いっさいを満たされる方

2004.5.30(SUN)
新城教会 滝元 順牧師
新約聖書 エペソ人への手紙 1章20節 - 23節
神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。


 ハレルヤ!皆さんと共に礼拝ができることを感謝します。今日は「ペンテコステの日」です。それは教会の誕生日です。イエス様は十字架にかかられ、三日目によみがえられ、四十日間人々に現れ、その後天に帰られました。残された弟子たちは、イエス様の命令に従い、二階座敷に上って、力を待ち望んで祈っていました。祈り始めて十日目。イエス様がよみがえられて五十日後に、天が開かれ聖霊が注がれ、教会が生み出されました。その結果、同時に三千人が救われ、仲間に加えられて弟子となり、エルサレムとユダヤとサマリヤ、そして、全世界に出ていって福音を宣べ伝えたのです。約二千年前のこの日、教会が誕生したことにより、今、このように日本においても、主を礼拝をしています。聖霊が注がれた日がなかったら、福音は全世界に広がらなかったと思います。

 話は変わりますが、昨日は岡本司兄と原わかさ姉の結婚式が行われました。昨日の結婚式はとても楽しく、麗しい結婚式でした。今年は結婚されていない方々に、結婚の祝福が注がれますように祈ります。
 今から十数年程前、甲子園ミッションのために多くの若者が献身して働きました。しかしミッションが終わったとき、結婚していない多くの若者がいました。ある時、主がその若者たちを前に出し、聖霊の油注ぎがあるよう祈りなさいと示してくださいました。それで若者たちを祈祷会の中、前に呼び出し、結婚の祝福に与れるようにと祈りました。すると、その後から天が開かれ、次から次へと結婚が決まりました。結婚には神のみこころがあります。悪魔はその御心を、何とか閉ざそうとします。今年は多くの方が結婚できるようにと祈ります。

 イエス様は十字架にかかられ、死を打ち破ってよみがえられました。私はいつもイエス様が天に帰らずにそのまま地上におられたら、どんなにか素晴らしいだろうと考えます。よみがえられたイエス様が、エルサレムあたりに事務所を構えて、世界中を巡回されたらもっと効率よく伝道できたのではないかと思います。なぜ、イエス様は天に帰られたのだろうかと思います。たった四十日間だけ、地上におられて姿を消されました。
 しかし天に帰られたことは、イエス様が語られたように、私たちにとって益でした。イエス様がもしも地上に留まり続けたならば、その働きはイエス様だけに限られてしまいました。たとえば、新城城教会でイエス様を講師にお招きしようと考えたらどうでしょうか。イエス様が一番良い講師です。私たちは集会があるときに、誰を講師として招こうかと考えます。しかし人間は不完全ですので、イエス様が来られたら最高です。どんな病人も癒され、悪霊もすべて追い出されます。また、イエス様には、五つのパンと二匹の魚で男だけで五千人を養ったという経歴もあるので、食事もあまり用意しなくても良いと思います。当時は五つのパンと二匹の魚でしたが、今ならば、ちょっとしたグルメを用意してイエス様にお願いしたら、どんどん増やしてくれます。またイエス様は、水の上を歩いたという奇跡を行われました。現代ならば、空も飛ぶと思います。飛行機代も払わず、イエス様は一瞬で来てくださると思います。しかし、エルサレムのイエス・キリスト事務所に電話して予定を聞いたらどうでしょうか。多分、秘書が電話に出て、「イエス様は忙しくて、日本の片田舎まで構っていることはできませんよ」と言われるかも知れません。「そんなことを言わずに来てください」と真剣に交渉すると、「今のスケジュールから言うと、日本に行けるのは、百五十年後になります」と言われるかも知れません。イエス様一人では、働きが限られてしまいます。しかしイエス様が天に帰られた代わりに、天を開いて、イエス様ご自身が地上で受けていた、神の霊である聖霊を遣わされたというのです。
 聖書の深い真理に、「三位一体」があります。それは、父なる神、子なる神、聖霊なる神が一つということです。イエス様は人間のからだに宿られた神ですが、その体を脱ぎ捨て、神の霊がこの地上に遣わされました。そしてエペソ一章二十節から二十一節に、

『神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。』

とあります。イエス様がよみがえられたときに、天においても地においても、「いっさいの権威」を受け取ったとあります。イエス様以上の権威を持っている者はどこにもいません。そして二十二節、二十三節に、

『また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』

と記されています。特に、二十三節、

『教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』

「いっさいのものをいっさいのもので満たす方」とありますが、それは「聖霊様」のことです。イエス様の上に、聖霊様が臨んでおられました。イエス様は聖霊様とともに働かれたので、ご生涯は奇跡の連続でした。病は癒され、悪霊は追い出され、自然界の法則に支配されない能力が備わっていました。イエス様が天に帰られことには、大きな意味がありました。それは、地上に、イエス様と同じからだが用意されたというのです。それが、「教会」です。「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」とあります。
 教会は「体」の役割を持っています。今の時代、地上にイエスはおられませんが、それと同じ機能が備わっています。それが教会です。かつてイエス様のからだに聖霊の力が宿ったので、神のわざが表されました。同様に、教会にいっさいのものをいっさいのものによって満たす、聖霊が注がれるときに、かつて二千年前にイエス様が行われたのと同じわざが、教会を通して成されると聖書は教えています。

 今、日本に教会が八千程ありますが、それは「キリストのからだ」を表しています。そこに聖霊の力が注がれるときに、それは生き物となります。人間も体があっても、命がなかったら死んでいる状態です。身体にいのちの息吹が吹き込まれているので生きています。同様に、教会も身体を構成していますが、そこに聖霊の力が注がれなかったら、何の役割も果たしません。教会は身体を提供していますが、そこで生きて働かれるのは聖霊様です。今日、いっさいのものを、いっさいのものによって満たす聖霊様が、教会を通して神のわざを現してくださるように祈りましょう。

 二週間ほど前、一人ひとりは「各器官」であると学びました。「えこひいきなし」というタイトルで、一人ひとりに神の賜物が備えられていると学びました。教会という体は、各器官によって構成されています。今日ここにおられる一人ひとりは、臓器と同じように組合わさって体になるのです。そこに神の霊が注がれることにより、役割が果たされます。今日ここにおられる全員に、神の能力があります。えこひいきなく、一人ひとりの上に、神の目的があります。「私には能力はない」などと言わないでください。なぜならば、神があなたを造られたので、神はあなたに豊かな霊的能力を備えてくださっています。このことは、第一コリント十二章四節から十一節に書かれています。

 さて、教会に聖霊が働かれている証拠を、どこで見分けることが出来るのでしょうか?教会に、いやしや奇跡などが起こされることがありますが、それらだけで聖霊様が働いていると考えるには少々、危険な面があります。なぜなら、新興宗教が売り物にしているのも、奇跡や癒しです。しかし、それらが結ぶ実はよくありません。
 けれども、聖霊様が働かれると、わざだけではなく、そこには素晴らしい「御霊の実」が結ばれます。ガラテヤ人への手紙五章二十二節から二十三節に、

『しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。』

と記されています。イエス様を信じて、聖霊様に触れられると自然と、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という実を見ることができます。私は全部の実を結ぶ者になりたいと願います。ある人は、「私は実を結んではいない」と言うかも知れません。しかしクリスチャンになれば、これらのうちいずれかの実を結ぶようになります。教会に来るようになって、少し愛が与えられたかな・・。喜びがある。平安が心に来た、などいくつか思い起こすことができると思います。また、私は、以前より少し寛容になった。少し親切になった。誠実になってきた。柔和になってきた。昔よりも自制できるようになった・・、と感じるのは「御霊の実」です。
 教会に来ていると、このような実を結ぶことができます。しかしこれは努力して結ぶようなものではありません。一生懸命努力しないと、実は結べないと考える人がいるかも知れませんが、実は努力して結ぶようなものではありません。秋に果物が努力をして実を結んでいる姿を見たことがあるでしょうか。柿の木が夜中にうめき声を上げて実をならせたり、メロンがうめきを上げたりしていることはありません。自然と実を結びます。聖霊様の働きも同様です。

 さて、教会に聖霊が注がれたときは、どのようなことから始まったのでしょうか。それが、使徒の働き二章に記されています。二章一節から八節に、

『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。』

 聖霊が注がれて教会が誕生したとき、最初に起こった奇跡は何だったのでしょうか?
 イエス様の弟子たちは、ガリラヤの人たちでした。丁度、私のように三河弁しか話せないような田舎者でした。私たちは、三河弁が標準語のように考えていますが間違いです。
 時々色々な地域で集会をすると、日頃なにげなく使っている言葉が、全く通じないことがあります。おかしいと思うと、それは三河弁のせいなのです。
 かつてミッションの集会を、大阪で行いました。その中のアトラクションで、岡本信弘先生が、じゃんけんゲームの司会をしました。先生が「ピーの人・・・」というと、全く通じませんでした。正しくは、「チョキ」と言うようです。
 聖霊が注がれたとき、ガリラヤ弁しか話せなかった人たちが、他国の言葉で話し出したというのです。
 実は今週、ゴスペルクワイヤーの方々が、アメリカのワークショップに出掛けます。私もチャップレンでついていきます。向こうに行くと、英語を話さなくてはなりません。来週の日曜日、私は、ロサンゼルスの日本人礼拝で奉仕します。またその後一週間ほど滞在し、シアトルの教会で三日間の集会します。また、娘がいるヤキマでも集会をします。ぜひ祈ってください。世界に出て行くと、色々な言葉があります。言葉が一つだけなら、どんなに便利かと思います。
 私はアメリカ人をうらやましく思います。なぜなら英語は、世界中で使われているからです。またスペイン語も良いです。南米だけでなく、ヨーロッパやアメリカでも使われています。しかし日本語は潰しがきかない言語です。日本以外では通じません。しかし中国に行って少し安心しました。表記が漢字なので読めばだいたいわかります。しかし漢字は日本のものではなく、中国からの借り物です。何れにしても日本語は汎用性の低い言語です。私も、もう少し言葉ができたらよかったと思います。
 私は高校生の時に、アメリカに留学できるチャンスがありましたが、残念なことにそうなりませんでした。それもフロリダで、三年間高校生活というものでした。しかし今考えると、あの時にフロリダに行っていたら、ここには戻っていなかったかも知れません。すべては神の計画の中にあります。

 さて、人類の起源は、ある意味、二回あります。最初は、アダムとエバです。しかし、彼らが罪を犯したことにより、神は人類を造ったことを悔い、人類を大洪水で滅ぼしました。それがノアの洪水です。
 先日「創造科学」という、神が天地を造られたことを前提にして、科学を論じる学者グループのホームページを見ました。そこに、「ノアの箱船発見」という記事と写真が掲載されていました。ノアの箱船は事実です。
 神は、ノアの箱船の後、ノアの家族を通してもう一度人類を再スタートしました。このことについて創世記に記録があります。しかし再スタートされた人類は、神の期待を裏切り、またおかしな方向に向かって行きました。その一番大きな事件が、バベルの塔を築いたことです。創世記十一章一節から九節に、

『さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。』

と記されています。今、地球の人口は六十億以上です。地球は球体です。このことについても聖書に記されています。それは普通では出てこない概念です。昔の人は地球は平らだと考えていました。ずっと船で海を走っていくと落ちてしまうと思っていました。しかしコロンブスは地球が丸いと信じて航海しました。すごいことです。現在、世界中どこにおいても、人が住んでいて多くの言語があります。これは人類がバベルの塔を築いたことに一因があるのです。
 人々が町を建て、塔を建て始めたら神がその光景を見て怒り、塔を壊し、言語を混乱させ人々を散らしてしまいました。相当、その時、神様の機嫌が悪かったかと思います。神は天地宇宙を創ったお方なのに、なぜ、そんなことぐらいで怒るのかと思います。人間が煉瓦で町を作ることなど、神の目から見たら、子どもが積み木で遊んでいるようなものだと思います。それを壊すとは、あまりにひどいと思うかもしれません。しかし、ここにはもっと深い意味があります。
 「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」と記されていますが、「塔を立て」というところをリビングバイブルでは「神殿を建て」と訳しています。これは霊を降ろす、「降霊術」のための塔でした。降霊術を行うための施設作りに人々は働いたのです。
 現在、日本でも降霊術が流行っています。「神降ろし」というものです。これは真の神が怒られる悪しき行為です。人々は自分の名をあげる、すなわち、「自分のために神を利用するために」高いところに上り、霊を受けようとしたのです。そのことに関して、神は怒られ、人々を全面に散らされました。これは、単純に人が町や塔を作ったためではありませんでした。人類が、降霊術に関わったために怒られたのです。
 日本には、色々な新興宗教があります。その根源はすべて降霊術にあります。神社に行き鈴を鳴らし、柏手を打って拝むのは降霊のための行為です。神社の霊を降ろして、自分の願いを成就しようというものです。仏壇も、先祖の霊と呼ばれるものを、効率よく招くための装置です。先祖の霊を呼びつけて、(先祖の霊のふりをした悪霊ですが)人生の運気を高めようとする道具です。初めから人は偶像を作ってはいませんでした。何らかのそこに行き着く概念があって像を作ったはずです。その動機が「自分の名を上げる」ためでした。
 十六世紀以前の人種分布は、今とは全く違いました。現在は北米に行くと白人が住み、また南米に行くとスペイン系、アフリカの方に行くと黒人という、主な分布があります。しかし十六世紀以前は、北米や南米にインディオたちが主に住んでいました。南米のチリの先端にはフエゴ島があります。そこにまでインディオが住んでいたそうです。それで人類学者たちは、インディオがどこから渡ってきたのだろうかと調査しました。するとそれは、アジアの人々だったのです。先日、私はパナマに行きましたが、パナマの先住民と言われる人々は背の低い、私たちと同じような顔をしている人たちでした。
 いつ頃からかは分かりませんが、彼らはアジアから渡ってきたのです。なぜこんな長い道のりを追い立てられ、駆り立てられるように移動してきたのでしょうか。これには、宗教的な理由があったに違いないと言われています。それは霊のお告げで、「遠くへ、遠くへ・・」と移動したのではないかと言われます。
 聖書のバベルの塔のストーリーの記録は、そのことを裏付けています。

 人は言葉を使いコミュニケーションしますが、言葉が通じない事態が多く発生しています。日本人で、同じ言語を話していても、言葉が通じないことがあります。例えば、昨日は結婚式があり、お互いに「愛します」と誓いますが、しばらくすると言葉が通じなくなることが多いのです。結婚した当初は、言葉など発しなくてもすべてが通じ合っていると思っていますが、一年、二年・・、十年、二十年経つと、お互いいくら説明し合っても理解できない状況が起こる可能性があります。言葉が通じなくなるのです。
 ほとんどの問題の中心が、コミュニケーション問題です。親は子どもを愛していますが、子どもは「親は私を愛していない」というのです。なかなか愛を受け取れない状況になります。もちろん、テクニック的なこともありますが、それ以上に、バベルの塔の呪いが関わっているのです。
 日本で言葉が通じない原因の根底に、偶像礼拝があります。偶像礼拝は知らないうちに悪霊を呼んでいます。その結果、身に起こることは「バベルの塔事件」です。周りの人々と言葉が通じなくなり、関係が遠くなり散らされるのです。結婚した当初は近かった関係が、徐々に遠くなります。根源に霊的理由があるのです。

 さて、聖霊が注がれた場面を、バベルの塔事件と対比するとよく理解できます。バベルの塔事件は、人々が自分の名を上げるために霊を呼びました。その霊は「悪霊」でした。その結果、言葉は混乱し、関係が遠くなりました。
 しかし聖霊の注ぎは、その正反対でした。彼らは、イエス様の命令によって高いところに登り、「私たちに力を与えてください」と祈りました。力を自分たちのために利用しようというのではなく、それは神の御心を実現するための力でした。弟子達は「力を受けるまでは都にとどまっていなさい」という命令に従って祈った時、聖霊が注がれ、異国の言葉を流ちょうに語りました。別に勉強をした訳でもないのに、外国語を話し出して外国人とコミュニケーションできたのです。その結果、散らされていた人々が集まり、三千人が救われたのです。
 ペンテコステは、ある意味でバベルの塔の呪いからの回復です。バベルの塔事件で、人類は神と人との関係を失いました。しかし、聖霊降臨により、奪われた関係を回復したのです。教会は、聖霊により回復のために働くのです。
 今日、「私は誰かと言葉が通じない。関係が遠い・・」という、コミュニケーション問題を持っておられたら、神との関係を回復し、偶像礼拝、降霊術に関わった罪と呪いを断ち切り、聖霊の力を受けてください。そうしたら、言葉が通じるようになります。

 ユダヤ人たちは外国人と、あまりコミュニケーションをしませんでした。なぜならば、ユダヤ教は、異邦人は汚れた人たちと差別していたからです。しかし聖霊が注がれたとき、言葉の賜物を受け、出て行って外国まで福音を伝えるように変えられたのです。
 新城教会には、日本国籍の方ばかりではなく、外国の方々も来られています。土曜日の夜八時半からは、毎週、外国の方々が集まっています。百名以上の方々が集っています。このミニストリーは、かれこれ十数年前から始まりました。
 十数年前、新城にはあまり外国人はいませんでした。ある時、私たちは新城ユニー前でトラクト配布をしました。すると、少し色の黒い方がトラクトを受け取りました。「教会に来てください」というと、あまり言葉が通じませんでした。「どこから来ましたか?」と聞くと、ペルーの方々でした。その頃の私は、ペルーがどこにあるのかも知りませんでした。家に帰ってから地図帳で位地を調べました。ちょうどクリスマスでしたので、教会に誘いました。すると二人が来てくれました。そして、「仲間を連れてきても良いか?」と言われ、次々と多くの方が教会に来られました。そこで日本人とペルー人がともに賛美しました。簡単なスペイン語で賛美をし、集会をしました。それがきっかけで、インターナショナル部会が発足し、十数年の間に多くの外国人を送ってくださり、その働きは途切れることなく行われています。そのためには、常に助け手が与えられました。ある時には、アルゼンチンからアドリアン宣教師が新城に偶然来て、五年ほど滞在し働きを導きました。また現在は、フェルナンド先生たちがその働きの中から献身し、働きを継続しています。それは不思議だと思います。
 昔は、外国人と日本人はとともに礼拝していました。しかし最近は、両方とも多くなったので別々に礼拝を行っています。昨日、私は、何ヶ月かに一度でも良いから、インターナショナルの人たちも一緒に礼拝したらどうかと提案しました。近々、合同礼拝を行いたいと願っています。これは、ある意味で壁を破る働きになります。
 ペンテコステの聖霊の注ぎは、個人的なコミュニケーションの回復と同時に、他国の人とのコミュニケーションの回復です。国を超えて、イエス様によって言葉が通じ合うようになり、心が通じ合うようになるのが重要です。
 新城教会に来られている海外の方々は、同じキリストのからだです。イエス様のからだを構成する器官の一部です。「あの人たちは外国の人だから・・・」と考えてはいけません。教会は、壁なし、国境なし、人種差別なし、言葉の壁なしです。私たちは神の国の中にあり、神の民であり、一つであると理解するところに聖霊様は働いてくださいます。勇気を持って外国の方々にも言葉をかけてください。神にとって日本人とか外国人とかは関係なく、すべての人の救いを願っておられます。

 ガラテヤ人の手紙五章二十五節に、

『もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。』

と記されています。御霊によって満たされ、御霊に導かれて進むという御言葉を自分のものにしましょう。聖霊に満たされ、御霊に導かれて進むことが大切です。聖霊様は、私たちがどこに向かって行くべきかを導かれます。御霊の導きは、私たちに思わぬ祝福をもたらすものです。人間は未来がわかりません。ただ予測だけで生きなければなりません。しかし御霊の導きは、確実な、神のみこころに導き入れてくださいます。

 来週の日曜日には、興味深いとりなし祈祷会がありますので、ぜひご参加ください。今年は、オリンピックがあります。オリンピックに全世界がエキサイトしますが、オリンピックの原点は、あまり良いものではありません。その根底に、ギリシャ神話があるからです。それは英雄たちの墓前で行う、墓前競技から始まっています。日本の相撲は神社の奉納です。それと同様に、オリンピックはギリシャ神話の神々に対する奉納です。聖火と言いますが、それは聖なるものではありません。聖火は、ヘラ神殿で巫女が太陽神から火を受けとります。その火が五大陸を回るのです。ギリシャ神話の偶像、すなわち、悪霊から受けた火が、世界中を巡るのです。
 先日私たちは、六月六日の午後のプログラムのために祈っていました。そんなときに、ふっと、「今年はオリンピックがある」と話していました。現在、聖火が全世界を巡っています。それが日本にも来ます。いつくるのだろうかと調べました。すると、六月六日の日曜日に東京に来るそうです。その火は特別機を仕立てて運ばれるようです。ヘラ神殿で点された火を絶やさないようにするためです。聖火が日本を廻るのは、ギリシャ神話の偽りの火を、日本につけるようなものです。その事に関して、とりなし、祈らなければならないと話していました。
 そして、「誰かヘラ神殿まで行って、祈ったら良いのになあ・・・」と冗談で言いました。すると、そこには不思議な神の導きがありました。それは、昨日結婚した岡本司兄たちが新婚旅行でローマに行く予定があったからです。彼らは、私が去年ローマに行ってとりなしの祈りをしたので、自分たちも、新婚旅行をかねてローマにとりなしの祈りに行きたい、と言っていました。
 教会で働いている人たちの新婚旅行の休みは、大体、一週間くらいです。次の日曜日までには帰ってくる、と言って彼らはスケジュールを立ました。しかし、ギリシャはローマの隣国です。私は彼にこう提案しました。
 「あと三日間休みを延長してあげるから、費用はあなたたち持ちで、ギリシャまで行って来ないか」と言いました。すると、彼の目が輝きました。彼は色々と旅程を調べていました。何と、丁度良いタイミングで、六月六日午後三時頃、新城教会のオリンピックとりなし祈祷会の最中に、彼らはギリシャのオリンピアのヘラ神殿に行けることになりました。そこから、新城教会と電話でつなぎ、悪しき火が全大陸を覆うことがないように、オリンピックが世界に霊的悪影響を与えることの無いように祈ります。それとともに、東京に住んでいる一人の兄弟が、都内を巡っている聖火(悪火)の目前で一緒に祈ってくれるようです。すべてのタイミングが整えられたのです。今はインターネットの時代なので、聖火がいつどこを走るのかもわかります。ギリシア、東京、そして、新城をつなぐ三次元の祈りをします。必ず、素晴らしいことが起こされます。ギリシャ神話の、悪魔の火が消えるように、私たちは祈らなければなりません。ぜひ、司夫妻のためにも祈ってあげてください。アテネから、ヘラ神殿までは三百キロほど移動しなければならないようです。これは、御霊の導きだと思います。六月六日に聖火が日本に運ばれ、丁度、岡本司兄が新婚旅行に行っており、ヘラ神殿にまで行くスケジュールを、誰が立てることが出来るのでしょうか。神が導きを与えておられることがわかります。

 昨日私は、結婚式での指輪の交換の時に、「結婚指輪には、あまりいい意味がない」と話しました。結婚指輪の起源は、不死の神、プロメティウスが、最高神ゼウスの怒りをかい、鉄の鎖で縛られていたのが、ゼウスへの絶対服従の誓いと引き替えに解放されるという神話に基づいています。ゼウスは絶対服従の証拠として、つながれていた鉄の鎖で指輪を作り、プロメティウスにはめたことから始まりました。キリスト教がローマの国教になったときには、結婚指輪は中止されました。また、宗教改革は結婚指輪を否定しました。しかしそれに反発して、カトリックが結婚指輪を良しと認めて対抗し、人々に指輪をするよう勧めました。アメリカの厳格なピューリタン達は、今でも結婚指輪をしないようです。
 この件に関しても、しっかりと祈らなければなりません。結婚指輪は、妻が夫の奴隷になるという意味が含まれています。その意味において、女性から先に男性に指輪をはめます(その他にも、性的な意味もあります)。そこにはギリシャ神話の概念が入り込んでいるのです。そのような中、知らないうちに、降霊術との関わりがあります。指輪はギリシャ神話の神々の霊力を置く、という意味もあるのです。指輪をしているがゆえに、関係が遠くなったり、言葉が通じなくなることもあるのかも知れません。ですから、イエス様の御名の権威を宣言し、そのような悪しき関係づけを断ち切って祈ることが大切です。このように導かれるのは、御霊の働きだと思います。

 ペンテコステの日に、聖霊によって、言葉を回復していただきましょう。また新城教会が、他の国々に対して壁がなく、世界宣教に燃える教会となるように祈りましょう。更にインターナショナルの働きも祝福されるよう祈りましょう。
 もしも言葉の混乱があったら、今日は解かれますように。降霊術の呪いも断ち切られ、勝利が与えられるよう祈りましょう。

祈り

「イエス様。今私たちは、あなたのお名前で、父なる神にお祈りします。私たち新城教会は、キリストのからだであることを宣言します。聖霊様。満ち溢れてください。一切を満たしてください。私たちに与えられている賜物を引き出してください。私たちを通して、神のみこころを現してください。私の思いではなく、神のみこころを現してください。かつて、偶像礼拝や降霊術に関わったこと赦してください。自分のために霊を呼ぶ行為に、参加したことを赦してください。その時に奪われた、言葉や関係の賜物を今取り戻してください。全ての悪しきつながりを断ち切ってください。家庭の中に平和を与えてください。夫婦の間に、親子の間に、平和を与えてください。地域の中に平和を与えてください。一切のギリシャ神話や、ローマ神話の悪しき力からも断ち切ってください。私たちを御霊によって導いてください。神のみこころの中で導いてください。支えてください。日本人として、海外の人たちに対する重荷を与えてください。言葉の壁や文化の壁を、イエス様の名によって取り除いてください。心を一つにしてください。教会から、多くの宣教師たちを、世界に送る日が来ますように。そのためにも、新城教会のインターナショナルの兄弟姉妹を祝福し、守ってください。その働きを祝福してください。今日、私たちは聖霊によって、一つであることを感謝します。今、満ち溢れてください。全ての領域に満ち満ちてください。イエス様の名によって勝利を宣言してお祈りします。アーメン。」

 また、もしも、他の国々に対して、偏見や差別があったら、悔い改めて祈りましょう。イエス様の目で、国々を見ることができますように。愛を持つことができますよう、祈りましょう。


[バックナンバー]