すべてを完成させて下さいます!

2004.4.4(SUN)
新城教会 滝元 順師

旧約聖書 歴代誌第一 28 章 20 節

それから、ダビデはその子ソロモンに言った。「強く、雄々しく、事を成し遂げなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。神である主、私の神が、あなたとともにおられるのだから ―― 。主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず、主の宮の奉仕のすべての仕事を完成させてくださる。

 ハレルヤ!二〇〇四年度が始まりました。ある方は新しい学校に入学され、ある方は新しい仕事に就かれ、少々、不安を抱かれているかも知れません。今朝は、二〇〇四年度に神の守りと祝福をいただきたいと願います。この御言葉は、私たちに大きな励ましを与える、素晴らしい言葉です。

『主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず、主の宮の奉仕のすべての仕事を完成させてくださる。』

 旧約聖書における主の宮とは、文字通り神を礼拝する「建物」であり、神を礼拝する場所でした。しかし新約聖書における主の宮の概念は拡大し、「教会」であり、目に見えない教会として、最終的には「人」に位置づけられます。それは、私たちひとりひとりの人生に神が働かれ、すべての仕事を完成させてくださるという意味です。新年度、この御言葉を自分のものとして受け取って始めたいと願います。

 この言葉は、ソロモン王様が父親ダビデから受け取った言葉です。しかしダビデは、この言葉を神から受け取り、ソロモンに語ったのです。今日、この言葉を、主から直接語られている言葉として受け取りたいです。

 『主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず、主の宮の奉仕のすべての仕事を完成させてくださる。』という御言葉の「あなた」というところを自分に置き換えて「私」としてお読みください。また、「主の宮の奉仕」というところを「私の仕事のすべてを完成してくださる」と置き換えて御言葉をお読みください。

 『主は、私を見放さず、私を見捨てず、私のすべての仕事を完成させてくださる。』

 心から主に期待しましょう。二〇〇四年度、神が私たちに仕事を任せてくださり、すべてを完成してくださると信じましょう。

 神は見えるものも、見えないもの、すべてを造られました。コロサイ人への手紙一章十六節に、

『なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるも

の、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。』

と記されています。「御子」とは「イエス様」のことです。イエス様がすべてを造られました。見えるもの、見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべてイエス様によって造られたのです。

 ある方は新しい環境の中で、新しい上司の下で働かなくてはならないでしょう。ある人は、「あの上司は嫌だ」と思っているかも知れません。私も何年か会社で働いたことがあります。そこで上司からの圧迫を感じたことがあります。また、自分も上司となって、他人にプレッシャーをかけた経験もあります。しかし、その嫌な上司の上にも、主の主権があるのです。ここに、「王座も主権も支配も権威も」とあります。この日本の上に、イエス様の支配と権威があることを知り、日々を歩むことができたら、どんなに素晴らしいでしょうか。見えるものも、見えない権威も、神が造られ支配されています。クリスチャンとは、何という特権でしょう。このように偉大な神が味方であれば、どのような時代や環境にあっても、恐れるものはありません。力強く、勇気を持って歩むことができます。また、このように、主を礼拝するときに、新たなる力をいただいて一週間を始めることができます。

 皆さんにお祈りいただき、先週はパマナに行くことができました。パナマは南米と中南米の間にあります。この教会のメンバーである、S姉が二年程前からパナマに赴任されています。彼女はそこでたいへん良い働きをされています。今度、彼女はたいへん重要なポストで働くようになりました。

 彼女は日本を経つ前の最後の礼拝で、「人の悪口を言ってはいけない。そうしたら幸せになれる」という御言葉を握り、人の悪口を言わないと決意してパナマに発ったそうです。やはり現地ではいろいろあり、「あの人が、この人が・・・」と、大変であったそうです。しかし彼女は、その御言葉が心に据えられていたので、決して悪口を言いませんでした。相づちを打つように促されても答えませんでした。

 しかし、二年が過ぎて、結果的には皆から認められ、上のポストに推薦されました。どのような状況でも、悪口を言わず、人のためにとりなして祈ってあげることは大切です。

 今回、私と家内はSさんと一緒に、パナマのために、また、日本のためにも祈ることができて感謝します。

 海外に行き、世界地図を見るとおもしろいです。世界地図ほど、その国によって形が違う物はありません。アメリカに行くと、日本を「ジャパン (Japan) 」という呼び方とともに、「ファー・イースト( far east )/極東」という言い方があります。なぜ、そのように言うのだろうかと考えていました。

 私は今年の一月にヤキマのジョー先生のところに行きました。ジョー先生の奥さんは小学校の先生ですので、その学校を見学に行きました。学校の入り口には、大きな世界地図が掛けられていました。アメリカの世界地図は、アメリカが中心に置かれ、日本が東の果てにありました。アメリカを基準に置くと、日本は最も遠い東、「極東」に位置するのです。その夜、セミナーがありました。私はパワーポイントを使って映像を見せて、「皆さん、日本のことを何と言われますか。ファーイーストと言うでしょう。しかし、それは間違っていますよ。」と、日本が中心になっている地図を見せてあげました。そして、「あなたがたこそ、ファー・イーストです。」と言いました。これは、アメリカ人にはたいへん受けました。

 どこの国に行っても、人は自己中心です。しかしパナマは、中心にしようとしても、あまりにも小さすぎて、どこにあるのか分からないほどです。けれどもパナマは、北米と南米を結ぶ架け橋に位置しており、また、パナマにはパナマ運河があり、西洋と東洋の結び目です。

 もしも、北米大陸と南米大陸が同じ幅ならば運河を作ることは出来ませんでした。しかしパナマは細く小さいので、運河を作ることができました。パナマ運河の途中には都合の良いことにガツン湖という湖があります。運河をそこに連結してできています。

 見えるもの、見えないものをも神が造られたとありますが、このように大陸が狭められたのも、神が用意された場所のはずです。少し手を加えさせたら、太平洋から大西洋まで簡単につなげるように備えられたと思います。このような地理的条件が備わった場所は、同時に見えない霊的世界でも、ある条件が備えられているはずです。見える世界で地形に少し手を加えれば、七千キロから八千キロの節約になるのと同様に、そのような場所で霊的世界に人がかかわり祈るときに、霊的運河が掘られ、霊の世界で遠回りであったのが、近道が与えられるように感じました。私たちは日本のリバイバルを祈っていますが、なかなか遠い感じがします。リバイバルミッションも始まって十数年経ちますが、なかなか本格的なリバイバルが起こりません。しかし、そのような条件を備えた場所で、「主よ、ここに運河が造られたのと同様に、霊的運河を掘ってください。リバイバルの大海に出ることができますように」と祈るときに、何かが起こると期待して祈ってきました。今回、太平洋側の運河の入り口と、大西洋側の入り口で、新城教会と携帯電話でつないで祈りました。

 また、現在、多くの方が病や苦しみを持っています。そのために祈っていますが、なかなか解決に至りません。ですから、「神よ。遠回りさせないで、解決に直結させてください。解放に直結させてください」と祈りました。今回のとりなしの祈りにより、霊的運河が掘られて、素晴らしいスピードでリバイバルが前進する事を期待しています。

 日本とパナマは、あまり関わりがないように思いますが、パナマ運河の建設に、若き日本人技術者、青山士(あおやま・あきら)が一九〇四年から七年間関わりました。彼は内村鑑三と出会ってクリスチャンとなり、一つの信念を持ったのです。それは、「生まれた時よりも、死ぬ時には少しでも世の中を良くしたい」というものでした。それで、パナマ運河建設に関わることを志願し、技術者として現地に行きました。彼は土木技術者で、パナマ運河の測量から関わりました。初めその場所はジャングルでした。測量隊はジャングルを切り開く先発隊でした。工事は困難を極め、パナマ運河の建設工事で約三万人が亡くなったそうです。そんな最前線で、彼は信仰を持って働きました。この人は浜北近辺(現・静岡県磐田)の出身だそうです。今も、彼の功績は、国際社会で高く評価されています。日本とあまり関係がなさそうですが、そのような所にも神の御手があったと思います。

 神は見えるものも、見えないものもすべて造られ、地理的条件も神が造られたのです。土地にすこし手を加えさせ、生活が便利になるように備えたのです。人が努力する場所を提供してくださったと思います。

 聖書を見ると、見える世界と見えない世界とが、ある意味で表裏一体であるのを見出すことができます。私たちは、ただ見える世界だけに支配されるのではなく、現実の世界から見えない世界を見通すなら、人生の世界観が変わると思います。これから、見える世界の中に、見えない世界を見出す信仰者になりましょう。

 今日お読みした箇所は、神の宮を建てる工事の時に語られた言葉です。神は宮を建てるようにと語られました。

 神の宮の工事とは、現実的な工事でした。現在、「リバイバル聖書神学校」の校舎の建設工事が進められていますが、先週までに土台ができました。来週は、鉄骨が姿を現します。この工事のためには、すべて詳細な図面があります。その図面に沿って、工事が進められています。神の宮の工事も、同様に、実際的な設計図に基づいて進められていきました。

 しかし聖書を見ると、その設計図の基となったのは人間の考えではなく、神が与えた設計図であったと記されています。第一歴代誌二十八章十一節から十二節に、

『ダビデはその子ソロモンに、玄関広間、その神殿、宝物室、屋上の間、内部屋、贖いの間などの仕様書を授けた。御霊により彼が示されていたすべてのものの仕様書であった。』

 仕様書とは、設計図です。設計図とは現実的に工事を進めるための資料ですが、それは聖霊によって、神がダビデに示したのです。それを、ソロモンが受け取って、図面に沿って現実的な神殿を作っていきました。

 やがて神殿が出来上がったときに、「奉献式」と言って、神殿を神にささげる記念セレモニーがありました。「リバイバル聖書神学校」も九月二十日に、献堂式を行います。

 神殿の奉献式は、盛大に行われました。その時のことが、第二歴代誌五章十三節に記されています。

『ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように

一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」と主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。』

 建物が建ったので、皆が神を心から賛美しました。その時に、神が宮に直接介入され、「主の宮は雲で満ちた」とあります。神の臨在がそこに現されたのです。神が超自然的に神殿内に雲を沸き立たせ、人々は深い神の臨在に包まれたのです。それは、ソロモンが見える建物を建てていたときに、同時に、目に見えない世界でも工事が成されていた事を現しています。そして、見える世界で建築工事が終わったときに、見えない領域でも神の仕事が完成したのです。その証拠として、主の宮は雲で満ちたのです。

 私たち、ひとりひとりは神の宮です。私たちは色々な仕事をしていますが、仕事をしているただ中に、一方では、目に見えない世界でも働きがあり、前進しているのです。時々、仕事をするときに、「早く済ませたい、片づけたい」と思いますが、クリスチャンにとっては、神が目に見えない世界で、何らかの仕事を完成させようと、霊的工事を進めておられます。

 今週皆さんの働かれる、すべての領域において、そのことが起こっています。見える世界だけでなく、見えない世界に目を向けなければなりません。そして、御霊による建設工事も、神の宮が雲で満ちたのと同じように、やがて完成させてくださるのです。あなたの仕事が完成する日が来ます。

 今回、私はパナマに行って祈っているときに、「この工事は大変だっただろう」と思いました。しかし、誰かが初めの穴を掘りました。そして、工事は徐々に前進し、やがて大西洋と太平洋を結んでしまうほどの、大事業を成し遂げたのです。今は、世界経済を支える重要な施設として使われています。それを見て、私は、新城教会の働きとだぶって見え、祈らされました。

 新城市においては、五十数年前に宣教が開始され、現在に至っています。初めの礼拝は寂しいものでした。私はこの教会の長男として生まれましたが、現在の新城中学校の前の長屋の一軒家に住み、生活空間が日曜には教会となりました。それから五十数年が経ち、現在は多くの人が集まって礼拝できることは、その時から考えると夢のようです。

 新城教会が新しい転機を迎えたのは、現在の会堂ができてからです。二十四年前にこの会堂ができました。初めの礼拝には一一〇名が集まったという記録があります。大きな会堂の中に、たったの一一〇名とは寂しかったです。私はその時、司会をしていました。しかし今はこんなに祝福されています。

 今回、神学校を建設するにあたり、教会の施設システムもいろいろと変えなければなりません。まずは、エアコンのシステムを変えることになっています。四月中かけて、古びた冷暖房システムを新しくすることにしています。この会堂ができてから「二十四年」が経ちますが、その「十二年後」、一九九二年には「教育館」が建ちました。

 そして、教育館が建ってから「十二年後」の今年、二〇〇四年に神学校ができます。「十二年ごと」に建物が建っています。もしも、見える世界と、見えない世界が表裏一体であるならば、それにも何らかの意味があるように思います。新城教会は、北側の道路に面する部分から建て始められ、今度は神学校が南側の道路に沿って建てられ、ついに南側の道路にまで到達します。この場所において、これ以上の建設工事は出来ません。これで、すべての工事は完成されます。このように、建物が十二年ごとに建設されたのにも、神の摂理があるように思います。一九八〇年から始まり、二〇〇四年に終了するのです。建ぺい率六〇パーセントのぎりぎりです。ある意味で、二〇〇四年は何らかの、「神の完成の年」だと思います。

 新城教会は会堂ではなく、目に見えない領域のことですから、神が私たちの教会に、何か一つの完成品を、二〇〇四年に準備されているのではないかと期待しています。「十二」という数が出てきましたが、聖書において、数には意味があります。こじつけのようにも思うかもしれませんが、聖書をしっかりと見ていくと、あるパターンがあります。「十二」という数が何を意味しているのかを、昨晩、聖書辞典で調べてみました。

「 1 年は 12 か月に分けられ(参照 T 歴 27 : 1‐15 ),昼は 12 時間に分けられた(ヨハ 11 : 9 ).ヤコブには 12 人の息子があり(創 35 : 22‐27 , 42 : 13 , 32 ),神の民イスラエルの 12 部族の祖となった(創 49 : 28 ).キリストは 12 人の使徒を選ばれた(マタ 10 : 1‐4 ).このように 12 という数は神の選びの目的と関連があり,神の民にとっての特別な完全数であった. 12 の倍数の 24 は祭司の組の数であり( T 歴 24 章),その倍数の 48 はレビ人の町の数である(民 35 : 7 ,ヨシ 21 : 41 ). 12 とそれを基本にした数はヨハネの黙示録によく見られる数である.教会を示す女の冠には 12 の星があり(黙 12 : 1 ),新しいエルサレムの描写には 12 と 12000 と 144 ( 12 の 12 倍)が用いられている(黙 21 : 12‐21 ).」(聖書の達人より)

と説明されていました。十二年ごとに主が、建設工事を新城教会に与えてくださり、初めは「礼拝の場所」が造られ、続いて、「兄弟姉妹が交わる場所」として、教育館ができました。そして今度、御言葉を本格的に学ぶ、「リバイバル聖書神学校」が建てられます。これはリバイバルミッションの働きの施設ですが、手続き上では新城教会の名義で建てられています。神を礼拝する場所、そして神を礼拝する者たちが交わる場所、そして、御言葉を学ぶ場所ができるという順序には、預言的な姿を覚えます。この「十二」という数が「神の選びの目的と関連があり、神の民にとっての特別な完全数」であったとしたら、このような建設工事の中にも、見える世界とともに、見えないある意味での完成があるのではないでしょうか。また、私たちひとりひとりにおいても、仕事を完成ラインに乗せてくださる年となるよう、信仰を持って祈る必要があると思います。ピリピ人への手紙二章十三節から十四節に、

『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行な

わせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。』

と記されています。神はひとりひとりに計画書を持っておられます。それはどのように私たちに示されるのでしょうか。それは、神が私たちに働きかけて、志を与えられる形で示されると教えています。時々、「このようにしたい。このようにしてみようか・・」という、神からの志が与えられます。志が与えられたら、しっかりと神の前に出て祈らなければなりません。しかし案外、神が与えられる志は、十四節、「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。」とありますが、あまり気が進まない事柄が多いのです。「ちょっと嫌だな」というような、少々、ストレスを感じるようなところをつぶやかず、疑わずに行う中から、多くの場合、みこころにつながるのかも知れません。何にしても、神様が皆さんに与えられる志をしっかりと捕まえ、神の前に出て祈るときに、神の計画を建て上げてくださると教えています。

 またピリピ人への手紙一章三節から六節に、

『私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。』

 ここでは、神が与えた志は、必ず完成すると教えています。私たちは日本のリバイバルや、新城のリバイバルのために志を抱いて進んでいますが、これは絶対に中途半端では終わりません。必ず、完成する日がきます。そして今、皆さんが持っておられる志も、必ず完成する日が来ます。ですから、決してつぶやかず、疑わず、信仰を持って進んでください。二〇〇四年度が始まりましたが、もう一度、神の志を確認しながら、進んでいきたいと願います。

 来週は復活祭です。昨年から「イースター」という言葉は使っていません。「イースター」とは「月神」の名前です。偶像の名前が、知らないうちに復活祭にすり変わってしまいました。だから私たちは「復活祭」と呼んでいます。私たちはよみがえりのイエス様を礼拝します。プロテスタントの信仰は十字架のイエス様よりも、よみがえりのイエス様を強調します。

 私はパナマで「パッション」という映画を見ました。その映画はイエス様の十字架の苦しみを描いています。イエス様が、私のために苦しんでくださったという意味では感動するところもありますが、ただ、苦しみだけではいけません。メル・ギブソンはカトリック信者ですので、この映画は、かなりカトリック的要素が強いです。私たちが礼拝するのは十字架に付けられて降りてこないイエス様ではなく、または、赤子のイエス様ではなく、「よみがえりのイエス様」です。カトリック教会では、イエス様は常に十字架にかかっており、マリアに抱かれて赤子のまま、いつまで経っても成長されないイエス様です。

 しかし、私たちは、死を打ち破り、よみがえりのイエス様を礼拝します。イエス様が十字架にかかり死なれたときに、一つの仕事を終えられました。それは、すべての人の罪の身代わりとして、仕事を完了してくださいました。けれども、その三日後によみがえって、新しい契約を私たちに示してくださいました。それは、死の力と、悪魔の力には支配されないという、新しい契約でした。その結果、罪が赦されるだけではなく、新しい契約の中で、イエス様と同じ権威を帯びて、天においても地においても一切の権威をもって、地上で神の目的のために働くことが出来るのです。

 今朝、私たちはよみがえりのイエス様を礼拝します。そして、新年度も、御霊よって示された仕様書・設計図に従って、一つ一つの仕事を完成していきたいと願います。必ず、完成の時が来ると信じます。祈りましょう。


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