究極の教会

2004.6.27(SUN)
新城教会 滝元 順師

新約聖書 ヨハネの黙示録  21 章 1 節〜 5 節
また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」

 ハレルヤ!このように、皆さんと共に礼拝できることを感謝します。今日は「究極の教会」というテーマで、教会について学びます。

 私たちは教会という場所に来て、礼拝をしています。しかし「教会とは何ですか」と聞かれたら、答えることが出来るような、できないような、説明し難いところがあります。そして、私たちが目指すのは、主が願っておられる「究極の教会」です。

『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。』

と記されています。まず第一に、教会とは、主が共に住んでおられるところです。今日は皆さんの心に、主が住んでおられます。聖書に、「誰でも聖霊によらなければ、イエスは主ですと告白できない」とありますので、皆さんが「イエスは主です!」と告白できれば、神が共におられます。「イエスは主です」と宣言したら、聖霊様が喜んでくださいます。「イエスは、主です!」と宣言しましょう。皆さんの心の中に、イエス様がおられます。

 漢字で「教会」とは、「会衆を教える」と書きますので、学校のようなイメージを受けます。しかし聖書における教会の意味は、教室とか、学校というイメージにとどまりません。

 案外、日本中を回ってみて、学校のような教会が多いです。学校型教会にも、二つのタイプがあります。それは、「雀の学校タイプ」の教会と、「メダカの学校タイプ」の教会です。雀の学校は、「鞭をふりふりチーパッパ・・・」と、権威的で厳しい教会です。その教会に行くと緊張します。しかし、メダカの学校教会は違います。「誰〜が生徒か、先生か〜・・」と、誰が牧師なのかわからないような教会です。

 先日、レッツ・プレイズという中高生の集会をしました。百名以上の学生が集まり、そこに先生も来られました。私たちの時代では、先生が集会に来たら緊張しました。しかし、今の子どもたちは、「なんだ。先生じゃん・・・なんで来た?」と言っていました。「先生の権威も落ちたものだ・・」と思いました。一般の学校も、だいぶメダカの学校化していると思いました。

 いずれにしても、教会は、学校のようなイメージが強いのかも知れません。しかし教会は、決して教室のような意味だけではありません。私たちは今、便宜上、特定の建物に集まって礼拝していますが、建物があれば教会という事ではありません。

 以前、沖縄のある教会で奉仕を依頼されました。すると、その教会には、会堂がありませんでした。その教会は、駐車場で礼拝をしていました。教会に建物はどっちでも良いのです。それでは教会とは、どのようなものでしょうか?

 ペンテコステの日は、教会にとって聖霊が注がれた記念日です。イエス様の弟子たち百二十人が、二階座敷で十日間祈っていたときに聖霊が注がれました。その時、聖霊によって主が共におられるという、教会の基本形ができました。その日、教会が生まれました。それは、二階座敷の中の空間で誕生しましたが、すぐに場所を移動しました。教会が、どのように推移していったのかを見ると、教会がどこにあるのかがわかります。

 教会が誕生した後、すぐに何が起こったのでしょうか。物音がすごかったと記されています。それで、人々が広場に集まってきました。その時、三千人がクリスチャンになりました。

 続けて、教会はイエス様を迫害した、ユダヤ教の宮に現れました。そこには、生まれつき歩くことができない人が座っていましたが、イエス様の名によって立ち上がるという奇跡が起こりました。そうしたら、ユダヤ教の会堂の中で大混乱が起こり、五千人がイエス様を信じました。教会がユダヤ教の会堂の中に現われたのです。

 やがて教会に対して迫害が起こり、クリスチャンは散らされて行きました。それゆえ、エルサレムに限定されていた教会が、ユダヤ人と関係の良くない、サマリヤ人の町に入っていきました。使徒の働き八章五節から八節に、

『ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆はピリポの話を聞き、その行なっていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、大ぜいの中風の者や足のきかない者は直ったからである。それでその町に大きな喜びが起こった。』

 なんと、ユダヤ人と敵対していたサマリヤの町に神の霊が注がれ、「町自体」が喜びに包まれたと記録されています。サマリヤの町では、町中が教会のようになりました。

 続いて、エルサレムからダマスコに向かう街道沿いに、教会ができた記述があります。当時、クリスチャンたちを、真剣に迫害した人たちがいました。その迫害者のリーダーの名を「サウロ」と言いました。彼はユダヤ教の過激派に属していました。今でもイスラム原理主義者たちがテロを起こしていますが、イスラエルにもユダヤ教の原理主義者がいます。サウロはそんな人でした。しかし、迫害者サウロの上に教会が訪れました。使徒の働き九章三節から、

『ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」』

と記されています。クリスチャンを迫害していたサウロが、ダマスコの途上で突如としてイエス様に出会いました。教会は「救いの場所」です。そんな道沿いに、教会が現わされました。サウロは後にパウロと呼ばれ、教会に最も貢献する人に変えられました。教会は決して建物ではなく、道ばたにもあります。

 また、使徒の働き十六章には、パウロとシラスが福音を伝えたという理由で捕らえられ、牢獄の中にいたことが記されています。何と、その牢獄の中に、教会が訪れました。大地震が起こり、獄舎の土台が揺れ動き、囚人達の鎖は全てはずれてしまいました。そして、囚人たちを見張っていた監守がイエス様を信じました。そこで、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます。』という有名な言葉が語られました。

 「監獄の中」に教会が訪れ、続いて、監守の「家族の中」に教会が訪れました。教会は限定された領域のものではありません。

 使徒の働き十九章には、エペソの町で起こった事柄について記されています。エペソの町は、アルテミス神殿という異教の神殿がそびえ立つ、偶像礼拝が盛んでした。しかしそのような中にも神の訪れがあり、教会が突如出現しました。使徒の働き十九章十八節から二十節に、

『そして、信仰にはいった人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した。また魔術を行なっていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。』

 異教の街、エペソにおいて神の力が訪れました。そこに突如として教会が出現しました。また、クリスチャンを裁く議会の中に教会が突如として出現し、難破した船中、死の淵にも教会が訪れました。使徒の働き二十七章二十二節に、

『しかし、今、お勧めします。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです。』

 船内が教会になり、船は沈みましたが人々の命は救われました。これらの記事を見ると、教会は建物や組織ではないことがよくわかります。教会というテーマで、使徒の働きを読むと、新城教会は新城市富沢四〇七の一、茶臼山駅前ではないことがよくわかります。

 教会について強調されている箇所は「黙示録」です。黙示録はある意味において、難解な箇所です。しかし読むときは、あまり難しい箇所だと思って読まない方が良いです。黙示録が書かれた当時は、書物もなく、情報も少ない時代でした。しかし人々は、ヨハネからの手紙を読み、理解できたのです。

 現代人が、『古事記』や『日本書紀』を読んでもあまり理解できません。しかし当時の人々にはわかったはずです。黙示録も同様だと思います。

 黙示録は「預言の書」なので、どの時代について語られているのか特定しにくい書です。ある聖書学者は、「黙示録はちょうど螺旋階段のようだ」と言いました。螺旋階段は、横から見ると筋に見えますが、近くに行くとそれは奥行きを持って渦巻いています。遠くから見ると平面に見えますが、立体的に渦巻いています。黙示録は未来、現代、過去を含む神の深遠な計画の中で語られた預言書です。その中に教会の概念があります。

 二章から三章にかけて読んでみると、「七つの教会」について書かれています。エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィア、ラオデキヤの教会について記されています。それらは全て、「町の名前」です。教会はどこと一番深い関わりがあるのかというと、「町」と関わりがあります。

 私たちが住む社会には、色々な機能が備わっています。政治、権力、社会資本などが整っているがゆえに、我々の生活が成り立ちます。社会にある機能は、一言で表現するならば、生活を支えるための「サポート機能」と呼ぶことができます。

 選挙シーズンになり、選挙活動がなされています。候補者は、社会を良くするためのサポーターになりたいと言って立候補します。選挙戦では、「あの候補者より、私の方が良いサポーターになれます」と有権者にアピールします。

 お腹が空いたら食事を作りますが、その前にスーパーに行き、料理をサポートする食材を手に入れます。レストランに行くならば、心を一時豊かにするメニューがそろっています。勉強をしたければ、学校があります。それは、知識を得るためのサポーターです。それらの機能は、人間が作ったようですが、根源は天地宇宙を造られた神によって与えられたものです。コロサイ人への手紙一章十五節から十八節に、

『御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。』

と記されています。

 御子=イエス様は、「見えない神のかたち」であると説明されています。神様は目に見えないお方です。時々、「神がいたら見せてください」と言われる人がいます。しかし、神が見えたらおかしいです。天地宇宙を造られた程、大きなお方なので、もしも体があったとしたら宇宙よりも大きいはずです。地球も神が造られました。おにぎりのように、神様の手作りです。だから見えたらおかしいのです。そんな神様が、私たちに理解できる為には、神が人間の姿をとって地上に来られ、「神とは、このようなものだ・・・」と、人に説明してくれたらわかります。イエス様は実に、そのようなお方です。神が人の姿をとってこの地上に来てくださいました。「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」と紹介されています。そして、続いて、

『万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。』

とあります。社会には色々な要素があり、良い要素も悪い要素もあります。しかし最初に造られたものは、良きものでした。そして、全ての根源には神の支配があり、全てのものは神に属しています。時々、クリスチャンになると、少し世離れしますが、それは間違っています。この世の中にある全ての根本には、神の主権があるのです。

 これらを総合すると、教会とは、限られた空間に閉じ込められている存在でないことが分かります。すなわち、町そのもの、地域そのものが教会としての要素を持っていることがわかります。

 ということは、「新城教会はどこにありますか」と聞かれたら、茶臼山駅前というのではなく、「新城市全体が新城教会」であると言うことができます。また、新城教会には、周辺の町々村々からも多くの方が集まられているので、地域一円が新城教会であるということができます。

 時々、いろいろな方々から、「新城教会にどのくらいの方々が集まっていますか」と質問されます。今日は、「リバイバル感謝報告書」が出されましたが、これまで主が祝福してくださった歩みについて、記録されています。その中で、現在教会に来られている人数が、四八六名と報告されています。二〇〇三年度には、四八名の方々が洗礼を受け、前年度よりも八パーセント増やされました。主が、徐々に人数を増やしてくださっています。

 しかし、新城教会に来ている人数は、「もう少しで五〇〇名です」というのは、本当の答えではありません。私はそのように聞かれたら、「新城教会に来られている方々は、少なく見積もっても百万人位です。」と言いたいです。「でも、九九・九九パーセント以上は求道中ですが・・」と答えます。すべての町々村々の機能は神が造られ、神がすべてを支配されていますから、神の支配があるところは教会なのです。教会は町そのものです。ということは、限定された茶臼間駅前の新城教会は、町教会の機能の一つであると言えます。では、この茶臼山駅前の「教会」という神の組織は、何をしたら良いのでしょうか。どのような役割を果たしたらいいでしょうか。

 ある意味で、教会に色々な期待を寄せてくださることは嬉しいです。しかし、私は、「あまり教会には期待しないでください」と言いたいです。なぜなら、お腹が空いても新城教会では、日曜日の昼のカレーくらいしか食べられません。お腹が空いたら、スーパーに行かなければなりません。おいしい食事がしたかったら、レストランに行かなければなりません。新城教会にはレストランはありません。

 まもなく、神学校が建ちますが、その中に「カフェ・コーナー」ができます。これから教会に来たら、おいしいコーヒーのが飲めます。しかし、教会はコーヒーが専門ではありません。また、銀行に行かなければ、お金をおろすことはできません。郵便を送りたくても、教会では配達できません。郵便局に行かなければなりません。犯罪が起こったら、警察に連絡しなければなりません。病気になった時は、祈りますが、病院にも行きます。病院は社会の中で、神が与えた病気を治療する場所です。私も時々病院に行きます。歯が悪くなったら歯医者に行き治療します。それは、神が与えられた回復の機能です。

 そうしてみると、教会も、社会の一員ですから、ある機能を持ち合わせているはずです。社会の機能と同様に、人々の生活をサポートするための機能が備わっているはずです。教会は、皆さんの生活をサポートのためにあります。一人一人の生活が潤され、幸せな生活をサポートする使命があります。

 私は、教会がもっと地域の強力なサポーターにならなくてはならないと思っています。では、どのような機能をもって、教会が人々をサポートするのでしょうか。その情報をどこから手に入れるべきでしょうか。それは、「イエス様の生涯から」知ることができます。

 イエス様の生涯は、「人に仕えるため」でした。イエス様は、人々が偉くなって人を支配したいと願っているのを見て言われました。「偉くなりたいと思ったら、仕える人になりなさい」

 この価値観は、一般とは正反対です。イエス様は、人々に仕え、縁の下の力持ちのようなサポーターとしての働きをされました。そして、「あなたがたも、わたしと同じようにしなさい」と教えてくださいました。

 イエス様はどんなサポートをされたのでしょうか。イエス様が行われた、最初のサポートは「結婚式」でした。イエス様がカナの婚礼に行ったとき、当時の習慣では、結婚式にぶどう酒が必需品でした。しかし式の最中になくなってしまいました。主催者が困っていたときに、水をぶどう酒に変えて、結婚式をサポートしました。これは、ある意味において、教会が社会に貢献しているサポート機能の一つだと思います。現代は、九割以上が教会式の結婚式を希望しています。

 ある日、イエス様の話を聞きに来た大群衆が、男だけで五千人いたと聖書は記録しています。女性や子どもたちを入れたら、およそ二万人位だったと推測されます。集会が長くなったのでしょうか、群衆がお腹が空かせて困っていました。その時、イエス様は二万人分の食事を、ひとりでサポートされました。

 イエス様による食事のサポートはもう一回ありました。イエス様が復活された後、弟子たちが漁に出たときにイエス様が岸辺に立たれ、弟子達のために朝食を用意されたと記されています。食事関係においては、五千人分の食事を一回サポート(同じような奇跡がもう一回記録されていますが)。弟子達に朝食を一回ごちそうされたという感じです。

 また、ペテロが宮の納入金を支払っていませんでした。これは税金と同じです。その時にイエス様は、ガリラヤ湖に行って魚を釣ってくるように命じました。すると最初に釣れた魚の口の中に、税金分のお金が入っていました。これは、「ペテロの税金一回分肩代わり」というサポートです。イエス様の生涯行われた働きを分析したらおもしろいです。

 しかし、そのようなサポートはだいたい、一度限りだけでした。教会も、時には、結婚式や、食事を住民に提供しますが、そのようなサポートを継続的に行うことには無理があります。ですから教会の使命が、生活一般サポートではないことがわかります。

 では、イエス様はどのような領域をサポートされたのでしょうか。それは、「悪霊を追い出し、病を癒す」という働きでした。

 人々の生活を根本で脅かすのは、他でもなく、目に見えない悪魔とその一味、悪霊たちです。イエス様は、それらを追い出し、同時に病を癒すという仕事をされました。今、教会が社会に対して果たさなければならない、最も大きな役割は「悪霊を追い出し、病を癒す」という領域だと思います。イエス様時代には病院もなく、医学が未発達でしたから、病のいやしについても、イエス様が全てをなされました。しかし今は、神は、人間側でできる範囲を拡大されました。しかし現代でも、どうにもならないところは、イエス様に働いてもらうのです。社会にある、癒しの機能の根源は、神が与えてくださったものです。

 けれども、昔も今も、一般ではどうにもならない領域が、「悪霊を追い出す」ことです。それは、どこに行ってもできません。では、その役割を誰が担うのか?

 社会で、その役割を担うのが教会でなければならないのです。教会は、社会や地域に働く悪霊の働きを打ち砕き、人々の解放のために働かなければなりません。マタイの福音書十六章十八節から十九節に、

『ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」』

と記されています。教会の役割について、イエス様は語られました。教会はイエス様という岩の上に建てられており、「ハデスの門もそれにはうち勝てない」と約束されています。「ハデス」とは、「悪霊の住処」です。この悪霊の住みかと相対して戦うのが、教会です。そのために、教会には神から鍵が与えられています。「何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています」という、「つなぎ、解く鍵」が教会にはあります。

 「つなぐ」ということは、「縛り上げる、鎖をかける、禁じる」という意味があり、「解く」とは「束縛を解く、解放する、無効を宣言する」という意味があります。今、ここに集められている人々で形成される教会は、社会に対してこの働きを全うしなければならないのです。「教会」を通して、社会全体に存在するキリストの体なる教会に、どのような責任を果たしていくのでしょうか?それは、社会を、目に見えない領域から攻撃する、暗闇の力にを打ち破る働きです。

 また、皆さんが、教会から受けられる最大のサポートは「霊的領域サポート」です。一般的なサポートを期待されても難しいですが、絶対に、教会からサポートされる領域は、霊的領域です。悪霊が皆さんに挑戦しようとしても、教会が立ち上がるならば、「ハデスの門もそれには打ち勝つことはできない」のです。教会にはつなぐ鍵と解く鍵があるので、悪霊をつなぎ止めて、縛られている人たちを解くことができます。そして、教会は皆さんの地域にあります。戦いの機能を有することによって、安全で安らかに生きることができます。同時に、皆さんは町に遣わされたた者として、戦いの使命を果たすのです。町や国に対して、その使命を果たして行かなければなりません。

 先週一つの事件がありました。佐藤美恵さんという方が突然病気になり、手に負えない状況でヘリコプターで名古屋の病院に運ばれました。最新鋭の設備の中で治療を受けていましたが、それでも、生きる機能が低下してしまい、人工呼吸器をつけて危ない状況に陥りました。私たちは真剣に祈っていましたが、水曜日の夜に電話がかかってきて、夜中一二時から緊急手術だといわれました。放っておいても死んでしまうので、一か八かの手術をするというのです。もしかしたら助かるかも知れないし、手術中に血圧が低下して死んでしまうかも知れないと言われたそうです。私たちはそれを聞いて、心を痛めました。私は祈りに行くタイミングをつかむことができるようにと、ずっと祈っていました。そして水曜日の夜、名古屋の病院に祈りに行きました。夜の病院は不気味です。家族が集まっていて、諦めムードがただよっていました。待合室で共に祈りました。ご家族はクリスチャンです。

 「まもなく集中治療室から出て、手術室に移されるので、そこで祈ってください」と言われました。家族の一人が、「心を一つにして祈れば、イエス様は祈りを聞いてくださいますよね?」と言われましたが、「はい」と確信して答えるのが、難しい状況でした。私たちは心を一つにして、手術室の鉄の扉の前で、「イエス様。助けてください。」と祈りました。

 主はそこで働いて下さったのです。手術は成功し、徐々に回復してきたそうです。ぜひとも、更に祈ってください。私は鉄の扉の前で、「美恵さんがいやされて、夫婦で喜んで教会に来れますように」と祈りました。

 祈りの中で、教会の真の姿を見たようでした。教会では緊急手術は出来ません。神は人を地域に与えられている医学のシステムを使って、人を癒そうとされます。ですから、医者や看護師、医療関係のためにも祈りました。

 しかし、それだけでは不十分です。教会は霊的戦いの剣を持っていくのです。そこに働く、死の力が打ち砕かれるようにと祈るのです。町全体が教会なので、そのような概念を持って祈ると、全体が機能するのです。やがて、完全な主の癒しに導かれると思います。限定された教会の中ですべてできる訳ではないのです。修道院的な、自給自足の概念は聖書的ではありません。修道院は、ヒンズーの阿修羅六の影響があると言われます。教会は出て行かなければならないのです。町が教会です。

 神は町全体を勝ち取ることを願われています。町の中にはまだまだ、勝ち取られていない神の国に属していない領域がたくさんあります。神はそこに私たちは遣わされ、「ハデスの門を打ち破り、町全体を主のものとして勝ち取るように働きなさい」と語られています。教会には戦いの機能を与えられており、私たちはそこに属しています。

 そして聖書は、究極的な教会としての姿を紹介しています。黙示録二十一章一節から五節に、

『また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」』

 『新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。』とあります。エルサレムとは町の名前です。今までは混沌としていた町に、神の国が現われるのです。町に究極の教会が与えられることを願いなさいと教えています。現代訳聖書では、「新しいエルサレム」を「教会」と訳されます。

『彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』

 町が教会となるとき、「もはや死はない」と書かれています。この「死」とは「早死」と理解しています。悲しみ、叫び、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからと記されています。二十一章二十二節から二十四節に、

『私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。』

 「町には神殿がなかった」と記されています。神殿とは神を礼拝する特定の場所です。それがなくなったというのです。なぜならば、町自体が神の栄光を現す神殿となったからです。町のどこにでも主の臨在があり、主の栄光が満ちあふれており、主の光が到達しているのです。

 一節に、「もはや海もない」と記されていますが、海とは「魔物が住むところ」という概念があります。それは悪霊の住処という意味です。霊的戦いの勝利がある町に、悪しき力は働くことはできないのです。町が主の臨在ら溢れた教会となると教えています。

『都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。』

 これが究極的な教会の姿です。主の訪れが町にあるように祈りましょう。主が望んでおられる究極の教会が、町に地域に国に、できるように祈りましょう。

 私たち、集められたものとしての教会の機能は、ただの教室ではなく、敵の力をうち破るものであり、また、教会を通して地域住民が霊的サポートを受ける「サポートセンター」としての役割を果たすことができるよう、祈りましょう。

 教会はサポートの場所ですから、教会に来ないと責められたり、礼拝を休んで次から行き難いと思わないでください。教会は、皆さんが霊的に安全な生活ができるよう、サポートする場所ですから、祈りの課題があったら何でも言ってください。特に、霊的な領域で皆さんを強力にサポートしたいと願っています。そのために、私たちは任命を受けています。一度しかない人生の中に、神の栄光が現されるように祈ります。また教会に属していることによって、霊的に支えられているという安心感があったら、皆、教会にくることができます。新城教会が、町全体に、また地域全体に、機能を果たしていきたいと願います。お祈りします。


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