The way/道

2004.2.29(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

新約聖書 ヨハネの福音書 14章6節
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

 ハレルヤ!今日このように、皆さんと共に賛美し、御言葉を学ぶことができて感謝します。先週は、「さぁ、元気を出して!」というタイトルでお話ししましたが、いかがでしたか?主が元気を与えてくださったと思います。今日は「The way/道」という主題とテーマで聖書から学びます。
『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』
 この御言葉を読むだけで、イエス様が神であると信じることができます。この言葉を試しに、人通りのあるどこかの駅前で語ってみてください。「皆さん。聞いてください!この私が道であり、真理であり、いのちです。私を通してでなければ、誰も神のところに行くことができません!!」と叫んだら、道を通り行く人々はどう思うでしょうか。また、そう叫んでいる人を見たら、あなたは何と思うでしょうか。
 多分、「春先は、あのような人が出るんですよね。新芽が吹く頃にはああいう人が出る・・・」と言って、親切な人は救急車を呼んでくれるかも知れません。こんなことを言える人は、とても疲れて重荷を負っている人か、神様かのふたりに一人です。イエス様は、全世界の人々に、「わたしが道であり、真理であり、いのりです」と語られています。ということは、イエス様は世界一頭のおかしい人物か、本物の神かのどちらかです。
 今日ここに集まっている方々は、イエス様が神であると信じた人々がほとんどだと思います。そもそも、二千年間、この言葉が否定されずに続いていることは、イエス様の中に道といのちを見出した人々が絶えないからです。
 私たちの生活に、道はなくてはならないものです。周りには、現実的にもたくさんの道があります。私は道に関しては少し詳しいです。なぜなら私はかつて、土木の技術者をしており、道路の設計などをしていたからです。
 二〇〇二年四月一日現在、日本の道路の総延長は、百十七万七千二百七十七.七キロだそうです。地球一周が四万キロですので、地球を約三十周する程の道路が全国に張り巡らされています。それで私たちの生活が成り立っています。道路は私たちの生活を支える基盤となる社会資本であり、なくてはならない重要なものです。しかし一方、道の上で多くの問題が起こっています。
 例えば、今までに、交通事故に遭った人も多いと思います。今日、午後からは「交通安全とりなし祈祷会」をします。交通安全のために、真剣に祈らなければなりません。偶像の神々の領域では、交通安全祈願は中心的なものです。クリスチャンが交通安全のために祈らないのはおかしな事です。今日午後は、交通に守りがあるように祈りますので、ぜひ集ってください。
 交通事故は重大な問題です。今週、皆さんの上に守りがありますよう、切に祈ります。誰一人として事故に遭わないように、交通事故でいのちを落とすことなど、絶対にないように、また、けがをする人など誰一人いないように祈ります。
 昨年は、七千七百二名が交通事故で亡くなりました。これは、二十四時間以内に死亡した人々の数ですから、実際はもっと多くの方が亡くなっているはずです。昨年、全国で九十四万七千九百九十三件の交通事故が起こり、負傷者は、なんと、一一八万一千四百三十一名です。戦争など、比ではないくらい多くの人が傷ついています。道路関係について真剣に祈らなくてはいけません。
 目に見える世界と、見えない世界とは、ある意味で対比しています。イエス様の道は安全な道ですが、安全でない道も多くあることを、現実の世界に起こる事件を通して、神は私たちに教えているのかも知れません。道を間違うならば、到達時間が全く違ってしまいます。また、間違えば目的の場所も変わってしまいます。
 道に迷ったことはありますか。迷うと大変です。私はよく、ウォーキングをしますが、奉仕に行った先でも、その地域を歩きます。
 昨年、宿泊のホテルから夜ウォーキングに出掛けました。しばらく歩くと、迷って帰れなくなってしまいました。夜遅かったので、どこに電話してよいのか、自分がどこにいるのかさえ分からず、大変なことになってしまいました。道を失うと危険です。
 また同時に、近道を覚える事は嬉しいです。新城教会に、遠くから来られている方々がおられますが、多分お互いに、近道の情報交換をしておられると思います。
 私は来月、パナマに行きます。それは私たちの教会のメンバーである、原田省子さんがパナマで先生をしており、彼女が以前から「一度パナマに来て祈ってください。」と言われていたからです。昨年帰国された際、私たち夫婦をパナマに招待してくださいました。私たちはパナマに行って、パナマのために、また、日本とのコネクションに神の祝福があるように祈ります。
 パナマはある意味で、大きな霊的使命を持っている国のように思います。地理や地形も神の御手によって創造されたものです。パナマには有名なパナマ運河があります。その運河が出来たゆえに、大西洋と太平洋が近くなりました。たとえばアメリカ東海岸から、太平洋に出るのには、たいへんな距離を廻って行かなければなりませんでした。太平洋という名前がありますが、大西洋の人々が、「もうタイヘンヨー・・・」と言ったのが「タイヘイヨー」になったのかも知れません。(笑)パナマ運河ができてからは、約五千キロほどショートカットされました。神がそのような地形を造られたと信じます。パナマ運河の真ん中には湖があり、それを利用して運河は造られ、大西洋と太平洋を相互に通行できるようになりました。
 そこには目に見えない霊的な鍵があると信じます。私たちは日本のリバイバルを祈っています。「主よ、日本にリバイバルを起こしてください!」と祈っていますが、なかなか道のりが遠いように感じます。しかし、地理的にショートカットされている場所に立って、「神様。日本を遠回りさせないでリバイバルしてください」と祈ったら、パナマ運河のように時間が短縮されて、リバイバルが前進すると期待しています。ぜひお祈りに加えて、支えてください。
 何れにしても、道は重要な要素を持っています。また、イエス様は、「わたしは真理です」と言われましたが、「真理の道」と称するのが宗教団体です。どこの宗教団体でも、「私たちこそ真理の道である」と言います。真理は一つだけのはずですが、すべての団体が「これこそ真理だ!」と言われると混乱します。
 一九九八年十二月三十一日現在で、日本には十八万二千六百五十九の「宗教法人」があるようです。その一つが「新城教会」です。私は宗教法人という領域について、よく祈らなければならないと考えています。国家によって、教会もオウムも、寺も神社も何もかも一緒に管理されます。だから霊的な悪影響を受けるはずです。税金がかからないなどという、メリットもありますが、色々な霊的プレッシャーも受けると思います。新城教会が私の代に変わったとき、法人登記の書類を作りました。私たちは、その書類をまず県民の森祈祷会に持っていき、法務局に提出前に皆で手を置いて祈りました。「宗教法人の登記をしますが、絶対に悪霊の影響を受けないことを宣言します!」と祈り、書類を提出しました。
 日本の人口は一億二千五百万人です。しかし、宗教団体に属している宗教人口は、一九九三年の統計によると、二億一千九百二十三万人です。赤ちゃんからお年寄りまで国民全員がどこかの宗教に属しても、まだ足りないのです。それは、かけ持ちで入っているのと、宗教団体の信徒数水増し報告です。そこには、色々な神に関わったほうがいいという、多神教的な考えが反映されています。しかし真理は一つのはずです。
 イエス様は「わたしが真理だ」と言われました。イエス様の道だけを歩めば、真理の道に至ることができるのです。またイエス様は次のように言われました。マタイ七章十三節から十四節、
『狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。』
 日本はクリスチャンが少ないのです。日本のプロテスタント教会は八千位ありますが、現在、礼拝を守っている総人口は十六万人ほどです。人口比で言うならば、〇.一パーセントちょっとです。その中の一人が「あなた」です。たいへん狭い門です。あなたは、その狭い門から入ったのです。「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」とありますが、日本において真理の道を見出すのはまれなのです。
 しかし既に、皆さんは真理の道を歩んでいます。これは大切な道です。クリスチャンになって、色々と迫害があるかも知れませんが、強く立ち、真理の道を脇目もふれずに歩むことを強くお勧めします。また私たちは、お互いに励まし合わなければならないのです。
 「その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」とあります。「まれ」ということは「そう簡単には見つからない」と言うことです。なぜそれほど、「まれ」なのでしょうか?
 実は、救いの道は、そもそも「通行止め」でした。時々、通行止めに出会うことがあり、がっかりします。あるとき、私は浜松の家庭集会に行き、帰りに新城の山を下ってきました。そしてまもなく新城にはいるというところで、通行止めに遭いました。それで、元に戻らなければなりませんでした。目的地がすぐ目の前にあるのに、到達できないのです。
 救いの道は通行止めでした。なぜならば、人間が罪を犯したことによって、救いの道、真理の道、いのちの道の全てが「通行止め」になったのです。そのことが、創世記三章二十二節から二十四節に書かれています。
『神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。』
 人間は罪を犯したために、いのちの木に到達できなくなったのです。そこに入ることができないよう、通行止めの立て札が立てられたのです。
 ここで、「見よ。人はわれわれのひとりのようになり・・・」と書かれています。これは神についての重要な理解を教えています。私たちの信じている神は「三位一体」です。父なる神、子なるイエス様、聖霊様が一体です。「我々」というのは、「三位一体」を現しています。主語が複数で動詞が単数になっています。イエス様は肉体を持たれた神様でした。私たちも、同様に肉体を持っています。人間が罪を犯したゆえに、いのちの木の実を食べることができないように、その木に通じる道路が通行止めになったのです。
 人は罪を犯すと、いのちの木から実をとって食べることができず、永遠の滅びに向かわなければなりません。全人類が罪を犯し、滅びに向かっているのです。ですから、真理の道を見つけることについてイエス様は、「その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」と言われたのです。
 しかし聖書の素晴らしいところは、「通行止め」から「通行止め解除」に結論が行きついていることです。聖書は、創世記に始まり、黙示録で終わります。聖書の裏表紙とも言うべき、黙示録二十二章十三節から十四節に、
『わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。』
と記されています。初めの人間が罪を犯したゆえに、通行止めの立て札ができましたが、最後には、いのちの木の実を食べる権利が与えられると教えています。それは、イエス様の道を歩むことによって与えられる、というのが聖書の教えです。イエス様の道を歩むならば、私たちはいのちの木の実を食べる権利が与えられます。今、あなたが真理の道を歩んでいるならば、やがて、いのちの木の実を食べることができます。
 クリスチャンにとって死は終わりではなく、永遠の始まりです。やがて私たちは、永遠の国・天国で二度と死も苦しみも悲しみもないところで、永遠に生きることができます。ここにおられる方々は永遠を共に過ごす仲間です。
 しかし、この世の中には、道を誤らせたり、通行止めの立て札を立てる要素がたくさん転がっています。真理の道から外れないように、注意深くしなければなりません。やがていのちの木の実をとって食べ、永遠に生きる日まで、もちろん、既にその権利は与えられていますが、現実の世界に生きているので、常に細心の注意を払いながら、狭い道を歩まなければなりません。
 道を誤らせ、道をねじ曲げる存在があります。そもそも人間がいのちの木への道を塞がれたのは、蛇・悪魔が誘惑したからです。そして、新約聖書、使徒の働き十三章四節から十二節を見ると、道を誤らせる現実的存在について教えています。
『ふたりは聖霊に遣わされて、セルキヤに下り、そこから船でキプロスに渡った。サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神のことばを宣べ始めた。彼らはヨハネを助手として連れていた。島全体を巡回して、パポスまで行ったところ、にせ預言者で、名をバルイエスというユダヤ人の魔術師に出会った。この男は地方総督セルギオ・パウロのもとにいた。この総督は賢明な人であって、バルナバとサウロを招いて、神のことばを聞きたいと思っていた。ところが、魔術師エルマ(エルマという名を訳すと魔術師)は、ふたりに反対して、総督を信仰の道から遠ざけようとした。しかし、サウロ、別名でパウロは、聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、言った。「ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵。おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。見よ。主の御手が今、おまえの上にある。おまえは盲になって、しばらくの間、日の光を見ることができなくなる。」と言った。するとたちまち、かすみとやみが彼をおおったので、彼は手を引いてくれる人を捜し回った。この出来事を見た総督は、主の教えに驚嘆して信仰にはいった。』
 キプロスの総督を信仰の道から遠ざけ、その道を曲げるように働きかけていたのは「魔術師」でした。真理の道を現実的に曲げる存在は魔術師です。魔術師とは、呪術、占い、などを行う霊能者です。日本人の多くが、魔術師、呪術師、占い師に関わっています。それは聖書的にいうと、「あなたの道が曲がって、真理の道から遠くなる」のです。
 先週は、一つの大きなニュースがありました。それは「オウム真理教」の教祖が死刑判決を受けたニュースです。サリンを散布することを、だれが真理と考えるでしょうか。そんな風に考える人は、どこにもいないと思います。子どもに聞いても「おかしい」というはずです。しかし、頭が良いと言われるような有名大学出身者たちが、麻原の教えに陶酔し、道が曲がりました。
 私は一度だけ、オウムの裁判に出たことがあります。それはある方の息子さんが、オウムに捕らえられているからです。皆さんに、その方からの祈りの要請があったので言いますが、その方の息子さんは、早稲田大学在学中にオウムに入り、事件の時にも関わっていたので警察に捕らえられました。そして、二、三年前にも警察に捕らえられました。その裁判の最終日に、一緒に行ってほしいと言われました。「多分、裁判では執行猶予が付き、その場で釈放になるから、彼を捕まえてオウムから離れるように話して欲しい」というのです。
 それで私は水戸の地方判所に行きました。初めて裁判を見ました。物々しいものでした。最後に判決が言い渡され、予想通りに釈放されました。釈放された後、彼らの了解が取れれば部屋が準備されて、彼らと話すことになっていました。しかしそこには組織の仲間たちが迎えに来ていて、釈放されると仲間の車に乗ってすぐに帰ろうとしました。
 私は事前に祈っていました。ちょっとでも、私の手が彼らに触れるだけで、聖霊様が働いてくださるようにと祈っていました。
 彼らはすぐに車の中に飛び込みました。それで私も追いかけて行って、彼らの車に乗り込みました。すると、「お前は誰だ!」と言われて、押し出されてしまいました。しかし、私は彼に手を置くことが出来ました。聖霊様が今も働いておられると信じます。
 出来ることはなんでもやらなければなりません。それで、私たちは、彼らが拘置所に荷物を取りに行ったので、しつこく車で追いかけて行きました。彼らが拘置所に入って荷物を整理している間、仲間たちが駐車場で待っていました。私はフレンドリーに、ちょっとドキドキしながら、「こんにちは」と話しかけました。すると「何だ?」と言うので、「君たちと、ちょっと話しがしたい」というと、「あんたは刑事だな」と言いました。しかし私は、彼らの心をつかむキーワードを聞いていました。それは、「修行者」という言葉です。私は「刑事ではない、俺は修行者だ」と言いました。(クリスチャンはイエス様の弟子で、ある意味、修行者です)
 すると彼らの態度が急に変わりました。すると、彼のお父さんが、「そうだ。この方は修行者だ。四十日間断食をした。」などと言うのです。しかし私は、四十日間も断食したことはありません。でもこの際、何でも良いと思いました。
 彼らは私に心を開き、「四十日も断食する人に対して、私は敬意を表します」と言い、話し出しました。私は彼らに聞きました。「あなたがたはなぜ、教祖があんな大きな反社会的事件を起こした後になおも、教団にいるのですか?」と聞きました。
 すると彼らは、オウムの中で多くの人たちが霊体験をするからだというのです。不思議な光を見たとか、体が浮いたとか、不思議な声を聞いたなどというのです。修行中、尋常ではない体験があったということは、麻原は道を間違えたが、この道を突き進んで修行したら、真理に到達するのではないか、と言うのです。
 私は迎えの人たちに、「あなたはすでに霊体験をしましたか」と聞くと、「まだ、修行が足らないのでありません」と悲しそうな顔をして言いました。
 私は、「霊体験したければ、教会に来てください」と言いました。「新城教会に来たら、子どもだって、その日に霊体験しますよ」と言いました。彼らは目を輝かせて、「本当ですか!?」と言いました。
 聖霊様に触れられると、子どもたちには、天使が見えたり、御言葉が与えられたりします。「あなたがたのように、厳しい修行は何もいりません。ただ、教会にきて、聖霊に触れられたら、即、霊体験ですよ。」と言いました。
 そうしたら、ますます彼らの心が開かれました。そして、「でも、この組織から出て行っても、誰も私たちを受け入れてくれないから・・・」と言っていました。私は、「教会はあなた達を受け入れますよ。ぜひ、勇気を出して私のところに電話してください」と名刺を渡しました。
 彼らは真理を求めています。しかし真理とは、似ても似つかない邪悪な教えを信じ込んでいるのです。なぜならば、麻原は魔術師だからです。彼の背後には悪霊がいるので、多くの人々の心をつかみ、道をねじ曲げているのです。その結果、子どもでも「おかしい」と理解できる事柄さえも、理解できないのです。
 オウムは極端な例ですが、オウムまでは行かなくても、多くの人が霊能者と関わっています。結果は同じように、道が曲げられるのです。
 先週金曜日に休みをもらい、温泉にでも行こうと思いました。しかしテレビをつけると、麻原の裁判を中継していました。すると主が私に、「上九一色村の元サティアンの場所に行き、魔術の悪霊が打ち砕かれるよう、祈ってきなさい」と語られているような、強い印象を受けました。主から強い印象を受け取ったら、すぐに行動を開始しなければなりません。
 温泉に行くことを取りやめ、上九一色村へ直行しました。場所がわかりませんでしたが、インターネットで検索すると、元信者が作ったホームページに詳しい地図があったのでそれを頼りに行きました。第六サティアンの跡地に着くと、すでに報道陣がたくさん集まっていました。(麻原が逮捕された場所)
 そこで私たちは、オウムに捕らえられた人々が解放されるように、魔術師たちによって受けた呪いが解かれるようにと祈りました。
 すでに、オウムの何人かが死刑判決を受けていますが、彼らに、私の著した「クリスチャンって最高だ!」が手渡されています。彼らがもしも私に会いたいと望んだら、出会って、悪霊からの解放の祈りをしてあげることが私の祈りであり、夢です。
 彼らがイエス様によって変えられたら、真理の道を歩むことできます。彼らは真理を求めていますが、魔術師と関わったゆえに、道が曲がってしまった現実があります。真理の道を歩むためには、霊能者には近づかないことです。少しくらい過去を当てたとしても、その背後には悪霊が関わっています。
 魔術師は必ず、偶像礼拝の背景があります。背後の力によって魔術を行います。それは悪霊の働きであり、真理の道を曲げられます。
 日本人は、「日本神話」の中に登場する「道」をテーマとした存在を拝んでいます。だから、知らないうちに人生の道が曲げられるのです。
 「この人と結婚したら幸せになれる」と信じて結婚します。しかし、希望に燃えて結婚しても、徐々にその道が曲がっていきます。また、「この道を歩めば幸せになる」と言われ、霊能者の指示に従って将来を選択するのですが、徐々にねじれるのです。その理由は、背後に道をテーマとした、悪霊が存在するからです。悪霊は、道をテーマにしている偶像礼拝を根拠に働きます。
 午後から道をテーマにしている悪霊の力が打ち砕かれ、勝利するように祈ります。その存在とは何でしょうか?かつて、その存在を拝んでいた人がいるかも知れません。
 日本神話で、天孫降臨を導いた「猿田彦」という存在があります。大勢の人がそれを拝んでいます。そこには、「道を導く」というテーマにそった偶像礼拝があります。猿田彦は、「道祖神、庚申、塞の神」にも通じます。今日の午後は、そこにフォーカスを当てて、道との関係で、交通事故が起きないように、人生が曲げられないよう戦って祈ります。
 知らずしてそのような偶像礼拝をしているゆえに、人生が曲げられるという現実があります。かつて、猿田彦や庚申、霊能者と関わった事のある人は、そのような契約が働いて道が曲げられることがないよう、祈る必要があります。
 しかし、イエス様は通行止めになった道を解除してくださるお方です。それは、イエス様が十字架にかかり、私たちの罪の身代わりとなって死なれたからです。本当は私たちが支払わなければならない死の代価を、イエス様が十字架の上で血を流して支払ってくださいました。イエス様は神であるゆえに、過去・現在・未来のすべて持っています。今から二千年前に死なれたことは、未来の存在であった私たちのためでもありました。コロサイ人への手紙一章十八節から二十節に、
『また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。』
 かつて、アダムとエバが罪を犯したことにより、神と人との間に壁ができ、真理の道を歩むことができなくなりました。しかし、十字架の死と復活によって、神と和解することができました。「あなたの罪は赦され」「通行止めが解除される」それが、聖書の真理です。
 先週アメリカで一本の映画が封切りされ、話題を呼んでいます。日本でも五月頃に封切りされるようです。それは「パッション」という映画です。メル・ギブソンという俳優が私財二十七億円を費やし、イエス様の十字架の場面を刻銘に、且つ、リアルに描いた作品です。アメリカで封切り当日に、すでに二十五億円を売り上げたという、空前の大ヒットと言われています。しかし、イエス様が十字架にかかり、血だらけになっているシーンがあまりにもリアルに描かれているので、見た人が心臓麻痺で死んだというニュースもありました。イエス様が苦しみ会われて死なれたことは尊いですが、その死の、残酷なシーンだけが強調されるのは良くありません。それよりも、イエス様の十字架の真の意味を知らなければなりません。イエス様が十字架で死んで、よみがえられたゆえに、私たちの罪は赦され、通行止めになっていたいのちの木への道が開かれ、皆、天国に行くことができるのです。第一ペテロ二章二十四節に、
『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』
とあります。「打ち傷のゆえに癒される」とあるように、十字架はすべての領域の癒しを含んでいます。
 イエス様の道を真っ直ぐに歩んでいきたいです。二度と罪に陥ることがないように、魔術師の力を打ち破り、やがてイエス様と顔と顔を合わせてお会いできる日まで、信仰を保ちたいと願います。箴言二十三章二十六節に、
『わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ。あなたの目は、わたしの道を見守れ。』
とあります。イエス様は私たちに「我が子よ」と言われます。
 今週も、イエス様の道を見守っていきましょう。イエス様こそ、真理、道、いのちであることをもう一度確認し、人生の道が曲げられることがないよう、祈り続けていきましょう。


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