気をつけなさい

2004.6.6(SUN)
新城教会 滝元 明牧師
コリント人への手紙 第一 10章12節 - 14節
ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。


 ハレルヤ!皆さんとともに礼拝できることを感謝します。先週は嬉しいこと、悲しいことなど色々なことがありました。土曜日には岡本司兄・わかさ姉が結婚されました。今日彼らはギリシャのオリンピアという所にいて、午後行われるオリンピックとりなしの祈祷会で彼らとつないでお祈りをします。しかし先週は悲しいこともありました。先週五月二十七日と二十八日にかけて私は北海道に行きました。それはこの教会にも来てご奉仕下さった三橋萬利先生が五月二十三日の日曜日に突然お亡くなりになり、葬儀のためにうかがいました。三橋先生はその日日曜礼拝で三回「神に会う備えをしなさい」という御言葉をメッセージしたそうです。人間はいつ神の前に出なければならないかわからないので神に会う備えをするようにという話をされたそうです。三回のメッセージをして夕方家に帰り、車椅子で散歩をし、夜十時頃にお風呂に入りました。先生は障害があり、ご自分では何もできないので奥様が全てお世話をしていました。その日シャワー中に奥様が洗濯物を干すからといって二階に行き帰って来てみますと、お風呂でうつぶせになっていました。「あれっ、眠ってしまったの?」と言うと、既に息が絶えていたようです。心筋梗塞で瞬間的に召されたようです。彼は私が尊敬している人の中の一人です。常々三橋師ご夫妻に私は文化勲章でも差し上げても良いと思っていました。彼は二十七才で結婚されたそうです。当時奥様は十九才でした。三歳の時、小児麻痺になり、足は全く動かず、右手も動かず、左手が少し動くだけです。悲しみの中からイエス様に導かれて救われ、喜んで証をし、伝道するようになったときに、神様が十九才の看護学生に「あなたがあの方を助けるために結婚しなさい」と言われたそうです。それが三橋先生の奥様の幸子先生でした。結婚後五十年近く一緒に歩みました。彼は動けないので奥様はいつも背負っていました。トイレに行くときも、お風呂に行くときも五十年近くずっとご一緒でした。海外だけでも三十六ヶ国行かれたそうです。この地上の勤めを全うされて天に凱旋されました。私たちもいつ何時どのようなことがあるかわかりません。息子さんふたりも牧師で、生きている時に「お父さん。葬式は僕たちがするから心配しないで・・・」と言っていたそうです。前夜式には次男の先生が司式をし、長男の先生がメッセージをし、次の日は長男が司式、次男がメッセージをされました。素晴らしい方がこの地上から去って天に帰っていきました。ですから私たちもいつどうなるかわかりません。神の前にしっかり歩んでいきたいと思います。今日は「気をつけなさい」という御言葉を学びます。まずみなさん交通事故に遭わないように気をつけてください。病気にならないように。悪いことをしないように気をつけて下さい。今の日本を見ると大変悲しいことがたくさんあります。先週起きた事件で、皆さんご存じの長崎で小学校六年生の女の子が、自分のホームページに悪口を書かれたということで、テレビで殺人の仕方を見てカッターナイフで同級生を殺してしまったというのです。悪いテレビを見てはいけません。それは大人の責任だと思います。そういう映画を作らなければ良いです。憎らしいと思い殺してしまいました。学校も両親も日本中が大変悲しみました。ですから「気をつけなさい」ということは自分だけのことではなく、皆が守られるように祈るべきです。もし長崎の子が教会に来ていたらあのようにならなかったと思います。ですから子どもたちをなるべく毎週教会に連れてきて御言葉に耳を傾けさせることが大切です。「気をつけなさい」ということは、そのような実生活のこともありますがコリント第一の手紙で教えていることは何でしょうか?イスラエル民族は四十年荒野をさまよいました。その中で約束の地に入れた人は少なかったのです。なぜ入れなかったかというと、それは神の前に罪を犯したからです。だから気をつけて、罪を犯してはいけない、約束の地に入らなければいけないと教えています。人々は四十年間荒野で偶像礼拝をしました。偶像を作り、偶像にささげたものを食べて殺されたり、つぶやいては滅ぼされたと書かれいます。十二節には、「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」と書かれています。私たちが今日ここで礼拝できることは素晴らしいことです。信仰に立っているのです。しかし立っている人は倒れないように注意しなさいと教えています。今こうして立っていることは神の恵みなので神の恵みの中にとどまっているようにと書かれています。今日は六月六日ですが、六月というのは私にとって思い出深い喜ばしい月です。六月十七日は私たち夫婦の結婚記念日です。今年で五十四年になります。今まで浮気もせず、他の女性に手を出すこともなく、大病もせず、良い妻が与えられ、五十四年間守られたことは祝福だと思います。しかし考えてみると守られたことは素晴らしいのですが、自分の力ではありません。私が素晴らしいので五十四年間があるというのではありません。「立っていると思う者は倒れないように注意しなさい」とあります。五十四年間守られたことを心から感謝しています。イザヤ書五十一章一節に、

『義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。』

と記されています。時々私たちは、自分が掘り出された穴や切り出された岩について考えなければなりません。私も五十四年間を振り返ってみると、伝道に入ったときには親に反対され、何もなく、行く当てもないときがありました。しかし今日までこのように導かれたのを見ると、イエス様は何と素晴らしい方だろう思います。明日食べるものがあるかと思うときもありました。ですから私は食事の時にはいつも感謝します。「今日も食べるものが与えられて感謝します」と祈ります。今日まで食べるものや着るものが与えられたことを感謝して祈ります。あなたも切り出された岩について考えてください。私は金山で働いていました。金山を掘っていると金の固まりが出てくるのではありません。鉱脈を掘り出し、それを精錬し、たくさんの石の中から一ヶ月にたった三キロほどしか金はとれません。初めは金が入っていてもわかりません。しかし精錬されて金が出てきます。私たちの人生の中でも罪深い人間が救われ、訓練されてきよめられ、十字架の血潮で洗い、今日があります。ただ神様の恵みです。ですから私たちはいつも切り出された岩、掘り出された穴を見るようにと聖書は教えています。私たちの人生が神様のみこころにかなっていたら、人生は必ず祝福されることを信じましょう。。
 私の一番下の娘が東京で働いたことがありました。その時集っていた教会に一人の有名な先生が招かれました。その教会に集まっておられる方は私の娘について知っていましたが、その先生は知りませんでした。その有名な先生が話される中で「愛知県新城市にいる牧師ですが、彼は木こりのような人です。」と言ったそうです。それを聞き皆が笑ったそうです。私は木こりだと言われました。イザヤ書十章十五節に、

『斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか。それは棒が、それを振り上げる人を動かし、杖が、木でない人を持ち上げるようなものではないか。』

と記されています。斧は気を割る道具です。また鋸は木を切る道具です。斧が木を切って「どんなもんだい、俺は木が切れるんだ。」と言ったり、また鋸が「どんなもだい、おれがすごいだろう」と錯覚してはいけないと言うのです。斧よりも遣っている人が素晴らしいです。今日恵まれている方は神様が使ってくださったことを心に留めましょう。こんな私を斧として、また鋸として使ってくださった事を感謝しなければなりません。私の力、自分の力だと考えてはいけません。
 アメリカはプロテスタントのクリスチャンが多いです。彼らは聖書を信じています。ソビエト連邦は今のロシアですが、ソビエト連邦の時代がありました。一九一七年にレーニンが共産革命を起こしました。「神がいない」と言い、世界中を共産化しようと戦ってきました。力がありました。当時伝道しても「今時神があるか。神を信じるものは・・・」と言われる時代でした。しかし最近は少なくなりました。一九九一年にソビエト連邦が崩壊しました。今北朝鮮は神がないと言っています。とても貧しい国です。丁度人間も同じです。「神なんかいない。自分の力だ」と思うことはよくありません。どのようなことがあっても私たちは神の前にへりくだって生きることが大切です。毎朝早天祈祷会で賛美歌を歌い、聖書の御言葉を読みます。その早天祈祷会でつい最近エゼキエル書二十九章三節を読みました。

『こう語って言え。神である主はこう仰せられる。エジプトの王パロよ。わたしはあなたに立ち向かう。あなたは、自分の川の中に横たわる大きなわにで、『川は私のもの。私がこれを造った。』と言っている。』

と記されています。エジプト王パロが「川は私のもの。私がこれを造った。」と言いました。彼は神様を認めていませんでした。「俺がこの川を造った、この川は俺のものだ」と言ってみても川を造ったのは神様です。時々私たちは高ぶることがあります。牧師も高ぶることがありますので、ぜひ牧師のために祈ってください。
 リバイバル新聞の中に刈り取り伝道を導いた牧師について書かれていました。興味深いことが書かれていました。野外に出て行って、伝道しバプテスマまで導くという刈り取り伝道の働きをされていた教会です。一九八三年から八七年までの四年間で四千四百名がバプテスマを受けたそうです。一ヶ月間に百人か百五十人になります。また夏期宣教を行った一九八六年には一八〇〇名が集まったと書かれていました。私はその先生をよく知っています。当時とても成長しました。しかしある時駄目になりました。先生の家が火事になり、教会から先生は追い出されました。先生はこのように書いています。「私はいつしか傲慢になり、人のアドバイスを聞くことができなくなってしまいました。その結果としてこうなりました。最初は弟子訓練のつもりで指導していたことが人に仕えることが快感になり、自分を見失ってしまった。」と書かれていました。彼が行こうとすると、靴でもすぐに「はいて下さい。」と揃えてくれる人がおり、また「鞄を持ちます」と言うのです。これは先生自身が書いていることです。結果として高ぶり、駄目になったと書かれています。その先生が九州リバイバル聖会に来て皆の前でへりくだってこう言いました。「皆さん、私たちは傲慢で、よその教会は教会ではないと思って高ぶっていました。赦してください。」と謝れました。どんな牧師でも恵まれて有頂天になって「私がすごい」と言うことはありません。新城教会がもっと祝福されると信じています。リバイバル聖書神学校の校舎ができたらもっと多くの方が教会に来ると思います。この教会堂では小さいので将来建て直さないといけないかも知れません。しかし大きくなったときに、「どうだい。こんなに教会が大きくなったのは俺がやったからだ。」と言ってはいけません。霊的や解放や力があってもそれを与えられるのは神様です。その人物を使ったのは神様です。俺がやったと思うのは間違えです。神様が行われるのです。申命記八章一節から二節に、

『私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行なわなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。』

と記されています。神様がイスラエルの民を四十年間荒野を通されました。しかし苦しめて試みてあなたの心にあることを知るためであったと記されています。偶像礼拝をしてはいけないと言ったにも関わらず、モーセが山に行っている時、民が金の子牛を作りました。そして神にさばかれました。また偶像にささげたものを食べ、姦淫をして大勢の人が滅ぼされました。またつぶやきました。毎日天からマナが降りました。マナは天の食べ物です。彼らは四十日間毎日マナを食べていました。水は岩から出ました。それを見ただけでも神様に食べるもの、飲むものが与えられたことを感謝するべきです。しかしいつの間にか当たり前に考えています。皆さんはご飯を食べれるのが当たり前ですか?「俺が働いたから・・。給料を取ったから」と言われるかも知れません。それもそうですが、神の恵みであることを考えなければなりません。申命八章十一節から十七節に、

『気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。――主は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。――あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。」と言わないように気をつけなさい。』

と記されています。気をつけなさいと二回書かれています。何を気をつけるべきでしょうか?「私の力で、この手の力がこの民を築き上げたのだと言わないように気をつけなさい」とあります。どんなに恵みがあったとしてもへりくだらなければなりません。神様は時々私たちをへりくだらせます。高ぶってはいけません。神様の目的は、あなたがたを幸せにするためであると書かれています。「人の生きるのはパンだけではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による」と書かれています。私たちが神の言葉によって生きることは、神様のみこころの中に生きるのです。私たちが生きていることは神に生かされているのです。私の力で健康というのではありません。神様の憐れみと恵みによって健康があるのです。今日生きていることは神様の御心によるのです。ですから、どんなに成功して豊かにされても自分の力でなったと考えてはいけません。へりくだって進みましょう。ダニエル書に四章には興味深い御言葉があります。バビロンは大きな町でした。二十四キロの正方形の町であり、城壁の高さは九十九メートルあり、また地下からも敵が入らないように十一メートル掘り下げてあり、旗は二十七メートルあったと言われていました。またそこには空中廊下がありました。今のイラクにあたります。四章三十節に、

『王はこう言っていた。「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。」』

王ネブカデネザルが有頂天になって言ったことは、「この大バビロンは私の権力によって」、「私の意向が輝くために私が建てたものではないか」と、「私が・・・」と言っています。人間は誇りたいところがあります。私が、私の権力で・・・と言っています。しかし言った途端にネブカデネザルは急に精神的な病になり、自分は獣だと思うようになりました。そして野原に行き牛のように草を食べ、鷲のような爪になり、髭もじゃになって過ごしたとあります。しかし彼の理性を神様が戻されました。その時に彼が言った言葉が書かれています。三十四節から三十五節に、

『その期間が終わったとき、私、ネブカデネザルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻って来た。それで、私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。地に住むものはみな、無きものとみなされる。彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。御手を差し押えて、「あなたは何をされるのか。」と言う者もいない。』

と記されています。その後彼の理性が戻り、この世界を支配されるのは天の神だとわかりました。神のない人生で、俺の力で、俺が生きていると思ってはいけません。へりくだることです。へりくだったら必ず祝福されます。ですからこれからの人生を楽しみにしましょう。神様の願われていることは、私たちが色々な苦しみを通されますが、あなたがたを幸せにするためだとありますので皆が幸せになることができるように歩んでいきましょう。週の初めの日、ここに来て祈るときに、「イエス様。一週間高ぶった思いがあったら赦してください。間違った言葉や汚れた言葉があったらきよめて下さい。イエス様の導きを感謝します。」と祈りました。特にまだイエス様を信じておられない方はいつまでも神様と喧嘩をしていてはいけません。早く神様を信じる決意をし、悔い改め、神様に人生を導いていただきましょう。苦しみの中にある方も望みを持ってください。イザヤ書五十一章三節に、

『まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。』

と記されています。シオンというところに自分の名前を入れて読んでください。廃墟は人が住まない家のような部分です。人生でも私は駄目だと思っている部分を神様が慰めてくださいます。荒野とは何もないところですが、神が初めに造られたエデンのようにしてくださると書かれています。私がここに伝道に入ったときは、見城姉ひとりしかいませんでした。そして岡本姉が救われました。初めの内はクリスチャンが少なかったです。しかし今は皆さんが救われています。霊的に廃墟、荒野である場所に神様がエデンのよう祝福を与えてくださいました。また「その砂漠を主の国のようにする」と言われました。どのような逆境にある方も諦めてはいけません。私は駄目だ、しかし主は素晴らしいのです。必ず主は良くしてくださると信じましょう。これから皆さんの家庭は祝福されます。長い間クリスチャンであった方もよくなったと思います。これからも祝福されます。どんなによくても高ぶってはいけません。へりくだっていきましょう。お互いに祈っていきましょう。主のために私たちが労したことについては報いがありますが、いつの間にか神様の恵みを自分の栄光に取り替えていたら悔い改めましょう。知恵のある方も知恵を与えられたのは神です。それを神様のために使いましょう。私たちは神様が造られました。今富んでいる方も良い地に住んでいる方もすべて主がここまで導いてくださったことを感謝し、へりくだって神の前に歩めるように祈りましょう。主の前に悔い改め、またここまで導いてくださった主に感謝の告白をしましょう。


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