価値

2004.3.28(SUN)
新城教会 上條 実牧師

旧約聖書 イザヤ書43章1節〜4節

だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

 ハレルヤ!今日は「価値」というテーマで学びます。人は、色々なものに価値をつけます。こんな物がこんなにするのだろうかと思うものもあります。先週テレビを見ていてすごいと思ったものがハルウララという競馬の馬がいますが、一〇六連敗し、普通ならば引退するような馬です。しかし、ずっと負けていて何もかけられるような馬ではありませんでしたが、今ではすごいものになっています。全く当たらないというところから連敗を皆が喜び、願っているような馬になっています。何も価値なかったような馬がその一頭を見るために競馬が一杯になっています。価値の無かったものが負け続けたことによって価値が出たという、どこで価値が出るかわかりません。今色々なグッズが出ています。見ていて興味深いと思ったものがありました。普通のビールに写真を貼っていました。これは何か特別なものかと聞くと、ただ写真を貼っただけだと言っていました。しかし皆がそれを買っていきます。しかしそんなものに人間は価値を決めていきます。世の中には色々な計りがあり、天秤にかけています。私は今、少し体重を落としたいと願っています。健全な形でありたいと思っています。先ほども子どもたちと一緒にいたら、お腹を触られて出ていると言われてしまいました。体重を測るには体重計があります。私は少し気にしており、今七十二キロありますが、病気をして五十七キロになった時はもっと太りたいと思いましたが、太ればもっと痩せたいと思います。自分で価値をつけてこれくらいならば丁度良いというのがあります。しかし世の中には色々な人がいます。今までで世界で一番重い人は、アメリカにジョン・ブラウンという方で六三五キロあったそうです。それを基準に考えると、自分は良いと思います。しかし痩せた人を見ると、自分はまだまだと思います。人を基準に価値を決めています。ウエストはメジャーで測ります。世界で一番ウエストが大きな人はこれもアメリカの方で、三メートル二センチあったそうです。また血圧を測るには血圧計、測りがあり自分で価値を決めています。ここまでは良い、でもこれ以上いくと、高いとか安い、これ以上いくと太っている痩せているなど、私たちは色々なものに価値をつけています。今の時代は能力主義の時代です。学生は大変です。喜んでいる人もいれば残念という方もいますが成績で評価される時代です。学生を考えても成績で価値が決められてしまうと大変だと思います。それで価値が決められてしまうと仕方がありません。頭が良いが、運動神経は全然駄目という人もいます。そういう人は運動神経が良い人を見て良いなあと思います。容姿が良いと思ったりします。いつも一緒に過程集会に行く少年がいますが、自分で価値をつけ、自分は木村拓也に似ているなどと言っていますが、彼も彼だと思います。私たちは自分で価値をつけて容姿で価値を決めます。また大人の世界でも学歴というもので価値を決めています。高学歴だと良いというと、私の人生の価値について苦しみます。また、職場で価値を得ている人、弁護士など地位のある人もいます。自分は何もないと肩身が狭いものも感じると思います。また金があるかないかと考えると、万年貧乏なところを通ると、私は駄目だと考えます。こんなことを言うと、今日のメッセージを聞いても価値を決める方があると思います。私たちは物事を見てすべて価値を決めるようにできています。私たちはイエス様を信じたときに素晴らしい祝福をいただけるとわかっています。しかし今日ここにおられる方に今日どんな価値を見出されているでしょうか。自分について考えるときにどんな祝福をいただいているか、どんなに愛されているかを覚えてください。自分はクリスチャンで素晴らしい祝福をいただいていると言えますが、家庭にはこんな問題がある、自分は駄目だと価値を低く定めている時があると思います。またある方は解放の祈りをするときに色々な現象や苦しみが現れるときに、自分はこんな問題があり、霊的束縛があると言うときに駄目だと思ってしまいます。また兄弟姉妹が喜んでいるのを見る時に、自分は何も喜びがないから駄目だと考えがちです。しかし今日あなたに対してイエス様はどんな価値をもっておられるでしょうか。今日あなたは愛されているということを覚えてください。イザヤ書四十三章四節に、

『わたしの目には、あなたが高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』

と書かれています。この御言葉をいただくときに、イエス様によって私は愛されている。エジプトや節を身代金としてと書かれています。これはこの全世界を身代金として渡してでもあなたを買い取ってあげる、あなたを守ってあげる、すべての財産よりも人よりもあなたが一番愛していると聖書に書かれています。私たちはそのように価値をいただいているにも関わらず知らないうちに、自分は劣っている、駄目だと考えがちです。聖書を読む中で素晴らしい祝福をいたただきました。創世記一章二十六節から三十節に、

『そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。』

と記されています。私はここを読み、神様の愛を感じました。創造者である神様は私たちを造られた方です。創世記を読むと造られたものが書かれており、六日目に私たち人を造られました。イエス様は私たちひとりひとりを全地、空、海、何もかもを造られたあとで最高の住みやすい状況を造って、最後に人を造られています。私は神様の大きさを感じました。全宇宙、家畜、動物何もかもが人間のために造られている。ひとりのアダムのために全世界を準備し、さあ、ここで住みなさいと一人の人のために神様が素晴らしい備えをしてくださったことを知る時になんと神様は大きな方だろうかと思います。そして私ひとりを神様が愛してくださっている、私を注目してくださっていると思います。イエス様が「わたしの目には、あなたが高価で尊い」私をそんなふうに見てくださっているということを御言葉によって知りますが、他の御言葉を読むときにあなたという一人が住みやすいようにこの地上を全部備えてくださったということを今日覚えてください。また、ルカの福音書十五章四節から七節に、

『「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。』

と記されています。百匹羊がいて一匹だけ離れてしまったときに羊飼いはのに九十九匹を残し、その一匹のために出掛けていき、探し求めるというのです。今日ここにおられるすべての方がイエス様によって救われています。神様はあなたひとりを探し求めてあなたを連れ出してくださり、九十九匹を野に残してまで捜してくださったというのです。九十九匹を残したということは、他のものも犠牲になるかも知れません。そこまでしてでもあなたを見つけるまで捜しているというのです。イエス様は他のものを全部失ってでもあなたを愛して十字架にかかられたことを覚えてください。そしてそのところで友だちや近所の人を呼び集めていなくなった羊を見つけましたので一緒に喜んでくださいと言っています。罪人が救われたら天で大きな喜びがあると書かれていますが、イエス様はあなたが救われたことを誇り、近所の人や友だちに一緒に喜んでくれとあるように、あなたがが救われていることをイエス様は喜んでおられることを覚えてください。今日イエス・キリストはあなたひとりを愛されています。マルコの福音書四章三十五節から

『さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。』

と記されています。イエス様がある所で大群衆にメッセージをしていました。そしてメッセージが終わると、夕方弟子たちに今度は向こう岸に渡ろうと船を出しました。そして船は嵐で沈みそうになりました。その時イエス様は船の先の方で寝ていました。弟子たちは沈みそうです。溺れそうです。助けてくださいと言いながら出掛けていきました。マルコの五章一節から三節に、

『こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。』

と記されています。悪魔に牛耳られて普通の生活ができず墓場にいて自分の体を傷つけ、自分の力では何もコントロールすることができない人のために大群衆の中から出ていき、また嵐の中で死にそうになりながら墓場に住んでいるゲラサの一人の人のために岸を渡っていきました。そして十節から十三節に、

『そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。』

(悪魔たちが懇願しました)

『ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってあった。彼らはイエスに願って言った。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」』

と記されています。向こう岸からわざわざゲラサのひとりの人のためにイエス様が出掛けて行きました。そして悪魔に苦しめられ、牛耳られている人のところに行き、悪魔を追い出されました。しかし悪魔たちは自分は滅びの時ではない、だから豚に乗り移らせてくれと言い、そのことを赦されたので悪霊が豚に入るように命じられたことによってそこにいた豚二千匹が崖に落ちたと書かれています。これを読むときに霊的に苦しんでいる中で、また悩んでいてはい上がることができない状況にある私たちにイエス様は多くの群衆がいて素晴らしい神様の言葉を聞いていたにも関わらずその人たちを残して荒れた湖を渡ってゲラサに来て豚に乗り移ることを赦して二千匹の豚を見殺しにしてでもイエス・キリストはゲラサの悪魔にやられていた人を解放しました。そしてそれが終わってからまた帰りました。わざわざその一人のために危険を冒してでも行き、苦しんでいる人を解放しました。彼は正気になってイエス様の元に座っていたと書かれています。その姿を見て皆は驚いてイエス様にここから離れてくださいと言われました。その人のためにターゲットを入れてわざわざイエス様がそこに行ってくださったことを覚えてください。そしてもう一つヨハネの福音書三章十六節に、

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

と記されています。今日あなたを愛するためにイエス様が十字架にかかられました。そして滅んでくださり、地獄に行ってくださり三日目によみがえってくださったその神様があなたを愛されており、あなたは高価で尊い、あなたは価値のある人だと言われます。しかし私たちは色々なところを見て比べています。あの人から見ると自分は劣っている自分は駄目だと考えてしまいます。愛されており価値があると言われているにも関わらず、自分は駄目人間だと考えてしまいます。聖書を読むときにイエス・キリストがあなたひとりを愛して高価で尊い、一番価値があると言われていることを覚えてください。

 私は普段もっと金があったらなあと思ったりする事があります。日本でお金と呼ばれるのは十種類あります。一番小さな単位は一円玉です。その次は五円玉です。そして十円。五十円。百円。五百円。千円、二千円、五千円、一万円札の十種類です。一万円札が一番大きなお金です。一万円という金額は私にとってとても高額な、価値あるお金です。いつも財布にあればと思いますが、あるのは最小単位から数えて六つ目までの硬貨のみ、時々青白い夏目漱石が一、二枚入っている位です。しかし今日はこのメッセージをするために、日本のお金の中で一番高価な単位、一万円札を財布の中に入れてきました。皆さんいかがでしょう?今日この一万円札を差し上げますと言ったら、皆さんはどうしますか?それもピン札です。それは誰でも欲しいと思います。ではこのピン札の一万円をぐちゃぐちゃにして、しわだらけの一万円にします。再度この一万円札ほしいですか?と聞いたらあなたならどうしますか?当然ほしいですと言います。なぜならば、ピン札の一万円札としわだらけの一万円札は同じ価値があるからです。何も価値は変わりません。全く同じものを買う事ができます。今日あなたという方はピン札の一万円札ですか?ある人はそういう人もいるかも知れませんが、私を含めて多くの人が、折り目がついたり、しわだらけの一万円札のような状況ではないでしょうか?病気があったり、問題があったり、悩みがある、知恵もない、お金もない、学歴もない等々様々な状況を考えます。そして自分で自分を天秤にかけ、自分は劣っている。価値のない人間だと思ってしまうのです。暗闇の力である悪魔が、問題などを見せて、おまえはダメな人間だ、価値のない者だと囁いてきます。そして自分はダメな者、価値のない者と思い込まさせられています。しかしもう一度先ほどの一万円札のたとえを思い出して下さい。ピン札もしわだらけのお札も同じ価値があります。ピン札で買えるものとしわだらけのお札で買えるものは同じです。だから今日あなたはそのままで良いのです。イエス様は「わたしの目にはあなたが高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言っています。イエス・キリストはあなたが今どんな状態にいたとしても、愛しています。あなたのために天地を創造し、九十九匹を残してでも、迷い込んだ一匹を見つけるまで捜し、見つけたらみんなで喜び、霊的に苦しんでいる人がいたら、危険を顧みずに、その人のためにだけ助けに行き、一人の人のために身代わりとなって命をささげて下さった神が、今日あなたに対して「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」と言っています。あなたは価値のある人です。そして重荷があったら「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」というみことばの如く、癒し、解放して下さる神様です。水の中を通るときも火の中を通る時にもあなたを守るあります。今日あなたは価値ある存在、特別愛されているということを覚えてください。

 第二に私たちはひとりでは生きていけません。家族、同僚、近所等々多くの人がいて社会生活が成り立っています。先ほどから学んだように、自分は価値がないと考えると同様に、人に対しても価値をつけます。天秤にかけます。そしてあの人は駄目な人だ等裁いてしまいます。しかしイエス様はあなたを愛すると同時にすべての人も同じように愛し、価値ある者と見ています。まずあなたが結婚しているならば、夫を妻をどのように思っていますでしょうか?

マタイ十九章五節六節に

『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」

とあります。神が引き合わせて下さった相手であるにも関わらず、愛し合う中で、だんだん会話がなくなり、思いの中ですれ違ってしまいます。自分のことをわかってくれない、などだんだん相手を裁き始めてしまいます。仮面夫婦のように人前ではうまくいっているように見せかけ、実際はお互いを裁き合ってしまいます。最高の人。この人と一緒になろうと堅く決心したにも関わらず、裁き合ってしまうのです。創世記二章十八節に、

『その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」』

獣、家畜など創造したものを見てもアダムにふさわしい相手は見つかりませんでした。そのためアダムを眠らせ、あばら骨をとって女、エバを造りました。二十四節から二十五節に、

『それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。』

と記されています。神が下さった最高の助け手なのです。そしてふたりとも裸であったが互いに恥ずかしいことがなかったとあります。裸と言うことは全部をあからさまに、隠す事のない、全部をさらけ出すと言う事です。互いに劣っている所もあります。しかし恥ずかしくないのです。赦し合えるのです。神様が価値ある人として見る限り、裁き合う事はできません。あなたも相手も高価で尊いからです。

 また自分の子どもに対して、価値のない者としてレッテルを貼ってしまいます。他の人の子どもと比較してしまいます。親の思いに反すると駄目な子だと考えてしまいます。なんで勉強ができないのだろうとか、なんで片付ける事ができない、なんで言う事を聞けないのなど、自分は幼い頃できなかった事を、子どもに託し、できないと裁いてしまうのです。また兄弟でよく喧嘩などをします。兄弟同士で裁き会うのです。肉の兄弟に対しても言う事ができますが、主にある兄姉にも言う事ができます。一致していかなければならないにもかかわらず、人の信仰生活を批判するのです。裁き会うのです。しかし誰に対しても神は「高価で尊い」と言っています。マタイの福音書五章二十二節に、

『しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。』

と記されています。またマタイの七章一節から二節に、

『さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。』

とあります。人間関係で苦しんでいる方がいるかもしれません。今日その人を神の目で見てください。創世記一章三十一節に、

『そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。』

すべての人も造られた後、神様は全ての創造物を見て「見よ。それは非常に良かった」と言われました。神様はすべてを見て、「非常に良い。素晴らしい」と満足しています。その良かったと神が満足している者を憎み、攻撃し、裁いてしまっているなら悔い改めるべきです。「わたしの目には、あなたが高価で尊い。わたしは、あなたを愛している。」と語られています。神は絶対に価値のない人とは思っていません。あなたは高価で尊いと言っています。あなたが今苦しいところを通っていても、必ずその事を通して、神様が栄光を現そうとして下さっています。「すべてのことを働かせて益としてくださる」神です。早く祝福を頂きたいと思いますが、必ず勝利に導いて下さいます。ヘブル人への手紙十一章一節に、

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』

と記されています。駄目だと思ったら駄目になります。しかし私たちは今は見てはいないけれど、天国があると信じています。ですから今の現状がどうあろうと、必ず良くしてくださることを信仰によって立ち、神は私を、高価で尊い存在だと信じて下さい。必ず祝福してくださり、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶことができるのです。たとえ水の中を過ぎるときも、火の中を過ぎるときもあなたを守りってくださる神。その方はあなたの主です。その神が今日「二、三人わたしの名によって集まるところにわたしもそこにいる」と言われます。神が今日ここにおられます。あなたが祈ってきた問題、家族の救いなどを「あなたは高価で尊い」と語ってくださっている主が責任もって祝福してくださいます。

イザヤ書四十三章四節の御言葉を自分の言葉として宣言しましょう。

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。』

「わたし」とはイエス様のことです。「あなた」というところに自分の名前を入れて宣言し、お祈りしましょう。あなたは高価で尊い方です。お祈りします。


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