約束

2004.3.21(SUN)
新城教会 岡本信弘牧師

新約聖書 ヨハネの福音書 8章12節
イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

 ハレルヤ! こうして久しぶりに御言葉を取り次ぐことができることを感謝します。皆様のお祈りに支えられ、健康が守られていることを心から感謝します。また、家族のためにもいつもお祈りいただき感謝します。
 今日は「約束」というテーマで学びます。聖書は何回読んでも飽きることがありません。同じところを読んでも、いつも新しい恵みを発見します。
 この世の中には、たくさんの本が溢れています。毎日のように色々な雑誌が出され、週刊誌のように、一週間で流れていく一過性のものがたくさんあります。たとえその年、ベストセラーになっても、その本が毎年ベストセラーになることはありません。しかし聖書は、毎年世界のベストセラーなのです。世界では二百万部以上の聖書が毎年印刷されているそうです。私たちはこの聖書をいつも読み、心の糧として力を受けることができます。
 聖書は旧約聖書と新約聖書の二つに分かれています。旧約聖書は古い約束、新約聖書は新しい約束です。これは神様から私たち人類に送られた約束のメッセージです。
 現代は、一寸先が闇のような時代です。昔はなかったような問題が、どんどん起こっています。狂牛病や、鳥インフルエンザで、牛肉や鶏肉を食べるのを避けている方もいらっしゃると思います。そのうち何も食べることができない時が来るのではないかと不安を持たれる方がいるかも知れません。私は気にせず何でも食べていますが・・・。ずっと、新城は、大きな事件もなく、平和ないい所だと言われてきましたが、昨年は信じられないような犯罪が起こり、盗難などの話を頻繁に聞くようになり、安心していられなくなってしまいました。また、経済的不況の中、庶民の暮らしは一向によくならなず、年金問題も不透明で、先行き不安が人々の心に重くのしかかっています。将来の不安は、いつも心を暗くさせます。
 夜、県民の森の祈祷会に行くと、真っ暗なようですが、星明かりや月明かりがあり、懐中電灯などを持っていなくても道を踏み外すことなく進むことができます。暗闇といっても少しの光があるからです。しかし、まったく光の届かない暗闇の中では、右も左も前後もわからず、何かがいたとしても何か障害物があっても何も見えず、何もわかりません。ある意味で今は丁度そのような時代ではないかと思います。
 しかしヨハネの福音書八章十二節でイエス様は、
『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。わたしに従う者は決して闇の中を歩むことはなく、いのちの光を持つことができるのです。』と言われました。
 これは、神様が私たちに与えてくださった約束です。神様に従うなら、暗闇で迷うことなく、光なる神様に導かれて進むことができるという約束です。
 私たちは、家族や友だちと約束をします。しかし、時々その約束を忘れてしまうことがあります。先週、神学校の打ち合わせがありました。順先生から内線がかかり、「みんな集まっているけど、来れる?」と言われましたが、私は内線電話を携帯に転送していて、実はその時東京にいたのです。打ち合わせがあるということを、私はまったく憶えていなかったので、申し訳なかったのですが、その打ち合わせをキャンセルしてしまいました。
 私たちは時々忘れてしまって、あわてて時間を変更したり、キャンセルしてしまうことがあります。約束を確かなものとするためにどうするでしょうか。何かに残すことが有効です。私にとって携帯電話は必需品ですが、業者などから電話があり、いつ会いたいと言われたときには、メールに入れてくれるように言います。電話の口約束では忘れてしまいますが、メールをもらえば確認ができ、忘れることが少なくてすみます。
 お金を借りるときには、何度も色々な書類を書きます。今、神学校を建て始めましたが、建物を建てるときには時間をかけて話し合いをし、しっかりした契約書を作ります。お金を借りるときにも、何年かけてどれだけの返済をするという契約書を作らなければ、借入ができません。そして契約書どおりに返済をします。約束を破って返済をしなければ、土地や建物が取られてしまいます。友達同士でもお金の貸し借りには、借用書を書いてもらうことが必要だと思います。友達の場合は、相手にお金がなければ待つしかないということもありますが・・・。
 学生には学校の校則があります。今はどうなっているかわかりませんが、私の時代にはパーマをかけてはいけない、化粧をしてはいけない、靴下の色は・・・等々、たくさんの校則がありました。そのような校則に縛られてきた私からすると、この教会の前を通っていく高校生の姿は、「あれは校則違反ではないのか?」と思ってしまうようなところもあります。
 また、交通ルールも約束ですから守らなければ罰金を払わされたりします。私はこの十数年、スピード違反で捕まっていませんが、交通ルールを完全に守っているということではなく、時にはスピードを出しすぎるときもあります。捕まっていないだけです。若いときには何回か捕まりました。私は若い頃、簡単にスピードの出るいい車に乗っていましたから、気持ちよくスピードを出しているときに、旗が前に出てきて止められる。一瞬ドキッとします。これ程ショックな時はありません。車を少し擦って直すのに五〜六万円かかるよりも、余程ショックが大きいのです。
 政治家も選挙のときはいろいろと公約をします。しかし、守られていない、実施されていないことがたくさんあります。人の約束ほど当てにならないことはありません。簡単に破られたり、破棄されたりします。しかし、私たちには聖書の約束があります。
 聖書の中には「約束」という言葉が二百回近く出てきます。初めに神が人と交わした約束が、創世記に書かれています。

『神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」』(創世記二章十六節〜十七節)

 神様は人を造り、エデンの園に置かれました。そこにはたくさんの木の実があり、人はそれを自由に食べて暮らしていました。しかし神様はエデンの園の中央に、善悪を知る木を置き、人と約束をしたのです。「園にある木の実は何でも食べてもよい。しかし、この善悪を知る木の実を食べたらあなたは必ず死ぬ。だから絶対に食べてはならない」と。しかし、人は駄目だと言われると食べたくなる習性があります。蛇が誘惑しました。「神様は、エデンの園のどんな木からも食べてはいけない、と言われたのですか」と聞きました。人は、「そんなことはないですよ。神様はどれからも食べてよいと言いました。でも、園の中央にある木の実は食べてはいけない。食べたら死ぬといけないから、と仰せになりました」と答えました。ここでもう、神様と人間の約束事がズレています。神様は「必ず死ぬ」と言いました。しかし人は蛇に「食べると、死ぬといけないと言われた」と言っています。蛇はエバに「絶対にあなたは死なない。食べたら神のようになれる」と言いました。そしてエバは誘惑に負けてその木の実を取って食べてしまいました。サタンが言ったように、肉体的には死にませんでしたが、霊的な部分において死にました。結果として神様との交わりができなくなり、エデンの園から追い出されてしまったのです。人類は神様との約束を破ったことにより、罪を持つ者となりました。このことにより、人類の一つの歯車が狂ってしまったのです。
 しかし、旧約時代に神様と約束をし、大いなる祝福をいただいた人物がいます。それはアブラハムです。アブラハムは、神様に従い神様の使命を受け、行くところ知らずして信仰によって出ていきました。そんなアブラハムに対して神様がこのように言われました。 
『そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」』(創世記十五章五節)

 神様はアブラハムに対して、あなたの子孫は星の数のようになると言われました。新城は空気がきれいなので、天気の良い日にはたくさんの星を見ることができますが、アブラハムがいた頃の空は、さえぎるものもなく、数え切れないほどの星が見られたと思います。神様は、その星以上に子孫を増やしてくださると約束してくださったのです。そしてアブラハムが九十九歳の時、神様はもう一度彼に現れてこのように言われました。

『わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」』(創世記十七章七節〜八節)

 神様は子孫を増やすという約束と同時に、カナンの地をあなたの子孫に与えると約束されました。アブラハムは、神様の約束を信じたました。しかしその後、その信仰を揺るがせるような大きな事件が起こったことが書かれています。

『これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」』(創世記二十二章一節〜二節)

 神様はアブラハムを自分のものとするために試練に遭わされました。私がもし彼であったら「なぜ?」と言うと思います。聖書には、アブラハムの気持ちは書かれていませんが、すごい葛藤があったと思います。「神様は私に、私の子孫にカナン全土を与えると言ったではないか」と考えたと思います。
 アブラハムには約束が与えられていました。そして、子どもを与えると約束されたとおりに、子どもイサクが与えられました。子どもが与えられたことによって、神様の約束が成就されるのだと確信していたに違いありません。そしてイサクを可愛がって育てていたそのとき、イサクをささげるようにと言われたのです。しかし、彼は何日も考えることをせず、信仰によって歩み出し、『翌朝早くにイサクを連れて三日の道のりをモリヤに向かった』と聖書に書かれています。そして、ヘブル人への手紙十一章十七節にあるように、
イサクをささげたのです。

『信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。』

 彼は、このときイサクが葬り去られたとしても、神様は死からも彼を引き出すことができるという信仰を持ってイサクをささげようとしました。私に同じことをしろと言われても、私には到底できないと思いますが、アブラハムは信仰によって、イサクをささげたのです。そして、神様からの祝福を手に入れました。
 神様は時々、私たちにも試練を与えられることがあります。神様を信じて、祝福されるべきなのに、なぜこんな問題が起こるのか、なぜこんな悲しみがあるのだろうかと思うことがあります。神様どうしてですか?と問うことがあるかも知れません。しかし神様は約束を決して忘れらてはおられません。アブラハムは約束の全部を見たわけではありませんでしたが、アブラハムが信仰もって従ったとき、長年にわたってその約束は成就されていきました。神様は、私たちに与えておられる祝福の約束を、必ず成就してくださいます。
 アブラハムはカナンに住み、素晴らしい祝福を得ましたが、息子のヤコブの時代にイスラエルに飢饉が起こり、ヨセフのゆえにエジプトへ移住します。彼らはエジプトからすぐに戻れると思いましたが、結局、四百三十年もの間、奴隷生活をすることになります。それを見ると、なぜだろうか。神様の約束とは違うのではないかと思います。しかし、アブラハムが去り、数百年経ってからモーセが出てきます。神様はモーセをとおして、もう一度約束を成就しようとされました。

『主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。』(出エジプト記三章七節〜八節)

 何百年も前に約束されたアブラハムとの約束を神様は覚えておられました。神様はモーセを選びました。
 モーセはパロの息子として生活していましたが、一つの事件をきっかけに四十年間、荒野で生活しました。八十歳になったときに、神はもう一度エジプトのパロの元に戻し、数々の奇跡をとおして、何百万人というイスラエルの民をエジプトから引き出しました。初めにアブラハムに約束された、数え切れないほどの子孫に、カナンの地を所有させるという約束のために、モーセが遣わされました。
 エジプトから引き出されたとき、イスラエルの民はたくさんの奇跡を見せられました。紅海が割れ渇いた地を通り、パロの追っ手から逃れました。荒野ではマナが与えられ、昼は雲の柱、夜は火の柱で導かれました。神様は、ご自分が約束した地へと民をなんとか連れていこうとされました。しかし結果はどうだったでしょうか。何百万人もいる中で、カナンの地に入れたのはヨシュアとカレブのふたりだけで、あとの人は全員、四十年間さまよい続けた中で亡くなってしまったのです。エジプトを出てから生まれた子どもたちや孫たちはそこに入りましたが・・・。
 神様の約束は決して変わってはいませんでした。しかし、彼らはその約束を、不信仰の故に自分から放棄してしまい、約束の地に入ることができませんでした。イスラエルの民を約束の地へ導こうとされた主は、現代に生きる私たちにも同じように、エジプトという罪の中から、約束の地、天国へと導こうとされています。もちろん神様は、この地上においても素晴らしい祝福を与えようとされていますが、神によって引き出された者として、必ず約束の地、天国へ入らなければ何にもなりません。

 最近、ドイツで『九千マイルの約束』という、実話を元にした映画が上映されました。第二次世界大戦時に召集されたドイツ兵フォレルは、戦争犯罪者として三千人とともにシベリアに送還されました。やっとたどり着いた所は鉱山で、凍りつくような寒い所で、過酷な労働を強いられました。彼は自分の奥さんと子どもに、必ず生きて帰ってくると約束をしていたので、そこからの脱出を試みました。そこは脱出不可能と言われた所でしたが、彼は脱出に成功しました。しかし、そこは草木が一本もない、マイナス三十度という寒さの中。しかも、ドイツに帰るためには九千マイル(一万四千キロ)の距離がありました。彼は、死にもの狂いで、家族に会うという約束を握り、それを果たすために、三年間かけて自分の故郷に帰っていったというドラマです。そこには家族への愛と、約束の成就があります。
 新約時代に、イエス様が私たちに示してくださった愛は、ご自分のいのちを投げ出して、私たちの罪を背負い十字架にかけられるという、ほかに比べることのできない大きな愛でした。そして、葬られてよみがえってくださいました。ヨハネ十五章十三節には、『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません』と記されていますが、私たちは自分のいのちを友のために捨てることができるでしょうか。自分の妻や子どものためなら、いのちをささげることができるかも知れません。また犠牲を払うことができるかも知れません。しかし、家族、親族以外の一歩離れた人たちに対して、私たちはどこまで愛を示すことができるのでしょうか。
 しかし、神様は、私たちが神様に背を向けて否んでいるときにも愛を注いでくださいました。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』(ヨハネ三章十六節)

 父なる天の神様は、私たちを愛し、私たちを救うためにそのひとり子イエス・キリストを地上に送ってくださいました。そしてイエス・キリストを信じる者は、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つことができるという約束を私たちに与えてくださったのです。
 今アメリカで『パッション』という映画が話題になっています。この映画は、イエス様が十字架にかけられて死ぬまでの、十二時間の状況を映し出しています。あまりにリアルに描かれているために、失神してしまったり、死ぬ人が出たほどの映画だそうです。その描写に関しては賛否両論ですが、それは作り話ではなく、現実に二千年前にイエス様が受けられたことなのです。頭にいばらの冠をかぶせられ、三十九の鞭を打たれ、私たちのために十字架にかけられたのです。罪のない方が苦しみを受けられ、私のために十字架で死んでくださったということを、どこまで自分のものとして受け取っているでしょうか。どこまで感謝しているでしょうか。二千年前の、自分とは関係のない出来事であるような錯覚に陥ってはいませんか。
 イエス・キリストがあなたのため罪の身代わりとなって十字架にかかってくださったこと、私たちがそれを信じるだけで永遠のいのちを持つことができるという約束は、今も続いています。すでにクリスチャンの私たちは、その約束を獲得しています。しかし、約束の天国へ入れていただくためには、その素晴らしい約束を持ち続けていくためには、戦いもあります。

 新約時代、イエス様の弟子のひとりペテロは、いつもイエス様とともに行動していましたが、十字架にかけられるために引かれていったイエス様を、「私はイエスを知らない」と、呪いをかけて否んだのでした。しかし、そのように自分を裏切ったペテロをも愛し、聖霊を与え、力に満たし、人々の救いのために彼を用いられました。そんな力強い働きをしたペテロも、多くの迫害にあったことが聖書には書かれています。
 また、パウロも初めはイエス様を迫害し、敵対する者でしたが、イエス様は彼を選び、異邦人伝道へと遣わされました。彼の生涯には多くの苦難があり、何度も死線を乗り越えて、主のために命がけで働いたことが聖書に書かれています。
 今、私は恵みの時代に生かされており、どんなに大声で賛美をしても、福音を伝えても、捕らえられることはありません。ある方は、家庭でただ一人のクリスチャンであり、家族からの迫害に遭い、辛い思いをされている方もあるでしょう。問題にぶつかり悩んでおられる方もあるでしょう。自分の問題だけではなく、家族が病気だったり、問題に悩まされているかも知れません。しかし、必ず家族が救われると約束があります。

『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』(使徒十六章三十一節)

 私たちは神様の約束を握って、信仰を持って戦い続けることが大切です。聖書のことばは、ただの作り事や、その場限りの慰めではなく、必ず成し遂げられる約束です。神が私に対してあなたに対して与えてくださる、神のことばです。ぜひこれを受け取ってください。
 第一ヨハネ二章二十四節から二十五節に、

『あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。それがキリストご自身の私たちにお与えになった約束であって、永遠のいのちです。』

と記されています。
 私たちが主に従うなら、素晴らしい祝福をいただくことができます。そして私たちは何よりも素晴らしい永遠のいのちを受け取っています。この戦いの中で主をあがめ、素晴らしい祝福をいただきましょう。そして、この恵みを知らない多くの人に伝える者として、主に仕えていきたいと思います。
お祈りします。


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