宝を天にたくわえよ

2004.2.8(SUN)
新城教会 滝元 明牧師

新約聖書 マタイの福音書6章19節〜21節
自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。

 ハレルヤ!皆さんお早うございます。これから聖書の御言葉を学びます。
『自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。』
 私たちの人生は非常に短いです。長くて九十年から百年です。しかし、この地上では短いですが、死後の世界は永遠に生きると教えています。この地上で幸せなことも素晴らしいですが、この地上で貧しく病んで苦しんでいても、イエス様を信じれば天国に行くことができます。これは最高の祝福です。「宝を天にたくわえなさい」と書かれていますので、皆さんが今後何年生きるのかわかりませんが、天国に行ったときにたくさんの宝がたくわえらえるよう、信仰を持って歩みたいです。
 私が新城に開拓伝道に出てきたのは、五十数年前です。当時私は、豊橋の麻工場で働きながら伝道していました。またそれ以前は、津具鉱山で三年ほど働きながら開拓伝道をしました。そして新城に来て、元ダンスホールを買って教会にして、礼拝をするようになりました。しかし、当時は豊橋で勤めていました。
 そのころ、礼拝では献金をしませでした。だれの世話にもならずに、伝道をするという考えがあったので、献金をしませんでした。
 段々信徒が増えていきました。今でも忘れませんが、私の世話をしてくださった、ジョセフ・シメオンソン先生が、礼拝に来られメッセージを語ってくださいました。最後にお祈りをして、終わってしまいました。すると先生が、「滝元先生。献金はしないのですか」と言うのです。私は「やりません。」「なぜですか?」「新城の人はけちで・・・献金をするとつまずいて、来なくなってしまうのです。」と言いました。
 すると先生が、「先生。そういう教えが聖書のどこに書かれていますか。」私も、「えっ・・・まあまあ、この町の人は皆けちだし、私は自分で働いているので、献金は取る必要ないですよ。」と言うと、先生は非常にまじめな顔をして、「先生、献金を取ると言いますが、献金は誰にするものですか。自分がとることですか。違うではないですか。」私も段々追いつめられ、「まあまあ、それはそうですが・・・」と言うと、「先生。献金は神様にするのです。聖書には、宝を天にたくわえなさいと書かれているではないですか。献金は、皆の祝福になることですよ。また聖書には、献金したら神様が更に祝福を与えると書いてあるから、先生は、信徒の祝福を奪っているのです。」とはっきり言われ、私も納得しました。それから私は、献金とは取られるのではなく、ささげるということだと語りました。「イエス様にささげましょう。宝を天にたくわえましょう。献金したら祝福されます。」と語りました。その時から祝福されました。
 それ以来、皆が喜びに満たされ、「新城に教会を建てよう」と言い、二十名程の人で毎月一万八百円を掛け金をし、約七年後に百名程が入る教会堂を建てました。それから人が増えていっぱいになったので、また、二百名ほどが入る会堂を作り、また一九八〇年にこの教会堂ができました。現在、このような素晴らしい場所にいますが、もしあの時、献金することを導かれなかったら、この教会堂はないと思います。献金をされた人は神にささげたので、天に宝がたくわえらえています。この教会が祝福されたことを感謝しています。
 この教会では特に、日本の救いのために「全日本リバイバルミッション」のためには毎年、六百万円ほどささげています。また、海外にも献金しています。神の前にささげることですので、喜んでささげましょう。
 テモテ第一の手紙六章十七節から十九節に、
『この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。』
 「未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように」と記されています。これから来る新しい時代とは、天国に対することです。「これは天国への分です」とささげていきましょう。
 先日、私のところに貧しい姉妹からの献金がありました。彼女が二万円を献金してきたので、私は心配しました。「たくさん献金してくれたけど、やっていけるか。」と聞くと、「先生、宝を天国にたくわえないといけないから、ささげました。」と言いました。それを聞き、私は恥ずかしくなりました。私たちの人生の中で、宝を天にたくわえることは大切なことです。けちにならないで、喜んで神様にささげることです。
 皆さんは天国があると信じますか。また地獄があると信じていますか。私は信じています。私は十九才の時にイエス様を信じました。イエス様を信じたら、永遠のいのちが与えられ天国に行けるとわかった時に、「これだ!」と思いました。それまでは一生懸命勉強しても仕方がない、たとえ有名になっても死んだら財産を全部残していきます。だからイエス様を信じて、永遠のいのちが与えられることを受け止め、また、何とかしてこの永遠のいのちを知らせなければならないと思い、伝道に入りました。
 天国を信じれることは素晴らしいことです。天国を見たことはないと思いますが、見ずして信じる者は幸いですとあります。神の御言葉で間違っていません。今日私は神の言葉について話しています。信じましょう。
 今月、浜松でペンテコステ集会がありました。私は夜の集会に行きました。その集会はとても参加費が高いのです。参加登録費が七千円で、その上、一度の集会に出るのに千円かかるのです。私は高いと思いました。
 今週はリバイバルミッションの主催する、拡大聖会がありますが、登録費は二千円です。七千円は高いと思いました。しかしそこで素晴らしい恵みをいただきました。田中先生と共に夕食をしていると、先生が突然目の色を変えて、「先生、すごいことを聞きましたよ。ミャンマーの僧侶が死んで地獄に行った話で、その上に天国を見て帰ってきて、三日後に生き返ったそうです。僧侶が地獄を見て、本当に地獄があり、天国があると言ったのです。私よりも新村先生聞いて」と言うので、私は新村先生にその話を詳しく聞きました。新村先生に、どこからその話を手に入れたのかと聞くと、台湾のクリスチャン新聞に出たということで、先生からファックスをもらいました。これは本当の話です。
 この僧侶の名前は、ヤティ・ファンシンタウと言います。彼は一九五八年生まれです。ミャンマーとは元ビルマで、国では出家して坊主になることが素晴らしい事のようです。彼は十八才の時に出家し、寺で修業し、十九才と三ヶ月で正式な僧侶になりました。その僧侶が所属していた寺の住職は、ミャンマーの僧侶の中で最も有名な人で、彼の名前はユウツァティラという人でした。彼が僧侶になってから六年目に、寺の住職は交通事故でなくなりました。
 仏教僧は修行をします。ある日、僧侶は悟りを得るために墓場で座禅を組み修行しました。ビルマは熱いので蚊が来て刺します。しかし仏教では、生き物を殺してはいけないのです。だから刺されても、我慢していたそうです。その結果、マラリヤになり、一ヶ月ほど入院したそうです。もう駄目だといわれ、家に帰り永遠のために準備をしました。そして彼は死にました。
 死ぬとは肉体から魂が出ることです。ミャンマーでは、三日間ほど遺体をおき、最後に火葬にします。
 彼の魂は出て、気付いたら地獄でした。そこに王がいたそうです。顔と体はライオンのようで、足は妖精の足のようで頭にたくさんの角が生えており、恐ろしい顔をしていたそうです。そこでは火の湯気が燃えており、火の池があったそうです。
 そこに、一人の黄色い袈裟を来た男が立っていました。その人は一九八三年に亡くなった、一番尊敬していた住職でした。
 そこで彼は、地獄の王に言いました。「どうしてですか。どうしてみんなから尊敬されていた先生が、ここで苦しまなければならないのですか。」すると地獄の王は、「確かに彼は、人間的には偉大な先生だったけど、イエス・キリストを信じなかったから、ここに来た」と言ったそうです。天国はイエス様を信じないと入れません。地獄はイエス様を信じない人が入るところです。学力も名誉も関係ありません。彼は驚きました。
 そしてまた、驚くような人に出会いました。頭の左側に長い髪をくるんだ伝統的な僧侶が立っていました。「この人はどなたですか」と聞くと、地獄の王が高笑いをし、「この人はあなたがたがこぞって拝んでいるお釈迦様だ」と言いました。すると彼は怒りに燃えて「お釈迦様は修行し、論理、道徳的に立派な人ではありませんか。なぜ地獄に落としたのですか。」と言いました。すると地獄の王はこう言いました。「どんなに皆から立派な人であると尊敬されていても、真の神を信じなければ、皆ここに来なければならないのだ」と言いました。
 そして彼が見ていると、見たことのないとても大きな男が鎧甲を着て出てきました。「これは誰ですか?」と聞くと、「ゴリアテ」と言ったそうです。彼はその名前を初めて聞きました。「この人はダビデと戦ったときに、神を暴騰したからその罪を刈り取るのだ」と言ったそうです。
 地獄は現実的な場所で、日夜苦しみ続けると書かれています。それを見て地獄の王が、「お前もここに住みたいというのか?」「私はこんな所は真っ平ごめんです。」と言うと、その人の名前は、まだ地獄の名簿には載っていなかったそうです。神が特別に赦されたと思います。
 そこで彼は特別に神によって天国に連れて行かれました。そして天国の入り口を見ると金の道があり、聞いたこともないすごい賛美歌が聞こえたそうです。するとそこに一人の人が待っており、案内をしてくれたそうです。「あなたのお名前は何という名前ですか」と聞くと、にこりと微笑んだだけで返事をしてくれませんでした。彼はそれでも聞き続け、六回目にやっと「私は天の鍵を持っているペテロです」と言ったそうです。あまりに素晴らしかったので、「私を入れてください」と言うと、「今、お前を入れることはできない」と言ったそうです。「ちょっとだけ覗かしてください。どうしても入りたいのです。」と言うと、「ちょっと待ってください。」と言い、天の使いが来て天国住民名簿を持って来ると、彼の名前は、まだ天国に登録されていませんでした。そして、「あなたの名前は登録されていないので、入れることはできません」と言われたそうです。
 イエス様はこう言われました。「あなたがたの名前が、いのちの書に記されていることを喜びなさい」と言われました。「あなたの名前はまだ、いのちの書に書かれていないです。これから地上に帰してあげるので、イエス様を信じてから、また来なさい。」と言ったそうです。
 下を見ると、天国から地上まで梯子があって、そこに天の使いが行き来しているのです。「あれは何ですか?」と聞くと、天使が地上で信じた人を登録するために神に報告していると言いました。それで彼は肉体に帰りました。
 三日目で彼の体は腐っていました。するとそこでお母さんが、「息子よ、どうして死んだのか・・」と泣いているのです。それは火葬にする一時間半前でした。彼は棺桶の中で動き出しました。「あれっ、息子は生きている!」そこで彼は手を突いて起きあがりました。すると皆は驚き、鬼だと言ったそうです。しかし腐っていたのがたちまち癒されて、彼は立ち上がり伝道を始めました。「皆さん。今まで私たちは先祖を供養し、仏教を信じていましたが、それでは地獄に行きます。だからイエス様を信じましょう。」と伝道し始めました。彼は今、四十六才です。今、ミャンマーで多くの人が彼を通して救われています。しかし迫害もあるそうです。
 ペテロは「誰でも偶像礼拝する者、イエス様を信じない者は天国に入れない。」と言いました。天国に入るには、学歴や地位、名誉は関係ありません。問題はイエス様を信じているかどうかです。
 今日あなたは天国に入れますか?偶像を持ったままでは、天国に入れません。しっかりと信じなければなりません。だから、天国に入るように準備しましょう。天に宝をたくわえることは素晴らしいことです。昔は賛美歌ばかり歌っていました。
天に宝積む者はげにも幸なるかな
主にまかせしその喜びいかにしてかは述べん
 天国があります。天国に行ったときに、何も宝がないと寂しいです。ですから宝を天にたくわえましょう。間もなくイエス様が帰って来られます。黙示録二十二章十二節に、
『見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。』
と記されています。皆さんが天に宝をたくわえたことに対する報い、伝道したことの報い、祈ったことの報い、施しをした報い、必ず、イエス様は報いを持って来ます。使徒の働き十章一節から四節に、
『さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、ある日の午後三時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。御使いは彼のところに来て、「コルネリオ。」と呼んだ。彼は、御使いを見つめていると、恐ろしくなって、「主よ。何でしょうか。」と答えた。すると御使いはこう言った。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。』
と記されています。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。」とあります。神様は、私たちの人生を全部見ておられ、祈りも、施しも覚えられているとあります。だからコルネリオはペテロを招き、シモンを招いて話を聞きました。私たちは必ず、天で報いがあることを信じましょう。マラキ書三章八節に、
『人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。』
と記されています。
 韓国の教会で役員を選ぶ基準は、人格的なこともありますが、十分の一を神様にささげているかということにあります。十分の一は神のものです。この地球は神様が造られました。また私たちが働けることも神様の恵みです。十分の一は神様にささげたら必ず祝福されます。そうしたら九節に、
『あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。__万軍の主は仰せられる。__わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。』
と記されています。神様を試すのは良いことではありませんが、ここには「試して見よ」と書かれています。
『わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。__万軍の主は仰せられる。__すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。」と万軍の主は仰せられる。』
と記されています。十分の一をささげると、天の窓を開けてくださるのです。これを神様が受け入れてくださり、皆さんの宝となります。だから、十分の一を返しなさいと言っています。
 若い方がおられますが、若いときから神様にささげる習慣を持つことは大切です。私は貧乏のところを通りました。鉱山の土方をしていました。貧乏の子沢山で、八人も子どもが生まれました。明日の食べる物がないようなときもありました。
 今でも忘れることができません。私が属していた教団の集会が東京があったときに、証をしました。「皆さん、私は貧乏で苦しみましたが、イエス様に祈ったら必要が与えられました。」と話しました。同情して聞いてくれた人がいました。しかし私が話し終わったときに、穐近先生が前に出て、私を会衆の前で怒鳴り飛ばしました。
 「何を言ってる。貧乏だ、貧乏だといって・・・聖書に牧師になると貧乏すると書いてあるか!けちけちしているからおまえは貧乏だ・・・」と言われ、恥ずかしい思いをしました。正直には「この野郎っ」と思いましたが、あの時のことは忘れません。
 しかし考えてみました。本当に私はけちなところがあったと思います。貧乏だとけちになります。家内と話しました。その時、ブラジルに宣教に行く人たちの予約献金をしました。あまりにしゃくにさわった私たちは、生活費二ヶ月分ほどを信仰によってささげました。
 しかし、その時以来、私は祝福されました。あの時に先生に怒られたことも、主が用いてくださったと思います。けちはいけません。祝福されません。将来のために思い切ってやってみてください。ただかき集めるのではなく、神様に喜んでささげたら必ず祝福された人生を持つことができます。
 ダビデ王はすごい人だと思います。ダビデは羊飼いから出世し王になりました。素晴らしい家に住んでいるときに彼は考えました。「ああ、私はこんな家に住んでいる。しかし主の家は天幕の中にある。私がこんなところに住んでいるのは申し訳ない。」
 彼は、ナタンを呼び、「神の家を建てるように。」と言いました。すると神様が「お前は大勢の人の血を流したから、お前が建てるわけにいかないが、お前の子どものソロモンが建てる」と言われました。しかしこのことを神は喜ばれ、「あなたを大いなる者として祝福しよう。またあなたの末も祝福する」と言われました。
 新約聖書を見ると、「アブラハムの子、ダビデの子である、イエス・キリストの系図」と記されています。彼は祝福されました。彼が将来持ったビジョンは、神の宮を立派にしよういうことでした。第一歴代誌二十九章三節に、
『そのうえ、私は、私の神の宮を喜ぶあまり、聖なる宮のために私が用意したすべてのものに加えて、私の宝としていた金銀を、私の神の宮のためにささげた。』
と記されています。彼は準備をして、喜んでささげました。そして彼はこう言いました。歴代誌第一二十九章十四節に、
『まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。』
と記されてます。ダビデ王は、「私がささげることができたとしても、神から受けたものを返したに過ぎません」と語っています。
 私は感謝したことがあります。一九九二年三月に教育館を建てました。建てる前に私は四国の聖会の最中に、吉野川の川畔で祈りました。「イエス様、今度教育館が建ちます。一千万円ささげることができるようにしてください」と祈りました。それから十数年が経ちました。私は計算してみました。毎月献金していますが、私はだいたいこれまでにささげることができました。あの時に祈った祈りを、神が聞いてくださったと思いました。やがて天国に入るとき、宝があると確信しています。場所を備えるというのは、マンションを準備するようなものです。日本のマンションは小さいですが、海外のマンションは違います。天に大きな邸宅が準備されています。人生はいつどうなるかわかりませんが、いつでも神の前に喜んでささげるようになりましょう。やがて天に行った時に報いてくださり、天使が「よくささげてくださいました。あなたがささげたことで素晴らしい住宅が建っています。お入りください。」「わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を、あなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」と書かれていますので、これから喜んでささげていきましょう。皆さんが今までささげたことは、必ず報いがあります。お祈りしましょう。


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