あなたに将来と希望を

2004.6.20(SUN)
新城教会 滝元 順師

旧約聖書 エレミヤ書29章11節〜13節
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。

 ハレルヤ!三週間振りに新城教会で御言葉を取り次ぐことができ感謝します。二週間程、アメリカで奉仕があり出掛けていましたが、皆さんのお祈りによって祝福されたことを感謝します。二週間前の日曜日は、ロサンゼルスのサウス・ベイ日本人教会でメッセージをさせていただきました。初めての教会で、地図を頼りにフリーウエイを走って行きましたが、道を間違えて危うく集会に遅れてしまうところでした。

 また先週はワシントン州のタコマの日本人が中心に集まる教会で、三日間の奉仕をさせて頂きました。ロン・ブラウンさんと共に集会をしましたが、とても素晴らしい集会でした。皆さんの祈りを感じる、パワフルな集会でした。世界中、どこにおいても主は働かれます。

 キリスト教が宗教の一つだと、決して考えないでください。神がおられるならば、その方を信じるのは宗教ではなく真実です。それは宗教ではありません。自分の両親を認めるのは宗教ではなく、当然のことのように、神がおられるのを認めるのも当然です。神がおられるのにも関わらず、神を知らなかったら不幸です。

 今日は、「あなたに将来と希望を!」というタイトルで学びます。これからの人生に不安な方がおられるかも知れません。しかし、神はあなたを助けてくださいます。

 今日は「父の日」です。後から祝福を祈ります。父の日はなぜできたのでしょうか。それは、先に、母の日があったからかも知れません(事実です)。私たちは、聖書の神様を「天のお父様」と呼ぶことができます。それは、全人類の父なる神です。その方には、父親的な役割であり、私たちを優しく見守ってくださいます。

 その方が私たちに語っておられる言葉をお読みします。エレミヤ書二十九章十一節から十三節です。この言葉を自分に語られている言葉として、お読みください。「わたし」とは神様のことであり、「あなた」とは皆さんのことです。

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。』

 神は過去・現在・未来を現在形でもっておられます。ですから、将来も現在形で把握されています。だからこのように語ることができるのです。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。」とあります。なぜ、知っておられるのでしょうか。それは未来を造り出される方なので、将来をお見通しなのです。どんな計画でしょうか。それは、わざわいを与えるものではなく、平安を与える計画だとあります。

 多くの人々が将来にわざわいが起こるのではないかと心配しています。先週の金曜日は、レッツプレイズという、中高生の集会がありました。中高生はなかなか教会に集まり難いのですが、その集会には中高生が溢れていました。全部で百六十名が集まりました。イエス様のことを聞きたいということもありますが、それよりも、三百円でブラジルの焼き肉を食べ放題というものでした。私が話した中学生は、なんと十一皿食べたと言いました。

 その中の一人はこんなことを言っていました。「教会に通ったら、キリスト様は僕の未来に起こる、わざわいや災難を本当に背負うことができるのでしょうか?」

 若くても、結構悩んでいるものだと思いました。もしも、そんな方がおられたら、心配しないでください。あなたの将来に起こることは、決してわざわいではなく、「将来と希望」を与えると言われます。

 私の好きな御言葉に、エペソ人への手紙二章十節の言葉があります。

『私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。』

 人々は、幸せとは、追い求めるものだと考えています。山の彼方に幸せの住む国があるのではないかと追い求めます。しかし、教会に来て気付くことは、幸せは追い求めて得るものではないとわかります。どうしたら得ることができるのでしょうか。それは、既に備えられている良きものを、受け取ることです。天地宇宙を造られたイエスさまは、あなたの将来を既に創造してくださっているのです。だから、創造してくださったものを、手を差し出して受け取ることが大切です。神は、あなたのために、既に、良いものを創造してくださっています。それを受け取る場所が教会です。

 背広を仕立ててもらい、完成品を受け取るときは嬉しいです。昨年、召天された岡本政次さんが、かつて私のところに来て、「順。ちょっと来い。あそこの洋服屋で背広一着作ってこい。もう店には言ってあるから。」それで私は、仕立屋さんに行って、「岡本さんから聞いていると思うけど、背広を作ってください」と言って作ってもらいました。

 仕立て上がった日に、新しい背広をとりに行きましたが、とても嬉しかったです。完成品を受け取るのです。既製品を買うのとは違い、自分の体にぴったりとフィットするものが完成していました。

 同様に、私たちの人生にピッタリした、完成品を神は用意されています。受け取ってください。それは決して悪いものではなく、良いものです。「良い」とは、見かけではなく、「質が良い」という意味です。私たちに、質の良い、素晴らしい人生が神によって既に備えられているのです。そして、教会に来るとそれを手に入れることができます。

 しかし、良きものを受け取るためには、法則があります。その法則を知らなければ手に入れることができません。人間の世界にも色々な法則があり、その法則に沿わなければ、一つのものを手に入れることはできません。同様に、神の世界においても、一つの法則があります。神が創造したものを、どのように引き出すのかということです。

 最近は暑いので、よく自動販売機に行ってジュースを買います。そのときはどうするでしょうか。そこにも一つの法則があります。百五十円のジュースを買うのならば、まずは、百五十円を販売機に入れなければなりません。そして、目当ての種類のジュースのボタンを押さなければ出てきません。同様に、神は幸せを得させるための法則を定められました。それがエレミヤ書の二十九章に記されています。十二節と十三節に、

『あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。』

 神と出会う法則、幸せを受け取る法則は、まず、「捜し求める」ことです。本物の神様はどなたなのだろうかと、興味をもって探し求めることが大切です。

 様々な理由で教会に来られると思いますが、やはり、興味があったからだと思います。教会とはどんなところか?また、どんな人が来ているのか?見てみようと思います。教会に興味を持つことは大切です。興味を持つ中で、神と出会うコースに入ります。ある人は、教会に来てもあまり神様のことがわからない、と言われるかも知れません。しかし諦めないでください。探し求めるならば、必ず、見つけることができます。

 宝探しゲームというのがあります。昔、夏のキャンプで楽しみなのが宝探しでした。広場に色々な賞品が隠してあり、それを探し求めます。見つけた時の興奮は、今でも覚えています。神様も同じです。まずは捜さなければなりません。神様は、ある意味で、姿を隠されているのかも知れません。特に、日本で本物の神様を捜すのは大変です。偽物がたくさん出回っているからです。どれが本物かわかりません。

 私は牧師の息子として生まれましたが、牧師の息子がクリスチャンになり、尚かつ、牧師になっていたら、「キリスト教は本物だ」と信じて下さい。

 私は気が付くと、牧師の家庭に生まれていました。初めは、「大変なところに生まれた」と思いました。昔はこんなに人は集まっていませんでしたので、まずは産んで増やせと両親は七人の子どもを産みました。牧師の仕事は自分の家よりも、よそ様のことを懸命にやります。そんな両親の姿を見ながら、もっと内側をかまってくれないだろうかと思いました。七人も、難民のような子ども達が溢れているのに、外ばかり見ないで内側を見て欲しい、将来はこんな家から抜け出したいと思っていました。でも、そんな中でイエス様と出会いました。私はイエス様が本当の神だとわかったので、牧師をしています。嘘ならば、絶対に牧師をやっていません。イエス様を信じて、その道を歩んでみてください。必ず素晴らしい人生が備えられています。

 続いて、「呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。」とあります。

 全人類に共通しているのは、「祈り心」です。どんな国に行っても、祈る人がいない国はありません。どこの国でも、皆、祈ります。

 二週間程前、アメリカに出発しました。前半私は、ゴスペルクワイヤーの方々と行動しましたが、神学校の授業の都合で、一日遅れて一人でアメリカに向かいました。ロサンゼルスまで成田から、約十時間の長旅でした。毎回、格安チケットで行きます。国内旅行よりもずっと安い値段で、アメリカまで行きます。だからどんな席になるのかは、保証がありません。飛行機の中で一番辛いのは、席と席の間の席に入ることです。隣の席に座る人にもよりますが、トイレに行くにも辛いです。私はチェックイン・カウンターで、通路側の席をお願いしました。すると、「残念ですが、今回は満席で通路側はありません」と言われました。「通路側が駄目ならば、窓側をください」と言いました。すると、「窓側もなくて真ん中の席しかありません。」と言われました。飛行機に乗る前から、少し暗い気分になってしまいました。「行きたくないな・・」と思いましたが、イエス様のためだと思って搭乗しました。

 すると既に、どこかの国のおばちゃんが座っていました。それも、横座りをしており、私の座るべき席に荷物をどっさり置いていました。「そこは私の席だよ」と言って荷物をどけてもらって座りました。そして、もう一方の席には、どんな人が来るのだろうかと思っていました。すると、フィリピン人のおばさんが来ました。イメルダ夫人の親戚かと思うような、光り物をいっぱいつけた少し太ったおばさんが来ました。そんな二人の間に挟まれてしまいました。フィリピンのおばさんは、一度に水とオレンジ・ジュースとワインを注文しました。小さなトレーの上で、大胆に飲んだり食べたりし始めました。そのうちに、オレンジジュースをこぼし、私にかかってしまいました。この人の横で十時間は辛いと思いました。また、よく話すおばさんで、私に、どこから来たのかとか、どこに行くのかと色々聞きました。

 しばらくすると、飛行機が揺れ始めました。すると皆の顔色がだんだん変わっていきました。もう一方の隣人はタイ人でした。彼女は、手を合わせて仏を拝んでいました。一方のフィリピン人は数珠のようなものを取り出して、十字を切って「マリヤ様」と祈っていました。私は真ん中で、「イエス様!」と祈っていました。機内で、それぞれ自分勝手に過ごしていますが、危機的な状況になると、人は祈るものだと思いました。

 そして、フィリピン人のおばさんが、「あなたの職業は何ですか?」と聞くので、私は「牧師です」と言うと、「良かった!!祈ってくださいよ。揺れが止まるように・・・」と言いました。私は、「イエス様。この揺れが止まりますように・・アーメン!」と祈りました。すると、揺れがピタリと止まりました。おばさんは感動して、「私の将来の祝福を祈ってください」というのです。私は、「あなたはフィリピンで何をしているのですか」と聞くと、「私は心臓外科医師だ」と言うのです。それを聞いて嘘を言っているのかと思いましたが、しばらくして機内放送で、「今病人が出たのですが、医者はいますか」と言うと、彼女は名乗り出て診察に行きました。行くとき私に、「祈ってください」と言われました。しばらくして、「大丈夫だった。祈りをありがとう」と言って名刺をくれました。飛行機の中で、按手して祈ったのは初めてでした。彼女はとても喜んでいました。

 何れにしても、人間は皆、祈るものだと思いました。祈り心がない人は誰一人いないのです。誰でも神に祈りたいという気持ちがわき上がって来ます。祈の心はとても重要です。これは神が人に与えた法則です。それは神と出会うための一つの機能です。

 現代は、携帯電話を持っている人が多いです。携帯電話は通信機能です。携帯電話を持っていることにより、話したい人と簡単につなぐことができます。同様に祈りも通信機能です。目に見えない霊的な存在への通信機能です。「祈り」という機能を使い、どこに電話をかけるかが問題です。この機能を通して、本物の神様に電話をかけることができますし、また、神の振りをした悪魔・悪霊に対しても電話ができてしまうのです。日本人は特に、この通信機能が発達していると思います。他の国の人々以上に、祈り深い国民だと思います。しかしその機能を使い本物の神に電話すれば良い答えがあるのに、誤って、神ならぬ神々に電話をしています。だから悪い答えが返って来ています。本物の神につなげる電話番号は、「イエス・キリスト」です。イエス・キリストという名前でお祈りすれば、本物の神様に通じますが、他の名前は使ってはいけません。

 今日初めて教会に来られた方も、ぜひ、試してみてください。女性の方は化粧品のお試しコースがあります。使ってみて、肌が変わるとそれを買います。ある意味で、教会に来てもお試しコースで試してみてください。一週間くらい、今まで使っていた祈りの名前をやめてみてください。仏の名前や、阿弥陀の名前、神社の名前を全てやめて、「イエス様の名前」でお祈りするのです。

 イエス様の名前による祈りは、実に、携帯電話のようです。この世の、偶像の神々に対する祈りは、携帯電話のようではありません。なぜならば、それは、ある特定の場所に行かなければ通信できないからです。仏壇の前や、神棚の前に行かなければなりません。また、神社の本殿の前に行かなければなりません。背を向けずに、前を向いていなければ祈りが答えられないと言うのです。しかしクリスチャンの祈りは、移動体通信です。どんな場合でも、どんな向きでも関係がありません。「イエス様」と祈ると、父なる神様のところに電話が通じます。だから、お風呂の中に入っている時間など、暇な時間にも祈ることができます。自分の願い事を祈ると良いです。そうしたら、その祈りは本物の神のところに届くのです。祈りはとても重要です。今週は、空いた時間に祈ることをお勧めします。場所を問わず、どこでも祈れるのが私たちの祈りです。イエス様の名前を口に出しても、心の中でもイエス様の名前を呼ぶならば、父なる神に通じます。聖書には、「絶えず祈りなさい」とありますので、ぜひお祈りしてみてください。そうしたら将来と希望につながります。

 将来と希望は、エレミヤ書全体流れているテーマです。三十一章十六節から十七節にも書かれています。  

『主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。 ―― 主の御告げ。 ―― 彼らは敵の国から帰って来る。あなたの将来には望みがある。 ―― 主の御告げ。 ―― あなたの子らは自分の国に帰って来る。』

 

 この言葉は、私たちに将来と希望を与える、約束の言葉です。「あなたの泣く声をとどめ、涙をとどめてください。あなたには将来と希望があります」と告げています。

 世界には、色々な文化、習慣、言語がありますが、それを超えて共通しているものがあります。それが、「涙と泣き声」です。原因も世界中共通しています。今回、アメリカで奉仕しましたが、日本においても、アメリカにおいても、また、南米においても、どこの国にも涙と泣き声があります。涙と泣き声がある以上、なかなか将来と希望を見出すことはできません。今日ここにも、「涙と泣き声の人生です」と言われる方がいるかも知れません。しかし、そんな方に、イエス様は力強く語っておられます。「あなたの涙と泣き声をストップしなさい。あなたの将来には望みがあります!」

 ここで、「あなたは敵の国から帰ってきます。だから将来と希望がある」と告げています。

 今回、ゴスペル・クワイヤーメンバー総勢四十三名でアメリカに行きました。ロン・ブラウンさんの所属されている教会が、私たちを受け入れてくださり、たいへん祝福されました。その教会は、九十九パーセント以上が黒人の方々です。賛美がとても恵まれています。黒人社会には、ブラックゴスペルという独特な音楽のスタイルがあります。それが日本でとても人気があります。それが、どこから湧いてきたかというと、アメリカの悲しい歴史から生まれました。アメリカにはかつて、奴隷制度がありました。奴隷達は、悲しみと涙の連続の中で、神に助けを求めて叫びました。神はその叫びに答え、横暴な主人の手から、奴隷制度から、彼らを解放してくださいました。その結果、黒人達は自由の身になって、更に、主をほめたたえました。

 今日は特別賛美で、石塚兄が素晴らしい歌を歌ってくださいました。少し暗めな歌でしたが、希望溢れる歌でした。

 「私の悩みは誰も知らない、でも、イエス様は知っていてくださいます・・」と歌っていました。ある意味で、黒人たちは、奴隷制度の圧制の中で、誰にもわかってもらえない悩みがありました。しかし、やがてアブラハム・リンカーンが奴隷制度を廃止しました。

 黒人霊歌には、深い苦しみや嘆きを歌ったものもあり、また体を揺すって歌うような明るい歌もあります。それは、解放された喜びを歌っています。黒人の人たちが解放されたのと同じように、将来と希望の根本に、「敵の手からの解放」があります。聖書が告げる敵の手からの解放は、目に見えない敵からの解放です。

 この世界には、本物の神様もおられますが、私たちを不幸にする暗闇の勢力、悪魔・悪霊がいます。だから、人類がいくら努力しても、うまくいきません。人の職業は、すべて回復のためにあります。皆が懸命に社会をよりよくするために努力しています。しかし全体的には破滅に向かっています。なぜなら、人類を破壊するために日夜働いている、悪魔とその一味悪霊がいるからです。透明人間のようなものが、人類を破壊する意志を持って侵入しているからです。敵により人類は苦しめられています。悪魔、悪霊がいる以上、どうにもなりません。どんなに幸せになろう努力しても、話し合ってみても、結局、元に戻ってしまいます。ですから、敵の手から解放されなければならないと言うのが、聖書の教えです。聖書は、敵がどこから侵入するのかについて教えています。

 エレミヤ書三十一章二十七節から三十一節に、

『見よ。その日が来る。 ―― 主の御告げ。 ―― その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に、人間の種と家畜の種を蒔く。かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう。 ―― 主の御告げ。 ―― その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』とは言わない。人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。見よ。その日が来る。 ―― 主の御告げ。 ―― その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。』

 目に涙、口には叫び声の原因がどこにあったのか・・。三十一章二十九節に、

『その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』とは言わない』

と記されています。泣いたり、叫んだりしている理由は、父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮くという理由で苦しんでいるというのです。この箇所を現代訳聖書では、『先祖の罪のためにその子孫が刑罰を受けるとは言わない。人は誰でも自分の犯した罪の刑罰を受けるだけである。』と訳しています。ここで述べられている救いとは、先祖が犯した罪のために、子孫が刑罰を受けるというような不条理から解放されることであり、その結果、将来と希望につながるというものです。将来と希望、すなわち、敵の手からの解放とは、家系を捕らえている敵の力からの解放と言えます。自分が悪いことをして、自分に報いがあるのはわかりますが、先祖が犯した罪が、子孫を攻撃するというのではたまりません。先祖が犯した罪の請求書が子孫に回って来るのです。

 私は今回、アメリカから帰ってきて、少し不安があります。それは、向こうでお金をたくさん使ったからです。それも現金ではなくカードで使ったので、これから請求書が来るからです。娘がジョー先生の教会でお世話になっているので、先生のために私は色々なものを買いました。クレジット・カードはどれだけでも、使えてしまいます。カード一枚で、好きなものを買うことができます。しかし、恐いのは翌月です。クレジット会社は忘れてしまっているだろうと思いますが、忘れていないのです。アメリカの片田舎で使ったカードの請求が、日本まで来るのです。その店名も、使った金額も、すべて詳細に記されている請求書が来るのです。クレジットカードを使うとき、小さな紙にサインをします。サインした時点で支払いの義務が生じます。サインを真剣に書いたとしても、いい加減に書いたとしても、同じ請求が来ます。罪の支払う報酬も同じです。罪を犯すと、いつか請求書が来ます。

 人間に共通しているのが「良心」です。悪いことをすると、心が痛みます。ある人に、良心はどんな形をしているのかと聞くと、それは三角形だと言いました。悪いことをすると、三角形が回るようです。角があるので、回ると角があたって痛いのです。回るたびに痛みを伴います。しかし、いつも同じ悪いことをしていると角が丸くなってきて、回転しても痛く無くなるのが良心だと言うのです。

 罪が心に悪い思い出として残るのは、「請求書は必ずまわす」と言う悪魔の声であり、また、同時に神の警告の声でもあります。罪を犯すと必ず、請求書がきます。それが、なんと、自分の世代ではなく、新しい世代に回って来るのです。

 神は、初めの人間、アダムとエバに対して、善悪を知る木の実を絶対に食べてはいけないと言われました。「とって食べたら、必ず死ぬ」と言われました。創世記二章十七節に、

『しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」』

と記されています。アダムとエバは神の言葉を聞いていましたが、実を食べてしまいました。けれども、彼らは死にませんでした。その時、アダムとエバのどちらかが死んでいたら、人類は増え広がらなかったのです。神は偽りを語ったのでしょうか。続く、創世記四章一節から二節に、

『人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。』

と記されています。なんと、「死ぬ」と宣告された二人にも関わらず、そこから新しい命が出てきました。ある意味、信じられない記述です。「死」に関しては、色々な意味があります。しかし、実際的に、死が現実として現されたのは四章八節、

『しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。』

 アダムとエバの間に生まれた子どもたちが喧嘩をして、カインがアベルを殺しました。ここに現実的な死が現れています。どこに原因があったのでしょうか。もちろん彼らが喧嘩したことに原因がありますが、根本的な原因はアダムとエバが罪を犯したことにありました。死の宣告の結果を受けたのは、新しい世代であったのです。

 ある意味、私たちが教会に来て聖い生活をし、罪から離れることには責任があります。それは、新しい世代に悪い請求書を回さないためでもあります。悪魔は家系の中に、死の束縛を持って働きます。悪魔の力は死の力です。しかしイエス様がこの地上に来られたのは、悪魔が持っている死の力を滅ぼすためでした。ヘブル書二章十四節から十五節に、

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』

と記されています。一生涯死の恐怖の奴隷となり、死の霊の奴隷となった人たちを解放するために、イエス様は来てくださいました。聖書は、死の力を持つものは「悪魔」だと記しています。私たちが悪魔から解放されたら、死の恐怖から解放されるのです。家系の中に入ってきた悪魔の悪行はどのようなものでしょうか。

 アダムとエバが罪を犯したときに、永遠のいのちに至る道が閉ざされました。人間は命の木の実を食べつづけたら、永遠に生きる存在でした。しかし罪を犯した結果、そこに制限が加えられたのです。続いて、創世記六章三節に、

『そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。』

 人の肉体の命の限界が百二十年に定められてしまったのです。人は百二十まで生きられるようです。八十才の方は後、四十年あります。私には後、七十年近くあります。しかし人生はそうそう、うまく行きません。詩篇九十篇十節には、

『私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。』

と記されています。ここでは、人生が八十年と語られています。詩編の言葉で生きるか、創世記の御言葉で生きるかは、あなた次第です。しかし人間の中には、死への恐怖があります。悪魔の働きは、神が人間に与えた、百二十、八十という命の長さを少しでも短くする働きであると思われます。

 今回奉仕したアメリカの日本人教会には、奥さんが日本人でご主人がアメリカ人の方が多かったです。今、イラク戦争があります。自衛隊関係者以外は遠い話のように思いますが、日本人の奥さんでご主人がイラクに行っているという方がおられました。アメリカに行くと戦争が現実的です。ヤキマにも行きましたが、ヤキマ出身の兵士が亡くなったと言うことで、大きなニュースになっていました。

 ある奥さんが背の高い、白人のご主人と共に、泣きそうな顔をして来られました。そして、「私の主人のために祈ってください」と言われました。ご主人の家系の長男は皆、早死だというのです。「主人も長男です。そして、最近一つの病気が発見されました。それは、筋肉が動かなくなる病気です。」と言われました。お聞きすると、長男がほとんど四十才くらいでなくなっているのです。

 早死と言われる家系があると思います。八十年、九十年と寿命が与えられているのにもかかわらず、悪魔はそれを縮める働きをしています。しかし、神は、家系の中に入っている早死のテーマを打ち砕いてくださるのです。

 今日の礼拝ために祈っているときに、「家系に早死テーマが入っていたら、打ち砕く祈りをしなさい」と示されました。過去においては、色々あったかも知れませんが、それは神の御手に委ね、将来と希望を奪うものを祈りによって打ち破るのです。

 父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く原因は、偶像礼拝、オカルトなど悪霊とのコンタクトです。それにより、悪魔が家系に入ってきて私たちを壊します。出エジプト記二十章四節から六節に、

『あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。』

と記されています。早死にが三代、四代に至る中心に、「悪霊との交わり」があります。クリスチャンになると偶像から離れます。これは三代、四代にまつわる、命を短くしようとする力からの解放であり、真の神によって将来と希望、すなわち神の与えられた寿命を全うするというのが、聖書が教える真理の一つであると思います。そして、その後は、永遠のいのちに至のです。

 

 私が小学生の時に、家に帰ってくると、妹のますみがなくなっていました。今でも鮮明に覚えています。家に帰ってきたら、「ますみちゃんが死んじゃったよ。」と言われ、驚きました。朝はニコニコしていたのが、帰ったら冷たくなっていたのを覚えています。それも結果的には、神の計画であったと理解していますが、神がそんなにも幼い命を奪い取る為に、わざわざいのちを与えたはずがないと思います。

 私の妹の墓は、教会の納骨堂の中にあります。納骨堂のプレートに父親がメッセージを書いています。それを見ると、「天の花園に可愛いつぼみも必要だった 父」と書かれていました。何となく、感動を呼ぶような言葉ですが、これは半面、私の家系に早死の呪いを容認しているような言葉だと感じ、断ちきりを祈りました。神様が天国のガーデニングのために、人の赤ん坊のつぼみなどいると思いますか?「赤ちゃんの命が欲しい」などとは、絶対に言わないと思います。私は、「父親が結んだ、呪いの言葉を断ち切ります」と祈りました。聖書は人生を、百二十年、八十年、七十年保証すると語っています。過去に起こってしまったことは主の手にゆだね、将来はどの家庭も早死には起こりませんように、長いいのち、将来と希望を受け取ることができるように祈りましょう。必ず、神は勝利を与えてくださいます。

 皆さんの家庭が幸せな家庭として、子々孫々、千代に至る祝福を受け継ぐように祈りましょう。どの家系を見ても、イエス様を信じる家庭の中には、早死にや破壊、死の恐怖のテーマはなく、幸せに喜んで生きることができますように。過去に色々な悲しみを体験された方は、それを神の手に委ね、これからは希望をもって生活できますように。

 家系にある三代、四代の偶像礼拝の呪いを悔い改め、断ち切って祈りましょう。家族、家系を代表して祈りましょう。千代に致る祝福が与えられますようにと祈りましょう。


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