神様あなたを愛します

2004.5.2(SUN)
新城教会 岡本 信弘師

旧約聖書 ヨハネ第一の手紙 5章3節
神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。

ハレルヤ! 心から主に感謝します。いつも私のために、また家族のためにもお祈りいただいていることを感謝します。また、健康でこの場所に立ち、皆さんとともに神様を賛美し、礼拝できることを感謝します。
 今日は「神様、あなたを愛します」というテーマで学びます。
 「愛を表さなければならない」ということは、当たり前のようにわかっていますが、自分自身を見ると、なかなかできていないと思います。
 「愛」と一口にいっても、友人同士の愛、子弟の愛、夫婦の愛、親子の愛など、いろいろな形があります。しかし、人間が愛するという愛の特徴は、その多くが見返りを求めるということです。自分が愛したら、相手にも愛してほしいと思います。愛は計ることはできませんが、たとえば十の愛を投げかけたら、十全部が返ってこなくても、五でも三でも少しでも愛を返してほしいと思います。しかし、自分が思っているように返ってこない場合、すれ違いから憎しみが生まれ、信用をなくしたり、その関係が破綻することがあります。一方で、見返りを求めない愛、一方的に注ぎ続ける愛が聖書に書かれています。この見返りを求めない愛が、真実な愛だと私は思います。
 見返りを求めず愛情を注ぎ続けるという意味においては、親が子どもを愛する愛は、それに一番近いといえます。
 私の娘は、今アメリカに住んでいますが、よく人から、「先生、娘さんがいないと寂しいでしょう」と聞かれます。私は、「寂しくない」と言うと冷たいと思われるし、そんなに寂しいとも思っていないので、答えに困ります。どちらかと言えば冷たいのかも知れません。しかし、子どもには何でもしてあげたいと思っています。また、ある方に「今度、泉ちゃん(娘)が帰ってきたら何をしてあげたいと思いますか」と聞かれました。「一緒にデパートに行って、好きな服を買ってあげたい」と答えました。そして、泉がいつも「美味しい」と言って食べてくれる餃子を作ってあげたいと思っています。
 ここには子どもを育てておられる多くのお父さん、お母さんがいらっしゃいますが、親というものは、子どものためなら、いのちを投げ出してもかまわないと考えるものだと思います。今の時代、親子の関係が薄れ、子どもの虐待もよく耳にするようになっているので、そういう親はどうかわかりませんが、自分の子どもが不治の病で死ぬと宣告されたら、親は、どんなことをしてでも子どもを助けたいと思わないでしょうか。自分の臓器の一部を移植したなら生きることができるかもしれないと聞いたなら、助かる可能性がどんなに低くても、たとえ自分がその手術でいのちを失う危険があったとしても、臓器を提供したいと思うでしょう。そのように、親が子どもを愛する愛は、見返りを求めない愛だと思います。いのちを投げ出してでもその愛を貫き通したいというのが真実の愛であると思います。
 今日は子どもの日の祝福のお祈りがありますが、来週は「母の日」、そして来月には父の日があります。父の日も母の日も、子どもたちが親に感謝する日だと思います。ささやかでも何かプレゼントをするなり、感謝を表すといいと思います。
 父の日というと、昨年、私の父が父の日の翌日に天に召されていったことを思い出します。私は毎年、父の日に靴をプレゼントしていました。いつも父の日が過ぎた頃になってプレゼントをあげることが多く、昨年もまだ買っていなかったので、渡すことができませんでした。
 親は無条件で子どものために愛を注ぎます。振り返って両親が私のために払ってくれた犠牲、示してくれた愛を思うとき、感謝せずにいられません。しかし、親はその犠牲に対する見返りを求めません。私もそうです。親は子どもに与え続ける愛を持っています。親の愛は偉大だと思います。しかし、聖書に書かれている真実な愛は、その親の愛も越えるものです。私たちに与えられた神の愛をもう一度考えてみたいと思います。
 『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。』(ヨハネの福音書十五章十三節)
 これを実践してくださったのがイエス様ご自身です。今までに私たちは神様から、どんなに大きな器にも入れることができないほど、溢れるばかりの恵みを受けてきました。私も生まれたときから教会に集い、クリスチャン人生四十七年になりますが、計り知れない恵みを受け続けてきました。クリスチャンになった誰もが、イエス様を信じてバカを見たという人はいないと思います(もっと早くにイエス様を知りたかったと後悔している人はいると思いますが・・・)。私たちがイエス様の救いを信じたことにより、イエス様の犠牲により、今私たちは恵みの中にいることができるのです。
 五月一日に、日本でも「パッション」という映画が封切りになりました。むごたらしい場面が多く、世界各国で大きな論議を巻き起こしています。しかし、イエス様がこの地上に来てくださり、この映画で描かれているように、実際に私たちの罪の身代わりにむち打たれ、いばらの冠をかぶせられました。そして、苦しみの中で十字架にかかられて死に、葬られましたが、その死の力を打ち破って三日目によみがえられて今も生きておられる。これは映画の中の作り事ではなく、紛れもない事実なのです。私たちはその愛にどのように応えることができるでしょうか。
 第一ヨハネ五章三節には、『神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません』とあり、私たちが神様を愛することは、神様に従うことであり、神様の戒めを守ることであると聖書は教えています。愛していると言葉で言うことは簡単です。しかし、どれだけその愛を実践しているでしょうか。
 聖書には、神の命令を守ることについて書かれている個所があります。
 『そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」』(マタイの福音書二十二章三十五節〜四十節)
 この二つの戒めは、出エジプト記二十章に書かれているモーセの十戒とリンクしています。十戒とは人間が幸せになるために与えられた十の戒めです。「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。偶像を造ってはならない。拝んではならない。主の御名をみだりに唱えてはならない。安息日を覚えて、これを聖なる日としなさい・・・と続きます。この始めの四つが、第一の戒めにリンクしています。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』という戒めは、私たちと神様の関係についてのことです。今日本を見ると多くの人がそこから逸脱し、間違った神に手を合わせ、財を費やし、神様から背を向けた生活をしています。これでは神様からの祝福をいただくことはできません。まず私たちは心から主を愛し、主に従うことが重要です。
 また同時にモーセの十戒は、「あなたの父と母を敬え、殺してはならない。盗んではならない。姦淫してはならない・・・」と言っています。これは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という、人間関係についての戒めです。これを守ったら、私たちは祝福されると聖書は教えています。戒めと聞くと強要されるように思いますが、そうではありません。私たちが幸せになるために与えられたものです。この戒めを守るなら、幸せに暮らすことができるのです。
 愛を受け、幸せに暮らすことができたなら、その愛に報いたい、神様のために何かをしたいと思います。
 『それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」』(ヤコブ二章十七節〜十八節)
 聖書は「信仰がなくては神に喜ばれることはできません」と教えています。しかし、ここにあるように、行いによって信仰を表すようにとも教えています。信仰という土台の上に、愛を実践していくことによって築き上げ、その信仰が確かなものとされていくというのです。
 この御言葉を読むたびに、イエス様を信じている、イエス様を愛していると言いながら、行いが伴っていないなぁと反省させられます。誘惑に弱い者であり、熱心さの足りない者であり、不信仰な者であると反省させられます。自分のためにはたくさんのお金を費やし、好きなことのためには時間を惜しまない。でも、今までどれだけ神様のために祈り、御言葉を読み、ささげたかと考えます。神様が言われた「行いをもって仕える」ということは、今までどれだけ奉仕したとか、どれだけ聖書を読んだとか、献金したとかの量ではありませんが、心を尽くして神様を愛していくとき、聖書を読んだり、奉仕をしたりといった行動に現れていくものではないでしょうか。
 しかし、ただたくさん奉仕をすれば、たくさんささげれば神様は喜んでくださるかというとそうではなく、神様は心を見られます。神様が私たちに願われていることは、ただ主を見上げてイエス様とともに歩むことだと思います。親が子どもに願っていることは何でしょう。子どもが成長して何かプレゼントしてくれることは嬉しいことです。しかし、そのプレゼントといった物質的なものを求めているのではなく、子どもが親を慕い、感謝の気持ちを表してくれること、これが親にとって素晴らしい喜びなのです。
 クリスチャンの家族において一番の親孝行は、子どもがイエス様とともに歩んでいる姿を親に見せること、それが親にとって何よりも安心で、一番嬉しいことだと思います。

 私たちの人生の中で、大きな岐路に立たせられるときがあります。私が最近読んだ本には、主に従うこと、主を愛することを具体的に書かれた証しが載っていましたので、お分かちしたいと思います。
 一つは韓国での出来事です。朝鮮動乱(一九五〇年頃)のとき、北から朝鮮軍が攻めてきました。クリスチャンたちは教会に逃げ、集まっていましたが、共産軍が来て、そこにいるクリスチャンたち全部を広場に引き出し、その教会に掲げられていた聖画を地面に置き、泥だらけの靴をはかせてその絵を踏むようにと命令しました。昔、日本でも踏み絵をさせられたという事実がありますが、その聖画を踏んだものは許されるというものでした。初めに教会の役員が呼ばれ、聖画の前に立たされました。その役員は戸惑いながらも聖画を踏みました。続いて何人かの人がそれを踏み、一人の少女の番になりました。その少女はその前に座り込み、聖画の泥をきれいに拭い、自分の胸に抱えました。そのとき、何かが変わりました。キリスト教弾圧をしていた共産軍に、どのような変化があったのかわかりませんが、その聖画を踏まなかった少女だけが生かされ、聖画を踏んだ者全員が処刑されたのでした。
 自分自身がそのような選択を迫られたらどうだろうかと考えさせられました。ある人は、絵を踏むか踏まないかということに、どれほどの信仰的な意味があるのかと言います。確かに、聖画一枚に意味があるということはないと思います。しかし、その少女は、イエス様が自分のために身代わりになって死んでくださり、苦しみを受けてくださった、大きな愛を示してくださったと愛を感じたとき、その絵をどうしても踏むことができなかったのだそうです。殺されるとか、死ぬのが怖いとかは関係なく、イエス様だけを見ていました。それだけでした。イエス様に対する愛だけで、そこに立たされたと書かれていました。
 もう一つは中国の女子大生の証しです。彼女はイエス様を信じ、喜びに満ちた生活をしていました。ところが、文化大革命でクリスチャンが弾圧され、伝道してはならないという命令が出ました。しかし彼女は救われた喜びを押さえることができず、大学で伝道していました。当然のように彼女は捕らえられました。そして殴られ罵声を浴びせられ、伝道を妨げるために彼女の長かった髪は切られ、絶対に伝道をしてはいけないと厳しく戒められて外に放り出されました。彼女は大切な髪を切られて恥ずかしくて、頭に布をかぶり逃げるように家に帰りました。しかしそれでも伝道をやめませんでした。そして再び捕らえられました。やっと少し伸びてきた髪の毛を丸坊主にされ、放り出されました。彼女は布をかぶって帰っていきました。彼女は気力を失いかけましたが、それでも伝道を続けていました。そして三度目も捕まり、拷問を受けました。一度目も二度目も、彼女は尋問官に対しても、イエス様を信じたら素晴らしいと伝道していましたが、苦しくて声も出すことができない状態に陥りました。彼女は辛く苦しい中で、そんな弱い自分に気づき、そこにたたずみました。そのとき内側から「あなたは誰のために苦しんでいるのか」という声が聞こえました。彼女はふと我に返り、「そうだ。わたしはイエス様のために屈辱を受け、苦しんでいるのだ」と思ったとき、これは神からの恵みだと感じたのです。彼女は、前と同じように殴られ、丸坊主にされ、外に放り出されました。しかし、今度は恥ずかしがって布をかぶることはしませんでした。彼女が外に出ていったとき、多くの人が彼女を取り巻き、その姿を憐れに思いました。どうしたのだろう、と好奇の目で見ていた人々の中に立って、彼女が口を開き、彼女の受けた迫害を証ししたとき、今まで隠されていたキリストの福音が前進し、多くの人がイエス様の福音を受け取りました。一度も福音に触れたことがない何百人もの人たちが、イエス様を信じ、素晴らしい人生に変えられたのでした。
 今私たちは恵みの中にあります。日本にはたくさんの偶像がありますが、私たちは自由に祈り、自由に大声で主を賛美することができます。家の中で迫害されている方がいるかも知れません。しかし、そのような中でも「イエス様あなたを愛します」と祈る自由は奪われることはありません。これは恵みであり、特権です。世界には自由に賛美することも、自由に祈ることもできない人たちがいることを聞いています。しかし、『あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。』(ピリピ一章二十九節)とあるように、その苦しみも神様のご計画の中にあることを覚えます。 
 エペソ一章十八節から十九節には、私たちが主を愛していくならば、どんなに素晴らしい祝福が待っているのかが記されています。
 『また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。』
また、ローマ書八章二十八節には、『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』とあります。
 今、私は十分に恵まれている、ということができない人もいるかも知れません。しかし神様の働きと力は、ちっぽけなものではなく、神が私たちに約束してくださっている神の祝福と恵みは、私たちの想像をはるかに越えるものであることを信仰もって受け取ってください。
 私たちは神に愛され続けてきました。これからも神様は皆さんを見放すことはなく、離れることはありません。私たちは神の子どもとされています。神様は見返りを求めることなく、私たちに愛を注ぎ続けてくださっています。しかし、私たちはその恵みを感謝し、私たちのためにいのちまで捨てて救ってくださったイエス様に、少しでもお返しをしていきたいと思います。そのためには戦いがあります。しかし、私たちが今まで受けた恵み、またこれから受けるように用意された恵みに比べれば、ほんの些細な戦いです。主とともに歩むならば、勝利は約束されています。どこまでも神に近づき、主の御心を行っていきたいと思います。
 『しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。』(第一コリント八章三節)
 私たちが神を愛するなら、神様は私たちをいつも見ていてくださり、心配してくださっています。神の命令を守り、豊かな祝福をいただく者となりましょう。お祈りします。


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