知恵ある者となろう

2004.5.9(SUN)
新城教会 滝元 順師

旧約聖書 ホセア書 14 章(現代訳)
イスラエル。主である神に帰りなさい。あなたは自分の不義で躓いた。あなたがたは主に帰って、こう言いなさい。「不義をことごとく赦し、あなたの恵みによって受け入れてください。私たちは賛美のささげ物をします。アッシリヤは私たちを救えません。私たちは人が手で作った偶像を、決して拝みません。困っている者を愛するのは、あなただけです。」わたしは彼らの背信をいやし、彼らを愛する。わたしの怒りは彼らから離れ去った。わたしはイスラエルに対しては植物を潤おす露のようになる。彼はゆりの花のように咲き、ポプラのように根を張り、その若枝は伸び、オリーブの木のように美しく、レバノンの木のように香ばしくなる。彼らは帰って来て、主のもとに住み、穀物のように生き返り、ぶどうの木のように芽を出し、その名声は、レバノンの酒のように広がる。イスラエル。わたしは偶像とは全くかかわりが無い。わたしが答え、わたしがあなたの面倒を見る。わたしは緑のもみの木のようだ。あなたはわたしから実を得る。知恵のある者はだれか。その人は、これらのことを悟るがよい。悟りのある者はだれか。その人は、これらのことを知るがよい。主の道は真直だ。正しい人は、これを歩み、背く者は、これに躓く。

 ハレルヤ!皆さんとともに礼拝できる恵みを感謝します。今日は「知恵ある者となろう」というテーマで話します。今日は母の日です。お母さんの偉大な愛によって私たちは育まれてきました。お母さん方に心から感謝したいと思います。箴言十章一節に、

『知恵のある子は父を喜ばせ、愚かな子は母の悲しみである。』

とあります。ここには子どもたちがたくさんいますが、愚かな子ではなく、知恵ある子になりましょう。

 親が子どもを育てる中で、「お宅の子は頭の良い子ですね。知恵のある子ですね」と言われると、とても嬉しいです。「バカな子」と言われるよりも、「知恵がある」と言われるとずっと嬉しいです。しかし、人間的な知恵には限りがあります。この世の知恵を求めすぎない方がいいと思います。小さな時のことは、あまり当てにはなりません。

 私の息子は、幼稚園前、三桁の計算を一発で答えました。たとえば、「一五六+一四九は」と聞くと「三〇五!」とすぐに答えました。特に数字のあとに円をつけると計算が早かったです。お金に対する執着がある子になると思いました。そして、この子は相当、頭の良い子になるかと思いましたが、凡人になってしまいました。しかし、人間は解らないものです。家で子どもたちがリズム遊びをしていました。日本人はあまりリズム感が良くありません。先週は、ロン・ブラウンさんたちが来て、コンサートをして下さいましたが、黒人のリズム感はとても良いです。日本人は四拍子で、一拍目と三拍目にアクセントを付けるのは得意ですが、二拍目と四拍目にアクセントをつけるのは難しいのです。昔、私の子どもたちが、リズムを取っていました。娘はリズム感がよく、将来は音楽家になると期待していました。しかし、息子はリズム感が悪く、全く駄目でした。しかし今はどうでしょうか?彼は、ベーシストになりました。人間はわからなものです。人にはそれぞれ、神から使命が与えられています。人間的に頭の良い人もいれば、そうでない人もいます。バランスよく造られています。しかし、人間的な知恵によって知恵ある者になろうとしても、限りがあります。私たちは、「神の知恵」によって生きることが重要です。伝道者の書一章十八節に、

『実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。』

と記されています。案外、知恵がない方が気軽に生きることができるのかも知れません。私は学生時代、あまり勉強ができませんでした。しかし、今、舌一枚で生きています。これは神の知恵です。ローマ人への手紙十一章三十三節に、

『ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。』

神の知恵と知識の富は無限大であるとあります。また、コロサイ人への手紙二章三節に、

『このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。』

と記されています。イエス様の中に、完璧な知恵と知識が隠されており、私たちがクリスチャンになると、神の知恵と知識を拝借して生きることができるのです。人間の知恵と知識には限りがあっても、神の知恵と知識を拝借して生きることができるのです。そして、ヤコブ一章五節には、

『あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。』

とあります。この言葉は、人間の知恵にも関係してますが、神の知恵を求めるならば幸せに生きることができると教えている箇所です。

 今月の新城教会ニュースの「体験」コーナーを読まれましたか?白井君の一点での泣き笑いと、主との関わりの緊張感ある証です。神に祈ると、奇跡的な道が備えられます。

 私も大学時代、神の知恵を体験したことがあります。私は工学部でした。特に物理が難しかったです。物理の先生がとても厳しい人で、ほとんど試験を通してくれないような先生でした。追試ばかりで、追試験料で家を建てたというような噂まで出るような先生でした。私は絶対、無理だと思っていました。どうせだめなら主を第一にしようと思い、テストの前日に、ある集会に行きました。そして祈りました。「イエス様。私は明日、誰も通らないという試験がありますが、知恵を貸して下さい。」と祈って、家に帰ってからテスト勉強をしました。ただ一つの問題だけを暗記して、学校に行きました。次の日に、どの問題が出たと思いますか?なんと、私が暗記した問題以外、出ませんでした。そのテストには、二百人中、三人しか通りませんでした。その一人が私でした。山勘も、神の知恵によるなら、勝利するという感じです。神の知恵は素晴らしいと思いました。

 神の知恵は、この世の知恵とは違い、人生を導きます。それは破壊的結果へではなく、人生を建設的に導く知恵です。イエス様を信じると、知らないうちに、神の知恵によって行動できます。

 先週私は、主日、土岐の教会(岐阜県)で奉仕し、月曜日は静岡県三島市で奉仕しました。その集会は忙しく、昼と夜ちょっと休憩がありましたが、後はずっと集会がありました。翌日からは二十四時間PPHがあり、どうしても、月曜中に家に帰らなければなりませんでした。夜の九時半の最終新幹線に乗らなければ、豊橋まで戻れないので、そのスケジュールで集会をしていると、先生が夜の集会前に私のところに来て、「先生に祈ってもらわなければならない人たちが、これだけいますのでよろしくお願いします。」とリストを持って来られました。「順先生は、いつ再びここに来るかわからないので、すべて祈って下さい」と言われました。私は頑張ってメッセージして、それから一人ひとりのために、お祈りをしました。新幹線の時間が近づいていました。最終に乗れなかったら、十時半の電車に乗れば、何とか浜松まで帰ることができる事が分かりました。浜松から東海道線を乗り継いでいけば、十二時過ぎに豊橋まで来れる便がありました。しかしそれでは遅すぎるので、九時半発で帰りたいと思っていました。うまく祈りも進んで行きました。すると、「先生、少し人数が増えました」と言われるのです。私は一瞬、「早く帰りたいな」と思いましたが、その時主が、私に語りかけられました。「順。お前、一時間くらいサービスしろよ。なんで、一時間くらい犠牲を払えないのか。その犠牲によってだれかが助かれば、その方が良いではないか・・」

 そこで私は、「心配しないで。十時半まで頑張って祈るから・・・。」と言いました。そして祈り続けました。

 最後の最後に、フィリピン女性が男の子を連れてきてこう言われました。「この子のお父さんの家系には、毎年五月、死人が出ています。この子のお父さんも、五月に死にました。交通事故でした。五月に不幸が起きるのです。そんなことが起こらないように、ぜひ、祈ってください」

 私はふっと、「どこかで聞いたことのある話だな・・」と思いました。それは、新城教会に来られている方から、同じような話を聞いたことを思い出したからです。あまりにも、よく似た話なので、その人に、「あなたは ○○ さんを知っていますか?私は、あなたが言われているのと、同じことを聞いたからです。」と聞きました。すると、「私はその人の親戚です。交通事故で死んだのは、元の主人でした。」と言われました。

 このフィリピン人の奥さんは、何年か前の五月にご主人を亡くし、心傷ついて子どもを連れて姿を消していたのです。しかし、祈りの最後に、その人が来られたのです。聖霊様が深く臨まれ、主に触れられ、力強い解放を体験されていました。

 私は、「一時間の犠牲を払って良かった!」と思いました。もしも、一時間延長せずに帰ってしまったなら、彼女とは会うことが出来ませんでした。そして、彼女も傷ついたままだったかも知れません。これはある意味で、神の知恵だと思います。このような絶妙なタイミングで、神は知恵を提供して下さいます。お互いが神の知恵によって生きるならば、支え合って生きることができます。神の知恵で生きるならば、人生に恐いことはありません。

 さて、神の知恵を、どのようにして得るのでしょうか。また、どう生きることが、神の知恵なのでしょうか。ホセア十四章一節から三節に、一つの鍵があります。

『イスラエル。主である神に帰りなさい。あなたは自分の不義で躓いた。あなたがたは主に帰って、こう言いなさい。「不義をことごとく赦し、あなたの恵みによって受け入れてください。私たちは賛美のささげ物をします。アッシリヤは私たちを救えません。私たちは人が手で作った偶像を、決して拝みません。困っている者を愛するのは、あなただけです。」』

「イスラエル」とは、文字通り、イスラエルに対して語られている言葉ですが、同時に、私たちにも語られている言葉です。

 第一に、「主である神に帰りなさい」とあります。私たちが、天地宇宙を造られた神、イエス様のところに帰るならば、知恵を得ることができると教えています。

 続いて、「あなたがたは主に帰ってこう言いなさい。不義をことごとく赦してください。」と書かれています。

 人間とは不思議なもので、どの国に行っても同じ道徳の基準があります。聖書には、道徳の規準が記されています。それはモーセの十戒に基づくものです。しかし、聖書を読んでいなくても、モーセの十戒と同じ基準が、心の中に生まれつきインプットされています。だから、どこに行っても同じ判断基準があるのです。誰でも、人のものを盗んだら悪いと思うし、人を殺したら良くないと知っています。

 今アメリカで、一つの大きな問題があります。それは、イラク人捕虜を虐待したという事に対して、国際世論や国の中から非難の声が上がっています。非人道的だと言っています。虐待の前に、戦争はどうなのだろうかと考えさせられます。しかし、虐待は悪いことだと、どこの国の人でも知っています。一人一人の心の中に、律法が掲げられています。それが良心です。良心に反すると心に咎めが来ます。良心の呵責という、罪の思い出の中に生きることは人間を不幸にします。「過去に、あのことさえなければ、もっと幸せなのに・・」と思う人がいると思います。

 罪とは、人に対して犯すように思いますが、突き詰めていくと、人間を造られた創造者に対する行為です。ということは、罪の赦しを得るために必要なのは、神に帰ることです。そして、聖書の告げる素晴らしいメッセージは、「罪の赦し」です。教会に来てイエス様に出会うと、罪の赦しを与えて下さるのです。悔い改めとは、神の前に出て、ごめんなさいを言うことです。そもそも、「悔い改めたい」という気持ちがあるのは、神の知恵が注がれている証拠です。悔い改めと共に生きる人生は、神の知恵とともにあります。毎日曜日、私たちは礼拝に出席し、少なからず自分自身を点検し、悔い改めてスッキリします。

 あまりきれいな話ではありませんが、便秘するとたいそう苦しいそうです。(私には経験がありませんが。)しかしそれが排泄されたときの爽快感は格別だそうです。悔い改めは、貯まっていた罪のヘドロが一掃されるようなものです。悔い改めは重要です。

 そして、罪が赦される秘訣について聖書は、第一ヨハネ一章九節で、

『もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』

と記されています。もし罪を犯したならば、イエス様の前に出て、「イエス様。罪を赦してください」と具体的に告白するときに赦されるのです。これは世の中の法則とは違います。警察に行って、「泥棒をしました」と告白したら、捕まってしまいます。しかし神様は違います。告白したら赦して下さいます。なぜなら、神は言葉の神だからです。言葉を使い、告白して悔い改めることは、幸せに生きる秘訣です。今日、心が重いと言われる方は、「イエス様、私の罪を赦して下さい」と告白して祈ってください。イエス様は、あなたの罪を全て赦してくださいます。なぜならば、神は、私たちを創造された方なので、赦す権限を持っておられるのです。あなたの罪を全て赦して下さいます。

 続いて、特に悔い改めを必要としている事柄について教えています。悔い改めとは、悔いるだけではなく、「改め」なければなりません。ここに神の知恵を受け取る真理があります。三節、

『アッシリヤは私たちを救えません。私たちは人が手で作った偶像を、決して拝みません。困っている者を愛するのは、あなただけです。』

 人生で一番知らなければならない神の知恵と知識は、「手で作った神々に頼るな」ということです。神は決して、手で作った物の中には住まわれません。天地宇宙を造られ、目には見えないお方なのです。形のある神々に頼ってはいけません。それから離れることが神の知恵だと教えています。

 もしも、今日、手で作ったものが神というイメージを持っている人がいたら、ぜひ、神の知恵と知識を受けて、そこから離れて下さい。そうしたら、人生は変えられます。偶像から離れて、真の神に頼った結果について、十四節の五節から七節に書かれています。

『わたしはイスラエルに対しては植物を潤おす露のようになる。彼はゆりの花のように咲き、ポプラのように根を張り、その若枝は伸び、オリーブの木のように美しく、レバノンの木のように香ばしくなる。彼らは帰って来て、主のもとに住み、穀物のように生き返り、ぶどうの木のように芽を出し、その名声は、レバノンの酒のように広がる。』

 この表現は、それぞれの地域の産物を引き合いにして、人生の回復について述べています。私たちが、偶像の神々から離れるだけで、人生が回復すると教えています。

 先週、ある方から電話がありました。家庭に色々な問題があると言われました。ある日息子が突然変わり、以来、二十年間暴力が続いていると言われました。両親は警察に訴えたそうですが、今の法律ではどうにもできないと言われたそうです。それで霊能者のところに子どもを連れていくと、「お宅の息子には強い霊がいっぱいついているから、修行しなければならない」と言われたそうです。それで、霊能者について通算十二年間修行したそうですが、「強い霊が入っていて出ていかない」と言われたそうです。

 私はその方に言ってあげました。「あなたの息子には、霊などついていませんよ。」すると、「どうしてですか。どの霊能者も霊が入っていると言いました」と言うのです。

 皆さんぜひ、知って下さい。悪霊が体の中に住んでいる人など、一人もいないのです。なぜなら、悪霊は人間の肉体を住処にしなくても、自分を保てる存在だからです。日本人は勘違いしています。「霊は、ものの中に住む」

 偶像礼拝が成り立つには、一つの前提が必要です。ヨーロッパやアメリカに行くと、偶像はあまりありません。しかし日本にはたくさんあります。それは前提となる考え方の違いによるのです。アメリカや、ヨーロッパの人は一般的に、ものの中に霊が宿るとは、信じていません。しかし日本人には、ものの中に霊が宿るという考え方が根底にあります。

 ここに携帯電話があります。例えば、この携帯電話を江戸時代に持ち込んだら、人々はどのような反応をするでしょうか?

 携帯電話を見せたら、「不思議な形のものだね・・」と言って触ると思います。すると、突然、中から声が聞こえるのです。「お前ら。気易く触るんじゃあない!」

 人々は驚いて、「こいつしゃべったぞ!!」と言うでしょう。そして、誰かが恐る恐る、携帯電話に向かって話しかけます。「お前は誰だ?」

 再び中から声が聞こえます。「俺か?図体は小さいが、バカにするなよ。俺はこの中に住んでいる神だ。俺を拝まないと罰が当たるぞ。ちょっと俺を拝んでみろ。お前ら、明日雨が欲しいだろ。雨を降らしてやるから・・・」

 村人たちは、「最近、雨乞いをしているが、効果がないのでこいつに頼んでみるか・・」ということになり、「雨を降らして下さい。お願いします。」と携帯電話を拝むのです。携帯電話では、天気予報が分かります。しかし、江戸時代の人々には、そんなことは分からないのです。

 翌日、携帯電話が言ったとおり、雨が降ります。村人は感動して、正装で集まってきます。「あなたの言われたとおりになりました!あなたは、すごい神様ですね。」と言うのです。「そうだろう。おれを祀っておけば、間違いはない。金でももってこい。」と言うと、人々はお金を供えます。やがて、村には「携帯電話大明神」が出来るでしょう。

 このように、携帯電話の中に、「誰かが住んでいる」と信じていたらどうでしょうか。ずっと騙され続けます。外部から操作され、利用されてしまいます。

 しかし、ある日、実は、外から電波によって操作されていたことがわかれば、二度と騙されることはないのです。

 そもそも偶像礼拝は、悪魔が人に騙し事を入れているのです。それは、「ものの中に霊が宿る」という概念です。そのように騙されているので、人々は操作されるのです。「悪霊がとりついている」という発言の中に、「霊は体の中に住む」という偽りがインプットされているのです。だから悪霊は人を操作できるのです。絶対に、自分の体の中に悪霊が宿っていると信じないで下さい。あなたに宿っているのは「あなた」だけです。人の中に悪霊は共存出来ませんし、する必要もないのです。ましてや、神が仏像のような小さなところに、はいるはずがありません。私たちこそ、神の中に生き、動き、存在しています。私たちの方が神の霊の中にいるのです。

 とくに偶像礼拝の背後にあるのは「恐れ」です。その方に、「いつから息子さんに霊が入ったと思われますか」と聞きました。すると「私も色々と考えたのですが、思い浮かびません。そこで息子に聞いてみると、一つ思い当たることがありました。息子が小さいときに近くの氏神さんに小便をかけたのです。それで氏神さんが怒ったのではないでしょうか。」と言いました。私は、「そんなことで霊がつくはずありません。騙されてはいけないですよ。恐れてはいけません。」と話しました。「本当ですか・・・。」と言われました。「そうですよ。お宅の息子さんには、悪霊はついていませんよ。でも悪霊に騙されているのですよ。偶像礼拝の背後に悪霊が働いているから、騙されていたら悪霊は関わるんですよ」と言いました。「そうですか。わかりました。」と言われました。偶像を拝むのをやめて、一緒に祈ってくださいと言いました。「イエス様。今まで偶像と悪霊に騙されていました。赦して下さい。断ち切って下さい」と祈りました。

 翌日、「不思議なことがありました。今朝、息子が明るくなって外に出かけていきました。」と言われました。ご両親は呆然とたそうです。いつもと様子が違って明るかったので、すごい変化だと言うのです。今まで両親は騙されており、悪霊が何匹も入っていると、息子を見ていたのです。しかし騙し事から解放されて、本物の神に祈り始めると、回復が始まります。その方が完全に解放され、人生を取り戻すことができるように祈っています。

 偶像の神々から離れるということは、何よりもまして神の祝福です。その結果は、「わたしはイスラエルに関しては食物を潤おす露のようになる」と記されてます。今日ここにおられる皆さんのほとんどは、偶像から離れた方々です。偶像礼拝を悔い改め、礼拝対象が変わるときに、神の知恵とともに生きることができ、あなたは知恵あるものとして生きることができると教えています。

 また、聖書はこのように教えています。イザヤ書十一章一節から二節に、

『エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。』

 この箇所は、イエス様について預言された言葉の一つです。イエス様が地上に来られたとき、神であると同時に、完全な人間として地上に来て下さいました。ですから、イエス様は神の知恵によって生きる必要がありました。そして、イエス様が地上で勝利ある人生を歩まれた秘訣はただ一つ、神の霊に満たされていたからです。

 イエス様との関係が回復するときに、助け主聖霊様が私たちのところに来て、助けて下さいます。もしもあなたがまだ、イエス様を信じていなければ、主を信じ、神の霊によって支えられる人生に入って下さい。人間の知恵や知識ではなく、神の霊を受け歩む人が一番強い人です。

 ゼカリヤ書四章九節に、ゼルバベルにあった主の言葉が記されています。四章六節に、

『すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。』

 ここで、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と記されています。人間的な権力や能力ではなく、主の霊によって生きるならば、あなたは幸せになり、知恵あるものとして生きることができると教えています。イエス様を信じて、神の霊によって支えられる人生は、あなたを全く違う世界に導きます。神によって支配されて生きるとき、回復につながります。

 私は先々週にも、神の導きと一つの奇跡を体験しました。先々週の日曜日に、ある人のために祈らなければならないと感じました。それは以前、新城教会に来られていた外国人の家族についてでした。特別に祈るようにと、強い印象を主からもらいました。私は即、月曜日の午後から出掛け、その人と関わりの深い場所に行き祈りました。

 人は特定の場所とのつながりで、ある事件に出会ったり、人生が変わったりします。悪魔も特定の場所を自分のために使います。だから、特定の場所に出向き、祈ることは大切です。月曜の午後、その方々が解かれるようにと祈りました。

 その方々との関わりが深い場所で、「主よ、問題を打ち破って下さい。 ○○ さんが解放されますように」と祈りました。

 すると、私の携帯電話が鳴りました。「先生、大変なことが起こりました。」

なんと、その人が交通事故に遭ったというのです。それも、大型トラックに後ろから追突され、その弾みで車は電柱にぶつかって大破し、家族四人が押しつぶされたのです。特に息子が強く頭を打ち、意識不明の重体という連絡でした。「息子は多分助かる見込みがない」と言うのです。その人と関連がある場所で祈っているただ中で、そんなことを聞いたのでたいへん驚きました。主が、その日、私に祈りに行くようにと促されていた意味が分かったような気がしました。それを聞いて、心がとても暗くなりましたが、真剣に祈りました。「主よ。助けてください。子どもが死ぬことがないよう助けて下さい。」と真剣に祈りました。祈りながら、葬式のことも頭をかすめました。その後も、皆で真剣に祈りました。

 何と、主は奇跡を起こして下さいました。私たちが祈った翌日に意識を取り戻し、先週、退院したのです。「イエス様。感謝します。」

 あの時、主が知恵を注いで下さり、その人のために祈るように導かれたと思います。神の霊に支配され、神の知恵によって生きていかなければならないと強く思わされました。

 神の霊に支配されるならば、神はどのような状況の中でも助けて下さいます。

 まず、神との関係を回復して下さい。手で作った神々ではなく、イエス様を神として信じて下さい。そして、今まで犯した罪を全て悔い改め、赦していただきましょう。特に、手で作った神々から離れて下さい。そうしたら、神があなたに祝福を注いで下さいます。このことを受け入れることが、神の知恵です。ホセア書十四章九節に、

『知恵のある者はだれか。その人は、これらのことを悟るがよい。悟りのある者はだれか。その人は、これらのことを知るがよい。主の道は真直だ。正しい人は、これを歩み、背く者は、これに躓く。』

 知恵ある者、悟りのある者とは、神の言葉を自分のものとして生きる人のことです。神の霊によって歩み、知恵ある者となりましょう。


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