契約

2004.4.18(SUN)
新城教会 滝元 明師

旧約聖書 サムエル記 第二  23 章 1 節〜 5 節
これはダビデの最後のことばである。エッサイの子ダビデの告げたことば。高くあげられた者、ヤコブの神に油そそがれた者の告げたことば。イスラエルの麗しい歌。「主の霊は、私を通して語り、そのことばは、私の舌の上にある。イスラエルの神は仰せられた。イスラエルの岩は私に語られた。『義をもって人を治める者、神を恐れて治める者は、太陽の上る朝の光、雲一つない朝の光のようだ。雨の後に、地の若草を照らすようだ。』まことにわが家は、このように神とともにある。とこしえの契約が私に立てられているからだ。このすべては備えられ、また守られる。まことに神は、私の救いと願いとを、すべて、育て上げてくださる。

 ハレルヤ!今日ここで御言葉を取り次ぐことが出来ることを、感謝します。先週の復活祭はとても祝福され、礼拝に三五〇名が集まられたようです。私は、岐阜で奉仕しましたが、そちらも祝福され感謝しました。

 今日は「契約」というテーマで学びます。第二サムエル記二十三章一節に、

『これはダビデの最後のことばである。エッサイの子ダビデの告げたことば。高くあげられた者、ヤコブの神に油そそがれた者の告げたことば。イスラエルの麗しい歌。』

と記されています。これはダビデの最後の言葉です。ダビデは羊飼いでした。神様の選びによって、彼は王になりました。そして自分の子ソロモンに引き継ぐときに、最後の言葉として語ったのです。

 私たちには時々、問題や心配事があります。問題や心配事がある時は、どのようにして解決するのでしょうか。私は何か問題や心配事があると、家内と共に教会に来てお祈りします。そして、祈ったことに対して、神が答えてくださることを信じ、聖書を開いて読みます。私の聖書に、「二〇〇四年四月八日牧師室」と書かれているのが、第二サムエル記二三章の御言葉です。最近、神様から与えられた御言葉であり、私は感謝しています。この御言葉を紙に記して、ベットのどころに貼っています。この御言葉をイエス様がくださり、私を励ましてくださいました。私たちの信仰生活の土台は、神の言葉です。誰かに祈ってもらうことも大切ですが、問題があったときはまず神の前に出て祈ることです。神様は生きておられるので、答えてくださいます。今日の御言葉はダビデの最後の言葉なので、ダビデが長い人生を振り返って語った言葉です。ダビデは羊飼いをしていました。神様はサムエルを通して、ダビデに油を注がれました。しかしそれまでダビデには、色々な境遇がありました。彼は七年間、サウル王に殺されそうになり逃げていました。色々な苦しみに遭いました。ダビデはやがて王になりましたが、最後に不幸な問題に遭っています。彼は、ウリヤの妻バテシバを横取りしたという罪を犯し、それがもとで苦しみに遭っています。しかし、最終的には、その罪が赦され祝福を受けています。彼の人生には、色々な戦いや苦しみがありましたが、彼が最後に語った言葉が第二サムエル記二十三章三節から五節にあります。

『イスラエルの神は仰せられた。イスラエルの岩は私に語られた。『義をもって人を治める者、神を恐れて治める者は、太陽の上る朝の光、雲一つない朝の光のようだ。雨の後に、地の若草を照らすようだ。』まことにわが家は、このように神とともにある。とこしえの契約が私に立てられているからだ。』

 ダビデは苦しいところを通って「ここにあることはとこしえの契約が立てられているからだ。私の家は、神とともにある」と確信をもって語りました。

 私たちも、神とともにあること、神がとこしえの契約を私たちのために立ててくださっていると確信しなければなりません。三節に、

『イスラエルの神は仰せられた。イスラエルの岩は私に語られた。『義をもって人を治める者、神を恐れて治める者は、』

と記されています。「私は王になったが、義を持って治めてきた」と語っています。ダビデは人生の苦しみを通りながら、「義を持って治める者」と記されています。彼は神の前に正しい生活をし、神を恐れて生活をしました。そのことによって神は契約を忘れず、祝福を与えてくださったと表現されています。「神を恐れて治める者」を、ダビデの言葉ではなく、自分への言葉として受け取ってみてください。家族を治める者、子どもを治める者、職場などで責任を持つことは「治める者」です。皆さんが責任を持ったら、その領域で治める者となります。もしも皆さんが、義を持って治めることができたら、必ず祝福されます。そうすれば、神が家に共にいてくださるという約束です。

 ダビデは随分失敗をしました。ウリヤを殺したり悪いことをしました。しかし「義」とは、当然、死ぬべき者であったのに、神の憐れみによって罪が赦されるところにあります。神によって罪が赦されたものは幸いであり、神を恐れる人生が大切です。私たちは子どもを育てるために、正しく教えることが大切です。今の時代は、道徳の規準がないので、はっきりと聖書から子どもたちに教えることが大切です。テレビを見ると滅茶苦茶です。多くの基準が、テレビなどの影響にあります。しかしクリスチャンは、聖書を基本にし、毎週礼拝に来て神の義を学んで正しい生活をし、悪を家に入れないという考えが必要です。また神を恐れていくことが大切です。「主を恐れることは、知識のはじまり。」と聖書に書かれているので、子どもたちがいつでも主を恐れるように教えることが大切です。

 神が今日まで祝福してくださったことを、どのように表現しようかというとき、四節、『太陽の上る朝の光、雲一つない朝の光のようだ。』と記されています。イエス様を信じたら、必ず素晴らしい人生を持つことが出来ます。「雨の後に、地の若草を照らすようだ。」と記されています。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます」という御言葉があるように、あなたがクリスチャンになったことは、必ず神様が家族を祝福し、それを継承して下さるのです。御言葉を持って信仰を持っていきましょう。「とこしえの契約が私に立てられているからだ」と記されていますが、神様は契約を守られるお方です。神には絶対に偽りはありません。一つの偽りもありません。私たちが信じている神様は、絶対に嘘を言われません。信じましょう。この世の中の約束は、時々破られることがあります。

 私の幼少期からの友だちが二人程おり、仲の良い友でした。私たちは一つの約束をしました。私たちは死ぬまで友達でいよう。結婚するときには、親に話さないうちに教えあおう、と約束しました。私は東京に行き、家内に会って結婚が決まった時に、まず約束を守るために親にも言わず、友だちの家に行き話しました。

 すると数日が経ってから、私の母が怒りました。「ばか小僧、お前のことを村中が知っているぞ。」

 私は何が起こったのかと思い訪ねると、「東京のババーと結婚すると言って・・・」と言うのです。私は、誰が言ったのだろうかと考えましたが、私が信用した友だちだとわかりました。悪いことを言ったのではありませんが、何となく裏切られたようにも感じました。

 今、「リバイバル聖書神学校」を建設しています。そのために、銀行から融資を受けています。融資を受けるときは、保証人が必要です。それには契約書があります。署名をして判を押します。これは契約です。破ってはいけません。必ず、契約は守らなければなりません。しかしそれでも、人間の契約は時々破られますが、神様だけは絶対に契約を破られません。旧約聖書は、神のことを色々な言葉で呼んでいます。「アドナイ=神は契約を守られる方」と書かれています。今日は絶対に契約を守られる方と、契約を結んでください。「わたしは世の終わりまであなたと一緒にいる」と神様が語っておられます。しかし時々、私たちに苦しいことがあると、「イエス様なぜだろうか。イエス様なんて本当にいるだろうか。」と疑います。「なぜイエス様を信じているのに、こんなことがあるのだろうか」と思います。神様のテストがあります。動揺することがあります。「どのようにわたしを信頼して、信じているか」と神様は臨まれます。ですから、よく神を信じ、信頼しなければなりません。神を信頼することによって、私たちは素晴らしい人生を歩むことができます。ダビデには、とこしえの素晴らしい契約が神から与えられました。

 彼が王になったときに考えました。「自分はこんなに立派な家に住んでいるのに、神の家は天幕の上ある。そうだこれではいけない。神の宮を建てよう」と言い、預言者に話しました。預言者は「素晴らしい」と言い、そのことを神に祈ったときに、「あなたは多くの血を流したから、あなたは建てられない。しかし、あなたの息子が神殿を建てる」と言われました。神様はこのことを喜ばれ、神があなたの子孫を祝福すると言われました。ですから聖書は「アブラハムの子、ダビデの子であるイエス・キリストの系図」と記しています。また、「他に名前がないような、大いなる祝福を与える」と言われました。だから、どん底の中でダビデは神様の約束を覚えて信頼しました。神様との契約を思い出していました。これから家庭の中に色々な問題があっても、神様との契約を思い出してください。創世記十七章一節から二節に、

『アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」』

と記されてます。アブラムと神様が契約を結びました。「わたしはわたしの契約をあなたとの間に立てる」と約束されました。だから神様はアブラムを祝福されました。時々、私たちの人生は約束が必要です。結婚生活は契約が必要です。

 教会で結婚された方は牧師の前で質問されます。「あなたは富めるときも、貧しいときもこの男性と結婚し、貞節を守ることを誓いますか?」「はい、誓います」と言います。これはただ前に出て「誓います」と言うだけですが、神の前に契約を結んでいるのです。だから結婚した人は、神の前に契約が結ばれています。マラキ書二章十四節から十五節に、

『「なぜなのか。」とあなたがたは言う。それは主が、あなたとあなたの若い時の妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。神は人を一体に造られたのではないか。彼には、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。あなたの若い時の妻を裏切ってはならない。』

と記されています。最近、世の中では簡単に離婚します。しかし神の前にかわす誓約には緊張感があります。その間にいる証人は神です。結婚も契約です。このような方はいないと思いますが、皆さんの中で奥さんに不満を持っている方はいますか。また、「こんな主人」と思ってはいけません。そのような方は思いを変えて、このような素晴らしい男性、素晴らしい女性、最高のパートナーが与えられたと、心に留めて愛し合うべきです。悪口を言ったり、不満を持つことなく、最高の夫婦であると心に留めて歩むべきです。神の前に、契約が与えられたと信じなければなりません。

 クリスチャンでも問題を通って離婚された方がおられるかも知れませんが、仲直りして、一緒になれたら素晴らしいです。またヨブ記に、三十一章一節に、

『私は自分の目と契約を結んだ。どうしておとめに目を留めよう。』

と記されています。先日は、大学院の先生が女子生徒のスカートを覗いて逮捕されたという事件がありました。恥ずかしいことです。警察官も裁判官も刑事でも、悪いことをします。新しく生まれ変わらなければ、どんなに教養があって立派でも、罪を犯します。だから、ヨブのように契約を結んでいることは大切です。これから、契約について考える必要があります。

 今度、沖縄でミッションがあります。ある意味で、沖縄のミッションは長い戦いです。七月四日頃からずっと集会がある予定です。五月には総決起大会があります。私は、九月二十一日に引っ越して、十一月まで沖縄に住み込んで集会をします。十月中、全部予定が入っています。私は自分のことを考えると、若いとは言えません。壮年かと思うとそうでもなく、熟年かというとそうでもなく、老人でもないと思っています。しかし、年から言うと医療保険をもらっているので、老人だと思います。私は、今、七十五才です。沖縄で二ヶ月、毎日メッセージをすることを普通に考えると、心配になると思います。だからイエス様にお祈りしました。「イエス様、力をください。主のために健康が与えられて福音を語ることができますように」と祈りました。その時に、イザヤ書四十六章四節の御言葉が与えられました。

『あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。』

 私は時々、一九九三年の甲子園ミッションのビデオを見ます。私の髪の毛が黒々としています。最近鏡を見ると、白髪が随分あります。しかし、この御言葉は素晴らしいです。

『あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。』

と記されています。少しくらい年をとっても、白髪になっても「大丈夫だ心配するな」と言われています。私は早天祈祷会でお祈りするとき、必ず、「全能の父なる神様。あなたをほめたたえます。救い主であり、父の御座に座している神様。真理の神様、聖霊なる神様、ほめたたえます」と神を賛美します。そしてお祈りするときに、時々、自分に与えられた契約を神の前に話します。「イエス様。私が伝道に入ったときに田口で、「われさらに汝を去らじ、汝を捨てじ。決してあなたを見放さない。見捨てない」と語られましたが、五十何年間、神様は私を見捨てられませんでした。私に、イエス様が与えてくださった御言葉に、「われ必ず汝を恵み、恵まん。増やし増やさん。」とアブラハムに語られた約束を、私にしてくださったように、今日までこのように祝福してくださったことを感謝しています。「アブラハムの晩年は祝福されました。すべての面で祝福されたと書かれていますので、私も、同じように祝福してください。私も約束をありがとうございます。」とお祈りします。

 最近私は、悔い改めたことがあります。私の書いた『甲子園への道』という本があります。今は絶版になっていますが、その中に、一九九〇年代に私を通して神様が奇跡を行ってくださったことについて書いています。

 一九九〇年二月二十一日から二十五日まで家内とともに台湾に行きました。一人の赤ちゃんを抱いた奥さんが迎えてきてくださいました。「滝元先生、久しぶりです。恋人を待つような気持ちで待っていました」と喜んで言われました。「先生。私を覚えていますか?」と言われました。私は「見たことがあるような無いような・・・?」と言いました。彼女は四年前に結婚して、間もなく主人が亡くなり、失望のどん底にあるときに、首の骨の異常で手足が動かなくなり、医者には「これは一生直らない」と言われたそうです。一九九〇年に友だちから手紙が来たそうです。北海道でリバイバル聖会があるけれど、その時の講師が滝元明という先生です。この先生は、癒しの賜物が神から与えられているので、お祈りしてもらったら直るから来なさい、と言われたそうです。そして彼女は、北海道に来ました。雪がすごかったです。癒しの話はしませんでしたが、最後の日に皆で手を置いて祈りました。祈った途端に、その病気が完全に治ったそうです。そしてその年の十一月に、北京に遊びに行くと、北京で奥さんを失ったクリスチャン男性と出会い、結婚されたそうです。そして今は台湾で大きな自動車会社の工場長をしているそうです。

 私が悔い改めたことは、『甲子園への道』の本文に「その時に癒しの賜物を持った滝元が来るからと・・・」書いたところにカッコして「私はそうはおもっていませんが」と注釈をつけていました。これははっきり言うと、偽りになると思いました。

 私が伝道に入ったときに、津具の簀の子の家で聖霊が激しく臨まれたとき、イエス様が声をかけられました。「お前に癒しの賜物を与えた」それから病人のために祈ったら、多くの人が癒されました。しかし今回、「私はそう思っていませんが」というところを『甲子園への道』から削除しました。

 また一九九一年十一月三十日に札幌の愛鈴チャペルに行きました。その決起大会に、何人かの先生方が来られてメッセージをしました。私もメッセージをしました。エペソ書一章十九節の御言葉からでした。

『また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。』

「神にとって信じたら何でもできる。信じなさい」と説教しました。集会が終わってから、お茶の準備がされ、そこに行こうと思いました。すると、「滝元先生、祈って欲しい方がいるので来ていただけませんか。」と言われました。交通事故で脊髄損傷を負い、五年間歩いたことがないといわれる方がいました。私は不信仰なところがあり、「姉妹、間もなくイエス様が再臨します。その時にはイエス様を信じていれば復活できるよ」と話ました。しかし、初めて来た人にこんな話をして悪いと思い、悔い改めて「イエス様は生きているので祈ってあげる。信じる者に働く神の力があるから」と言って祈りました。彼女に手を置くと、憐れみの心が来ました。自分の娘がこんな姿になったら、悲しいという思いが与えられました。「イエス様。この方が一生涯、このままでは可哀想なので癒してあげて下さい。」と祈りました。そして一階に行き、お茶を飲んでいました。ケーキを勧められ食べようと思った瞬間、一人の女性が「ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!」と叫んでいるのが聞こえました。「騒がしい教会だな」と思っていると、「先生!あの方が立って歩き出した!!」と言いました。「えっ?本当?」お茶やケーキは忘れて、皆は立ち上がり見に行きました。彼女はおいおい泣き、「先生、立てるようになりました。見てください。」彼女は立ち上がりました。そして歩きました。歩いて私の所まで来ました。私は「私ではない、神様だよ。」と言いました。これは契約です。私という土の器に、主は、苦しみの中で「お前に癒しの賜物を与えた」と語られました。たくさんの奇跡が現されましたが、「私はそうは思っていませんが・・・」という言葉は問題です。神の約束を拒んで「嘘だ?」と疑うことはいけないと思いました。

 今日は病気の方のために、信じる人のためにお祈りします。信じる人に神様が働いてくださいます。ですから信仰を持ちましょう。今日はこれから契約の時を持ちます。マタイの福音書二十六章二十六節から二十八節に、

『また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。』

 ここに聖餐式について書かれています。赦されることを信じなければなりません。契約の血です。昔は血判でした。しかし、イエス様は十字架の血潮を流して死んでくださいました。これは新しい契約の血です。あなたがたの罪を赦すためのものです。今日は罪が赦されることはイエス・キリストが代わりに十字架にかかられて死んでくださったのです。絶対に嘘を言われない神様が言われていることを信じますか。信じられないというのではいけません。誰かが不真実であっても、神は真実であると信じてください。必ず素晴らしい人生を送ることができます。これから聖餐式がありますが、信仰を持ちましょう。第一コリント十一章二十三節から二十五節に、

『私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」』

 クリスチャンには、イエス様を信じたら神の子となる契約が与えられています。「彼を信じる者は神の子となる特権をお与えになった。」という御言葉があります。神様の前で「主よ。憐れんでください。助けてください。私は駄目です」と言わなくても良いのです。「イエス様。あなたの十字架の血で私は神様の子です。あなたの子ですから、祈りを聞いてください。」と祈ることです。イエス様は十字架の血で私と契約を結んでくださいました。この契約があります。「私のためにイエス様が血を流してくださったことを信じます」と信じてください。素晴らしい人生を送ることができます。第二サムエル記二十三章三節から五節に、

『イスラエルの神は仰せられた。イスラエルの岩は私に語られた。『義をもって人を治める者、神を恐れて治める者は、太陽の上る朝の光、雲一つない朝の光のようだ。雨の後に、地の若草を照らすようだ。』まことにわが家は、このように神とともにある。』

この御言葉を宣言しましょう。

『まことにわが家は、このように神とともにある。』

 何があっても私の家はイエス様を信じる、という信仰を持ってください。神様は本気で信じる人を祝福してくださいます。疑い深い人ではなく、本気で神を信じましょう。


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