Come to me!/安らぎ

2004.3.14(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

新約聖書 マタイの福音書 11章28節〜30節
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

 ハレルヤ!今日も、皆さんとともに、御言葉を学ぶことができて感謝します。主が、毎週語る言葉を与えてくださることを感謝します。
 私たちは教会に来て、何処から力を得るのでしょうか。それは牧師が語るメッセージからではなく、聖書にまつわる外郭のストーリーからでもなく、純粋に、御言葉から力を得ることが大切です。御言葉から、真の安らぎを得ることができます。
 今日の御言葉はイエス様が語られた言葉です。この言葉から力を得、安らぎを得て歩みましょう。マタイの福音書十一章二十八節から三十節に、
『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」』
 特に、二十八節の御言葉は暗唱すると良いです。御言葉を暗記していると、普段の生活の中で思い出すことができます。
『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』
 もう一つ、ヨハネの福音書八章十二節の御言葉を紹介します。
『イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」』
 ある時、教会学校で、御言葉暗唱大会があったそうです。一人の幼稚園の男の子が御言葉を一生懸命暗唱し、父兄たちの前で発表をしました。しかし、前に立ったとたんに上がってしまい、始めの「わたし」の「わ」が出ませんでした。男の子がもじもじしていると、お母さんは一生懸命サインを送りました。お母さんは自分を指して「私、私」とサインを送りました。すると、彼は明るい顔になって、堂々と言いました。「ママは、世の光です!」
 この「わたし」とは、イエス様のことです。イエス様は世の光なので、ともに歩むなら闇の中を歩むことはないのです。
 また、詩篇三十七篇五節に、
『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。』
 私たちには、色々な計画がありますが、それらすべてを、主に委ねることが大切です。また、ピリピ人への手紙四章六節に、
『何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。』
 ここで、祈りの秘訣について教えています。「感謝をもって」神の前に出ることが大切です。私たちは、なかなか感謝ができませんが、どんな時でもよく考えると感謝すべきことがたくさんあります。私に「お父さん、金をくれ」と言っても、なかなかあげませんが、「お父さん、いつもお世話になっています。お父さんのおかげで、私もこんなに成長しました。・・・ところで、お金ちょうだい!!」と言われると、父親として心が揺れます。神様も似ているところがあるのかも知れません。
 また、第一ペテロ五章七節に、
『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』
と記されています。思い煩いがあったら、神に委ねてください。神は常に、あなたのことを心配してくださっています。
『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」』
 「くびき」という言葉を、現代人はあまり理解できません。馬が馬車を引くときに、一頭では限度があります。しかしそこにもう一頭の馬を連れてきて、「くびき」という道具で二頭をつなぐと、重い荷物も楽に引くことができます。私が小学生の時は、この辺の道路はまだ舗装されておらず、馬車が毎日通っていました。私は学校に行くときに、馬車に飛び乗って、荷物の間に隠れました。しかしよく見つかって、「ばか小僧!降りろ・・・」と怒られました。馬が道の真ん中で爆弾(糞)を落とすこともあり、道は今のようにきれいではありませんでした。
 以前聞いた話で、あまり正確ではありませんが、馬は一頭だと四トンほどの荷が引けるようです。しかし、くびきをつけて二頭にすると、四倍の十六トン程の荷が引けるそうです。
 私たちの人生も、一人では引くことができない重荷がありますが、イエス様とくびきでつながれ、一緒に引くならば、普段では出来ないことができると教えています。
 しかし、「くびき」とは重い道具です。それを首につけると、首が重いのです。けれども、つけないと荷を引くことができません。でも、イエス様は、「そのくびきは重くない」と言われました。
 時々、キリスト教に入っても良いけど、色々な厳しい掟のくびきがあるのだろう、と言う人がいます。しかしそれは食わず嫌いです。教会に来てイエス様を知ると、荷が軽くなり、今まで引くことができなかったような重荷も、軽々と引くことができるのです。そして疲れたときには、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と語ってくださいます。何と幸いなことでしょう。
 さて、皆さんの人生の中で、今までに最も疲れた時期はいつでしたか?私にも、何度かあります。しかし、その中でも、最も辛かったのは、家内が病気になり起き上がれなくなった時期でした。私は毎日疲れていました。そして、悪い時には悪い事が続きます。上條実牧師は髪の毛がフサフサしていますが、私の弟です。ちょうど同じ時期に、彼も病気になり、変な咳をし、痩せ細って死にかけたのです。教会の中にもたくさんの問題が起こり、私は、どうにもならない状況に追い込まれ、落ち込みました。
 しかし人間は落ち込むと神を求めます。調子が良いとあまり神を真剣に求めませんが、何か問題があると求めます。生やさしい問題ではなく、極限に達するような問題に遭遇すると、真剣に主を求めます。しかし、そうなる前に、主を真剣に求めることをお勧めします。神は色々な事柄を通して、私たちが主に近づくための道を用意されることがあります。
 私は小学校の頃、いつも通知票に書かれていたことがあります。それは、「常に要領よく立ち回る」ということでした。私は、「人生は要領よくやろう」と思っていました。しかし神の前ではそうはいきません。
 私は本当に疲れ果ててしまいました。その時、「これは祈らなければならない」と思いました。一九八七年の二月のある夜、私は一人で愛知県民の森の頂上に登って祈りました。その時、「こんなに問題が続けて起こるのは、悪魔か何かがいるのではないか・・」と感じました。悪魔や悪霊については、聖書を読んで知ってはいましたが、現実感はありませんでした。
 私は夜中の二時頃、一人で山頂の岩の上で叫んで祈っていました。「イエス様。今私は疲れています。苦しんでいます。助けてください!背後に働く悪霊を打ち破ってください。イエス様の御名によって、悪霊よ。出て行け!」と大声で祈りました。
 その途端、私の目の前に真っ赤な顔をした天狗が現れました。私はゾッとして一瞬にして血の気が引きました。その後、どうやって山を下りたのかは覚えていませんが、すごいスピードで山を下りてきました。
 しかし、その後、私の祈りは変えられ、当時の教会スタッフたちも変えられました。牧師が祈らなければ、スタッフも祈らないのです。けれども、私が変えられたために、スタッフも変えられ、ともに毎週月曜日の夜、愛知県民の森で真剣に祈るようになりました。今もその祈りは続いています。
 初めてスタッフと共に山頂で祈った夜、聖霊様が強く働かれ、大きな解放感を覚えました。それから教会に変化が訪れました。色々な思い煩いや問題があるときは、真剣に主の前に出て祈るべきです。その流れの中で、一九九二年二月十三日、主が激しく新城教会に訪れてくださいました。今日の午後、地域が変えられた記録である『トランスメーション_』を見ます。その前半に、北方の人々に神が訪れた記録があります。そのとき「ゴーッ」という音とともに主が訪れ、結果、地域が変えられ、自殺や諸問題が消えたという記録があります。
 私たちに主が訪れてくださった時も、まさにそのようでした。県民の森で祈っていると、外から「ゴーッ」と音がして、祈っていた者たちは堅いコンクリートの上に倒されました。
 しかし、ある意味で、新城教会に一つの霊的な扉を開かれたのは、一九八八年十二月のことでした。その年、新城文化会館大ホールでゴスペル・コンサートを計画しました。私たちは、コンサートを前にして、文化会館のリハーサル室を借りて、祈祷会を持ちました。当時、私の息子が小学校四年生でした。彼は他の子どもたちを従えて、祈祷会の行われている部屋の中を走り回っていました。皆が祈っているのにも関わらず、走り回っていたので、私は彼を捕まえて「静かに!」と言いながら、祈っていました。皆が大声で祈っている中、私は異言で祈っていました。異言の祈りは自分ではなく、聖霊様が祈ってくださる祈りです。私は堅志を捕まえたまま、異言で祈っていると、おとなしくなったので彼を離しました。すると彼は再び走り出しました。
 家に帰ると、彼が私に、「お父さん、今日はちょっと頭がおかしくなかったか?」と言うのです。「なんで?」「だって変な言葉で祈っていたもん!」「お前、あれは異言だよ。異言は聖霊様が祈らせてくださる言葉だ。」と言うと、彼は、「意味がわかって祈っていたのか。」と聞くのです。「意味などわかるはずがない。」と言いました。すると、「僕も初めは意味がわからなかったけど、しばらく聞いていたら全部わかったよ。」と言いました。
 「お前、本当にわかったのか!?」「わかった。みんなもわかっていると思ったから、あまり気にしなかったけど・・・ちょっと聞いてみた。」と言って、去って行こうとしました。それで、私は、「ちょっと待って!」と言いました。私は工学部出身なので、すぐに実験をしようと思いました。「もう一回、俺が異言で祈るから、聞いてみてくれ!」と言いました。
 それで私は異言で祈りました。すると彼は、「来週、オクタビアヌスという先生が新城教会に来るのか?」と言うのです。「来るよ。なんで?」「その集会が祝福されるように祈っていたよ」と言うのです。彼は、そんな先生が来るとは知りませんでした。しかし次の週、オクタビアヌス先生が来て、集会をすることになっていました。私は異言で、そのために、とりなしを祈っていたらしいのです。
 彼はそんな賜物をもらいました。その時、聖書には記されている事柄は本当だと確信しました。そして、主が私たちと共におられることを確認しました。
 コンサートには会場一杯の人々が集まり、とても祝福されました。愛知県民の森祈祷会が始まった後に、そのようなことが起こりました。そしてやがて、一九九二年二月の更なる聖霊の注ぎにつながったのです。
 時々、神が私たちに訪れるとき、理解できないことが現われます。私たちは、今までの情報と経験に照らし合わせ、判断することがあります。しかし聖書には、人間の知性では理解できない神のわざについて記されています。実際、それらを目にすると、案外、ついていくことができないのです。
 一九九二年二月十三日に県民の森で聖霊が注がれた時はたったの八名でしたが、教会に帰ってから人々が加えられて、朝まで祈らされました。自分たちで祈ろうと思ったわけではありません。聖霊に押し出され、祈らされるという経験をしました。
 祈りは理性の領域もありますが、本当に聖霊の力が望むと、理性を越えて祈らされるときがあります。それは神が何らかの新しいことをされる前兆だと思います。その時は、甲子園ミッションが始まる前でした。私たちの周りには困難な問題が多くあり、甲子園ミッションの準備に疲れて、どうにもならないような時でした。そんな中、聖霊様が訪れてくださり、新しい扉が開かれました。
 しかし私たちには、少し恐れがありました。「これから、どうなってしまうのだろうか・・。」今までの伝統が取り払われるようなことが続けて起き、不安になっていました。それで、あまり大きな声で祈るのをやめようと、しばらくの間、静かに祈っていました。
 一九九二年の七月に、青年たちが「ハートフルサパー」という、豊川河川敷に一二〇〇名を集めてバーベキュー大会をやって、伝道会を行うという企画を立てました。私は、そのために牛が何頭いるのだろうかと思いました。青年たちは、「祈りとともに行う」と言って、会場となる河川敷で、三ヶ月前から毎晩祈祷会をしていました。
 そんな中に、再び、聖霊の火が注がれました。ある晩祈っていると、一人の少年が激しく狂ったように踊り始めました。何が起こったのだろうかと思いました。するとその踊りが皆に感染して、踊り出したのです。「また変なことが起こってしまった・・」と思いました。
 私は、「主よ。こんなことがあり得るのですか?」と祈り、聖書を読みました。すると御言葉が与えられました。ヨエル書二章二十三節から二十五節です。
『シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜わり、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油とであふれる。いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。』
 その時私は、新共同訳聖書を読んでいました。新改訳聖書の「あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。」の訳が、「あなたがたの主によって、喜び躍れ」となっていました。御言葉により、「主によって踊らされることがあるのか・・・」と理解しました。
 そんなことが起こるとは、全く予想していませんでした。その時に、数年前、息子に「解き明かしの賜物」が与えられたことを思い出しました。それで息子を呼び、「お前はまだ異言の解き明かしの祈りができるか?」と聞きました。「わからん。錆び付いているかも知れない。」と言っていました。私は彼に前情報を与えずに、異言で祈り出しました。すると、彼は私の異言の祈りを解き明かしました。それは、「今、踊りが現れたのは、リバイバルの流れだ。この延長線にリバイバルが起こる・・」という解き明かしでした。私はヨエル書の御言葉を確信しました。二十四節から二十五節に、
『あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜わり、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油とであふれる。いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。』
 リバイバルのしるしとして、聖霊による踊りが与えられるということを、御言葉によって確信しました。それで、抱えていた重荷が取り除かれました。それから、祈祷会の中にすごいことが現されていきました。人々は聖霊によって踊らされ、泣き、笑い、ある者は転がり・・・と色々なことが起こされました。
 私の息子や娘を含めて、クリスチャン三世たちはそれまでは教会に嫌々来ていました。彼らが変えられることはないと思っていましたが、彼らを愛知県民の森に連れていき、七回連続の祈祷会をしました。すると彼らに聖霊が注がれ、五分と持たない彼らの祈りが、涙を流して一時間近く続きました。そして、皆、変えられて帰ってきました。
 その日、私の娘も生き生きして帰ってきました。「今日はすごかった。祈りが止まらなくなった。自分ではなく、誰かが祈っているようだった。」「どんなことを祈っていたの?」と聞くと、「学校の先生の顔が出てきて、先生とか友達が救われるように泣いて祈っていた。」またある子どもは、「色々な国旗が出てきて、国のために祈っていたら涙が出た」と言っていました。
 そして子どもたちは口々に、「イエス様の十字架の意味がわかった」と言いました。イエス様の十字架の意味はなかなか理解し難いです。あなたの罪の身代わりになって十字架にかかって死なれ、三日目によみがえってくださった。これを信じたら救われる、と言われても、おとぎ話のように感じるかも知れません。しかし聖霊によって理解できたのです。それまで、「イエス様を十字架につけたのは誰ですか?」と聞くと、「ローマの兵隊」と答えていました。「あなたの罪がイエス様を十字架につけたのだよ。」と言うと、「そんな時、生きていなかったもんで知らない!」と答えていました。しかし、聖霊に触れられた時に、「イエス様の十字架は私の罪のためだった」とわかり、涙が止まらなかったと言っていました。彼らは聖霊によって変えられました。
 また更に冷たかったのは中高生でした。彼らには、何の反応もありませんでした。中高生の祈祷会をするのは一番嫌でした。「歌いましょう」と言っても、リーダーだけが歌っていました。「祈りましょう」と言っても、皆、黙っていました。そういう子どもたちにも聖霊が注がれたら、リバイバルの流れだと思いました。
 中高生を集めて何回か祈祷会をしました。辛い祈祷会でした。しかし最後の日に、中高生たちが、涙を流しながらリバイバルのために祈るようになりました。中高生も変えられました。それが各々の世代に流れていきました。
 そして一九九二年七月五日の午後、賛美集会をしていた中に会場全体に主が訪れてくださったことがありました。主の訪れを体験することは素晴らしいことです。聖霊の力を受けるときに、それまで抱えていた問題が飛んでしまったような感じでした。
 そして、続けて一九九二年七月九日に、さらなる思いがけないことが起こりました。それは、「地域の背後に働いている、悪霊を打ち破るために祈らなければならない」と示され、「地域の霊的戦い」が始まったからです。
 今日話している事柄は、私の著書、『主が立ち上がられた日』に詳しく書かれているので、ぜひ、お読みください。これは主が、この教会に成されたことです。
 すごい主のそそぎと共に、甲子園ミッションの働きは進んでいきました。しかし、一方では、色々な問題が起こり始めました。甲子園ミッションの準備集会を関西で始めましたが、陰湿な妨害が起こってきました。
 ある日、賛美集会の会場に行くと、「賛美集会々場はこちら_」という、ヌード写真のポスターが張ってありました。私はすぐに破って捨てましたが、そのようなひどいことが何度もありました。誰がやっているのか分からず、不気味で心が暗くなりました。悪霊が働いていると思いました。
 それとともに、私たちの中に起こった聖霊の注ぎに対して、私たちの属していたグループから、「その働きは神の働きではないからやめなさい」と言われ、更に心が重くなりました。「聖霊様が訪れてくださったにも関わらず、何ということだ」と思いました。
 忘れることはできませんが、一九九二年九月十八日に、私たちは兵庫県の尼崎で集会をしました。そこに、今まで集会を妨害していた男が姿を現したのです。体の大きな男で、彼は一番前に座って、時折、目が白目にひっくり返るのです。その時、申賢均師先生がメッセージをされていましたが、集会中にメッセージの言葉尻をつかんで文句を付け始め、集会が終わると申賢均師と実行委員全員が彼に呼び出されて脅されました。
 その日、私たちが属していた団体から一通の文書が届きました。そこには九箇条の禁止事項が記されており、「この事柄を守らなければ、お前たちは首だ」という最後通達の文書でした。内容は、「踊ることは認めない。元気の良いスタイルの賛美は禁止。異言や預言の賜物は認めない。神社仏閣の悪霊を追い出してはならない・・・」などと、私たちが祈りの中で神から示され、真剣に実行している事柄を一切禁ずる文書でした。そして、その文書が我々の手元に着いたその日に、悪霊憑きの男が集会に出現したのです。すでに集会の直前に文書を受け取って、一同、思いっきり落ち込んでいました。そんなところに男が出現して、さらに脅されたのです。私は、男が袋からナイフを出すのではないかと思い、ドキドキしていました。
 私はそれを見て、「神様、助けてください。私たちにはこの荷は重すぎます。もうこれ以上、戦うことはできません。」とひれ伏して祈っていました。そして、聖書を開きました。すると、一つの御言葉が、光で照らされるかのごとく、私の目に飛び込んできました。それがイザヤ書三十五章三節から四節でした。
『弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」』
 すると急に、ポパイのように力が湧いてきて、「お前。いい加減にしろよ!」と言って私は男を追いかけていました。後ろから、田中先生が危険を察して、「おい、順!やめろ〜」との叫び声が聞こえましたが、無我夢中でした。男に飛びかかって、捕まえると彼の服が破れました。彼は大男のように見えましたが、捕まえると風船がしぼむように小さくなりました。他の先生が、すぐに警察に通報しました。男は、集会妨害の容疑で逮捕されました。それから、妨害が消えました。色々な困難がありましたが、主は、甲子園ミッションを成功させてくださいました。
 時々、私たちには困難がありますが、主は確実に助けてくださる体験をしました。どうにもならない時に、神の言葉は私たちに、勇気と力を与える事を体験しました。
 さて、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』という御言葉は、どのような中で語られた言葉でしょうか。聖書は立体的に読まなければ、理解できない箇所があります。この箇所は、ルカの福音書十章の記述と合わせて読むと、よく理解できます。ルカ十章十七節から二十一節に、
『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。』
 ここに、マタイの十一章二十五節から三十節を重ねてみると、
『そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。』
 これはルカの福音書と同じ記述です。
『すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」』

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」とは、七十人の弟子たちが、イエス様からの権威を受けて宣教に出ていくと、素晴らしいことが起きたのです。そして、『「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」』と興奮して勝利の凱旋をしました。その時イエス様は言われました。
『「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」』
 権威が使えるのは、「あなたの名が天に書き記されてるから」と語られ、主題の御言葉「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」につながっています。
 肉体的に、精神的に疲れを覚える背後に、暗闇の力が働いているのです。しかし、あなたには権威が与えられているので、暗闇の力を恐れることはないと教えています。その荷は重そうですが、実は、軽いと教えています。
 霊的戦いは重いものと思いがちですが、イエス様とくびきをともにして戦うときに、「その荷は軽い」のです。
 七〇人の弟子たちが、喜んで凱旋したように、あなたもサタンに対して、勝ち誇ることができると教えています。疲れや重荷は現実の問題のように見えても、それはサタンとの戦いです。
 そして、イエス様は、そんな霊的な戦いの中で傷つき、疲れた人々をも癒してくださる方なのです。
 今日もしも、何か問題で疲れ、重荷がある方は、単に目に見える領域だけではなく、目に見えない領域の中で起こって戦いを認識し、同時に、「私たちの名が天に書き記されている」ことを喜び、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に勝つ権威を信じましょう。主はあなたに、「権威はすでに、あなたに授けられているから恐れるな」と言われます。
 私も甲子園ミッションなどで、色々な疲れを覚えましたが、最終的にそれらが、すべて霊的戦いであった事に気づき、荷が軽くなりました。どのような時にも、イエス様のところに逃げ込むならば、休みがあることを体験させられています。
 イエス様とくびきを共にして歩むことは素晴らしいです。時にはイエス様のくびきが重く見えますが決して重くはなく、それが一番楽な人生です。今日もう一度イエス様とのくびきを確認し、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威が与えられていることを確認しましょう。そして、あなたの持っている問題の背後に隠れている悪霊に対して立ち向かってください。必ず、勝利します。また、あなたが戦いの中で、敵から受けた傷や疲れも癒してくださいます。力を受け取って帰ってください。お祈りします。


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