あなたの名前は「祝福」

2004.7.4(SUN)
新城教会 滝元 順師

旧約聖書 創世記12章1節〜3節
その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

 ハレルヤ!皆さんとともに、礼拝できることを感謝します。今日は「あなたの名前は祝福」というタイトルで御言葉を学びます。クリスチャンは、聖書の中から名前をつける人が多いので、名前を聞いただけで「この家はクリスチャンだ」とわかる名前も多くあります。しかし子どもたち側は、ちょっと名前が変わっていて幼いときは気分が悪いのかもしれません。新城教会には、エノク、ヨセフなどという名前がありますが、「祝福」という名前を付けた人はいないと思います。

 アブラハムは、はじめに「アブラム」と言いました。彼は神から召し出されて、アブラムという名前から「アブラハム」という名前に変えられました。そのような中、彼は、「あなたの名前は祝福となる」と語られました。アブラムは私たちクリスチャンを代表している人物です。今日既に、イエス様を信じておられる方々、またイエス様を知りたいと願ってここに来られた方々には、新しい名前があります。それは、「祝福」という名前です。あなたの名前は「呪い」という名ではなく、あなたの名前は「祝福」です。

 聖書は、名は体を表すという主張です。名前は大変重要で、その人の人生そのものを現します。神から、「祝福」という名前をつけていただくことは、私たちの人生そのものが祝福されるということです。今日、全員の方が、この名前をいただいて帰ってほしいです。

 聖書の世界は、知るか知らないかで変わります。知らないと何も起こりませんが、知ることが祝福に繋がるのです。

 そもそもイエス様を信じたら救われるという事実は、二千年前にイエス様が十字架にかかられ、よみがえってくださったことによって完成されました。しかし、知らなければ救われません。知ったことによって救われました。同様に、他の事柄についても、聖書の原則を知ることは大切です。「祝福なんてとても言えない・・」と言う人もいるかも知れませんが、今日は、祝福の原則を知ってください。教会は祝福を神からお渡するための、出先機関のようなものです。まずはアブラムが受けた祝福について学びたいと思います。創世記十三章二節に、

『アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。』

とあります。神は目に見える世界においても祝福を与えようとされています。案外、日本のキリスト教会の根底に、「クリスチャンは聖く、貧しく、美しく」というような考え方があります。どこか、貧乏が美徳のように考えています。しかし聖書は、神を信じる者には経済的にも祝福を与えて下さると約束しています。今日、経済的に困っている方は、神が経済的にも、あなたを祝福しようとされていることを知ってください。「クリスチャンになったら貧乏になった・・」では困まります。周りの人が、「クリスチャンって素晴らしい、経済的にも祝福されていますね」と言われるくらい祝福を受けたいと思います。経済的に祝福されることは、神が用意されている祝福の一つです。ぜひ受け取りましょう。

 そもそも、イエス様を信じると、無駄な出費から守られます。せっかく稼いでも事故にあってお金を払わなければならないとか、病気になってお金を病院に払わなければならないというのではなく、神はあなたを守り、繁栄を与えます。

 最近宝くじが流行っています。一度くらい一億円を当ててみたいと思います。神は経済的祝福を与えると言われているので、祈って宝くじを買ったら当たるのではないかという思いにもなります。しかし神は、棚からぼた餅式のようではなく、気がつくと祝福の領域に導かれるお方です。

 私の知っている青年の一人が、宝くじを買いました。そうしたら一桁違いで一億円当たり損ねたというのです。彼はある所で宝くじを三枚買ったそうです。連番で十枚買っていたら一億円が当たっていたそうです。彼ははずれたことで、たいへん落ち込んでいました。でも、そんなことで富を得るとろくな事はありません。神が与える富は、人生全体で確認できるものです。

 アブラハムが年をとって気づいたことがありました。それは、自分がすべての面で祝福されているということでした。創世記二十四章一節に、

『アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。』

と記されています。この教会におられるご高齢の方々は、皆、輝いています。神様は年をとっても祝福を与えてくださいます。ある方の人生は、悲しみの連続だったと言われるかも知れません。しかしイエス様を信じるならば、年をとってもその祝福は変わることがありません。あらゆる面で祝福を与えてくださる神であると、知ることができます。

 同時にこの祝福は一代では終わりません。二代目、三代目に引き継がれて完成するものでもあります。

 聖書を見ると、アブラハムの子どもはイサク、イサクの子はヤコブ、このヤコブには十二人の子どもがありました。父、アブラハムが神を信じたことにより、祝福が受け継がれた系図を見ることができます。子どもたちにも祝福が受け継がれています。

 そして最初の礎となったアブラハムの信仰が、後の子どもたちの生活に大きな影響を与えました。

 現在、日本にいるクリスチャンの多くが、クリスチャン一世です。しかし新城教会は、私はクリスチャン二世ですが、クリスチャン三世も多いです。そして、近頃、三世が結婚し始めたので、まもなく四世が生まれます。先日、結婚された岡本司兄はクリスチャン三世です。クリスチャン三世が結婚すると、今度は四世目が生まれます。

 私は、クリスチャン三世や四世に期待しています。なぜならば、神の祝福は初代から二代目、三代目、そして、四代目へとさらに大きく流れ出るからです。

 ロケット発射を見たことがありますか?一段目は、胴体も太く燃料を満載しています。それにも関わらず、スピードが遅いのです。そして一段目がうまく上がるか否かが、ロケット発射の成否に関わります。一段目がうまく機能して、うまく上がっていくと一段目が切り離されて二段目が発射されます。二段目は一段目よりも少しスムーズに上がります。そして二段目が切り離されると、三段目はもっとスムーズに上がります。三段目はさらに加速して、スピードが上がり、やがて人工衛星となって同じ軌道を周回します。だいたいロケットの失敗は、一段目ロケットの不具合です。

 クリスチャンも同じです。ある意味で、初代には大きな推力がいるのかも知れません。なかなか大気圏を抜けることが出来ないのです。神の祝福は、一代目だけで終わるものではなく、二代、三代、四代・・と続くものであると意識して、信仰生活を送りたいものです。

 アブラハムの息子、イサクにある夜、神がこのように語られました。創世記二十六章二十四節に、

『主はその夜、彼に現われて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」』

 「恐れてはならない。あなたを祝福してあげる」と語られました。それは、「しもべアブラハムのゆえだ」と語られました。

 初代のクリスチャンは大切です。私も今、祝福されていますが、両親に感謝しなければなりません。神が私に現れ、「順。おまえを祝福する。でも、それはおまえのゆえではなく、明のゆえだ・・」と言われるかも知れません。私も、初代が頑張ってくれたから祝福されていると思います。

 イサク、ヤコブとつながり、その息子ヨセフに神様が語られました。創世記四十九章二十五節から二十六節に、

『あなたを助けようとされるあなたの父の神により、また、あなたを祝福しようとされる全能者によって。その祝福は上よりの天の祝福、下に横たわる大いなる水の祝福、乳房と胎の祝福。あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり、永遠の丘のきわみにまで及ぶ。これらがヨセフのかしらの上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭上にあるように。』

 アブラハムから数えて四代目のヨセフに至っては、「その祝福は上よりの天の祝福、下に横たわる大いなる水の祝福、乳房と胎の祝福。あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり、永遠の丘のきわみにまで及ぶ。」と約束されています。

 神は、世代を超えて私たちを祝福されようとされます。天と地の一切の領域、その祝福は永遠まで及ぶのです。それを聖書は「千代に至る祝福」と表現しています。今日、あなたは御言葉を聞いていますが、これは新しい世代に対しても責任が伴うことです。私たちが神としっかり繋がっているならば、あなたを子々孫々まで、祝福してくださるのです。

 そして聖書は、この祝福を手に入れる為の法則を教えています。人生には法則があります。法則に従わなければ、目的のものを手に入れることが出来ません。祝福を手に入れるための条件が創世記十二章に書かれています。

『その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。』

 祝福を受け取るための原則は、「ある領域から出る」というものです。この教会に出(いずる)君という青年がいます。これは「モーセ」からとっていますが、ある領域から出ていくというテーマは祝福を受けるための条件です。

 ここで神がアブラハムに語られた言葉は、「あなたの父の家から出て行きなさい」でした。これを聞いて、「私は親と同居している・・」と心配になった方がいるかも知れませんが、それとは違います。「父の家から出る」とはどのような意味があるのでしょうか。

 アブラハムの住まいは、現在のイラクあたりにありました。「ウル」という町に住んでいました。この町は、すでに考古学によって特定されています。この町は、かつてバベルの塔の事件があった町の近くでした。ウルは月を拝む宗教を持ち、偶像礼拝に明け暮れていました。日本の比較言語学者がその町を調べると、ウルの人々は「トーテミズム」という形式の偶像礼拝を持っていたと報告しています。トーテミズムとは、トーテムを立てて偶像礼拝する形式であり人々です。

 トーテムポールを調べると、日本のアイヌもそうですが、北アメリカのインディアンも、南米のインディオも同じようなタイプのものがあります。これは同じ偶像礼拝の形態が伝わったことを現しています。ウルという町は、月神礼拝と共に牛をトーテムとして拝んでいました。ヒンズー教も牛が神になっています。日本も神社に牛があったりします。そのルーツは、アブラハムの出身地近辺にあるようです。

 しかし、偶像礼拝に凝り固まっていた人たちの中で、神はアブラムに声をかけてくださいました。

 時々、神は私たちにも声をかけて下さいます。それは、聖なる雰囲気の中の、すべてが整ったところで声をかけるというよりも、暗闇のただ中で神は語られるのです。アブラムも偶像礼拝の町で、神の声を聞きました。「そこから出て行きなさい」という声を聞いたのです。それは「偶像礼拝から離れなさい」ということです。当時、ウルにいたら偶像礼拝から離れることはできませんでした。それゆえに、神はアブラムをそこから引き出されました。ウルから出て、アブラムは祝福を手に入れました。

 人生で祝福を得るための根本は、偶像礼拝という環境から出ることです。申命記十一章二十六節から二十八節に、

『見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。』

と記されています。聖書のメッセージはクリヤーです。「祝福」か「呪い」かがハッキリしています。真の神に仕えれば祝福ですが、偶像に仕えると呪いが来るというのが、聖書のハッキリとしたメッセージです。私たちはどちらかを選ばなければなりません。偶像から離れたら祝福、偶像から離れなければ呪いです。アブラムは始めは偶像礼拝の家庭の中にありました。しかし、そんな中で神の声を聞きました。「偶像礼拝から離れなさい」という声を聞いたのです。「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出てわたしの示す地に行きなさい」と聞いたのです。

 呪いがもたらされる環境が形成されるのは、「生まれ故郷、父の家」です。家系を見て、麗しい家系と自慢できる人は少ないです。日本人の家系を見ると、同じような問題が繰り返し起こっているのを見ます。偶像に仕えていると呪いがあるのです。同じような問題が繰り返し起こってきます。しかし、父の家の偶像礼拝から離れるときに、祝福が現されるのです。

 私たちは何をすべきでしょうか。偶像に仕えないことです。しかし日本では難しい環境があります。家族全体が仏教を拝んでいたり、神道の信徒であったりします。そこから離れることは難しいのです。しかし、心を決めて偶像から離れる決心が必要です。少し摩擦があるかも知れませんが、そこから離れることを決心するときに、アブラムと同じように祝福の路線に入るのです。今日、岐路に立っている人がいたら、イエス様に信頼して歩み出して下さい。

 聖書の祝福の条件に「出ていく」というテーマがあると話しましたが、その最たるストーリーが「出エジプト」です。イスラエルがエジプトから出たところに、神の祝福があったのです。出エジプトは私たちの人生に対応しています。イスラエル人は神から離れ、偶像礼拝を行った結果、エジプトの奴隷となってしまいました。そして四三〇年間、苦しい奴隷生活を強いられました。しかしモーセによってそこから引き出され、約束の地カナンへと導かれました。イエス・キリストを信じない人生は神々の奴隷であり、悪霊の支配下にあると聖書は教えています。しかし、イエス・キリストを信じるとは、出エジプトのテーマがあります。神は、モーセという人物を通してエジプトの手からイスラエルを解放しました。その事に関しては、民数記三十三章四節で、

『エジプトは、彼らの間で主が打ち殺されたすべての初子を埋葬していた。主は彼らの神々にさばきを下された。』

と記されています。イスラエルの解放はエジプトの神々に対する裁きでした。モーセがエジプトからイスラエルを解放するときに、パロの前でいくつかの奇跡を行いました。最初、モーセが持っていた杖を投げると、杖が蛇になりました。するとエジプトの呪法師たちも同じことをしました。しかしモーセの蛇がエジプトの蛇を食べてしまいました。続いてモーセは、蛙を出す奇跡を行いました。けれども、エジプトの呪法師も同じ事をしました。それは神の領域と悪霊の領域による、奇跡合戦のようでした。その都度、パロは驚きました。奇跡が起こる度にパロは、イスラエルを解放しなければならないと思いましたが、エジプトの呪法師も同じ事をするので、パロの心は引き留められました。何と、モーセは十回に渡って奇跡を行ったのです。その度に、イスラエルは引き留められました。

 これはイエス・キリストを信じる過程に、色々な霊的戦いがあることを現しています。現在、戦いのただ中におられる方もいるかと思います。教会に来て、イエス様は本当の神様だと感動しますが、家に戻ると引き留められるのです。また、色々な奇跡を見ますが、引き留められます。行ったり来たりします。これは霊的戦いです。エジプトから解放されるイスラエルも、十回、引き留められました。解放されるかと思うと駄目になり、今度こそはと思うとまた駄目になり、それを繰り返しました。

 しかし最後に、エジプトの初子たちが皆打ち殺されるようなことが起こり、パロは「こんな奴らを国においておくことはできない」と言って、イスラエルは解放されました。彼らは、四百三十年間も奴隷にされていたので、喜んでエジプトから出て行きました。歩ける者だけで六十万人と記録されているので、百万人ほどの人がいたのかも知れません。彼らはエジプトの地から脱出しました。そして、もう大丈夫と思いました。しかしパロは脱出したイスラエルを追い始めたのです。出エジプト記十四章十節、

『パロは近づいていた。それで、イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エジプト人が彼らのあとに迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れて、主に向かって叫んだ。』

 私たちが偶像礼拝の領域から出て、イエス様を信じ、新しい人生を送ろうとすると、何度も何度も引き止められ、やっとエジプトから出たと思っても、さらに追っ手が近づいてくるのです。

 出エジプトのストーリーは、今を生きる私たちの人生についても教えています。パロは軍隊を組織して、イスラエルを追って行きました。イスラエルはどうにもならない状況でした。前には紅海が広がっていました。後ろからはパロの軍隊です。しかしその時、モーセが手を挙げて主に祈りました。すると紅海が真二つに分かれ、イスラエルは紅海を通過することが出来ました。この物語が『プリンス・オブ・エジプト』という映画になっています。

『そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。』

 モーセが手を挙げると、紅海が真二つに分かれ、イスラエルは紅海を渡りました。パロと軍隊も紅海を渡ろうとしましたが、水が戻り、全員滅ぼされてしまいました。

 それまでイスラエルは、常に、敵に追われていました。しかし紅海を境に、敵は全滅しました。

 さて聖書の中で、「水の中を通る」というストーリーがありますが、何について教えているのでしょうか。ノアの洪水や、モーセのストーリーは何を現しているでしょうか?

 それは「バプテスマ」を意味しています。バプテスマを受けるのは、度々追ってきて私たちを引き戻し、再び奴隷にしようとしている、悪魔の力から完全勝利することであると教えています。

 バプテスマをどのような意識で受けたかは大切です。私は小学校二年生の時にバプテスマを受けました。その時は、バプテスマが敵の手から解放される祝福の鍵であるとは知りませんでした。昔の新城教会は、バプテスマを受けなれば聖餐式を受けることができず、教会に来る人は少なかったので、聖餐式のジュースの量はもっと多く、パンも大きかったです。私はそれを見ながら、「早くバプテスマを受けたい!」と思っていました。そんな動機でバプテスマを早く受けたのです。しかし、バプテスマとは、そんなものではなく、もっと深い意味があります。コロサイ人への手紙二章十二節から十五節に、

『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』

と記されています。イエス様がよみがえられた時に、「わたしは天においても地においても、一切の権威を受け取った」と言われました。バプテスマの意味は、イエス様のよみがえりのポジションを共有することです。そしてその中身は、「全ての罪が赦され」、私たちを訴える「不利な債務証書が無効にされる」とあります。

 悪魔は私たちを債務証書によって訴えてきます。特に、偶像礼拝は、三代、四代と連続して家系に関わる債務証書が発行される、恐ろしい罪です。偶像礼拝は、自分が強い意識を持っていっても、いなくても、債務証書が発行されます。契約とは、強い意識があっても、なくても結ばれるのです。

 最近よく使われるクレジットカードは、クレジット会社から発行された用紙と、店が出すものと照らし合わせて、同じ金額ならばサインをします。クレジット会社から出た金額が、店が発行している請求書より桁が多かったとしても、サインしてしまうとクレジット会社にサインした額だけ支払わなければならないのです。しっかり見て、サインしなければなりません。私は昔、海外であまりに見ずにサインをして、失敗したことがあります。気軽にサインをしても、しっかりと請求が来ます。

 偶像礼拝について日本人はあまり真剣に考えていません。みんなが拝むから、自分も拝もうと拝みますが、発行される債務証書によって、三代、四代に渡り悪霊が進入して様々なトラブルを起こします。イスラエルがエジプトに四百三十年も捕らえられていたのと同じように、悪魔に家系をかき乱されます。しかしイエス様を信じると、悪霊に支配された家系から出ることになります。「債務証書が無効になる」という宣言は、水の中を通るという「バプテスマを受ける」中にあります。バプテスマをすでに受けられた方は、債務証書は無効にされたと堅く信じましょう。

 また、「神はキリストとともにすべての支配と権威の武装を解除し、さらしものにする」と約束されています。「支配と権威」とは、「悪魔と悪霊の軍団」を指しています。彼らのもっている武装が解除されるとは、問題解決につながります。ある人は一生涯、家庭の中のいざこざや、問題で苦しめられ、また、病で苦しめられる人、経済的な問題で苦しめられる人など、悪魔は多くの武器を持っています。けれども、それらの武器が武装解除されます。

 そして、極めつけは、「彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました」とあります。私たちを今まで苦しめていた「悪霊が捕虜となる」のです。

 バプテスマとは、パロが水の中に飲み込まれて、二度とイスラエルを追うことができなくなったのと同じです。あなたを追っていた悪霊どもが捕虜となり、二度と攻撃することが出来なくなるのです。バプテスマは祝福に繋がっています。まだバプテスマを受けられていない方は、ぜひ、バプテスマを受け、祝福を受け取って下さい。

さて、もう一つの祝福の条件は、マラキ書三章十節から十二節にあります。

『十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。――万軍の主は仰せられる。――すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。」と万軍の主は仰せられる。』

と記されています。ここに不思議なことが書かれています。「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。」とあります。この御言葉には、いろいろな理解がありますが、一つは献金についての教えです。献金とは、お布施、寄付金、会員料ではありません。神へのささげものであり、祝福につながるのです。

 私は牧師をしていますが、いつも献金をします。十分の一をささげなさい、と書かれていますが十分の一以上献金するように心がけています。「祝福されるか試してみなさい」と書かれていますが、献金について霊的に目が開かれると人生が変わります。献金があってもったいないと思う人は、まずは試してみたら良いです。神様にお献げするときに、祝福して下さるかを試してみて下さい。試しに小さじで献げてみてください。そうしたらスコップで返ってきます。次に、スコップで献げるとダンプカーで返ってくるのです。「十分の一」をぜひ試して下さい。喜んで神様に捧げると祝福されます。また十一節に、

『わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。』

とあります。「いなご」とは、「霊的な存在」をも現しています。それは悪魔や悪霊に対する表現です。ということは、「献金そのものが霊的戦い」とつながっているのです。私たちが毎週献金するときに、いなごやバッタが打ち破られるのです。献金するとき、悪しき業が打ち砕かれると信じて行いましょう。これは聖書の言葉です。神が与えてくださった人生の十分の一は、神にお返しするという理解に立っていくならば祝福され、守られます。

 さて、私たちに与えられる祝福は物質的なように見えますが、実際は、天における祝福だと教えています。エペソ一章三節に

『私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。』

また、ピリピ四章十七節に、

『私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。』

と記されています。目に見える祝福は、霊的世界に勝利があるときに現れるものです。経済的祝福が現わされたとしたら、ただ、現実的に見ないことです。これは目に見えない霊的な世界に勝利があったゆえに、勝利が来ていると理解する必要があります。霊的祝福が根本にあることを理解することが必要です。信仰生活とは、目に見えない世界が最初にあり、その勝利が見える世界にあらわされるものです。素晴らしいクリスチャン生活を歩んでいきたいと願います。お祈りします。


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