The Bread/いのちのパン

2004.3.7(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

新約聖書 ヨハネ福音書 6章35節
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

 ハレルヤ!先週は「The way/道」というタイトルで学びました。今日はTheシリーズ第2弾、「The Bread/いのちのパン」というタイトルで学びます。
 先週は「わたしが道であり、真理であり、いのちです」という御言葉から学びました。この御言葉を読むだけでも、イエス様は間違いなく神であることがわかります。そして、今日の御言葉も、イエス様が神であることがわかります。この言葉を声に出して読んでみましょう。
『イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』
 この言葉は、神以外には語ることができないと思います。例えば、誰かがこのように語ったとしたら、どう感じるでしょうか。
 聖書は、イエス様がこの言葉を語ったときの周りの反応をも、合わせて記しているところに真実味を感じます。
 ヨハネの六章四十一節から四十二節に、
『ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンである。」と言われたので、イエスについてつぶやいた。彼らは言った。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た。』と言うのか。」』
 例えば、ここにいるある子どもが、ある日、天を指して、「私はいのちのパンです。私は天から降ってきたパンです」と言ったらどうでしょうか。多分、その子を病院に連れていくと思います。しかし、イエス様の語ったこの言葉が、二千年以上に渡り否定されていないのは、イエス様が神であり、いのちのパンである証拠です。
 聖書は二千年間、激しい批判の嵐に合いました。多くの学者たち、宗教家たちが聖書の告げている事柄が真実であるかどうか真剣に調べました。しかし、聖書の存在は否定されず、今も世界中の人々に受け入れられているとは、すごいことです。私たちは事実に基づいて、イエス様が神であると信じています。私たちがイエス様というパンを食して生きるならば、決して飢えることも、渇くこともないのです。
 さて、イエス様がこの言葉を語った背景には、一つの大きな奇跡がありました。イエス様は、超自然的なことを行われました。ヨハネの六章を良くお読みください。六章二節に、
『大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。』
と記されています。イエス様の周りに、多くの群衆が集っていました。それはイエス様が病人を癒されたからです。医学が進んだと言っても、医学では解決できない病気が多くあります。しかしそんな病が、ある人物のところに行ったら癒されるとしたらどうでしょうか。もしも、世界のどこかの町に行くならば、また、ある人物に出会ったら癒されるとしたら、いくらお金を払ってもその場に行って癒しを受け取りたいと願うはずです。
 イエス様は、どんな病も癒されました。だからイエス様のところには、多くの人が集まりました。
 今週は名古屋に、アメリカで有名な、ベニー・ヒンが来ます。昨年私たちは名古屋リバイバルミッションを行いましたが、人を集めるのに大変でした。しかし、ベニー・ヒンが来ると言うだけで、会場は満員で入れないというのです。
 イエス様は、人々を癒した後、続いて大きな奇跡を行われました。それは、男だけで五千人と記していますが、(当時は男性しか数えない習慣がありました)多分、二万人ほどの群衆に食事を与えたと思われます。それも、五つのパンと二匹の魚を増やして、彼らを養うという奇跡を行われたのです。この奇跡にはトリックが利きません。もちろんイエス様の奇跡にトリックはありませんが。
 聖書の批判家は、イエス様の奇跡に色々とけちを付けます。イエス様が水の上を歩いたという奇跡が記されていますが、イエス様が舟上で立ち上がったとき、波が山になっていて反対側から見ると、水の上を歩いているように見えただけだ、と言います。しかし、そんな嵐の中で立ち上がることなど出来るはずがありません。
 二万人近くの人々に食事を提供した奇跡は、実際に食べなければ人々は満足しません。私は、イエス様が実際に奇跡を行われた場所に行ったことがあります。広い丘の上です。パンを前もって隠すことなどできない場所です。そこでイエス様は、少年が持っていた、五つのパンと二匹の魚を、二万食以上に増やし、人々に与えたのです。その上、残りを集めると、十二のかごにいっぱいになったというのです。これは神以外にはできない奇跡です。
 この時に用いられたのが、少年(子ども)でした。彼の持っていた五つのパンと二匹の魚が用いられたのです。
 当時子どもは、数には入らない存在という考え方がありました。今でもヨーロッパでは、子どもが電車に乗って座っていて、大人が入ってきたら大人に席を譲ります。
 イエス様の奇跡の場面で、数にも入らない、子どもが用いられました。今日も、ここに多くの子どもたちがいます。子どもたちは神が豊かに用いる存在です。子どもたちが持っている祝福が、大人たちを富ませます。だから、子どもたちが守られるように祈らなければなりません。昨日、「ほさなクラブ」がありましたが、一日、子どもたちは県民の森に行って祈りました。
 イエス様は、大きな奇跡を行われました。それを見た人々は感動しました。「すごい人物が現れた!」と心が躍りました。
 当時イスラエルはローマの属国でした。人々は、「早く自分たちの国に王が現れないか」と期待していました。そのような中、イエス様が現れたので、人々はイエス様を王にしようと考えました。ヨハネ六章十五節に、
『そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。』
 イエス様は王になることを願っておられなかったので、山に退かれました。それで人々はイエス様を捜しました。そして探し当てたときに、イエス様は次のように語られました。六章二十六節から二十七節に、
『イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」』
 聖書には多くの目に見える奇跡があります。しかしそれは必ず、目に見えない奇跡へとつながっています。聖書は、見える領域と、見えない領域に関連性があると教えています。イエス様はまず、人々の現実的なニーズと要求を満たされました。
 しかしこの御言葉は重要な真理を告げています。神様はまず私たちの現実を満たされますが、それで満足したら片手落ちということです。
 イエス様の周りに集まっていた群衆の思惑は、二十六節に、
『「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」』
と記されています。彼らはイエス様を表面的に見ていました。ただ、現実的な必要だけを求めていました。しかし「それでは駄目だ」とイエス様は語りました。イエス様が本当に教えたかったのは、二十七節、
『なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」』
 すなわち、見える領域ではなく、見えない領域について教えたかったのです。教会に来ると、色々な奇跡を体験することがあります。現実的な面で、イエス様に助けられることがあります。癒しや解放、諸問題の解決などが起こってきます。昨年も、新城教会にイエス様は、多くの奇跡を起こしてくださいました。しかしどんな奇跡を体験したとしても、それだけで終わってはいけないのです。主が続いて語られる、「なくならない食物」について心を留めなければなりません。現実に何かが起こったとしたら、必ず、続いて神の目的が現されるのです。イエス様があなたの病を癒されたとしたら、続いて、目に見えない霊的な意味があります。
 人々がパンを食べ満腹したのは、ただお腹が満たされただけではなく、「永遠のいのちに至るパン」という意味があったのです。
 しかし彼らは、そのことには関心がありませんでした。イエス様をただ単に、利益の対象として求め、現実的な問題解決だけを願ってイエス様に近づいたのです。
 しかし、そこで止まってはいけないのです。続いて、目に見えない領域での目的まで進むように教えています。
 今日皆さんに、神は恵みを与えようとされていますが、それはただ見える領域だけではなく、目に見えない領域も含まれているのです。
 イエス様はパンを食べさせる奇跡の後、いのちに至る食物について話し、ご自分に関する真理を明らかにされました。パンを人々に食べさせた、真の意味について語られました。 ヨハネ六章三十八節に、
『わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。』
 人々にパンを奇跡的に提供されたのは、思いつきで行われたのではなく、父なる神の御心があったと教えています。そしてその内容について話されました。六章五十二節から五十四節に、
『イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。』
 イエス様はご自分の肉を食べ、血を飲まなければ、いのちを持つことができないと語られました。イエス様が地上に来られた目的は、十字架にかかって人々のためにいのちを捨て、人々に永遠のいのちを与える為でした。六章三十九節に、
『わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。』
 やがてこの地球の歴史は神の時に集結します。神が歴史に幕引きされるときが来ます。しかし、イエス様を信じる者は、朽ちない姿によみがえり、神とともに共に生きることができます。けれども、イエス・キリストを信じないものは、永遠の滅びに行かなければならないのです。それが本当の死です。イエス様がこの地上に来られたのは、人々が永遠のいのちを得るためであり、そのことを教えるため、初めは実際的な必要を満たし、その延長線で永遠のいのちについて教えられたのです。
 イエス様はご自分の体を人々に提供する為に、やがて十字架にかかって死ぬことを説明するために、「わたしの肉を多べその血を飲まなければいのちはありません」と語られました。
 そのことを聞いた周囲の人々は、大きなショックを受けました。いままでのイエス様は病を癒し、食事を提供するすごい人物でした。それで人々は集まっていました。しかし、しばらくしたら、「わたしの肉と血を食べなかればいのちはない」と言われました。これを聞いた人々は、「イエス様は頭がおかしい」と考えました。イエス様の弟子と言われる人たちさえも、そのように考えました。六章六十節に
『そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」』
 六十六節に、
『こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。』
とあります。イエス様が真理を話し出したときに、彼らは離れていきました。この背景に、人々が結局、見える領域だけで集まっていたからです。病気を治すとか、食物を与えるなど、現実的な必要を得るためだけに集まっていたからです。その後に明らかにされた御心に関しては、全く興味がありませんでした。そのため、真理が明らかにされたときに、人々はイエス様から去っていきました。
 イエス様は、私たちの必要を満たしてくださるお方ですが、必ず、そのことを通して真理を明らかにされます。御心が明らかにされます。ですから、私たちは常に見える世界だけに関心を持つのではなく、神の御心は何であるのかを、切に求めなければなりません。信仰生活は、常に神の御心を求める生活です。神は皆さんに使命を与えています。そのために皆さんを癒し、解放し、自由にされます。
 先週は「リバイバル聖書神学校」と、卒業式がありました。今回は、第六回生で二十九名が卒業、終了されました。学ばれた方々が卒業されて、来月から来なくなるので、ちょっと寂しい気がします。
 「リバイバル聖書神学校」は、今から八年前に開校され、今までに百六十五名が卒業されました。新城教会に属する神学生も、めでたく卒業された方々がいます。神学生は、レポートが多いので大変だと思います。神学生は、なくなる食物ではなく、なくならない食物のために直接的に働きたいという願いで学んでいます。学びたい方は、ぜひ、神学校で学んでください。共に励まし合って学ぶことができます。一年コースから三年コースまであります。
 また、先週は、新校舎の起工式がありました。教育館の南側に校舎が建ちます。完成は七月十八日の予定です。
 起工式に、東京から私の友人の牧師が来られました。彼が私のところに来てこう言いました。「順先生。十年前にここで話したことを覚えてますか。その時に先生が何と言ったか覚えていますか。」と聞かれました。私は覚えがないのですが、「今度、何をするのですかと聞いたら、神学校を建てます、と言われたのを覚えていますか。」と言いました。「十年後、このように建て上げることは素晴らしいですね。神様は祈りを聞かれましたね」と言われました。
 それを聞いて、私は「はっ」とし、同時に感謝しました。それは、主が私たちに教えて下さった、見えない領域から始める法則についてです。
 ヨハネ六章は、見える必要から、神の目的に移行する過程について記しています。その間に挿入されているストーリーは、「ガリラヤ湖の大嵐」です。見える領域から始まると、目に見えない領域に到達するまでには嵐があり、また、神の御心が現されるときに、逃げてしまうようなことがありうる、ということを教えているのかも知れません。最初に求めるべきことは、目に見えない神の御心です。そして、見えない領域が建て上げられるときに、知らないうちに、現実にも建て上げられ、そこにはいのちがあるのです。見える領域から見えない領域に移行するときには色々な問題が起こりますが、見えない領域から御心を求め、その結果が現わされる時には「いのちの法則」が働くのです。神学校はまず、目に見えない領域から建て上げられていきました。
 一九九二年に、聖霊様が訪れてくださったときに、一つ強く教えられたことがありました。それは人間的な計画、願望を置いて、神の御心を中心的に求めるという事でした。新城教会がその間に変えられたことは、ある意味で、人間的な計画を放棄することでした。「教会の五年先、十年先のビジョンはありますか」と聞かれることがありますが、私は、「何もありません」と答えます。なぜならば、神様が五年後、十年後に何をされるのか、わからないからです。それは決して無秩序に事を行うというのではありません。自分たちの計画を主体とするのではなく、前に置かれた御心を忠実に行うならば、目に見えない世界で一つのものが出来上がり、気付いたら、現実の世界にも実体が現されているという法則を、主は教えて下さいました。
 八年前、「リバイバル聖書神学校」が、新城教会の教育館を会場にして始まりました。やがて、専用の校舎が欲しいと感じました。それで土地を捜しました。新城教会の中よりも郊外が良いと、鳳来町の土地を紹介されて何度か見に行きました。そこは水がわき出ており、小鳥のさえずりが聞こえる、とても良い場所でした。私はそこが良いと思っていました。しかしそこは駄目になりました。また次にも話しがありましたが、うまくいきませんでした。
 教育館の南側で私の家の隣の土地が空いていましたが、その土地はまもなく売れて工場が建つという噂を聞いていました。
 するとある夜、主が私に、隣の土地に行き、祈るようにという強い印象をくださいました。その夜、私は、パンとぶどうのジュースを持ってその土地の真ん中で聖餐式をしました。「この土地に、神が何らかの目的を持っておられたら、働いてください」と祈り、一人で聖餐式をし、イエス様の十字架の血潮の勝利が置かれるようにと祈ったのを覚えています。
 その後、不思議と主が働かれ、その場所に神学校が建つようになりました。知らないうちに、絶妙なタイミングでことを実現してくださいました。御心の時に、御心の場所に、建物が建つように導かれています。
 人生に試練が起こると、目の前の問題解決に真剣になります。しかし主は、試練を通して神の目的を知るように導かれます。
 私は家内を見ると嬉しいです。それは家内を愛しているからです。家内の姿を見るのが嬉しいのです。なぜならば、最近、太っているからです。二十年ほど前、家内は原因不明の病気になり、痩せて死んでしまうのではないかと思ったことがあったからです。そのとき、私は真剣に祈りました。いくら祈っても祈りは聞かれませんでした。「祈っても聞かれないじゃあないか」と文句を言ったりもしました。しかし長い期間で見たら、その中で、神に対する私の態度が変えられました。「もっとイエス様を知りたい、もっと御心を知りたい」という願いに変えられました。そして、やがて神からの使命をいただきました。
 気付くと、家内をも回復してくださいました。だから私は嬉しいのです。しかし、私が初めから、神の御心を真剣に求めていたら、あのような試練はなかったのかも知れません。常に主の御心を求めなければなりません。そうすれば、必ず、必要なものは付いてきます。
 今日、色々な現実的な問題をもって教会に来られた方もおられるかも知れません。そのためにも祈りますが、その前に、神の目的が引き出されるよう、祈りたいと思います。悪魔の業が全て打ち破られ、神のわざが建て上げられるようになりたいです。イエス様のところに現実的なものだけを求めて集まった群衆のようではなく、神の御心を捕まえる者たちとして、御前に出ていきたいと願います。
 ヨハネ六章二十七節をもう一度告白しましょう。
『なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物ために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」』
 私たちは、なくなるものでなく、いつまでも続く食物のために働く使命があります。また、マタイ六章三十三節に、
『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』

 私たちの行動の基準は、神様の御心を求めることです。そこにはいのちがあると教えています。常に神の御心を求める人生でありたいと願います。お祈りします。


[バックナンバー]