主の御名によって歩む

2004.4.25(SUN)
新城教会 滝元 順師

旧約聖書 ミカ書 4 章 5 節
まことに、すべての国々の民は、おのおの自分の神の名によって歩む。しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の御名によって歩もう。

 ハレルヤ!今日このように、礼拝にて御言葉を取り次ぐことができて感謝します。初めて教会に来られた方も、おられるかと思います。教会は、異文化体験と思われるかもしれませんが、神と交わる素晴らしいひとときです。ぜひ続けてお越し下さい。

 だれにでも、食べず嫌いというのがあります。本当は美味しいのに、初めからの悪いイメージがあって、食べずに損をしているものがあると思います。キリスト教も案外、日本人にとっては食べず嫌いの領域です。「あんな外国の宗教・・・」と言います。

 実は先週の土日、私は熊本の人吉というところで奉仕ししました。そこから帰ってきて、すぐに中国の北京に行きました。なぜなら、私が担当している、「霊的戦いの諸相」という授業の中で、北京のとりなしについて話しました。それを聞いた神学生たちが、ぜひ、中国に行きたいということになり、私を含め十七名が北京に行きました。

 中国と日本には、深いつながりがあります。たいへんつながりが深いので、日本のためには、中国についても知り、祈る必要があります。中国では文字表記が漢字です。ですから、日本人は案外過ごしやすいと思います。発音は違いますが、意味は同じです。そこには日本のルーツがあるように感じます。

 また、中国に行けば、中華料理です。中国人の味覚は鋭く、日本人が食べないようなものまで食べます。ダックや鶏は頭から足の先まで、残すところなく食べます。今回の食事に、鶏の足が出されました。それを見て、皆は食べようとしないのです。私が、「この足は色々なものを踏んだだろうな。いくら洗っても、染み込んでいるのだろうなあ。」などと言うと、さらに皆は手を出しませんでした。しかし私は、ワイルドに育ったので、何ともありません。皆の前でとって食べました。すると大へん美味しいのです。もっちりしていて美味しかったです。私が「美味しい!」と言うと、皆は、「本当に食べれるのか・・」という顔をしながら、恐る恐る手を出しました。

 私は、「今日は必ず、食べなければいけない」と言いました。「なぜなら、私たちが中国にきた目的がここにあるから・・・」と言いました。「今回、私たちは、とりなし、トリナシ、鳥の足・・・・(笑)だから皆食べなきゃあ・・・」「・・あっ、そっそうか・・・」と言って食べました。

 食べてみて、以外と美味しいものがたくさんあります。教会も、味わってみて初めて「素晴らしい!」というところがあります。イエス様を味わうことは、素晴らしいです。

『まことに、すべての国々の民は、おのおの自分の神の名によって歩む。しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の御名によって歩もう。』

 国々にはそれぞれの神の名があり、その名によって歩んでいます。日本は神社や仏閣が中心です。神社を突き詰めていくと、一つの名前に行き着きます。それは、「天照」です。中国にも、私たちの知らない神々の名が多くあります。人は色々な神々の名前を使っていますが、「私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の御名によって歩もう。」とあります。

 「クリスチャンになるのは難しい」と考えている人がいると思いますが、難しいことはありません。今まで拝んできた神々の名をおいて、「主の御名によって歩む」ことです。それが「クリスチャン生活」です。今まで色々な名前を使って来たかも知れませんが、「イエス様の名」によって歩むときに、人生が変えられるのです。

 誰にでも祈り心があります。チャールズ・ダーウィンが進化論を発表し、今でもその影響が強くあります。しかし、彼は研究によって、一つの結論に達したそうです。それは、「祈らない国民はいない」ということでした。世界中の人々が祈るそうです。そして、彼も祈っていました。その時点で、進化論は崩れています。人には、神に祈りたいという気持ちがあります。今まで、一度も祈ったことがないという人はいないと思います。何か困ったことがあったら、神に祈ります。私たちは真剣に神により頼み祈ります。これは人間である証拠であり、本能的なことです。どこかに神がおられるから祈るのです。けれども世界中に、神々と言われる存在が多くあっても、クリスチャンとは、「私たちは主の御名によって歩む」人々です。「主」というお方は、天地宇宙を造られた「ただ一人の神」です。私たちは主の名・イエス様の名によって歩む、イエス様の名によってのみ祈るのです。そうすれば、父なる神の元に祈りが届くのです。クリスチャンになることは難しくありません。主の名・イエス様の御名によって歩み出すならば、すでにあなたは真理の道に入っているのです。

 使徒の働き四章十二節に、

『この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」』

と記されています。救われる名はイエス以外にありません。

 今まで色々な名前で祈ったかも知れませんが、それらを置いて、イエス様の名前にかけて下さい。そうすれば、あなたの人生が変わります。私たちクリスチャンは、主の御名によって生きる集団です。イエス様の名に力があります。

 現実の世界においても、名前に力があることを体験します。誰かと知り合うと、その人の名前を知ります。そしてその名前で、その人と再びつながることができます。教会に来て、誰かと友達になったら、「 ○○ さん」と名前を呼びます。そうすると、続けてコンタクトできます。私たちも、イエス様と知り合いになると、イエス様の名前を使うことができます。そしてその名前には、力があります。

 最近では難しいですが、昔は、会社に入るときに、ある人の名前で入れる時代がありました。

 私は一年間、某市役所で働いたことがあります。私はちゃんと入社試験を受けて入ったのですが、一緒に入った人たちの中に、「この人は本当にテストを受けて入ったのだろうか・・」と思うような人がいました。すると、「あの人は、市会議員の名前を使って入った・・・」というような噂がありました。名前は偉大だと思いました。しかし宇宙で一番優れた、パワフルな名前は「イエス様」です。この方とはイエス様です。「イエス・キリスト以外には、誰によっても救いはありません。世界中でこの御名の他には、私たちが救われるべき名としては、どのような名も人間には与えられていないからです。」

 イエス様の名前を使い、イエス様の名の権威であなたは一生過ごすことが出来るのです。

 この名前の権威は、どこに対して発せられるのかというと、それは、見える世界ではなく、「見えない世界」に対して発せられるものです。

 目に見える領域だけではなく、見えない世界があり、そこに本質があります。見えない世界が、見える世界と同時存在しています。私たちがこうしている中にも、空中には、目に見えない電波が走っています。電波は見えたり聞こえたりはしません。聞こえたり見えたら大変なことです。無数の携帯電話の声や、画像さえもが空中を飛び交っている時代です。受像機や受信機を持ってくるなら、それらを受信できます。

 目に見えない霊的世界があります。そこには神様がおられます。しかし同時に、暗闇の世界もあります。人間がいくら努力しても、良い世界ができないのは、人間社会を壊そうとして、日夜働いている見えない敵がいるのです。このようにしている間にも、暗闇の世界が私たちの周りにあります。あなたを狙っている悪魔の力があります。それに打ち勝つためには、権威が必要です。それがイエス様の名前です。あなたはその名前で、見えない世界で勝利できるのです。今週も、主の御名の権威によって歩んでいくならば、あなたの人生を、誰も脅かすことは出来ません。食わず嫌いではなく、「試してみて下さい」と聖書は教えています。クリスチャンは、色々なことがあったら、まず目に見えない世界に住んでおられる、イエス様に祈ります。同時に、イエス様の名前の権威で、周りに悪い環境をもたらす暗闇の世界に権威を宣言します。その時に、私たちは色々な危険や、わざわいから守られるのです。普段うまくいかないことも、イエス様の名によってうまく行きます。

 数年前にイラン人の男性がイエス様を信じ、バプテスマを受けました。イラン人がバプテスマを受けることは大変です。イスラムの人はイスラム法があり、生まれながらの宗教を一生守らなければなりません。改宗したら死刑です。だから彼がクリスチャンになったのは、大きなことでした。彼のバプテスマは、忘れることができません。彼はバプテスマの時に、イスラム教の教典コーランを持ってきて、皆の前で焼き捨てました。それは命がけでした。しかし彼はイエス様が本物の神であることがわかったので、イスラム神を捨てて、イエス様だけにしました。

 現在、イスラムを中心に、世界が揺れています。破壊の力が後ろに潜んでいます。彼はイエス様が神であることがわかり、イエス様を信じました。奥さんはブラジル人でした。奥さんは妊娠して、出産のためにブラジルに帰らなければなりませんでした。しかし彼の方はクリスチャンになるまで、良い仕事をしていませんでした。違法就労でビザもなく、五年以上日本で過ごしていました。しかし彼はイエス様を信じ、奥さんもクリスチャンになったので、正直に、入国事務所に出頭しました。「今度、家内がブラジルに帰るので、私も帰らせて下さい」というと、「それは駄目だ。今から、強制送還だ」と言われたそうです。私はそれを聞いて慌てました。クリスチャンになって、イランに強制送還されたら、殺されてしまいます。私は一枚の書類を作り、入国管理事務所に持たせました。

 「彼はクリスチャンになったから、ぜひイランに強制送還させないで下さい。殺されてしまうかもしれないから」と嘆願文を書き、そこに権威ある名前、「新城教会牧師、滝元順」とサインしました。彼が入国管理事務所にその書類を持っていくと、「滝元順?誰だこれは・・・。こんな名前は通用しない」と駄目でした。

 しかし彼が出頭する前に、私たちはパスポートの上に手を置いて祈りました。世界の上に立っておられる、偉大なイエス様の名前で祈りました。そして奇跡が起こったのです。

 入国管理事務所の係官が、私の書類を見ているときに、ロビーのテレビでは、ニュースが流れていました。それは、近頃、イランでクリスチャンが殺されているというものでした。それを係官が見て、「ちょっと待って下さい。」と奧に入っていきました。

 しばらくして、係官は新しい書類を手に出て来ました。それは、「第三国に出国を許可する」という書類でした。彼は何の問題もなく、つながれることもなく、喜んで日本から出国していきました。そして今は、ブラジルに住んでいます。

 イエス様の名前で祈るときに、奇跡が起こるのです。イエス様の名前は、すべての主権の上にある名前です。イエス様の名前を使うならば、困難な状況の中から、脱出することができると聖書は教えています。

 「私もクリスチャンになりたいけれど、どうやったら信じることができるのですか、」言う人が多くおられます。イエス様を信じたいけど、「信じるって何ですか」と言われます。信じるにはレベルの差があります。「これくらいかな、まだかな、もっと・・・」と、どのレベルに達したときに救われるのだろうか、と思います。日本人は特に、難行苦行という背景があるので、一生懸命努力しなければ救われないような心境になります。

 しかし、信じる基準について聖書は、ローマ人への手紙十章九節から十二節に、

『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。』

 救われるために必要なのは、「告白する」ことです。信じる最小単位は、「告白」です。「イエス様を信じます」と前向きな姿勢で告白したら、あなたは救われるのです。信じていなければ、口には出せません。例えば、クリスチャンは間違っても「釈迦は救い主です」とは言えません。今私は、便宜上言いましたが、前向きな姿勢で、「釈迦は救いです」とは言えません。救い主だと思えないので、口が裂けても言えません。しかし、「イエス様は救い主だ」とは言えます。

 教会に来て、「もしかしたら、イエス様は救い主かも知れない・・」と思ったら、「イエス様、私を救って下さい」と、前向きな姿勢で告白できれば、聖書の約束によれば、あなたは救われるのです。神があなたに手を伸ばされます。

 「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」とは、簡単なことです。難しいことは何もありません。

 イエス様が十字架につけられた時に、左右には強盗がつけられました。その強盗たちはイエス様を罵っていました。「お前が本当に神の子であれば、十字架からおりてみろ・・・」と言っていました。しかし、もう一方の強盗がイエス様の姿を見て、「これはただ者ではない・・」と途中で気づき、イエス様に呼びかけました。「あなたが天国に行くときには、私も連れて行ってください」

 するとイエス様は強盗を睨んで、「お前は何を言っているんだ。舌が渇かないうちに今度は救ってくれだと。お前なんか救ってやるものか・・・」とは言われませんでした。「今日、あなたはわたしとともにパラダイスにあります」と言われました。

 「お前は献金したか。教会で何か仕事をしたか。論外だ。救ってやらん!」とは言われませんでした。「今日あなたは、わたしとともにパラダイスにあります」と言われました。彼は何の努力もしませんでした。ただ、「イエス様。私を忘れないで下さい。私を救って下さい」とイエス様に声をかけただけでした。

 今日ここにおられる方々、救われるためには難しくはありません。イエス様の名前を呼び求めるだけで、救われるのです。その力強い名前を使うことができます。「だれでも主の御名を呼び求める者は救われます。」「イエス様を信じます!」と告白しましょう。今週もイエス様の名を呼び求めましょう。

 さて、「救い」とはなんでしょう。教会に来ると救いと言いますが、具体的に救いとは、そもそも、何でしょうか。マルコの福音書十六章十五節と十六節に、

『それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。』

とあります。ここには、信じて「バプテスマを受ける者は救われる」と書かれています。信じるだけで救われると言われたけれど、なぜ、バプテスマを受けなければいけないのか、と混乱するかも知れません。しかし、救いとバプテスマには関係があります。

 今日は四名の方々がバプテスマを受けます。信じてバプテスマを受ける者は救われるのです。(その意味については後ほど話します)

 救いとは何か、と思うかもしれません。旧約聖書における救いとは、エジプトの国から救出されたとか、バビロンから救われたという、「敵の手からの解放」をテーマとして述べられています。旧約聖書では、実際の奴隷からの解放でしたが、続く新約聖書では、見える世界ではなく、見えない世界における敵の手からの解放につながっています。救いとは、敵の手、すなわち、悪魔の支配下からの解放であり、神の支配下に移されることだと教えています。その救いの中身について続いて述べられています。

 マルコの福音書十六章十六節から十八節に、

『信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」』

 すなわち、「わたしの名によって悪霊を追い出し・・」と約束されています。それは、暗闇から光に、サタンの支配から神の支配に移される事であり、「支配権の移転」です。まず、私たちが口で告白するときに、所有権が移転します。

 土地の売買は、所有権が移転されて初めて成立します。生まれながらの人間は、悪魔に所有権があります。しかし私たちが「イエス様を信じます」と告白して祈るときに、所有権が悪魔の手から、神様の手に移されるのです。目に見えない世界が映るテレビでもあったら、すごいと思います。ドラえもんにでも頼んで、見えない世界テレビでも出してもらえたら、おもしろいと思います。誰かが、「イエス様を信じます!」と告白した途端、悪魔の世界から神の世界へと所有権が移転されるのです。

 しかし地上にいる私たちは、所有権移転についてあまり実感が伴いません。皆さんはイエス様を信じた後も、「本当に悪魔の支配から、神の支配になったのかなあ・・・。あまり実感が伴わないな」と言われるかも知れません。実感は伴っても伴わなくても良いのです。イエス様を信じたときに、確実に所有権が移転されています。それは約束です。しかし、それがはっきりと気付くのは、国を出るときです。

 現実の世界でも、海外旅行に行くときに、日本人であるという立場がはっきりします。同様に、私たちが地上の人生を終えて、地上から出ていくときに、悪魔の支配下か、または神の支配下かが、はっきりとわかります。

  今回、中国に行く予定を立てましたが、中国語ができないので困っていました。しかし神学生の中に、中国語ができる人がいました。その人は、台湾生まれで、日本人と結婚し、帰化して現在は日本国籍になりました。その人が一緒に行って通訳して下さいました。彼女を見て、「本当にあの人は、日本人かな」と思うくらい中国語が上手でした。しかし、彼女は赤い表紙の日本パスポートで、一緒に行動しました。中国人が彼女に驚いていました。台湾と中国の間には緊張関係があり、台湾人は中国に入ることが難しいのです。そして、中国において「私は台湾人です」と公然と語るのは難しい面があります。彼女は、そのような微妙なところは、ぼかしていました。

 すると、私のところに中国人が片言の英語で聞いてきました。「彼女は何であんなに中国語が出来るのだ。まったく中国人と同じだ」

 私は、「あの人は、むかしは台湾人だったけれど、今は日本人です。」と言ってあげました。すると中国人は納得していました。

 私たちも同じなのです。イエス様を信じると、所有件が悪魔の支配から、神の支配に移されます。見たところは変わっていないように思うけれど、国籍が変わっています。通常、台湾国籍の人は中国には入れません。しかし、彼女が日本の国籍になって初めて中国に入れたように、かつて、私たちは悪魔の領域に属していたので、神の領域にはいることができませんでしたが、国籍が変えられて、神の国に入ることができるのです。

 やがて人生を終えて、地上から去っていくときにわかります。「イエス様を信じていて本当に良かった!」

 「わたしの名によって悪霊を追い出し・・・」と書かれていますが、救いとは、悪魔の支配下から、神の支配下に移されることなのです。

 次に、「新しい言葉を語る」と書かれています。これはどのような意味があるのでしょうか。そこには、いろいろな意味がありますが、今日は、「権威ある言葉を語る」と言う意味で話します。

 主を信じる前までは、イエス様の権威の裏盾がなかったために、悪魔に対して権威がありませんでした。悪魔に対して、「おれは滝元順だ!」と言っても、「お前の名前には、何も意味もない」というのが、イエス様を信じたら、「私は滝元順だ」と言うと、「お前はイエスの名の権威を帯びている、主の御名によって語っているから、近づけない」と言うのです。イエス様の御名とともに生きることは、「新しい言葉を語る」権威です。

 次に「蛇をもつかみ・・・」と教えています。これはどういう意味かというと、国籍が変わっても、住んでいるこの世は暗闇の悪魔の支配下です。

 「神がおられるのに、なぜ、こんな世の中なのですか。」と言われるかも知れません。なぜ世界が混乱だらけかというと、「この世は悪魔の支配下」にあるからです。地球は悪魔の支配下にあるから、混乱だらけなのです。国連が動いても、戦争は止められません。イラクをよくしようと、自衛隊を派遣しても意志が通じません。毎日のようにテロがあり、多くの人が死んでいく状況です。なぜならば、地球は悪魔の支配下にあるからです。だからこのような状況なのです。この地上で過ごす期間は、神の国の国籍を持ちながら、暗闇の世界に生きているのです。丁度、大使館が他国にあるのと同様です。今、イラクにも日本大使館があります。大使館員たちは、常にいのちの危険があり大変だと思います。ある意味で、私たちの人生も同じようだと思います。神の国の大使館は、敵国のただ中で活動しているのです。敵の最中に神の拠点があるのです。ですから、私たち神の国の大使達は、注意深く行動しなければなりません。もしも暗闇の国の支配の法則に触れるならば、影響を受けます。

 聖書は、罪について教えています。「教会に行っても良いけど、行動の規制があるから嫌だ」と言う人がいます。しかしそれは自分たちを束縛するものではなく、私たちが安全に生きるためのガイドラインです。車の運転も、道路交通法があり、それを守って運転しなければ事故に遭います。皆が交通法規を守っていたら、事故が起こる確率はたいへん低くなります。それと同様に、地上において越えてはならない線と基準があります。それについて聖書は教えています。私たちが罪を犯すなら、蛇の束縛に遭います。ある人は罪により、肉体を蛇に巻き付かれています。また、心を蛇に巻かれている人もいるかも知れません。霊の世界において、そうかも知れません。しかし私たちがイエス様を信じるときに、罪の指摘だけではなく「罪の赦し」があります。

 「蛇をもつかみ出し」とは何でしょうか。それは、私たちの罪が赦され、今まで、罪の束縛を与えていた蛇をつかみ出し、踏みつける権威が与えられるのです。それが、イエス様の名前の中にあると教えています。礼拝はある意味で、自分を点検するときでもあります。イエス様の前に出て、「私の罪を赦して下さい。蛇に巻きつかれていたら、蛇をつかみ出し、踏みつぶして下さい。」と祈ります。今日、霊も肉も魂も、すべて蛇の束縛から解放されましょう。

 不思議なことに、どの国に行っても同じ罪に対する、基準が備わっています。特定の宗教に入らなくても、生まれたままの人間には、同じ道徳の規準が備わっています。誰にでも、罪を罪として認識する機能が与えられています。盗んだら悪いとわかっています。なぜかと言うと、神があらかじめ罪に該当する事柄を判断できるように、心に書き込んだからです。「良心」という言葉は、ギリシア語では「神とともに知る心」という意味があるそうです。神が悪いと言われることは、良心も悪いと感じるのです。毎日の生活の中で、「これは悪いことだな」と感じる事柄は、神の声です。私たちは神の声に忠実に生きるべきです。それを突っ切って、越えてしまうと、蛇の束縛に遭います。

 しかし聖書は、それを解いてあげる。イエス様の名に解く権威があると教えています。

 続いて「たとえ毒を飲んでも決して害を受けません」とあります。現代社会は毒だらけです。一度イエス様を信じても、その後、信仰を保っていくことはなかなか難しいものがあります。会社に行けば、およそ教会で交わされているような会話はありません。朝、会社に行った途端、エロ話があったりします。うっかりしていると同調してしまい、毒されてしまいます。知らないうちに誘惑が入ってしまいます。しかしイエス様の御名によって、「毒を飲んでも決して害を受けない」という権威が与えられます。

 今週どんなに悪い会話や、悪い領域に入ったとしても、イエス様の御名によって歩むならば、「毒を飲んでも決して害を受けない」という、イエス様の十字架の血による、血清を受けるならば害を受けることがありません。神の守りがイエス様の御名の中にあることを教えています。これを受け取って下さい。

 そして、「病人に手を置けば病人は癒される」とあります。イエス様の名前の権威によって、病人が癒されるという素晴らしい奇跡が伴うのです。私たちの人生には、時々、どうにもならないような病や問題が起こってきますが、イエス様の御名に信頼して祈るとき、主はそのことに関して勝利を与えて下さるのです。

 先週私は人吉という鹿児島県と熊本県の境にある教会で奉仕しました。毎年その教会に招かれて話していますが、今回も期待していました。その教会は霊的戦いに目覚め、困難に立ち向かうようになりました。一人のご婦人が白血病で医者から後六ヶ月のいのちと宣告されました。しかし教会が、真剣に悪魔に立ち向かって祈ったそうです。すると奇跡が起こり、検査したら、全て直っていたそうです。癒しを受けたおばさんはパワフルでした。イエス様は素晴らしいです。病人に手を置けば、病人は癒されると教えています。私たちがイエス様の御名によって歩むならば、暗闇に対して権威を使うことができます。

 そして、信じてバプテスマを受ければ救われるとは、バプテスマが悪魔・悪霊に対して完全勝利を宣言する瞬間になるのです。信じたらその時点で、所有権は移転されます。しかし生きていく中では、色々、悪魔の攻撃を受けます。けれども、バプテスマは、サタンの攻撃に対しての決定打です。「お前たちは私に対して、何一つ攻撃することはできない」という、最大権威をサタンに対して宣言するときです。だからバプテスマは大切です。これは悪魔に対しての、完全勝利を宣言する瞬間です。

 信じるだけではなく、バプテスマを受けることは重要です。今日は、悪魔に対して、完全勝利をとって歩めるように祈りましょう。今週、主の御名によって生き、暗闇の世界に対してイエスの御名の権威を主張していきましょう。

『まことに、すべての国々の民は、おのおの自分の神の名によって歩む。しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の御名によって歩もう。 』


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