聖霊に導かれて生きよう。

2004.2.1(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

新約聖書 ルカの福音書 2章22節〜27節
さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。__それは、主の律法に「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない。」と書いてあるとおりであった。__また、主の律法に「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽。」と定められたところに従って犠牲をささげるためであったそのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。

 ハレルヤ!今日、新城教会で礼拝が守れることを感謝します。皆様のお祈りに支えられ、出入りを含めて九日間に渡り、アメリカで奉仕することができ心から感謝します。
 新城教会はワシントン州の教会がなくては存在していない教会です。なぜなら、私の両親がワシントン州から遣わされた穐近宣教師夫妻を通して導かれたからです。両親は教会で出会って結婚しましたので、私は、ワシントン州の教会がなかったら生まれなかった存在です。そんなわけで、私は今回、ワシントン州の教会で働かせていただいて、不思議な感覚を覚えました。
 現在、ワシントン州は狂牛病でかなりダメージを受けています。私は狂牛病の牛が一頭発見され、世界中で有名になった町マフトンの隣のプロッサーという町の教会でも奉仕をさせていただきました。その教会で、「私はワシントン州の教会がなくては生まれなかった者です。ワシントン州の教会のサポートがあったので、日本に教会が生まれました。だから私は、昨日、隣町で牛肉を食べてきました」と言うと、会衆は歓声を上げました。実はマフトンとは反対側の街でステーキを食べたのですが・・。
 神の計画は広く、高く、深くて、私たちの想像をはるかに超えるところにあります。今日はそんな証を交えながら、御言葉の真理を学びます。
 早いものでもう二月です。先日、新年の集会を持ったばかりですが、二月になってしまいました。今年一年も早く終わってしまいそうな気がします。西暦では、イエス様がお生まれになって八日目に割礼を受け、「イエス」と呼ばれるようになった日を新年と定めました。今日はその次に続く箇所から学びます。ルカの二章二十二節から二十七節。
『さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。』
と書かれています。イエス様はエルサレムから三十キロほど離れたベツレヘムでお生まれになりました。その後、「聖めの期間が満ちた」ので、両親は子どもを主にささげるために、イエス様を宮に連れていきました。
 悪魔もこの法則をよく知っており、日本でも子どもが産まれると三十日目くらいに、偶像の所に連れて行きささげます。これをすると人生を悪魔にとられてしまいます。しかしクリスチャンは子どもが産まれたら「献児式」を行い、イエス様に一生をささげます。その根拠はこの御言葉にあります。
 旧約聖書レビ記には、その規定が書かれています。男の子とが産まれたときにはお母さんは、三十三日汚れるということで、引きこもらなければならないという規定がありました。また女の子場合は、その倍の六十六日間引きこもらなければならない規定があったようです。私たちは、新約時代に生きているのでそんな規定はありません。
 今回私はジョー先生の教会に行きました。その教会にジョンさんという方がおられ、その方の奥さんが大きなお腹をしていました。ジョー先生が新城に来られている間にも生まれるかも知れないと言われていました。しかしその奥さんは、今回の聖会が全部終わってから赤ちゃんが生まれるようにと祈っていました。すると、日曜日に全部の集会が終わり、月曜日に赤ちゃんが生まれました。私は病院を訪問し、赤ちゃんを見に行きました。アメリカの病院は日本とは違い、ホテルのようでした。入院も日本とは違うシステムがあり、何日間入院するのかと聞くと、たった二日間だというのです。アメリカでは、あっという間に病院を出ていかなければなりません。
 しかしユダヤ教の習慣は大変なものでした。男の子を産んだら、三十三日間引きこもらなければなりませんでした。イエス様は男ですから三十三日後に宮に連れて行かれました。ちょうどそれは、二月の今週あたりになります。
 子どもをささげる時には、犠牲を携えなければなりませんでした。犠牲の規定についてもレビ記に書かれています。レビ記十二章六節に、
『彼女のきよめの期間が満ちたなら、それが息子の場合であっても、娘の場合であっても、その女は全焼のいけにえとして一歳の子羊を一頭と、罪のためのいけにえとして家鳩のひなか、山鳩を一羽、会見の天幕の入口にいる祭司のところに持って来なければならない。』

 この規定にそって両親はイエス様を連れていきました。この記事をルカの二章二十三節と対比すると興味深いです。ルカ二章二十三節から二十四節に、
『__それは、主の律法に「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない。」と書いてあるとおりであった。__また、主の律法に「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽。」と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。』
と書かれています。レビ記十二章八節に、
『しかし、もし彼女が羊を買う余裕がなければ、二羽の山鳩か、二羽の家鳩のひなを取り、一羽は全焼のいけにえとし、もう一羽は罪のためのいけにえとしなさい。祭司は彼女のために贖いをする。彼女はきよめられる。」』
と記されています。これを読むと、イエス様は「もし彼女が羊を買う余裕がなければ・・」という規定に沿ってささげられたことがわかります。イエス様の家庭は、裕福ではなかったようです。
 さて、イエス様が宮で主にささげられるときに、一つのことが起こりました。二十五節から二十七節に、
『そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。』
 イエス様の両親がイエス様をささげるために宮に入りました。その時に、「シメオン」という年とったおじいさんがいました。彼は、その時、何らかの聖霊の感動を受けました。そして宮に入っていきました。その時、彼はどこにいたのかは分かりませんが、何しろ、予定を変更してまで、宮に入っていきました。すると、そこでイエス様に出会いました。
 ここで、「聖霊の感動を受けた行動は、神と出会う」という法則を教えていると思います。また、ルカの福音書二章三十六節から三十八節に、
『また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。』
と記されています。「シメオン」に続いて、「アンナ」という人物についても記されています。この人も御霊に感じて宮にいて、イエス様が宮に入ってきた瞬間に出くわしました。
 今日は「御霊に導かれて生きよう」というタイトルですが、私たちも、聖霊に感じて行動をとるときに、神と出会うのです。素晴らしい神の計画に出会うことができるのです。私たちも、常に、御霊に感じながら生きていきたいです。
 最近私は、「あなたはもっと、御霊の声に敏感になりなさい。」と教えられています。私たちも、シメオンやアンナのように聖霊の働きに敏感になり、主が「今行動しなさい」と言われるときに、自分のとっている行動とは違っても、聖霊に促された行動をとるなら、彼らがイエス様と出会ったように、素晴らしい神の働きを見ることができるのです。
 今回私は、アメリカに行って奉仕しましたが、不思議なことがたくさんありました。なぜならば、今回私がヤキマで奉仕させていただいたのは、背後に聖霊に感じた行動があった結果だからです。
 遡ると、二十年ほど前になりますが、新城教会に会堂ができて、その後、教育館建設を計画していました。しかし、会堂建築はあまり困難がありませんでしたが、教育館建築はたいへん難しかったです。なぜならば、どのような施設が教会に将来必要なのかという、将来的ビジョンが見えなかったからです。それで建築委員会を組織し、アメリカの充実した教会を視察する計画を立てました。ロサンゼルス近郊の大教会を視察したのですが、帰る途中にハワイに立ち寄りました。そのような中、ハワイからの日本への帰国の途中に、私は一人の婦人と出会いました。その方は、この教会に何度も来られたことのある、綾子ビラップスさんでした。しかし、その出会いを通して、二十年ほどの年月を経て、私は今回、ワシントン州の教会での奉仕へと導かれたのです。
 今回の旅行で私は、綾子さんのところに少し立ち寄りました。二年ほど前にも訪問しましたが、その時は少し病気で心配していました。けれども、今回はとてもお元気で、私たちを歓迎してくださいました。
 私が二十年ほど前、綾子さんと出会ったことによって、いろいろ不思議なことがありました。彼女は、そのとき御霊に感じて行動をとっていました。私もある意味で、そうだったと思います。しかしその背後には激しい、霊的戦いもありました。
 私たちがアメリカに視察旅行に行こうとしたときに、何を思ったのか、ワシントン州から派遣されたその宣教師が、アメリカ視察旅行を猛烈に反対しました。しかし、私たちはその反対にもめげずに、出掛けて行きました。
 私たちはホノルルから飛行機に乗りました。普通、飛行機に乗るとすぐに寝てしまいますが、その日は飛行機の中で、聖書を二時間ほど読んでいました。飛行機の中で聖書を読むと、たいてい十分ほどで眠ってしまいます。しかし、その時は二時間ほど読んでいました。
 すると、斜め後ろに座っている婦人が声をかけて来ました。それが綾子さんでした。そこで色々なことを話しました。当時彼女は、ユース・ウィズ・ア・ミッションという団体に所属しており、日本に短期宣教に来る途中でした。
  彼女の人生は悲しい人生で、戦後、アメリカ人と結婚しましたが、ご主人はベトナム戦争で四人の子どもと綾子さんを残して戦死してしまったそうです。その後、彼女は再婚しましたが、一人の息子が麻薬を使いはじめ、人生がめちゃくちゃになりました。
 綾子さんが、日本宣教に出かける前日、電話がかかってきたそうです。「あなたの息子が大変です。いのちが危ないかも知れません。すぐに会いに来てください」と言う事であったそうです。
 綾子さんは当時ハワイに住んでおり、アメリカ本土までは遠いのです。その上、翌日には日本に行かなくてはいけないのです。彼女は悩み、真剣に祈ったそうです。「私は日本に行くべきでしょうか。それとも息子の所に行くべきでしょうか。」と祈ったそうです。するとその時彼女は、神の声を聞いたそうです。
 「息子は私が守るから、安心して日本に行きなさい。そして、明日、飛行機に乗ると、あなたは一人の人に出会います。その出会いはとても大切なので、よく祈って行きなさい。」
 彼女は御霊に感じたのです。息子が死にそうであるにも関わらず、神が息子を癒すと語られた言葉を信じて、翌日飛行機に乗りました。そして、「そんな重要な人は、果たしてこの飛行機の中にいるのだろうか?」と思っていたそうです。
 すると、斜め前に、青いアロハシャツと白いパンツをはいた粋な男がおりました。しばらくするとその男は、聖書を取り出して読み出したのです。それが私でした。まさか主が語られた人とは思えず、二時間ほど彼女は祈りながら私を観察していたそうです。
 「神様、本当にこの人ですか?」と祈ると、「そうだ。この人に話しかけなさい。」と語られたそうです。それで会話が始まったのです。
 私は「宣教活動が終わったら、一度新城にお越しください。」と誘いました。それで彼女は新城に来られたのです。当時、新城教会では、伝道目的の英会話学校をしていたのですが、丁度、英会話教師がいなくなっていました。だから私は、彼女に「アメリカに帰ったら、英会話の先生として来てくれる人がいたら紹介してください」と頼みました。
 すると、「良いですよ」と快く受けてくださいました。彼女はとても誠実な方で、ハワイに帰ってすぐに、そのことを周りに話したそうです。ユース・ウィズ・ア・ミッションには多くの人々が来ていて、その中から「新城に行きたい」という人がたくさん出たそうです。それで、誰を新城に送ろうかと考えたそうです。しかし、やはり彼女は、御霊に感じて行動されるので、まずは祈ったそうです。
 「神様。この中から誰を新城に送りましょうか・・。」しかし、祈っても平安が与えられませんでした。すると主は、「待ちなさい」と語られたそうです。
 そうこうしているうちに、彼女たちの上司がワシントン州シアトルで仕事をするようになり、綾子さん夫妻もシアトルに移ることになったそうです。それでハワイでの働きをすべてやめ、荷物を船で送り、出掛ける準備を整えました。出かけるばかりになったとき、上司から突然の電話があったそうです。
 「あの仕事は駄目になったので、あなたたちはシアトルに来ても、なんの仕事もありません。来なくても良いです」
 すべての道が閉ざされ、困ってしまったそうです。彼女は、再び、主に祈りました。すると、「あなたには、シアトルで大きな使命があるので、恐れずに行きなさい。私が導く。」と語られ、一つの幻を見せられたそうです。それは、シアトルで自分たちが住む家の光景だったそうです。
 それでシアトルに着くと、幻と同じ光景の所を何日も捜したそうです。すると、神様が見せてくださった幻と同じ場所があったそうです。それでその家を借りました。
 次に、礼拝に通う教会を探しました。アメリカには教会が多いのです。だから、どの教会に行くのかを決めるのは大変です。しかし、彼女は表面的には決めないで、よく祈ったそうです。「主よ、どの教会に属したら良いのですか。」
 近所にある色々な教会を廻りましたが、その中でも一番見窄らしく、小さい教会に行ったそうです。すると、主が、「この教会に根を下ろしなさい」と語られたそうです。
 その教会が、トム先生という牧師の教会で、当時ジョー先生が副牧師をしていた教会でした。
 今回もその教会の前に行ってみましたが、「この教会によく行ったものだ・・」と思うような会堂でした。(現在その教会は成長し、広い場所に移転しています)周りには、もっと大きくて良さそうな教会がいくつもあるからです。
 しかし綾子先生はその教会に出席しはじめました。やがてその教会のビジョンと一つになり、「教会で働いてください」と頼まれ、仕事も得ることができたのです。彼女夫妻は、教会横の小さな家に住み込んで、その教会を手伝っていました。
 そこに一人の女子大生が来るようになりました。色々話しているうちに、大学を卒業したら日本へ行きたいというビジョンを話したそうです。すると、「この人を新城教会に送ってあげなさい」と語られたそうです。その人がジョイさんです。
 やがてジョイさんは新城教会に来られ、五年間ほど働いてくださいました。彼女の滞在期間中に、新城教会に聖霊が注がれ、突然、霊的戦いが起こりました。
 ジョイさんが来たことで、英会話クラスの生徒たちを、ジョイさんと綾子先生の属しているその教会に連れて行くようになりました。そのとき、私も一緒について行きその教会の人たちと、お交わりをするようになりました。そして、そこにいたのがジョー先生でした。
 ジョー先生は、現在ヤキマで指導的な牧師として一生懸命働いていますが、当時は結構いい加減な牧師でした。いつもコーヒーカップを片手に、リラックスしながらジョークばかり言ってました。私は、「彼は牧会を本気でやってるのか・・・?」と思っていました。そして、この人とは、あまり仲良くならないだろうと思っていました。
 すると再び、神様が綾子さんに語られたそうです。「やがて順先生と、ジョー先生がつながるようになり、ダビデとヨナタンのように親友になるから、そのために祈りなさい」
 私はそんなことを祈られているとは、全く知りませんでした。
 しかし知らないうちに私は彼と友だちになり、メール交換をするようになりました。
 ある日、ジョー先生が私に連絡してきました。「今度私は、タコマの教会を辞任して、ヤキマという田舎に伝道に行くので祈ってください。」
 その教会は、前任の牧師が色々な問題を起こしたために、大変な状況の教会だから祈ってください、と連絡がありました。彼から連絡が来たときに、私は、「彼の性格では長く続かないだろう・・」と思いました。
 案の定、半年ほどすると再度メールが来ました。「私はその教会をやめようと思う。少し疲れたから、日本に行って休ませてもらっても良いかなあ」と言うのです。
 それで私は、彼を私の家に招待しました。彼はヤキマで疲れ果てて、新城に休みに来ました。教会には色々な問題があるし、霊的にも強いプレッシャーがあり、どうして良いのかわからなくなって新城に来ました。
 その時、新城教会には聖霊が注がれ、霊的戦いが起こっていました。諸問題の背後には、悪霊の力があると気付かされていました。そこで私は、片言の英語で彼に説明しました。問題の背後には悪霊の力があり、地域の霊的亜戦いをしないと駄目だと話しました。
 しかし彼は、全くわかっていないようでした。そこで一緒に祈ろうと、三日間ほど県民の森祈祷会を計画して真剣に祈りました。
 その時に天が開かれました。聖霊様が彼に強く触れ、彼は倒れてしまいました。
 その時、彼は一つの幻を見せられたそうです。ヤキマは山々に囲まれていますが、山頂から大きなフクロウが自分を睨んでいる光景であったそうです。「何だろう?」と思ったそうです。
 実は、ヤキマは先住民のアメリカン・インディアンが持っていた土地でした。アメリカはまだ歴史が浅い国です。以前は(現在も)、インディアンの人たちが住んでいた場所です。インディアンの人たちは、人類学的にいうとアジアからの人たちです。私たちと同じアジアの人々が遠い昔に移ったのです。彼らは南米まで移っていきました。それを「モンゴロイドの移動」と言います。
 特に、ヤキマ・インディアンという人たちは、偶像礼拝が強く、悪霊を山頂に降ろしてその支配を町に置いていました。しかし白人は全くそれを知りません。そんな霊的環境の中で、何気なく生活していました。しかしその町を悪魔が握っていました。それを神様が教えました。「あなたは今、色々な問題を抱えているかも知れないけれど、その背後に悪霊的な力があるから、戦って祈らなければいけない」と示されたそうです。私は「その幻をどこで見たの?」と聞くと、県民の森ではなく、総合公園での祈祷会で見たと言いました。
 それでアメリカに帰ってすぐに、彼は祈り始めたそうです。ヤキマ・インディアンたちは、フクロウを神として拝んでいたのです。今まで自分たちを苦しめて、町を縛っていた悪霊が打ち砕かれるようにと祈り始めたそうです。教会員にもそのことを話して、とりなし祈ることを始めたそうです。壊れかかっていた教会が、皆で、霊的戦いに立ち上がったのです。それが数年前のことでした。
 それから教会が急速に変わっていきました。そして今は、ヤキマの教会がジョー先生のリーダーシップの元に一致して祈るようになったのです。昨年のヤキマ全市規模の伝道会には、六千人ほどが集まったそうです。
 その町に霊的戦いが始まったきっけが、ジョー先生が新城教会に来て県民の森での体験で始まったので、ヤキマに来て霊的戦いセミナーをするように数年前から私を招きました。もうすでに三回セミナーを行いました。毎回、地域の兄弟姉妹や牧師たちが霊的戦いを学ぶために来られます。私は、何を語るべきかと、毎回、真剣に祈ってから出かけます。すると、不思議に毎回、語るべきことを与えてくださり、町の教会や牧師たちが霊的戦いに目覚めています。
 今回は、ヤキマから百数十キロ離れたプロッサーという街の教会にも来て欲しいと言われました。そこでも集会をしました。
 その教会にはまだ会堂がなく、地域の小学校の講堂を会場にして礼拝をしていましたが、多くの人が集まり、素晴らしい集会でした。
 今まで語った一連の流れは、この二十年の間に起こったことです。この中で、一つでも狂ったら私はヤキマに行っていません。私も、一連の流れの中で、その一端を担わしていただきましたが、綾子先生、ジョー先生など、色々な人たちが御霊に感じて行動した結果として、主のみ業を見ているのです。
 私たちは神の時をどのように迎えるのでしょうか。それは真剣に祈っているときや、真剣に断食している時というよりも、その後が大切です。今日、私たちはこのように、教会に来て主を礼拝し、主に近づいていますが、御霊に感じての行動は、「生活のただ中」に訪れるのです。生活のただ中で、御霊に感じて行動をするときに、そこに、イエス様がおられるのです。今回私は、そのことを強く教えられてました。
 私たちは、神のとてつもなく大きな計画の中にあると思いました。良い意味で、なにか恐い感じがしました。
 私たちが二十年前、アメリカに視察に行こうと思ったときに、反対が起こりました。それは一つの霊的な戦いだと思います。ワシントン州から送られた宣教師によって、私の両親は救われ新城教会が建てられました。やがて、新城教会から逆にワシントン州に乗り込んでいく計画が、始めから神の前にあったのだと思います。だから悪魔も、神の計画の全容は知ることはできませんが、ある側面は見抜いていたのだと思います。「このまま、進んでいくと神の大きな働きにつながっていってしまう。早く阻止しなくてはいけない」と、ワシントン州背景の宣教師にあった霊的束縛を最大限利用して、反対させたのだと思います。
 また、綾子先生も同様に攻撃を受けていました。それぞれの立場において、様々な戦いが繰り広げられたと思いますが、それらの戦いにすべて勝利して、今回の働きに繋がったのだと思います。主の計画の偉大さと、御霊に感じた行動の重要性を深く知らされました。
 これは決して、牧師のような立場の人だけに起こる特殊なことで、一般では起こらないとは思わないでください。クリスチャンは皆、御霊に感じて行動する性質を持っています。そして神がひとりひとりに願われていることは、シメオンやアンナのように、御霊に感じて行動することです。
 やがてイエス様が帰ってこられると聖書は教えています。近頃、新城教会で流行っている「夜明けの星」という賛美があります。
見よ 主イエスがすぐに来られる
すべての報いを 携えて・・
 やがてイエス様は、混沌とした人の歴史に終止符を打つために、自ら地上に介入されます。そんな時が近いのかも知れません。今、世界の状況は、国連が動いてもどうにもなりません。この状況を、誰が止められるのでしょうか。神が直接介入して、「おまえたちの歴史はここまでだ!」と言われるときが来ます。イエス様はもう一度、帰ってこられると聖書は教えています。その時、クリスチャンには報いを携えてくると教えています。マタイの福音書十六章二十七節に、
『人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。』
 「報い」とは何でしょうか。また、「報いの基準」とは何でしょうか?それは、私たちがいかに、御霊に感じて行動をするかにかかっているのではと思います。
 歴史を英語で「history」と言います。ある人が、His-storyと言いました。「His」とは神様のことです。すなわち、「神が作った物語」と解釈しました。
 歴史とは、ある意味において、神が作った物語です。しかし、そのストーリーを、地上にもたらす「ヒストリー・メイカー」として、実際に地上に実現する為には、人が使われるのです。
 神が天で作った歴史を、地上に現すためには、クリスチャンをよく使います。クリスチャンが御霊に感じて行動をとることによって、「神の歴史」が地上に作られるのです。
 私たちひとりひとりは、ある意味で行動に責任を持たなければなりません。毎日の生活は、神のストーリーを地にもたらすためだからです。そのためには御霊に感じての行動が要求されます。その時に、神ご自身の計画が、この地にもたらされるのです。やがてイエス様が帰ってこられたときに、私たちは主の御前に出ます。「あなたは御霊に感じて、これだけの行動をとって欲しかったのだけど、あなたがとった行動はそのうち、ほんの数パーセントです」と言われたら悲しいです。
 やはり人間として造られたからには、神が計画された歴史をこの地上にもたらす事柄を、御霊に感じて実行させていただきたいと願います。
 世界の国々はバラバラのようですが、根底では一つです。日本が解放されるためには、日本だけでは無理なのです。外国からの祈りが大切です。また、日本の祈りによらないと諸国は解放されない場合もあるのです。
 歴史を見ると、日本とアメリカには、密接な関係があることが分かります。現在、「アメリカの最後の友人は日本だ」と言われますが、よく歴史を見ると、日本が鎖国をやめたのは、一八五三年にアメリカからペリーが来て脅しを入れながら「国を開けろ」と日本を揺り動かしたからです。その結果、翌年、日本は開国を決めました。
 アメリカが来なければ、今でも日本人はちょんまげを結っているかも知れません。また第二次世界大戦集結まで、日本は大日本帝国憲法を根拠にして、国家神道によりアジア諸国を傷つけていました。第二次世界大戦については様々な評価がありますが、最終的には、日本が戦争に勝たなくて良かったです。もしも、勝っていたら今頃大変です。クリスチャンは皆迫害され自由はなかったことでしょう。アメリカが勝利したことにより、日本は国家神道から解放されました。
 歴史も証明しているように、アメリカが日本を大きな意味で解放しています。しかし逆に、日本もアメリカのために祈り、とりなす領域がたくさんあります。
 私たちの廻りには、色々な祈りの課題があり、目の先のことを多く祈っているかも知れません。しかし、案外、その根はとても深い歴史の中にあるかも知れません。また、それを解くカギは日本にはなく、アメリカにあるのかも知れません。
 今回アメリカでは、そのようなテーマでとりなしの祈りをしました。私たちが御霊に感じて行動をとらせていただくときに、コリント人への手紙第一の二章九節に、
『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』
 その結果は、まさしく、目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのないものを、神は備えてくださっているのです。
 今週、御霊に感じて生きることができるよう、祈って過ごしましょう。あなたを通して、神は歴史を造ろうと願われます。御霊に感じてとる行動は、やがて国々を大きく揺るがすきっかけとなるかもしれません。
 今世界は、イスラム教とキリスト教の対決という悪い構図があり、衝突が繰り返されています。このような構図となったのも、ある意味で、歴史の中でちょっと駒が狂ったことから始まりました。
 イスラムの教祖「マホメット」は、初めユダヤ教の予言者になりたくて、ユダヤ教の門をたたいたそうです。しかし、ユダヤ教は、「お前は駄目だ!」とマホメットを排斥したそうです。それで、彼はイスラムを立て上げたというのです。それが現在、世界平和を脅かすほどの大きな戦いとなっています。彼を受け入れるか、受け入れないかの背景に、どのよう事があったのかわかりませんが、誰かのちょっとした判断ミスが、世界を揺り動かす問題にまで発展しています。
 私たちも御霊によって行動をとらなければ、将来、どのような結果に繋がるのかわかりません。特に、クリスチャンには、大きな責任が科せられていると思います。
 ひとりひとりが、神が造られた歴史を地上にもたらす者として、御霊に感じて生かされていきたいと願います。
 今から聖餐式をしますが、聖餐式はある意味で、一週間のすべての罪を神の前でリッセトする時です。今週、シメオンやアンナのように生活できるようにお祈りしましょう。
 シメオンもアンナも、年をとっていました。この箇所は、お年寄りの方々に対して語っている部分かも知れません。年を取っても御霊に感じて生きていきましょう。すべての方々が、御霊によって生きることができるように、祈っていきましょう。お祈りします。


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