良い知らせがあります!

2004.4.11(SUN)
新城教会 滝元 順師

旧約聖書 イザヤ書 61 章 1 節〜 3 節
神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。

 ハレルヤ!復活祭おめでとうございます。復活祭はあまり日本では馴染みがないかも知れませんが、イエス様が十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたことを記念する、クリスマスよりも有名なお祭りです。

 今朝は、イエス様のよみがえりを記念して、礼拝を持っていますが、イエス様がよみがえられた時の力が、一人ひとりの上に注がれるように願っています。

 今日は「良い知らせがあります!」というタイトルで、お話ししたいと思います。

 私たちには、時々、良い知らせと悪い知らせがもたらされます。良い知らせは嬉しいですが、悪い知らせは聞きたくないものです。

 何年か前に、私は平岡先生とともにアメリカに行ったことがあります。空港に着くと、たいていは女性の係の方がチックインの手続きをしてくれますが、その時に限って、背広を着た偉そうな人がカウンターに出てきました。そして、「あなたに、良い知らせと、悪い知らせがあります。どちらを先に聞きたいですか?」と言われました。私は、「何だろう・・」と恐る恐る聞いてみると「では、最初に、悪い知らせから言いましょう。あなたたちの席がありません。」と言われるのです。私は、「冗談ではない」と思いましたが、次に、「良い知らせがあります。」と言われました。そして、「あなたはエコノミー・クラスの席で予約されましたが、席がないので、つきましては今日はビジネス・クラスにランクアップさせていただきます。」と言われ、安心しました。

 良い知らせを聞くのは嬉しいものです。皆さんにとって、近頃、良い知らせはあったでしょうか。悪い知らせを聞いた人もいるかも知れません。今日は神からの「良い知らせ」を受け取って帰ってください。

 「復活祭」は、良い知らせです。人類が絶対に破ることができなかった、死の力をイエス様が打ち破ってくださったからです。

 今朝、礼拝前九時三十分から、天に帰られた私たちの仲間たちを記念して「召天者記念会」を行いました。遺族や関係者の方々が集まられ、別れの悲しかった日を思い出し、ちょっと寂しく思いました。しかし私たちは、イエス様がよみがえられたように、私たちも、よみがえることができるという、希望を確認することができました。私たちは、やがて、地上から出ていかなければなりませんが、イエス様がよみがえられたことは、人間は死で終わりではないことの証明です。ここには希望があります。

 地上はある意味で、選択の場所です。それは、本物の神を選ぶ場所です。私たちがイエス様を信じるならば、永遠のいのちが与えられ、永遠に生きることができるのです。今日ここにおられる方々は、すでに、永遠のいのちを受け取った仲間たちです。神とともに、死も、苦しみもないところで、永遠に生きることができると聖書は教えています。

 復活には、どんなにか大きな力が働いたのか計り知れません。今日は、イエス様のよみがえりの力を、礼拝の中で体験していただきたいと願います。

 今日お読みした御言葉は、大変有名な言葉です。それは、イエス様がこの地上に来てくださった目的を表している言葉だからです。そして、私たちに与えてくださる希望を表している言葉です。この中に、「良い知らせ」という言葉が出ています。

 教会では、一般であまり使わない言葉をよく使います。初めは教会の新しい文化に違和感を感じて、戸惑ったかも知れません。礼拝の始まりに、「ハレルヤと言いましょう」と言われ、戸惑ったかも知れません。「ハレルヤ」とは、「主を賛美します」というヘブル語で、「アーメン」とは、「本当です。」という意味です。また、「感謝します」という言葉が教会には多いと感じたかも知れません。教会に来ると、感謝が多くなります。

 同時に、「福音」という言葉を聞くと思います。「福音」とは、どのような意味でしょうか。それは、「良い知らせ」という意味です。「福音」という言葉も、一般ではあまり使わない言葉ですが、教会ではよく使います。しかし最近では、「福音」という言葉を時々、テレビのニュースなどで耳にします。「ガン患者に福音です」とか、「目の見えない方々に福音です」とか、「耳の聞こえない方々に福音です」などと言われます。それはどのような意味でしょうか。それは、今まで駄目だったことが、あることによって、できるようになったという意味で使われます。今までどうにもならなかった病気が、新しい薬によって治療が可能になったとき使います。新しい機械が発明されたことにより、今までの不可能であったことが可能に変えられた、「これは福音です」と使います。

 教会で福音が語られるということは、普段では難しいことが、イエス様によって可能になったという意味です。ですから、それは良い知らせです。教会では良い知らせを聞くことができるのです。ぜひ続けて教会にお越しください。

 人間は肉体だけではなく、魂もあります。魂にも栄養が必要です。体のためには食べたり飲んだりしますが、あまり心のケアーをしていないのが日本人です。しかし、教会に来ると、心が豊かにされます。

 福音の中に、「貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。」と記されています。皆さんの中で、心傷ついて重い気持ちで教会に来られた方がおられたら、イエス様はその傷を癒すことができる、唯一のお方として期待してください。今、世界に色々な問題が起こっていますが、突き詰めていくと、心の傷が原因になっています。イラクで大変な問題が起こっています。これからどうなるのだろうか、世界はどこまで泥沼化するのだろうか、と心配になります。しかしあれらの問題も突き詰めていくと、人々の心にある傷が原因しています。歴史的に色々なことがらで双方が傷つき、やがて傷が憎しみに変わり、お互いに殺しあい、傷つけるところにまで発展しています。心の傷が癒されない限り、どうにもならないのです。

 ある心理学者は、「人間には、電気を使いすぎるとブレーカーが落ちるのと同じような機能がある」と言いました。耐えられない状況に遭遇すると、心のブレーカーが落ちるような機能を持っているというのです。

 私の家も、よくブレーカーが落ちます。電気の使いすぎか、古くなったせいかわかりませんが、よくブレーカーが落ちます。やはり電化製品が多いからだと思います。ブレーカーが落ちたとたん、今まで機能していた電化製品の機能のすべてがストップしてしまいます。すると、私の家では争いが始まります。誰かが、「早くブレーカーをあげてくれ」と言います。家内が夕食の準備をしている最中に、ブレーカーが落ちると、真っ暗闇の中で問題が起こります。なぜなら、私の家は外にブレーカーがあるからです。外に出て行き、箱を開かないとブレーカーを上げることができないのです。「寒い」と言っていつも喧嘩になります。最終的には、「この家を作ったのは誰だ」ということになり、私がブレーカーを戻しに行くのが多いです。

 いくら優れた電化製品があっても、ブレーカーが落ちていたら使いものになりません。しかし、ブレーカーを上げると、突然、停止していた電化製品が、すべて動き出します。

 人間は優れた存在です。なぜならば、神が造られたからです。一人ひとりすごい能力を持っています。聖書は、神は人を「作品」として造ったと述べています。ここにおられる方々は、皆、神の作品です。しかし、私たちの身の回りにあるものは、ほとんどが「製品」です。製品は同じ品質です。ここにあるマイクも製品なので、同じ音質です。製品は同じですが、作品は一点一点違います。画家にとって絵は作品ですので、いくら同じように描こうと思っても、描くことはできません。一点一点違います。しかし、写真は製品なので、全く同じものができます。

 時々互いに比較して、「私はあの人と違う」と落ち込むことがありますが、落ち込まないでください。神様は、あなたを完璧な作品として造られたからです。神にとってミスはありません。時々、「この、出来損ない!」といいますが、出来損ないなどは絶対にありません。人が互いに評価し合っているだけです。神様の目から見たら、あなたは完璧なものです。

 しかし、その完璧な人間が、動かなくなっています。完璧ではなくなっています。それは、心のブレーカーが落ちて、機能が麻痺しているからです。最近の事件を観察してみても、およそ人間ではできない、信じられない事件が起こっています。数年前に、神戸の少年が子どもたちを殺して、切り刻んでしまうような残酷な事件がありました。その少年が大きくなり、近頃、釈放されたというニュースがありました。普通では絶対にできないことです。

 また数年前には、オウム真理教がサリンを散いて、五千人ほどが死傷しました。不特定多数の人々を殺してしまうなど、なぜそんなことが出来るのかと思います。色々な環境の中で人々は傷ついています。その結果として、心のブレーカーが落ちてしまいました。人は本来、優れたものであるにも関わらず、優れたものに見えないのです。本来の機能が働いていないのです。

 神は、人が自分勝手な歩みをすると、やがて問題が起きることをご存知でした。人間は、自由度の最も高い動物として造られました。だから、自由に行動することができます。しかし神は、人に自由を与えましたが、一つの枠組みをも与えました。そして、「自由に歩んでも良いが、枠組みから出ると傷を受け、悪いことが起こるから出ては駄目ですよ」と言われました。しかし、人間はその枠組みから飛び出したのです。

 社会には色々なルールがあります。例えば、交通法規は守ろうと守らまいと、自由です。車は、交通法規以上に、高性能にできています。百八十キロや二百キロまでスピードメーカーはついています。しかし、現実の道路では、四十キロ制限や六十キロ制限が多いのです。「メーターは、百八十キロまであるのに、なぜ、そこまで制限しなければならないのだろうか・・」と思います。しかし、三十キロ制限の所で、百八十キロも出したらどうでしょうか。必ず、事故が起こります。枠組みの中で生きるならば、幸せに生きることができますが、そこから飛び出すと良いことはないとわかっています。

 人類全体でも同じ事が言えます。神は人間を自由度の高い存在として造られました。時には、車のように百八十キロぐらいを出すことができます。しかしそのくらいの性能はありますが、スピード制限のような基準を作られたのです。その基準が聖書です。教会に来て聖書を学び始めると、自分の中にしっかりとした枠組みができます。どこまで人生でスピードを出して良いのか、どういうふうに歩めば良いのか、どこが危険で安全かがわかってきます。人生のコントロールがきくようになります。

 しかし人類はその枠を飛び越えてしまいました。神の言いつけに背いて飛び越え、混沌とした世界ができてしまい、人々が深く傷ついてしまう結果となっています。しかし神は、「お前たちが悪いから・・」と見捨てるのではなく、神のひとり子イエス様をこの地上に送って下さったのです。

 イエス様はこの地上で、三十三年間生きました。人々の前に公に現れたのは、たったの三年間でした。しかし現在、世界の約三分の一はキリスト教世界と言われます。イエス様がお生まれになったのは、今から二〇〇四年前です。西暦はイエス様の誕生とともに始まっています。それ程まで人類に大きな影響を与えた人物、イエス様とはどのような方か、よく確かめた方が良いと思います。イエス様の語られた言葉は、普通の人では語ることができない言葉が多いです。

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』『「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」』など、神以外には語ることができない言葉ばかりです。世界中の人々が、イエス様の中に道と真理といのちを見出しました。

 イエス様は三十三才の時に、十字架に付けられ死なれました。イエス様の十字架刑の発端は、時の律法学者やユダヤ教の指導者たちに妬まれ、十字架につけられて殺されたということです。

 しかし、聖書をよく読んでいくと、イエス様は「殺された」ように見えますが、実は、殺されたのではなく、「ご自分でいのちを捨てられた」のです。

 この五月から「パッション」という映画が上映されますが、勇気のある方は見てください。残酷シーンが多いので、年齢制限があるようです。私はパナマで見ましたが、イエス様の最後の十二時間を描いている映画です。全編二時間ほどですが、そのうち一時間半ほどが残酷なむち打ちシーンや、ひどい十字架刑シーンです。イエス様が、ローマ兵やユダヤ人たちに残酷に殺されていくシーンが強調されています。この映画は十字架を詳しく描いていますが、実は、本質を見落としているのです。それは、イエス様は殺されたのではなく、ご自分からいのちを捨て、ご自分によって、いのちをもう一度受け取った方という事です。ヨハネの福音書十九章二十八節から三十節に、

『この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。』

と記されています。イエス様は殺されたのではなく、自ら、霊を父なる神にお渡しになったと記されています。イエス様は、通常より短い時間で十字架で死なれました。しかしそれは、死んだのではなく、神の前に頭を垂れて、「自ら霊をお渡しになった」からでした。

 人間は自分でいのちの長さをコントロールできません。人間は死にたくないと言っても死んでいきます。しかし、イエス様はご自分で、霊をお渡しになったのです。だから、よみがえることもできたのです。

 「イエス様が苦しまれた場面」にフォーカスが当たりますが、イエス様が「なぜ」苦しまれたか、というところにもっとフォーカスが当たらなければならないと思います。それは、私たちの罪の身代わりでした。イエス様は私たちの罪のために死なれ、自ら、よみがえってくださったことにより、私たちに一つの特権が与えられました。それが癒しでした。

 イエス様が父なる神様に霊を委ねたときに、どこに行かれたのでしょうか。それは、地の一番深いところに降りられたと聖書は語っています。

 人がイエス様を信じないままで死んだら、どこに行くのでしょうか。それは、永遠の滅びです。人間は、誰にでも死の恐れがあります。「死んだらどうなるのだろうか・・」しかし、動物には、死の恐れがありません。人間は恐れます。「お前を殺す」と言われたら、「殺さないでください」と、命乞いをします。動物はそんなことはありません。生き魚を調理しようとしたら、「やめて。殺さないで。取り引きしよう」などとは言いません。人間だけに死後があるのです。イエス様を信じたら永遠の天国、しかしイエス様を信じない人生は、永遠の滅びです。だから人間には、死の恐れがあります。しかしイエス様は、人類が行くべき、「地の一番深いところ」と表現していますが、二度と出ることができない穴の底まで降りてくださったのです。

 心の傷の癒しは、世界中の課題です。飛んでしまったヒューズやブレーカーは、人間の手が届かない深いところにあるようです。しかしイエス様は、私たちが到達できない深い部分にあるスイッチにも触れることができるのです。私たちの飛んでしまったブレーカーを元に戻し、回復してくださるお方なのです。イエス様は、心の傷を癒すために地上に来られたので、一番深いところのブレーカーを、もう一度元に戻し、あなたを癒してくださるのです。今日は癒しの日です。心の癒しの時です。また、体もイエス様が造られたので、体も癒してくださいます。人間は霊、肉、魂で一つになっているので、全人的癒しがイエス様の中にあります。今日は復活の力とともに、それを受け取りたいと願います。素晴らしい福音です。

 同時に聖書が告げる福音は、「捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げる」という良い知らせがあります。

 先週は、大変心配な事件が起こりました。それは、イラクにて三人の日本人が武装勢力に捕まり、三日のうちに自衛隊が撤退しなければ、火であぶり殺すと脅したからです。そのことが全世界に報道され、三人が捕らえられている姿がずっと放映されていました。家族の方々にとっては、たいへん辛いと思います。三日後には、焼き殺されるかも知れないということで、心穏やかではなかったと思います。家族の方々はすぐに政府に陳情したり、一生懸命努力をしていました。

 しかし今朝、希望のニュースが入ってきました。私は、携帯電話にニュースが入るようにしています。夜中に携帯がなってもあまり気がつかないのですが、今朝方は気がつきました。「三人は二十四時間以内に解放される予定」というニュースが入ってきて、「良かった」と思いました。その方々が、解放されるようにと祈っていたので、そのニュースを聞いて感謝しました。「良い知らせだ!」と思いました。朝のニュースでは、昼までに解放されるようなことが言われていました(続けて祈りが必要ですが)。家族にとってその知らせは嬉しいと知らせです。息子娘が殺されないで生きて解放されることは嬉しいと思います。それは、他に比べることができない喜びです。

 「福音とは何か」というと、その中心は「捕らわれ人が解放される」ということです。旧約聖書が福音についてどのように説明しているかというと、イスラエルを題材にして説明しています。イスラエルは、かつてエジプトに四百三十年間も奴隷になりました。しかし、モーセという人物を通して、解放されました。その解放の喜びを「福音」と表現しています。

 またある時には、バビロニア帝国に捕囚されましたが、そこからも解放されました。それらを通して「福音」を説明しています。

 しかし、新約聖書に至って、「捕らわれ人が解放される」とは、何を表現しているのでしょうか。それは、目に見えない霊的な捕集として表現しています。目に見えない世界は、見える世界と一体となっており、エジプトとは、目に見えないサタンの王国の象徴でした。捕らわれ人が解放されるとは、暗闇から光に、サタンの支配から神の支配に移されることです。イエス・キリストを信じる時、目に見えない世界では大きな事件が起こっています。現実の世界では、ただ単に、「はい、イエス様を信じます」と簡単に告白するだけですが、目に見えない世界では、暗闇から光にサタンの支配下から、神の支配下に移されるという、すごい解放が起こっているのです。イエス・キリストを信じる前は、人間は悪魔の支配下にあるのです。まだ、イエス様を信じていない方がおられたら、言いたくないけれど言わなくてはなりません。「あなたは悪魔に支配されている!」

 そういわれると、嫌な気がすると思います。また、「イエス・キリストを信じる前は、あなたは悪魔の奴隷だったのですよ」と言われると、「私にかぎって、そんなことはありません」と言われるでしょう。

 しかし、本当の支配とは、受けていても気付かないのが本物の支配です。今日ここにおられる大多数が、日本人です。また、外国からの兄弟姉妹もおられます。ペルーやブラジル、アメリカ、中国、韓国など、各国から新城教会に来られています。しかし、私たちの国籍は天にあるので、現実では色々な国々の支配を受けていますが、関係ありません。しかし、この地上においては、日本人であれば、こうしている間にも、日本国政府の支配が及んでいます。「今朝起きたら、日本国政府の支配が強すぎて、頭がガンガンした」という人はおられますか。たぶんおられないと思います。そんなに支配は感じていないと思います。なにもかもが自由です。昼にカレーライスを注文したとたん携帯電話が鳴り、「もしもし、小泉です。カレーはやめなさい。カツ丼にしなさい。日本国経済を考えて、消費を活性化しなさい」とは言われません。何でも自由に行動できます。しかし、国の支配を受けている事がはっきりする時があります。それは国を出るときです。

 私は海外旅行が多いのですが、海外に行くときは切符だけではなく、必ず、パスポートの提示を要求されます。

 出国の列についたことがありますか?そこには出国の係官がいます。日本のイミグレーション(入国管理)の人たちは冷たい感じがします。話しかけても、話をしません。

 先日、アメリカに行ったら、アメリカのイミグレーションの係官は、とてもフレンドリーでした。緊張がほぐれます。パナマに向かう途中に、アメリカのアトランタで飛行機を乗り継ぎました。それでも、一度アメリカに入国しなければならないのです。入国管理事務所を通らなければなりません。テロの関係でチェックが厳しいのです。まずは入国の時に、緊張があります。私が緊張して入っていくと、係官は、「ハ〜イ。元気かい?どこに行くの。アメリカに何日間滞在するの。」と聞きました。私は、「三時間後には飛行機を乗り継いでパナマまで行くのです。」と言うと、「暑いところに行くのだね。ところで、近頃、アメリカに来たことがあるかい?」と聞かれました。「一月に、ワシントン州のヤキマに行きました。」と答えると、「あー。あの辺は寒い所だね。でも、今度は暖かいところに行くから良いね。」と言われました。たいへんフレンドリーな会話でした。

 しかし、それも入国審査官の策略でした。私がコンピューターの画面をちょっと覗くと、今まで私がアメリカに入国した履歴が全て表示されていました。私が嘘を言うのかどうかを、何気ない会話の中でチェックしていたのです。もしも私が、「近頃、アメリカに来たことあるか?」という質問に、「ありません」と答えたら、嘘になり入国できないところでした。私は真摯に答えて良かったと思いました。入国管理はフレンドリーにやっても、厳しくても、書類が不備ならば入国できないのです。そこで私は、はっきりと日本人であることを意識しました。

 同様に、私たちが、神の国の支配を受けているのか、悪魔の国の支配を受けているのか、はっきりと意識する時が来ます。それはいつでしょうか。それは、人生を終えて、出国する時です。やがて私たちは人生を終えて、出国します。多分、海外旅行の出国の列に似たのものがあると思います。何らかの書類を手にして、「神の国入国係官」の前に、並ばなければならない日が来ます。大勢の人が並んでいるのを見て、「世界では、一度に多くの人が死ぬものだ・・」と驚くことでしょう。たぶん係官の前に出るまでに、隣近所の人々と会話をすると思います。「あなたはどうして死んだのですか?」「私は心臓麻痺で突然死です。」「あなたは?」「私は交通事故です。」「あなたは?」「私はガンでした。」・・・と、色々、話をしながら神の係官の前に出ることと思います。そして、自分の持っている書類を、神の係官に見せなければなりません。そこには、人生の履歴が全て記入されています。神の前に出るには、罪があったら絶対に出ることはできません。

 人間は、どこの国の人でも、罪が何であるのか、はっきりわかっています。その基準が「良心」です。良心は不思議です。世界中、どこに行っても同じ基準です。「この国では人殺しは良いことだ。嘘をつくことは良いことだ」ということはありません。

 昨晩は、インターナショナルのグループの復活祭集会がありました。そこではパント・マイムがありました。罪を犯した人と、神を信じた人が登場しました。罪を犯した人の体には、色々な罪の名前が張られていました。「うそつき、泥棒、殺人、汚れ・・」など、全て、日本人と同じ基準でした。皆、どの国の人でもわかっているのです。一つの基準があるのです。罪を犯して垣根を越えると、「悪かった・・、罪を犯していた・・」と気づくのです。別に、教会に来て、聖書を学ばなくても悪いことをしたら、悪いと知っているのです。

 そして、罪があるならば、決して神の国には入国できないというのが聖書の教えです。しかし、イエス様が十字架にかかり死んで、復活してくださったことにより、罪が赦され、その結果として悪魔の支配から解放されます。悪魔は罪を台座にして支配を及ぼします。しかし、イエス様を信じることにより「罪なし」というスタンプがパスポートの上に押されるのです。私たちが神の国への出国ゲートを通るときに、「あなたは地上でたくさんの罪を犯しましたね。」と言われても、最後のページに、「すべての罪を赦す。イエス・キリスト」というスタンプがあったら、天国にはいることができます。過去にどのような罪があっても、イエス様が私たちの身代わりとなって自ら死なれ、よみがえってくださったことにより、人生の履歴には、「もはや罪なし」とされ、「入国を許可する」というスタンプが押されます。今日はそのスタンプを確認し、やがて神の国に入る者として、地上においても神の国を体験する者として生きていきたいと願います。

 イエス様が与えてくださったものは「良い知らせ」です。サタンの支配下から神の支配に移してくださいます。また、悪魔の攻撃に負けることのない人生を送らせてくださるのです。

 あなたも、主を信じて、二度と悪魔に負けない人生を送って下さい。今日は「良い知らせ」というテーマで、イエス様がこの地上に来て下さったことを学びました。イエス様はこの地上で悪霊に支配されている人々を解放し、病人を癒し、心傷ついた人を癒し、諸問題を解決してくださいました。そのことは現代においても起こるというのが聖書の教えです。今日はイエス様の力を体験したいと願い、祈っています。神の力に満たされ、永遠のいのちをいただいて帰っていただきたいと思います。一言お祈りします。


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