聖霊を受けよ

2004.6.13(SUN)
新城教会 滝元 明師

新約聖書 使徒の働き  19章1節〜6節
アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。

  ハレルヤ!お早うございます。水曜日にアメリカのゴスペルツアーから皆さんが無事に帰って来られて、今日はともに礼拝できますことを感謝します。今週はどうぞ私のためにお祈りください。昨日は東京のお茶の水でざわめきの集会がありました。その集会に新城教会でバプテスマを受けられた方で、お仕事等の都合で関東方面へ移られた方の中から、何人かにお会いし、ともに主を賛美することができました。明日月曜日からは東京にあります神学校で二日間講義します。そして十六日に新城に戻り、十七日には家内とともにアメリカへ出かけます。そして二十九日に帰国し、その足でアグローという団体の聖会に行きます。その後七月一日、二日は新城にいる事ができますが、三日からは沖縄へ行き、四日からは、いよいよ沖縄スーパーミッションが始まります。まず四日の日曜日から二十五日の日曜日まで沖縄県内の各教会を会場に伝道集会をします。ぜひ覚えてお祈り下さい。また私と、同行する全ての者のために、健康が支えられるように覚えて祈ってください。今日は「聖霊を受けよ」というテーマで学びます。

 今日は多くの危険があります。今は末の世で、いつイエス様がお帰りになってもおかしくない時代です。聖書を見るとサタンが自分の時間が少ないのを知って激しい憤りを持っていると書かれています。悪霊の働きが顕著な時代だと言えます。社会には毎日のように凶悪な事件があります。先日も長崎県佐世保市で、小学六年生の女の子が同級生に殺害されるという事件がありました。これは悲劇です。聖書は、今後益々悪霊の働きが強くなっていくと言っています。ですから今私たちが一番大切なこととして考えなければならないのは、悪霊の力に対抗するため、聖霊に満たされていくということです。先ほど読んでいただいたみことばですが、パウロがエペソの教会を訪れて弟子たちに質問しています。一節から二節に、

『アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。』

と記されています。「聖霊を受けましたか?」という挨拶で始まっています。その時弟子たちは、「いいえ。聖霊が与えられることは聞いてもいませんでした」と答えました。私が初めて教会に行ったのは、一九四九年二月十三日で、イエス様を信じて救われたのは一週間後の二月二十日です。十九才の時でした。私を導いて下さった穐近先生の奥様は、ヨハネの福音書一章十二節を開いて、このようにお話して下さいました。

『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』

奥様は始め、イエス様について頭で理解しようとされましたがだめでした。しかしアメリカのラジオ放送で、「イエス様を受け入れる」ことについてのメッセージを聞いていたとき、頭ではなく心で信じてイエス様を受け入れなければいけないと教えられたそうです。彼女は単純に「イエス様を信じます」とお祈りされました。そのときイエス様が心に触れてくださり、まったく変えられたと、私にお話ししてくださいました。そして私にも「イエス様を受け入れなさい。信じますか?」と勧めてくださいました。私は教会を訪ねたのはまだ二回目でしたが、素直に「はい。信じます」と告白しました。そして、そのとき私も人生が変えられる経験をしました。救いの理解は巧みな説得力によってではなく、聖霊が臨まれることによってのみ信じることができます。パウロが「聖霊のバプテスマを受けましたか」と聞きました。エペソの弟子たちは「そんなことは聞いたこともない」と答えました。パウロはすかさず「ではどんなバプテスマを受けましたか」と聞きました。すると「ヨハネのバプテスマ」と答えたのです。ヨハネのバプテスマとは悔い改めのバプテスマです。そして六節に、

『パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。』

と書かれています。彼らは聖霊を受けたのです。聖霊を受けることは大切なことです。神の聖い聖霊が私たちの内に住んで下さることによって、私たちは素晴らしい人生を持つことができます。使徒八章十四節から十七節に、

『さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。』

と記されています。彼らは按手を受けると、異言を語ったり預言したと記されています。これは神様によるしるしです。聖霊が注がれたということはなかなか実感できないものです。しかし異言を語ったり、預言したというしるしを通して聖霊の注ぎを知ることができます。私はイエス様を受け入れたとき、それまでの生活から変えられました。酒も入らなくなり、たばこも要らなくなり、罪の汚れから解放されました。その後聖霊のバプテスマを受けるようにと教えられ、真剣に求めました。使徒の働き一章四節から五節に、

『彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」』

と記されています。イエス様が十字架にかかられ、三日目に復活して天に帰られるまでは、聖霊が特殊な場合以外は降りませんでした。旧約聖書にも聖霊に満たされた人がいます。サムソンは聖霊によって怪力を与えられていました。ダビデも聖霊に満たされた時がありましたが、通常は聖霊の注ぎはありませんでした。しかし、甦られたイエス様が天に帰られる前、父の約束として聖霊の降臨を語られました。

『ヨハネは水でバプテスマを受けたが、あなたがたはもうまもなく聖霊のバプテスマを受けます』

という約束です。今の時代は、イエス様の十字架による罪からの救いと、聖霊を与えて下さるという神様の約束があります。使徒の働き二章一節から二節に、

『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。』

と記されています。一九九二年、県民の森で祈祷会をもっていた中に突然聖霊が臨まれました。風が吹いてくる音がして、人が倒されてしまいました。これは聖霊様が来られたことのしるしです。五旬節の日には、「突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。」と記されています。これは県民の森で起こった事と同じです。そのとき彼らは、聖霊に満たされたとあります。クリスチャン生活は頭だけではなく、知識だけではなく、本当に聖霊で満たされることを祈り求めなければなりません。私は聖霊のバプテスマがあると聞き、真剣に求めました。二ヶ月位「聖霊のバプテスマを与えて下さい。満たして下さい」と祈っていました。一九五〇年一月二日に穐近先生の奥様が「兄弟たち、聖霊のバプテスマを祈ってくださる先生たちが来るから来なさい。」と言われ、私と私の家内と、ふたりくらいの兄弟姉妹が集まって祈りました。その時に聖霊が降り、自然に口から異言が出てきて、私は立ち上がって語り出しました。目の前に大勢の人がいるように見せられ、そこで語っていました。その時私は伝道者の賜物を受けました。丸山先生という方が、インドネシア語を話していたそうです。また私の家内は転げ回ってずっと笑っていました。聖霊が臨んだら私たちも力を受けることができますので聖霊を求めましょう。聖霊に満たされることは、どういうことでしょうか。自転車や自動車があります。クリスチャン生活も自転車で走る人や自動車で走る人がいると思います。終戦直後はガソリンがなく、木炭車でした。木炭車はスピードが出ないので、私はよく後から飛び乗って学校に行ったこともありました。今の車ではそうは行きませんが、聖霊に満たされると最新式の車に乗っているような素晴らしい道を歩むことができます。クリスチャン生活は難しいことではありません。聖霊に満たされたら自由と喜びに満たされた生活ができます。ヨハネの福音書十四章十六節に、

『わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。』

と記されています。聖霊が私たちの助け主です。私たちが神を信じるとき、聖霊が世の終わりまで私たちとともにいて下さるのです。ここに助け主と書かれていますが、注釈にギリシャ語でパラプロテストと書かれています。「援助のためにそばに呼ばれた者」「とりなしてくれる者」と書かれています。私たちを援助して下さり、助けて下さり、とりなして下さいます。またある箇所には、聖霊が私たちを弁護して下さると書かれています。その方が私たちの内におられ、いつまでも私たちとともにいて下さるとあります。神様は父、子、聖霊です。三位一体の人格を持っておられる方が私たちと共に住んで下さるのです。この聖霊に満たされたら、どんなに悪い人も変えられ、またどんな弱い人も強くされます。神ご自身がともにいて下さるとあります。クリスチャン生活は聖霊に満たされたら難しいことはありません。十七節に、

『その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。』

と記されています。聖霊は、あなたがたと共に住んであなた方と共におられるというのです。聖霊は共におられます。これは感謝です。ですから聖霊を求めなければなりません。ヨハネ第一の手紙四章四節に、

『子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。』

と書かれています。あなたがたのうちにおられる方とは、聖霊です。この世の内にいるあの者とは、悪魔です。子どもであっても、大人であっても聖霊に満たされたら、あの者よりも力があると記されています。時々私たちは恐れることがあります。聖霊が私の内におられると信じて下さい。また、私たちの内におられる方は彼らよりも強いと信仰を持つことが大切です。使徒の一章八節に、

『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」』

と記されています。聖霊が臨むことはイエス様ご自身が来てくださることであり、三位一体の神様が来てくださることです。聖い力が来ます。聖霊は聖さです。事件を起こした小学校六年生の子は悪霊によって人格を操作させられ、あのようなむごたらしい仕打ちをしてしまったのだと思いすます。ある意味では子どもの心に悪い影響を与える残酷な映画を作った大人にも責任があると思いますが、彼女は悪霊によって、人を憎らしく思い、殺してしまおうと考えたのだと思います。神から私たちに与えられるものは聖い霊です。聖霊に満たされれば、満たされるほどイエス様に似た者になることができます。聖霊に満たされたクリスチャンはどんな人でしょうか。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」と記されています。聖霊に満たされたクリスチャンは柔和になります。優しくなります。柔和で心へりくだることができます。イエス様は神である栄光を捨ててこの地上にへりくだって来てくださったように、聖霊を受けたら、私たちもへりくだった人生を送ることができます。イエス様と同じように聖い生活を送り、憐れみ深くあることができます。また人々に仕えることができます。聖霊に満たされることを求め、自分を聖霊に明け渡し、「神様あなたと似た者になることができますように」と祈れば、そのようになることができます。テモテ第二の手紙一章七節に、

『神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。』

と記されています。私はイエス様を信じる前には気が小さく臆病でした。いつも人のことを考え、「あの人はどう言うか」「こう言ったらどう思われるか」と考えてばかりいました。しかしイエス様を信じて聖霊に満たされたときに人の評価を過度に気にしなくなり、臆病から解放されました。慎みの霊、愛をいただきました。これは聖霊様が与えて下さったのです。使徒の働き四章十三節に、

『彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。』

と記されています。ペテロとヨハネは聖霊を受ける前は、イエス様が十字架にかかられる前にも、女中が「あなたはイエスと一緒にいたでしょう。」と言われたとき、「私は知らない」と言いました。「お前は確かに一緒にいた」と言われても、なんと最後には「呪いをかけて誓うけど、知らない」と言ってしまいました。ヨハネも一緒にいましたが、イエス様を残して逃げてしまいました。しかし聖霊に満たされた彼らは大胆になり、イエスが彼らとともにいたことが皆にわかったと書かれています。聖霊が降ったら大胆になります。大胆な人になりましょう。聖霊が降ると、判断力も与えられます。ペテロとヨハネは、捕えられ再びイエスのことを話してはいけないと脅されたときも、「神に従うことと人に従うことのどちらが正しいか判断して見よ」と言いました。彼らは判断力が与えられました。判断力も神様からの力です。またイエス様は「もし上から力が降ったら証人となります」とあります。イエス様のことを話したくてたまらなくなります。イエス様は素晴らしい。イエス様は神様ですと証しする力が与えられます。使徒の働き五章十二節から十五節に、

『また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行なわれた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。』

と記されています。そしてその影に触っただけで癒されたと記されています。この教会も聖霊に満たされることを求め、また、聖霊の働きが強くなることを求めましょう。聖書に書かれている聖霊の奇跡のように、誰かが歩いた影に触っただけで病が癒されるようになったら素晴らしいことです。聖霊の力は奇跡を行う力です。三位一体の聖霊様が素晴らしい奇跡を行ってくださいます。また、悪霊を追い出す力が与えられます。以前、私が山形県の米沢に行くと、ひとりの方が「滝元先生。先生のために御言葉が与えられています」と言われました。それはルカの福音書十章十九節でした。

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

私はこの御言葉をつかみました。私のためだとその方は言いましたが、これはイエス様を信じている者全てに与えられる御言葉です。

「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」

とあります。皆に与えられています。恐れてはいけません。聖霊が降ると力を受けるのです。そして皆に悪霊を追い出す権威が与えられます。あなたが信じるかどうかです。聖書は「悪魔に立ち向かいなさい。そうしたら悪魔は逃げ去ります」とあります。悪魔を恐れていたら悪魔は大きくなります。小学六年生の女の子は、夜になるとおかしくなったと報道されていました。そのうちに彼女は、自分が男だと信じるようになったというのです。これは普通の状態ではありません。悪魔は弱い人を攻めてきます。しかし聖書は「悪魔に立ち向かいなさい」とありますので「イエスの御名によって命じる。去って行け。」と宣言すると悪霊は去っていきます。聖霊に満たされると上からの権威と力が与えられます。イエス様を信じましょう。まだ聖霊の満たしを受けた確信を持っていない方は按手の祈りを受けて下さい。聖書は使徒パウロが按手したときに聖霊が注がれたとあります。祈ったときにしるしがなくても聖霊は注がれたと信じることが必要です。お互いに聖霊に満たされた人生を歩みましょう。お祈りします。


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