えこひいきなし

2004.5.16(SUN)
新城教会 滝元 順師

新約聖書 ガラテヤ人への手紙 2章6節
そして、おもだった者と見られていた人たちからは、 ―― 彼らがどれほどの人たちであるにしても、私には問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません。 ―― そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。

 ハレルヤ!皆さんと共に御言葉を学ぶことができて感謝します。

 人間は努力しても、なかなか人を平等に愛することができません。子どもたち、家族を、均等に愛したいとは思いますが、なかなか難しいことがあります。どうしても誰かを偏って愛してしまいます。うちも息子と娘がいますが、なかなか平等に愛することは難しいです。最近、娘がアメリカに行ってしまったので、ちょっぴり寂しいです。息子はどこに行っていても良いのですが、やはり娘の方に愛情が傾いているのかもしれません。信弘先生も、娘に何でも買ってあげる、と言っていたそうですが。人間はどうしても、差別したり、えこひいきしてしまいますが、神様はえこひいきされるお方ではありません。「神は人を分け隔てなさいません」と書かれています。神は誰一人として分け隔てをせず、えこひいきされません。ここにおられるお一人一人に、同じ祝福を注いでくださいます。日本人は努力しなければ神からの恵みを受けることはできない、と考えがちです。修行しなければいけないと思いがちです。しかし聖書は、神の恵みは誰にでも等しくあると教えています。それを受け取るか、受け取らないかの差はありますが、神からの恵みは、一人一人に十分あるのです。今日、隣の人とあなたの恵みは同じです。神は等しく愛されています。

 最近の政治はいろいろともめています。年金問題などで話題が尽きません。私の年になると、年金をもらえるのかどうかと心配になります。民主党の菅代表が年金を支払っていない国会議員たちを、未納三兄弟とバカにしていたら、自分も支払っておらず、苦しい立場になりついに辞任しました。また、先週は、首相の小泉さんまでも未納期間があったと言われていました。なかなか厳しい世界になっていると思いました。年金を払わなければ地位を失う政治の世界は厳しいと思いました。私はすぐに家内に聞きました。「私は年金を払っているか?」を聞くと、「心配しないで良いよ。全部払ってあるから」と言ってくれました。払っていなかったら、全員辞職としたらやっていけません。なぜ政治家だけがそのようになるのかというと、立場があるからです。私たちのような一般人と政治家を比べたら、政治力においては歴然とした差があります。政治力とは、言い換えれば権力です。そのような座についている人には、凡人にはわからない特権が保障されています。しかし、そのような立場におかれたら、あわせて責任も要求されます。

 同様に、神は各人にポジションを与え、役割を与えられているのです。そして役割を忠実に行うようにと、社会的事件を通しても教えられていると思います。

 一人一人に神からの重要な役割と使命が与えられています。その使命を忠実に行うことが大切です。

 今日は「沖縄スーパーミッション」の総決起大会が沖縄において行われます。新城教会の牧師たちが、その準備のために出かけています。

 一九九三年の甲子園ミッション以来、新城教会は、自教会よりも他教会のために力を費やしています。今日も愛知県とはおよそ関係のない、沖縄まで行き働いています。これは、何の益にもならないように思えます。しかし、そのような使命が与えられているのですから、忠実に行うべきです。だから私たちは喜んで牧師たちを送り出し、そのために祈り、ささげています。私たちは日本のリバイバルを求めています。個人に与えられた使命とともに、教会に与えられている使命があるのです。神から教会に与えられた使命は、教会をあげて実行しなければなりません。

 今日は午後から、沖縄スーパーミッションのための決起祈祷会を新城でも行います。沖縄の歴史については、あまりわからないかも知れませんので、「沖縄セミナー」の後に沖縄のために祈ります。また、沖縄スーパーミッションの総決起大会会場ともつないで祈ります。

 教会に来ると、新しい価値観に出会います。日頃、私たちは、強い者に価値があるという価値観の中で生きています。社会においては、強くなければ良いポジションを得ることはできません。新しい年度が始まり、入学された方もおられます。入学時には入学試験があります。学校は、よくできる人から受け入れます。私はいつも思います。できない人からとっても良いではないかと。勉強ができないから、勉強するのではないかと思います。しかし、現実には、受験勉強をしないと良いポジションをとることはできません。常に私たちはそのような世界に生きているので、何しろ強くなければならないと考えています。そのような世界では、必ず、負け組みもでてしまいます。これは悲しい現実です。しかし新しい価値とは、誰一人分け隔てされず、えこひいきされないという価値観です。

 私は聖書が、教育の中で語られるようになったら素晴らしいと思っています。日本では、進化論がさも、真理かのように教えられています。根底に、自然淘汰という考えがあります。しかし聖書は、第一コリント十二章十四節から二十二節に、

『確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。』

と記されています。人類は大勢いますが、その一人一人の位置づけは、「からだを構成する器官の位置づけ」だと聖書は教えています。特に教会は、神の計画の中、キリストのからだを形成する各器官の集合体です。その中に、無駄な部分はないと教えています。そして、二十二節に、

『それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。』

と記されています。人間の体も、弱いと見られる器官が、実は全体をコントロールしています。例えば、脳は豆腐のように柔らかいものです。脳を覆う、頭蓋骨をとってしまえば、豆腐を頭にのせて歩いているようなものです。そんなままでは、ちょっと誰かと触れただけで即死です。しかしそんな弱い器官が全身に指令を送り、全身を支えています。器官としては弱そうですが、機能としては高いのです。

 時々、私たちは、「この人は弱そうだ」と見えても機能的には高いのです。世の中には、外観が強く見える人もいます。そこにはそれなりの役割があります。しかし、「器官と機能の和は一定」だと思います。器官が弱ければ、機能は高く、器官が強ければ、機能的にはある意味においては弱いのかも知れません。それぞれに役割があります。これは事実です。誰かと比べて、自分は劣っているとは思わないでください。

 劣等感から解放されたら、どんなに幸せに生きることができるでしょうか。ある調査によると、八十パーセントの人が劣等感の中に生き、過去に生きているというのです。ある本に、人間には共通した四つの劣等感があると書かれていました。その一つが「身体的劣等感」です。自分のからだを見て、すべてが素晴らしいと思う人はあまりないと思います。また、「社会的劣等感」があります。自分の社会における立場に劣等感があります。次に、「知的劣等感」です。それは頭の良し悪しです。そして、「性格的劣等感」です。

 これらはすべて、お互いの比較によって生ずることです。劣等感を持つのはよくありません。神は分け隔てなく、等しく、私たちを愛してくださっていると知ってください。

 さて、第一コリント十二章の、からだの位置づけについて述べられている箇所は、実は、「御霊の賜物」についての説明と共に述べられています。人間は神によって造られ、社会的な立場があり、その部分も重要な役割ですが、人間とは、そもそも目に見えない霊的存在です。神が人類を造られた真の目的は、神の霊によって私たちを動かし、御霊の賜物を活用するために造られたのです。

 今日ここにおられるお一人、一人には「御霊の賜物」があります。御霊とは「神の霊」であり、「賜物」とは、「神の霊によってもたらされた能力」です。もれなく、御霊による賜物が与えられています。それを意識して、キリストのからだに属すると機能が働き目的が果たされます。そこには、えこひいきはありません。すべての人に等しく与えられています。

 第一コリントの十二章四節から十一節までには、「九つの御霊の賜物」が記されています。この賜物は、皆さんにあてはまります。この中のどれかが、特徴的に与えられています。同時に皆さんの中に、九つの賜物の機能のすべてがあります。どのような霊的能力が与えられているのかを考え、溢れ流れるように祈っていきたいと思います。

『さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。』

 私たちは各器官であり、その「器官」とは、「御霊の賜物」を表しています。私たちが人として造られたからには、神の霊によって与えられた使命と能力が備わっています。これは、教会に来なければ気づかないことです。これを知らなければ人生は片手落ちです。ただ世の中の仕事に終始するだけでなく、霊的能力が生活の中で動きます。それはお互いに大きな祝福をもたらします。

 からだは各器官が機能することによって支えられています。心臓があるので、全身に血液が送られます。また脳があるから、指令が送られ、胃があるので食事がこなされ、腸があるので排泄されます。それぞれは、互いにサポートし合っています。教会には御霊の賜物が供えられており、それぞれに与えられた能力によって、互いが利益を受けます。

 それらを、一つ一つを見ていきたいと思います。あなたにも、どこかに強調点があります。そして、教会とは、極めれば個人なので、これらの九つの機能は、すべて個人にも備わっています。イエス・キリストを信じた者には、「九つの霊的機能」があります。

 まもなく、オリンピックがありますが、オリンピックに出場なくても、誰でも走ることはできます。十秒をきって百メートルを走れませんが、二十秒位あれば走ることはできます。同様に、御霊の賜物も、突出して互いの利益のために用いられる賜物もありますが、すべての表れが個人の中に与えられています。その中でも、互いの祝福のために、強く引き出された賜物があります。

 まず第一にリストアップされている賜物は、「知恵のことば」です。これは、神の霊によって問題の核心を見抜いて解決する能力です。問題解決においては、神の知恵をいただいて当たらなければ、なかなか解決がありません。神は知恵の言葉を与えてくださいます。その賜物が、教会にあるゆえに問題の核心は見抜かれ解決されます。

 また、「知識のことば」の賜物があります。これは、神からの知識をいただいて語る才能です。次週の日曜日に、サンデースクールの一環で、中川先生が来てくださいます。先生は、文化地理学や宗教地理学の専門家です。地理学者の立場から、悪霊が地域、領域を使って人々を縛っている現実を語られます。先生には、「知識の言葉」の賜物があると思います。ぜひ来週は、楽しみにして、お出かけください。皆さんの中にも、神から特別な「知識の賜物」をいただいている方がいると思います。ときに、知恵と知識の賜物は一体となっていることがあります。その人の祈りによって、神の知恵を得、問題も解決に向かっていくのです。

 次に、「信仰の賜物」があります。神様は、現時点のみこころとともに、近い将来、遠い将来にも、計画を持っておられます。そんな計画を受け取っても、普通、なかなか勇気がなくて踏み出すことができません。しかし、信仰の賜物は、そのような未来の事柄に向かい、力強く一歩を踏み出す賜物です。

 私の父には、案外、信仰の賜物が与えられているのかもしれません。時々、「大きなことを言うな」と思います。今回の沖縄スーパーミッションも、彼が言い出しました。私たちは最初反対しますが、最終的には実現に向かって動き出します。後から、やはり神の計画だったと確信します。今から考えると、甲子園ミッションもよくやったなあと思います。「甲子園ミッションをやろう」と言い出して、後に周りが巻き込まれ動かされて行くのを見るとき、やはり、彼には信仰の賜物があると思います。

 信仰によって、一歩踏み出しても、他の賜物の補助が必要です。しかし、言い出す人がいないと事は進まない現実もあります。一人一人に主が特殊な霊的能力を与えています。しかし、その総計は同じです。えこひいきはありません。

 次は、「いやしの賜物」です。これは通常、神が人に与えている方法によらないで起こる、病気のいやしの能力です。通常神は、薬や医者を通して人を癒されます。また、自然治癒力もそうです。しかしそれを越えて人をいやす能力が与えられています。それは、キリストのからだの中に与えられている能力です。自分でいやしの賜物が与えられているかどうか、わからないかも知れません。しかし賜物が与えられていることにより、結果はキリストの体の中に表されます。もしも、教会の中にいやしが起こっているならば、どこかに鍵を持っている人物がいます。それぞれの賜物の中で、一人一人が役割を果たすかどうかが重要です。皆さんの中の賜物が更に引き出されますように。

 また「奇蹟を行なう力」という賜物があります。これは、通常の法則を越えていると周りから認知される働きです。通常の法則に反して、事柄が起こります。その能力を人に与え、聖霊によってキリストのからだの中に起こってくるのです。そのような能力が欲しいです。しかし、すでに、教会に与えられていると信じたいと思います。

 続いては「預言の賜物」です。預言とは、神からの直接的メッセージを伝える働きです。しかし勘違いしてはいけないことは、そこには「御言葉」という前提があり、その枠を超えてはならないのです。御言葉の真理を補佐するために、神が預言的メッセージを用いられます。この賜物は重要です。しかし、個人としては「預言の賜物がある」と認知しない方が良いのかも知れません。私たちが昼食にカレーを食べながら、人と話している中でお互いに預言的な言葉を語っているならばどうでしょうか。その結果、知らないうちに、神が備えられた方向に人生が導かれます。

 同時に、はっきりと預言的な言葉を語る能力もあります。一九九三年甲子園ミッションの時に、私たちの教会に大きな試練がありました。それで皆、元気を失っていたときでした。アメリカからシンディ・ジェイコブス先生が来られ、新城教会の未来に対して、預言的な言葉を語って励ましてくださいました。これは先生を通して、主が、この教会に語ってくださったと信じています。

 その時、この教会にやがて、出版部門ができると言われました。当時は、六畳一間のプレハブで岡本信弘先生と夏目洋平兄が印刷をしていましたが、一二年後、プレイズ出版がこんなに成長するとは思いませんでした。

 また、やがて神学校ができると語られましたが、今は何と、神学校校舎建設中です。私たちは、預言があったから頑張ったのではなく、色々なことが重なって気づいたらこのようになっていました。これは預言的な賜物によりました。神様がそのような力を教会に与えています。

 次に「霊を見分ける力」です。この賜物は、私に与えられている賜物かも知れません。それは人を苦しめている、背後の悪霊的力について、調査や研究などを通して総合的に判断し見分ける賜物です。主は私に、霊を見分け、解放する賜物を与えてくださっていると信じます。

 先週は「リバイバル聖書神学校」がありました。毎年五月には、一年生の方々のために、解放を祈ります。二年生、三年生が新入生のために祈ります。特に、家系的な束縛の断ち切りを祈ります。上級生が祈った後に、私か、有賀先生のところに新入生を連れてきます。その時に私は、学生たちでは見抜けなかった領域について見抜かせていただくことが多々ありました。それは私のためではなく、他の人の利益のためです。先週の木曜日は、解放の祈りを夜七時から始めましたが、十二時に終わりました。神が私に、そのような賜物を与えてくださっています。これは私だけではなく、皆さんの中にも与えられていると思います。新城教会の中には、この賜物が多く与えられていると思います。特に、地域のどこを祈れば良いのかは、霊を見分ける賜物がなければ祈れません。

 次は「異言の賜物」です。聖書は異言について、「祈りに属する異言」と「宣教に関わる異言」が記されています。ペンテコステの時に注がれた賜物は、宣教に伴うことでした。そこで弟子たちは、他国の言葉を語っていました。彼らは特別、外国語を勉強しませんでしたが、外国語を語る能力が与えられました。

 またそれと共に、祈りを補佐するための異言の賜物を与えてくださいます。私は、異言の賜物でよく祈ります。異言の祈りは、自分では理解できませんが重要な祈りです。それは言い換えると、「祈りの賜物」です。すでに皆さんにも与えられていると思います。時々、知性の祈りの中で、言葉では表現したくても表現できない事柄があります。

 私はよく海外に行きますが、英語があまりできません。六月にもアメリカに行きます。自分の持っているボキャべラリーの中で表現しようとすると行き詰まって悶々とします。祈りも、どう表現して祈れば良いのかわからない時があります。私は、そんな時に異言の祈りをします。「主よ。私は、どう祈って良いのか表現出来ません。異言で聖霊様がその事柄のために祈ってください」と知性で祈ってから異言で祈ると、内側から聖霊様が直接祈ってくださいます。

 そして、最後に記されている賜物は、「異言を解き明かす力」です。私の息子が小さい頃、そのような賜物と力を主は彼に与えられました。しかし、解き明かしの賜物は、ただ異言を解くだけではありません。

 時々、とりなしの祈りに出かけて行って感じることですが、祈ってもうまく表現できなかったところを、隣の人がうまく表現して祈ってくれることがあります。「私は、それを祈りたかった!」と思うことがよくあります。これはある意味で、異言を解き明かす賜物だと思います。祈りの中で、互いの祝福のために、自分では表現しきれない部分を、聖霊様が他の人を使って祈らせてくださいます。

 「九つの賜物」をリストアップしましたが、皆さんの中に何があのるか、考えて見てください。そして祈ってみてください。ある人は、自分の賜物に気づかないかも知れません。

 体も胃がどこにあるのかわかるときは胃が悪いときです。私には、心臓が右にあるのか、左にあるのか分かりません。心臓の位置を常に感じる人は、心臓に少し問題がある人かも知れません。御霊の賜物も、キリストのからだに組み込まれているので、わからないときがあります。人間の体も、外から見える領域と、内側に組み込まれていて、見えない領域があります。賜物も同様です。これらの賜物が教会の中で機能し始めたら、素晴らしいことが起こると思います。今まで解放されなかった人や、救われなかった人、癒されなかった人が解放されます。

 私たちには、それぞれの賜物の管理者として、責任があります。私には「霊的戦いの賜物」がありますが、自分では、「まだまだ駄目だ・・」と思います。私が皆さんに発表している事柄は、成功例だけです。戦っても、うまく行っていないことは山ほどあります。私がいやしを祈っても治らない、なかなか解放されない方々もいます。「どうしたら良いのか・・」といつも祈っています。「主よ。私はまだまだ不十分です。助けて下さい。」と祈っています。それは、年金を払っていない政治家のようです。自分自身にまだまだ欠けがあり、割り当てられた領域を果たしていないと申し訳なく思っています。毎週、真剣に祈っても、なかなか勝利できないこともあります。

 しかし私だけではなく、一人ひとりに能力が与えられているので、その能力が互いに支え合って事が成されるというのが今日のテーマです。

 

 さて、賜物を使うときの注意点についても、聖書は教えています。ヤコブの三章十三節から十八節に、

『あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。』

 先週、「知恵ある者として生きよう」というお話をしました。賢い生き方に関連して、「もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。」と教えています。それは、「苦い妬みや敵対心」があると賜物がうまく使えないのです。

 「苦い妬みや敵対心」とは、言い換えると「えこひいき」です。「私とあなたは違う。私よりも、あなたが優れている」「私の方が劣っている」という比較によって、やがて「妬みや敵対心」に至ります。誰かをえこひいきすることにより、妬みや敵対心になります。その思いは「地に属し、肉に属し、悪霊に属する」というのです。悪魔は私たちに誰かと比較させたり、妬ませたり敵対心を持たせます。そうすると、せっかく神から与えられている賜物は機能しなくなり、賜物は悪魔の手に渡ってしまうのです。

 ですから、決して妬んだり敵対視ことなく、それぞれに与えられている賜物を喜び、楽しむことが大切です。あなたの隣の人が優れた賜物を持っていたら、それはあなたのためです。喜んで、その人を支え、祈ってあげなさいというのが聖書の教えです。キリストのからだは、調和の中で建て上げられていくものです。

 飛行機はなぜ飛ぶのでしょうか。何十トンという鉄の塊が飛ぶのは驚異です。エンジンが止まるならば、絶対に落ちます。では、どうして飛ぶのでしょうか。翼があるから、エンジンがあるから、パイロットが居るからでしょうか。もちろんそれらの全部が必要です。それぞれに役割があります。しかし、それらは単体では決して飛べません。なぜ飛行機が飛ぶのかの理由は、「飛行機という物体に、人間の知恵がおかれている」からです。人間の知恵が基本になければ、飛行機は飛ぶことはできません。

 私たちも同様です。それぞれ色々な賜物がありますが、「御霊の」「賜物」と言われるように、神の知恵が注がれることによって賜物は支えられるのです。

 翼がエンジンに向かって、「おい、エンジン。俺がいるからお前がついていられるんだ。」とは言えません。エンジンは、「何を言っている。俺が力を出しているから浮かぶんだ・・・。」と言うこともできません。それぞれの役割です。

 今日神の知恵を受け、神の霊を受けて、新城教会の中に与えられている賜物が引き出され、全体を潤すのです。やがて、教会に与えられている賜物が活用され、国全体、世界を変える教会として用いさせていただきたいと願っています。

 沖縄において新城教会のチームを用いてくださっています。沖縄スーパーミッションを通して、日本全体に主の業が拡大することを信じています。

 妬みや敵対心、えこひいきという悪魔の領域に属する事柄から解放され、自由にされましょう。第二テモテ一章六節から七節に、

『それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。』

と記されています。按手祈祷には不思議な力があります。手を置いて祈るときに、神の力が注がれるというのは、神が人に与えた霊的法則だと思います。

 今から皆さんとともに祈ります。今日は、隣の方と一緒に祈ってください。賜物がそれぞれ引き出されますようにと祈りましょう。互いに与えられている賜物が御霊によって用いられるよう、お祈りしましょう。


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