幸せだと思います。なぜなら、教会が、試練を通して主を待ち望み、主と出会った後だからです。
 ダニエルが主の前に祈りました。しかし、いくら祈っても、何の答えも来ませんでした。ダニエルという預言者は、呼べば答えてくださるほど、主と深い関係を持っていましたが彼が断食して祈っても、その時は、なんの答えも来ませんでした。しかし、二十一日後に答えが来た、という記事がダニエル書にあります。
 今週は、私の友人ジョー・ハイト先生が来られます。ぜひご期待ください。水曜の主日礼拝と土曜日のインターナショナル集会、また、日曜日も御言葉を取り次いでくださいます。先生は今、とても燃えています。昔の彼とは違います。彼は今、ワシントン州ヤキマという街で指導的立場にあります。なぜならば、彼は主を待ち望み、主と出会ったからです。現在、街中の牧師をまとめて、回復のため、リバイバルのために祈っています。今回はシンガポールに奉仕に来たついでに、新城教会に立ち寄ってくださいます。
 今ヤキマでは、二十一日間の断食祈祷プログラムが、一月五日から展開されています。街のために、主を待ち望んで祈っています。素晴らしいです。二十一日間の祈りはダニエル書から導かれています。二十一日目に、全体集会があります。その集会の為に私が招かれています。なぜ私が招かれたかというと、ジョー先生が試練の中にあるとき、彼は県民の森祈祷会に参加して変えられ、霊的戦いに目が開かれたからです。だから彼は、私にメッセージを語ってほしいのです。ぜひ、私のためにも祈ってください。
 時々、困難があり、祈らなければならない時がありますが、そんな中、「主を待ち望む者は力を得る」のです。今年は問題があっても、なくても、主を待ち望む一年になるように祈っています。主を待ち望む者は、必ず力を受け、主を待ち望む者は「戦いに勝利」します。
 私たちが主を、待ち望んで祈っていたときに、「この戦いは血肉の戦いではなく、霊的な戦いである」と教えてくださいました。
 しかし、霊的戦いが始まったある日、「これからどうなるのだろうか。日本で霊的戦いが始まっても、本当に勝利があるのだろうか。本当にリバイバルが起こるのだろうか。無理ではないか」と恐れました。
 その時、主の前に出て祈りました。すると、エレミヤ書十四章二十二節が与えられ、励まされたのを忘れられません。
『異国のむなしい神々の中で、大雨を降らせる者がいるでしょうか。
それとも、天が夕立を降らせるでしょうか。私たちの神、主よ。それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたがこれらすべてをなさるからです。』
 この御言葉は日本の現状のようです。日本のリバイバルのために、何をしたら良いのでしょうか。それは、主を待ち望む事です。そうすれば、大雨が降り、この国を変えてくださるという約束です。
 この国の九十九パーセント以上の人々が、虚しい「異国の神々」を拝んでいます。それらは神ではなく、悪霊だと気付くためには、クリスチャンがまず主を待ち望むことが必要です。
 小預言書の中に、ハバクク書があります。ハバククの時代は、バビロンの王がエルサレムに攻めて来るという噂が流れて国は荒れ、暴虐に満ちました。ハバククはそれを見て、心を痛めて神の前に祈りました。ハバクク書一章一節から四節に、
『預言者ハバククが預言した宣告。主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。私が「暴虐。」とあなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか。なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか。暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています。それゆえ、律法は眠り、さばきはいつまでも行なわれません。悪者が正しい人を取り囲み、さばきが曲げて行なわれています。』
 ハバククは、「ひどい。一体、どうなっているのか。神様どうしてですか。なぜ暴虐だと叫んでいるのに、あなたは答えてくださらないのですか。」と祈っています。
 私たちもハバククと同じように神を求めているのに、「どうして答えてくださらないのですか」という、心境になることがあるかも知れません。
 しかし彼は、そんな中で神の言葉を聞きました。ハバククが神から受け取った答えが二章一節から四節に記されています。
『私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。主は私に答えて言われた。幻を書きしるせ。これを読む者が急使として走るために、板の上にはっきり書きしるせ。この幻は、なお、定めの時のためである。それは終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。』
 これが神からの答えでした。「神様。これから、どうなるのですか」という叫びに対しての答えは、
『もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。』
 「神様。どうなっているのですか」と現在叫んでいる人は、この御言葉を受け取ってください。ハバククはこの御言葉を捕まえました。神に信頼するなら絶対に恥を見ない、遅くなっても待っていなさい、それは必ず来るというのです。これも賛美になっています。
主は私の声に耳を傾け
主は私の願いを聞き遂げてくださる
祈りは聞かれる 叫び続けよう
祈りは聞かれる それは必ず起こる
主を信じ 続けよう
すべてを委ねて
必ず起こる 遅れることはない
 1517年。マルチンルターが「九十五箇条の意見書」をローマ法王に渡しました。それが宗教改革の始まりでした。キリスト教の歴史の中で、最も大きな転機となったのは、宗教改革かも知れません。真の福音が曲げられ、免罪符が売られたりと、地は暴虐で満ちていました。カトリック教会は民衆に聖書を読ませず、教皇がすべての権限を握って贅沢ざんまいに暮らし、福音はどこかに行っていました。
 そんな中、マルチン・ルターが立ち上がりました。それはハバクク書の『もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。』という、この御言葉を掴んだからです。人は行いではなく「信仰によって生きる」と信じて、巨大な竜のようなローマ法王に立ち向かったのです。
 この御言葉はヘブル書十章三十七節から十一章一節にも引用されています。
『「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』
 信仰について『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』と定義されています。すなわち、「信仰とは、主を待ち望むこと」です。私たちが心から主を待ち望む中に、神の国が訪れます。
 
 今年は主を待ち望みましょう。そのような中で、知らないうちに力を受け、恥を受けることはありません。主のみ顔を待ち望む中で、主の見顔を見ることができるのです。


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