砕かれた心

2004.1.25(SUN)
新城教会 滝元 明牧師

旧約聖書 詩篇34篇18節
主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。

 ハレルヤ!今日はこのように皆さんと共に礼拝できることを感謝します。皆さんは喜んでいますか?今日は主を礼拝する日ですので喜びがあることでしょう。今日は私にひとつ嬉しいことがありました。今、着ているこの服を、今朝久しぶりに出しました。そしてポケットに手を入れると何かが入っているのです。見るとお金が入っていました。千三百円程でしたが、嬉しかったです。もう一つ嬉しかったことがありました。数日前、ある方から、「先生。お伺いしたいのですが・・。トランスフォーメイションのビデオはありますか。」と言われたのです。私は「何ですか、それは?」と聞き返しますと、プレイズ出版から発売された新しいビデオだというのです。今の世界は問題が多く事件もたくさんあります。しかし、悪い事ばかりでもありません。今、世界の各地で神様の驚くべき奇跡の業が現されているのです。トランスフォーメイションとは「変革」という意味ですが、このビデオの表題には「変革・栄光の拡大」と書かれています。今、世界の百二十程の場所で、町中がクリスチャンになり、町の刑務所も閉鎖され、犯罪もなくなり、また農産物も素晴らしいものができるようになるというような奇跡が起こされています。神様が、かつてないことを行われているのです。私は間もなく、新城にもそのような時が来ると信じています。また日本に大リバイバルが来ると信じています。私は市長になることを望んではいませんが、仮に私が市長になったらこう叫ぼうと思います。「新城から犯罪がなくなるように。」昨年は、新城が全国的に随分有名になりました。殺人事件があり、東名高速道路で事故がありと、悲しむべきことがたくさんありましたが、いつかはこの町中がクリスチャンになるように、またこの国が偶像から解放され、皆がクリスチャンになるようにという願望があります。このビデオを見てその希望を新たにすることができ、とても嬉しく思いました。聖書は、一人の魂が悔い改めたら、天で喜びの歓声が上がると書いてあります。天の使いたちが喜んで賛美するというのです。最も大きな喜びは、皆がイエス様の救いに預かることです。
今日は「砕かれた心」というテーマで聖書から学びたいと思います。
『主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。』
と記されていますが、神様は心の中の真実を喜ばれます。神様は傲慢が大嫌いです。神の前にへりくだり、心砕かれた人を祝福してくださると書かれています。詩篇五十一篇十七節に、
『神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。』
と記されています。砕かれた柔らかい心が大切なのです。先ほどの賛美の時、幼子のようになって神様を賛美し、歌に合わせてお遊戯をしましょうと司会者が言いましたが、幼子の心は、柔らかいのです。工事現場でコンクリートを打つと、打ったばかりの時には猫が歩いただけで足跡ができる程柔らかいのですが、しばらくすると、像が乗ってもびくともしない程固くなり、砕くことは困難になります。幼子には柔らかい心がありますが、大人になるとだんだん固くなっていきます。私たちは柔らかい心を取り戻さなければなりません。柔らかい心、へりくだった心を持つならば祝福されます。人生にどんなに大きな問題があっても、神の前に砕かれた心を持ったら大丈夫です。時々、人生の中で失敗することがあります。神の前に罪を犯したとき、へりくだって砕かれた心を持ったら神様は罪を赦し、祝福を与えられます。詩篇五十一篇十七節に、
『神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。』
さげすむということは、見下げたり、ばかにするということです。神の前にへりくだると神様はその心を見下げたり、ばかにされたりはしないのです。今日、問題があるならへりくだることが大切です。これからの人生を祝福されるためには、砕かれた心を持つことです。旧約聖書には人間の堕落について書かれていますが、それは人間の傲慢からはじまりました。アダムとエバをエデンの園に置かれ、神様は「園から何でもとって食べて良いが、中央にある善悪を知る木の実からはとって食べてはいけない。食べたら死ぬ」と言われました。しかし悪魔が来て人間を騙しました。「この実を食べたら目が開かれて、人間が神のようになることができる」神様は自己存在されています。誰にも世話にならずに神のように賢くなって自分の力で生きることができるのだと悪魔は言ったのです。エバは木の実を見ると「美味しそう。賢くなれる。神のようになれる」と、まんまと騙されてしまいました。賢くなることは素晴らしいですが、度を超すと「神などいらない、自分だけで生きられる」という高慢さに陥る危険があります。エバはとって食べてはならないと言われた善悪を知る木の実をとって食べ、夫にも与えました。初めの人間は裸であったと書かれています。それは何も着ないで素っ裸ということではなく、神の栄光に包まれていたので裸でも大丈夫だったのです。しかし罪を犯した瞬間、神に与えられた栄光は去り、裸であることがわかり恥ずかしく思うようになりました。それでいちじくの葉をとり、腰巻きを作ったと書かれています。そこへ神様が来られました。アダムは「どうしよう、裸だ」と思い、木陰に隠れました。神様が「アダムよ。どこにいるのか」と呼びました。すると、アダムは「神様。私は裸なので恥ずかしくて出ることができません」と答えました。神様は「誰が裸であることを教えたのか。では、あなたはとって食べてはならないと言った木の実をとって食べたのか。」と言われました。その時、アダムは「あなたが私の側に置かれたこの女が、この木からとって私にくれたのです。」と言いました。彼は素直に「神様、ごめんなさい。誘惑に負けて罪を犯しました」とは言いませんでした。「あなたが置かれた女が・・」と責任をエバになすりつけました。そして神様がエバに「あなたはいったい何ということをしたのか」と言うと、今度はエバも、「蛇が私を惑わしたのです。」と言ったのです。責任転嫁をしています。もし、あの時素直な気持ちで「神様、私はあなたのいうことを聞かないで失敗しました。ごめんなさい」と言っていたら、人類の歴史が変わっていたかも知れません。彼らは自らを反省し、へりくだることをしなかったので、エデンの園を追われ、人類の堕落の歴史が始まったのです。人生の中で、他人の悪を指さしながら、自分の非がわからない人がありますが、それは悲しむべき事です。砕かれた魂、「私は罪を犯した」と自ら悔い改めることはとても大切です。信仰の面でも同じです。イエス様は今から二千年ほど前にユダヤの国のベツレヘムに生まれ、ナザレという村に住まわれました。イエス様は三十才まで大工をされ、その後三年間の公生涯が始まりました。その中でナザレ村に行かれ安息日に説教された記事があります。その時に説教を聞いた村の人々の反応はこうでした。マルコ六章二節に、
『「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。この人は大工ではありませんか。』
と記されています。イエス様はマリヤのうちに聖霊によって身ごもった神の子でしたが、人間としては、ヨセフとマリヤの子どもとして育てられました。彼らの言葉に
『マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」』
とありますので、イエス様の兄弟は七人以上であったと思います。ナザレ村の人々は「大工ではないか、彼の両親もよく知っているし兄弟たちもこの村に住んでいる」と言ってイエスを信じようとしなかったと記されています。四節から六節に、
『「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。』
と記されています。イエス様が村に行ったとき、出迎えた人々は不信仰だったのでイエス様は奇跡を行うことができなかったというのです。時々私たちも同じようです。神様にとって不可能なことはありませんが、不信仰な人にはそれを体験することができないのです。頑固でかたくなな心は神の恵みを受け取ることができません。神なんか信じられない、信じられるのは自分だけだという人がいます。しかし私たちは素直な気持ちで神様を信じなければなりません。イエス様を信じましょう。
 あなたは今朝、鏡を見たでしょう。私は、朝起きてまずお風呂に入ります。そして鏡を見て髪などをセットします。聖書を学ぶ時ちょうど鏡を見るように自らの過ちを見いだし、また人生の指針を発見することができます。私は七十四才ですが人生にそれだけの歴史があります。聖書にはたくさんの歴史が書かれており、私たちの人生に教訓を与えています。ダビデ王の物語もその一つです。彼は少年期に羊飼いをしていましたが、神によって油注がれて王様となりました。彼の人生は大いに祝福されましたが、ある時大失敗をしました。彼が戦いから帰り、城壁の上を散歩していると美しい女性が行水していました。彼は心に情欲を覚え、家来にそれが誰であるかを探らせました。すると、ウリヤの妻バテ・シェバだとわかりました。ウリヤはダビデの家来でその時は戦争に行っていました。ダビデはその女を呼んでくるように言いつけました。ダビデは彼女と一夜を共にしたのです。私はバテ・シェバも悪かったと思います。夫がある身ですからそんなことはできませんと断るべきだったのです。しかし拒みませんでした。そして彼女は帰りました。しばらくして身ごもったことがわかりました。数日前にもある高校生が出産し、赤ちゃんが死んでしまったので山に埋めたという事件がありましたが、どんなに誘惑されても不品行を慎まなければなりません。妊娠して中絶してしまったら殺人です。ダビデも困りましたが、そのとき悪知恵が働きました。ウリヤを戦場から戻したのです。そして家に帰ってゆっくりしなさいと言ったのです。しかし、ウリヤは正しい人で、その夜家に帰りませんでした。兵舎で寝たのです。家来がダビデの所に来て「ウリヤは家に帰りませんでした。」と言うと、ダビデはウリヤを呼び、「どうして帰らなかったのか」と聞きました。彼は「私の大将ヨアブも、また同胞も皆戦場にいます。どうして私だけが家に帰り妻と寝ることなどできましょう。」と言いました。するとダビデは「そうかわかった。」と言って大将ヨアブ宛の手紙を書きました。そこにはこう書かれていました。「ウリヤを最前線に出し敵の弾に当てて殺せ」ウリヤは何も知らずに手紙を大将のヨアブに手渡しました。ヨアブは手紙の通りにウリヤを最前線に出し、彼は敵の矢に当たって死んでしまいました。早速ダビデのもとに使者が送られ、「ウリヤは死にました」と報告されました。聖書は、バテ・シェバは悲しんだと書いています。自分の夫の留守に王様と不義をしたことに、彼女は後悔したと思います。喪が明けたときにダビデはバテ・シェバに遣いを送り、彼女を妻として召し入れました。彼らの子どもがあったからです。これで人の目には罪を覆い隠すことができました。ところがその後、預言者ナタンがダビデのところに来ました。彼は「王様、聞いてください。」と話し出しました。「近くの村に金持ちがおり、彼は羊も牛もたくさん持っています。その屋敷の隣には貧乏人が住んでおり、彼は雌羊を一頭だけ飼い、夜は抱いて寝、食べるときも同じ所から食べる程その羊を愛していました。王様、聞いてください。ある日、一人の旅人が金持ちの家に来ました。すると金持ちはご馳走するのに自分の持っているたくさんの牛や羊を殺すのは嫌だと思い、貧しい人からたった一匹しかいない羊を奪い取り、それをほふってご馳走したのです。」と話しました。それを聞いたダビデ王は怒り猛り、「主は生きている。こんな悪いことをした奴は死刑だ。それから憐れみのないこの人は子羊を四倍にして返せ。」と言いました。その時ナタンはこう言いました。第二サムエル記十二章七節から十三節に、
『ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。イスラエルの神、主はこう仰せられる。『わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行なったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ。今や剣は、いつまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしをさげすみ、ヘテ人ウリヤの妻を取り、自分の妻にしたからである。』主はこう仰せられる。『聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行なおう。』」ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」』
と記されています。人の前に隠せても神の前には隠されてはいません。罪を犯すとき神様が見ておられます。この時神様が怒られました。「せっかくあなたを羊飼いから王にし、祝福を与えたのに。私を軽んじて何ということをしたか。ヘテ人ウリヤの妻をとり、ウリヤをアモン人の手に渡し、殺した。だからわたしもあなたに同じようにする。あなたはこっそり人妻をとったが、あなたの妻を皆が見ている前で同じ目に遭わせる」と言われました。神様は正しいお方です。罪に対しては厳しいお方です。「あなたの後には剣が追ってくる。いつまでもわざわいがあなたに来る」と聞いたときにダビデ王は、「私は罪を犯した」と悔い改めました。弁解しませんでした。「神様、バテ・シェバが悪いのですよ。あの時に体を見せなかったら・・」と言うこともできたはずです。しかし彼はそんな弁解をせず、神様の前に出ました。詩篇五十一篇にダビデが神の前に赦しを求めたことが書かれています。彼は泣いて七日間断食して悔い改めました。彼は自分の失敗を認めました。その時神様が「あなたの罪を赦した」と言われました。神様はどんなに悪いことをしていても心からへりくだって「ごめんなさい」と悔い改めると赦してくださいます。人生の中でも失敗がありますが、本当に悪かったと悔い改めたら、あなたの罪を見過ごされるのです。昔イスラエル人がエジプトの奴隷から解放される過程で、子羊をほふって鴨居に血を塗っていたら神様が裁きを見過ごされたとあります。有名な過ぎ越しの出来事です。詩篇三十二篇で「幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」と語っています。ダビデ王の人生の中で一番幸いだったことは、彼が一国の王としての権力を握ったことではなく、あの罪が赦され、覆い消されたことが幸いだと語っています。神様の前にへりくだっていくならば、神様は祝福されます。私は聖書の中の列王記にあるアハブ王は好きになれません。彼は偶像礼拝をし、彼の妻イゼベルは悪い人です。皆に偶像礼拝をさせ、姦淫させたとあります。彼は悪人の代名詞のような人物です。しかし彼の人生に興味深い出来事が起こりました。ある時にアハブ王がナボデという人に話をしました。「あなたは私の家の近くににぶどう畑を持っています。私にくれないか。野菜畑にしたい。その変わりに他のもっと良いぶどう畑をあげるから。」と言いました。するとナボデは「王様、それはできません。先祖から代々譲り受けた土地です。」と言いました。アハブは不機嫌になりました。夕食にもでてきません。イゼベルが来て勧めても食べません。わけを聞くと「ナボデが土地を交換するのは嫌だというから悔しい。」と言いました。イゼベルは「あなたはイスラエルの王でしょう。私に任せなさい。私があなたにあの土地をあげるようにするから」と言いました。イゼベルはよこしまな人を集め、ナボデを引き出して二人の人を証人に立たせ「皆さん、ナボデは王と神を呪いました。これは石打ちの刑の罪にあたります。」と言いました。二人の証人がそれを認めたので、ナボデは石打ちの刑に遭い死にました。地主が死んだのでイゼベルはアハブに「あなたはぶどう畑を取りに行ってきなさい」と言いました。第一列王記二十一章十六節から二十六節に、
『アハブはナボテが死んだと聞いてすぐ、立って、イズレエル人ナボテのぶどう畑を取り上げようと下って行った。そのとき、ティシュベ人エリヤに次のような主のことばがあった。「さあ、サマリヤにいるイスラエルの王アハブに会いに下って行け。今、彼はナボテのぶどう畑を取り上げようと、そこに下って来ている。彼にこう言え。『主はこう仰せられる。あなたはよくも人殺しをして、取り上げたものだ。』また、彼に言え。『主はこう仰せられる。犬どもがナボテの血をなめたその場所で、その犬どもがまた、あなたの血をなめる。』」アハブがエリヤに、「あなたはまた、私を見つけたのか。わが敵よ。」と言うと、エリヤは答えた。「あなたが裏切って主の目の前に悪を行なったので、私は見つけたのだ。今、わたしはあなたにわざわいをもたらす。わたしはあなたの子孫を除き去り、アハブに属する小わっぱも奴隷も、自由の者も、イスラエルで絶ち滅ぼし、あなたの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにし、アヒヤの子バシャの家のようにする。それは、あなたがわたしの怒りを引き起こしたその怒りのため、イスラエルに罪を犯させたためだ。また、イゼベルについても主はこう仰せられる。『犬がイズレエルの領地でイゼベルを食らう。』アハブに属する者で、町で死ぬ者は犬どもがこれを食らい、野で死ぬ者は空の鳥がこれを食らう。」アハブのように、裏切って主の目の前に悪を行なった者はだれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからである。彼は偶像につき従い、主がイスラエル人の前から追い払われたエモリ人がしたとおりのことをして、忌みきらうべきことを大いに行なった。』
と記されています。その時預言者エリヤがアハブの所に来て言いました。「犬どもがナボテの血をなめたその場所で、その犬どもがまた、あなたの血をなめる。」と言いました。するとアハブは、その言葉に心打たれ、二十七節に、
『アハブは、これらのことばを聞くとすぐ、自分の外套を裂き、身に荒布をまとい、断食をし、荒布を着て伏し、また、打ちしおれて歩いた。』
と記されています。彼は自分の外套を裂きました。これは悔い改めの行為です。荒布を来たことは、汚い衣を着て「神様。悪かった」と悔い改めることを表しています。
『そのとき、ティシュベ人エリヤに次のような主のことばがあった。「あなたはアハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間は、わざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。」』
と記されています。神様は憐れみ深いお方です。「殺す」、「さばく」と宣言しても、へりくだって悔い改めたときに、それを見て神様はわざわいを下すことを思いとどまったとあります。へりくだったら祝福されます。二人の人が祈りに来ました。一人はパリサイ人・宗教家です。彼は立って心の中で祈りました。「神よ。私はあなたの前に正しい者であることを感謝します。私は一週間に二回断食しています。十分の一は献金します。感謝です。」近くにいた取税人を指して「ことにこの取税人のような男ではないことを感謝します。私は人を揺すったり、騙すことはしません。私は正しいことを感謝します」と祈りました。取税人は人から嫌われていました。彼は自分が悪いことをわかっており天に目を向けようともせず、胸をたたきながら「神様。哀れな罪人を赦してください。あわれんでください」と祈りました。神はどちらを省みたでしょうか。パリサイ人ではなく、罪人に目を留めて祝福されたと書いてあります。神様は私たちを愛されますがかたくなな心は嫌われます。へりくだることです。私が初めて教会に行った時、四人の友だちと行きました。十九才でした。教会に入るとクリスチャンたちがあまりに純真で汚れなく写ったので自分が惨めになりました。「ああ、僕は汚い。自分も彼らのように清らかな人になりたい。」と思いました。友だちに「おい、また行こうよ」と言いました。すると友だちは「あんなつまらない所に行きたくない。大した奴はいないから」と言うのです。彼は集会中、美しい女性はいないかと見回していたようです。結局彼は教会へ行かなくなりました。私は自分を見て汚いと思いました。そして彼らのように清らかな人になりたいと思い、教会に来ました。次の日曜日に私はイエス様を信じました。
 人生の幸いは、自分の不義を認めることです。夫婦生活においても、隣人同士においても同じです。私たちは時々人につまずきます。しかしそれは自分につまずいているのです。私ほど罪人はいないとわかる人は祝福されます。人の悪い所を見ていても祝福されません。今日は祝福を受けるために砕かれた心を持ちましょう。どんなにあなたが素晴らしく生きていると思っても、自分で生きているのではなく、神によって生かされています。元気であることも神の恵みです。砕かれた心で神の前に出て、私は罪人ですから救ってください。イエス様が私のために十字架にかかられて死んでくださったと神様を見上げてください。お祈りしましょう。


[バックナンバー]