真に強い人となろう

2004.7.11(SUN)
新城教会 滝元 順師

新約聖書 マタイの福音書 18章1節〜5節
そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。

 ハレルヤ!今日はロシアから、エンジェル・クワイヤーをお迎えし、賛美を聞くことができて感謝します。イエス様によって国、民族、言葉を越えて、ひとつになることができて心から感謝しています。日本とロシアの間には悲しい歴史があります。しかし、私たちは今日、イエス様によって、すべての違いを越えて一つになることができます。神はそれぞれの国に、それぞれの特徴を備えてくださっています。この礼拝にも、色々な国々から集まっています。
 先日、こんな小話を聞きました。ある豪華客船が沈みそうになりました。その時救命ボートも壊れており、乗っている人々は死ぬしかありませんでした。船長は乗っている人たちを集めて、助かる見込みがないことを説明しました。それで、最後に、録音機に一言ずつメッセージを残してください、と言いました。するとアメリカ人がメッセージを吹き込みました。「家族に伝えてくれ。私は最後まで家族を愛している・・・」
 続いて、イタリア人がメッセージを残しました。「恋人に伝えてくれ。君を永遠に愛していると・・」
 そして日本人が出て来て、こんなメッセージを残しました。「会社に伝えてくれ。商談の途中でこんな事になって申し訳ない。」
 日本人はそんな所があるのかも知れません。それぞれ特徴がありますが、違いを超えて、イエス様によって一つになることができて感謝します。
 私たちは、イエス様によって、真に強い人として生きることができ、神はあなたに、ダイナミックな人生を与えて下さいます。

 さて、「真に強い人」とはどのような人でしょうか。聖書の教える強い人とは、この世の概念とは異なります。今日お読みした箇所は、強い人についての聖書的世界観を現している箇所です。
 弟子たちがイエス様の所に来て言いました。「天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」
 「偉い」という言葉は、「mevga"/強い」という意味もあります。その時にイエス様は、

『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。』

 イエス様は権力のある人、お金のある人、勉強が良くできる人が偉く、強いとは言われませんでした。イエス様は、小さい子どもを呼び寄せ、「このような子どもが一番強い」と語られたわけです。この概念は、なかなか理解し難いことです。聖書は、「子どものようにならなければ、決して神の国に入ることはできない」と告げています。
 ある意味で大人は、子どもの時の素直さや力を途中で失った存在かも知れません。私は子どもを見ていて大人よりも強い、と思います。子どもたちは礼拝に来ても、教会内の移動はすべて駆け足です。なぜ、走らなければならないのかと思うくらい、一日中飛び回って過ごしています。階段を上るときに大人は手すりを使います。しかし子どもたちは、二段、三段跳びです。また、大声で話しをしているし、大声で笑うし、大声で泣きます。喜怒哀楽も激しいです。私たちも、子どもたちのようにすべてをさらけ出すことができたら、ストレスはたまらないと思います。時々、赤ちゃんは大声で泣き出します。私たちも泣きたいときがあります。しかしあんな風には泣けません。それを見て、赤ちゃんは違った面で強さをもっていると思います。
 また、子どもは、大人のように問題を感じていないと思います。今、子どもたちがここにいるので聞いてみたいと思います。「今まで、心配で一晩中眠れなかった子はいますか?」「いないですね。」
 さて、大人に質問します。「今まで、心配で眠れなかった夜はありましたか?」多くの大人が「あります」と手を挙げています。子どもの方が強いです。
 「子どもたちの中で、今までにつらくて死にたいと思ったことがありますか?」「いません。」
 しかし大人で人生を止めたくなる人は多くいます。そうしてみると、子どもたちより、大人の方が弱いです。子どもの時の強さを、大人は途中で無くしています。イエス様が言われたことは真実だと思います。子どものようにならなければ強くなれません。子ども時代の持ち物を無くさずにキープできなければ、強い人生を歩むことはできないのかも知れません。
 イエス様は、子どもの時に持っていた強さを、もう一度回復してくださるお方です。今日、「最近、良く悩む」と言われる方は、子どもの時に失ったものを取り戻して下さい。
 エペソ人への手紙五章十八節から二十節に、

『また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい』

と記されています。「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです」とあります。これは、「時を取り戻す」ことについて教えています。「賢い人のように歩め」とありますが、「賢い人」とは「強い人」のことです。知恵は力に勝ると言われます。私たちがイエス様を信じると、神の知恵をいただくことができます。そして、神の力によって勝利できるのです。子どもの頃に失った「機会」を取り戻すことができるのです。
 失った時を取り戻せたら、どんなに素晴らしいかと思います。イエス・キリストの中にあって、それは可能であると聖書は教えています。
 「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だから。」という言葉を、宗教改革者カルビンは、「サタンの手から時をあがなう」と注解しました。神はひとりひとりに、公平な人生を与えてくださっています。神はえいこひいきをなさいません。けれども、時が盗まれています。人生は本来、良いものなのですが、盗まれて中身が空っぽであったり、悪いものに置き換えられてしまうことさえあります。
 しかし真に強い人とは、イエス様によって失ったものを取り返した人です。どうしたら失った時を取り戻すことができるのか、また、強く生きることができるのでしょうか。

 子どもたちが強く生きるために、親は日頃から子どもに対して気を使います。親の助けがあるから、子どもたちは健康で強く生きられます。親が全く子どもを構わなければ、強く生きることはできません。
 同様に、私たちも神から注意事項を聞き、言いつけにしたがって歩まなければ、安全に歩むことはできません。
 特に親は、子どもたちに、「食事の前には手を洗いなさい」と教えます。手を洗うことにより、ばい菌を洗い流します。ばい菌を食物と共に食べてしまうと病になってしまいます。
 医学が革命的に発達した理由は、病気が目に見えない敵であるばい菌によって引き起こされていることを発見したからです。それまでは病気になると、魔術師が煙りを焚いて「出て行け〜」などとやっていました。しかし、目に見えない病原菌が体の中に入ると病になる事が分かってからは、人々は手をよく洗うようになりました。
 私たちも強い人生を送るためには、常に手を洗うことが大切です。それは、目に見えない敵を中に入れないために必要なことです。そして、目に見えない病原菌のような敵が「罪」であり「悪魔」です。
 今の時代、何が良いことで、何が悪いのかという善悪の基準がはっきりしていません。善悪がわからないので、世の中は混乱しています。しかし教会に来ると、何が良いことで悪いのかがはっきりします。その結果、悪いものを入れることがないので、健康に生きることができるのです。
 私が感謝していることは、気がついたらクリスチャンホームに生まれていたことです。御言葉から罪について教えられました。はじめは、「変なところに生まれてしまった・・・」と思いました。「もう少し楽な家庭に生まれていれば良かった・・」と思うこともありました。しかし、幼い頃に聖書を学んだことは素晴らしい財産です。何が悪いことで、何が良いことかについて知ったので、守られたと思います。誘惑がある時にブレーキがかかります。ですから、子どもの頃から教会に来て、御言葉を学ぶことはとても大切です。
 私が幼い頃、教会に聖霊が注がれた時がありました。一人のおばさんが聖霊に満たされて、私に預言を語りました。「イエス様が順ちゃんに語っているよ。イエス様は順ちゃんのことを大好きだ。罪を犯さずに聖く歩んでね。イエス様にしっかり従っていたら、あなたを一番にしてあげるよ」と言われました。
 私はその時、「そんなばかな。一番なんてあり得ない・・」と思いました。すると、「そんなばかな、と思っているでしょう。でも、イエス様はあなたを一番にしてあげると言っているよ。」と言われました。
 それから私は、一番になるのを楽しみにしていました。しかし中学生なって初めての実力テストは、二百人中八十番でした。「何だ。あの預言は?偽だ・・」と思っていました。
 高校になっても大したことはありませんでした。しかし一度だけ良い成績を取ったことがあります。私は高校の時に土木科でした。土木科の中で技術計算のコンクールがありました。その時私は、クラスで一番良くできる人の横に行きました。そして彼の答えをほとんど、写しました。すると、何と、彼が一番で、私は二番になりました。「滝元順君。あなたは二番です。あなたは、県大会に出場してください。」と言われました。その時、私は、たいへん心が責められました。
 父はいつも言っていました。「クリスチャンになった時、柿や桃を盗んだことを悔い改めに行った。そして、カンニングをしたことも先生に悔い改めた・・」
 それで私も、「正直に悔い改めなければ・・・」と思い、先生の所に行きました。「先生。すみません。僕は二番になって県大会に行くことになったけど、あれはカンニングをしたからです。すべてを取り消して下さい。」というと、先生は、「お前。自分で責任を取れ。責任をとって県大会に行って頑張って来い!」と言われました。
 それで私は悔い改めの心を込めて、一生懸命勉強しました。すると県大会では、なんと一番になりました。その結果私は、全国大会に出場することになりました。約十日間程、公費を使って二人の先生に引率してもらい、四国で行われた計算コンテスト全国大会に行きました。
 なんと、カンニングから始まった事が、すごいことになってしまったのです。私は祈りながら、真剣に勉強しました。ですから全国大会では、自信がありました。
 人間はやはり、努力をしなければなりません。だから全国大会では、すごくよく出来ました。私は絶対に全国一位だと思っていました。しかし結果は二位でした。小さな頃から、善悪の基準をはっきりさせて、イエス様と共に歩んだので、恥を祝福に変えて下さいました。全国一位になったら高ぶるので、二位にされたと思います。罪を犯したら悔い改めるという習慣をつけると、人生はうまくいくと思います。マタイ十八章三節に、

『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。』

と記されています。毒を誤って飲んでしまったら、吐き出さなければ大変なことになってしまいます。同様に、罪を犯すなら、霊的ばい菌が入り弱くなります。だから悔い改める人が強い人なのです。
 教会に来て、メッセージを聞いたり、祈っているときに罪を示されることは素晴らしいです。悔い改めることによって聖くされ、強くなることができます。

 エペソ五章には、いくつかの悔い改めの条件や、賢く強く生きる秘訣が記されています。五章十七節に、

『ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。』

 神が語られることを、よく悟らなければならないのです。次に十八節から、

『また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。』

と記されています。私たちが、強く生きるために注意すべき事は、「酒に酔ってはいけない」ということです。
 私が感謝していることは、小さな頃に、「酒を飲むのは神の御心ではない」と知ったことです。だから私は、酒を飲んだことがありません。もしも私がクリスチャンホームに生まれていなかったら、多分、酒を飲んでいたと思います。
 日本は酒社会です。「飲め、飲め」と言われるかも知れませんが、飲んではいけません。酒を飲んだら、強く生きることはできません。
 何ヶ月か前に、ある病院を訪問しました。そこはアルコール中毒の人々が入院しているところでした。見ていて大変そうでした。酒によって人生を駄目にした人たちが収容されていました。アルコール中毒の人々が集まって、お互いに励まし合っていました。私はそこで祈りました。現実的に、酒によって人生を駄目にしている人が多くいます。大酒飲みは、初めから大酒飲みではありません。猪口一杯や、コップ一杯からやがて大酒飲みになります。だからその一杯から止めなければなりません。

 さて、聖書が「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです」と語っている背景には、アルコールの害についても言っていますが、もう一つの背景があります。
 聖書が書かれた時代、地中海沿岸はぶどうの産地で、ぶどう酒が多く醸造されていました。ぶどう酒を作る時には、主神バッカスを祀り、バックスの名によってぶどう酒を醸造し、バッカスの名によって出荷していました。だから、葡萄酒には、「偶像にささげられている飲み物」という位置づけがありました。第一コリント十章二十節から二十一節に、

『私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。』

とあります。ここでは、「偶像にささげた肉」について教えています。日本の諸宗教を見ると、仏教も神道も、教えの内容は強調しません。しかしクリスチャンは、毎日聖書を読みます。仏教の人が毎日教典を読むことはありません。また、神道の神々の系譜など知っている人はほとんどいません。
 しかしクリスチャンは深く御言葉を学びます。聖書をしっかりと学ぶことは大切です。
 しかし悪魔も、御言葉をよく知っています。人々が内容を勉強しなくても、簡単に関わる方法をよく知っています。諸宗教で強調されていることは、「食べ物を偶像にささげて食べる」ことです。仏教もそうです。仏壇に食べ物を供え、その後で食べさせます。
 以前、新城教会に一人の方が来られ、「クリスマスは教会でもするのですか?」と言われました。「もちろん祝いますよ。」と言いました。「お宅の宗教は何ですか」と聞くと、「仏教です」と言われました。「仏教のクリスマスはどんなことをするのか」と聞くと、「クリスマスケーキを買ってきて、仏壇に供えてから食べる」と言っていました。日本人は、頂き物をすると仏壇に供えてから食べます。
 神道の祭りも、一段落すると直会(なおらい)と言う食事会をします。それはささげた食べ物を食べて、神の力をもらうという意味があります。聖書の法則を悪魔はよく知っているのです。偶像にささげた食べ物を食べると、弱くなり、人生が駄目になる事を知っています。盆が近くなってどうしようかと心配している方がおられるかも知れませんが、絶対に偶像礼拝をしてはいけません。偶像礼拝は、背後に悪霊が控えているので「悪霊礼拝」なのです。日本人は、石や木や金属を拝んでいます。それが千年も二千年も続いています。普通ならば、むなしく感じるはずです。もしもむなしく感じないならば、何らかの霊感を感じているからです。石や木や金属を拝むと、後ろに悪霊が来て祈りを受け取ります。偶像を拝み続けては行けません。背後にあるのは、悪霊です。だから悪霊が侵入し、人生を蝕みます。
 悪魔が関わる効果的な方法は、食べものを供えさせ食べさせる方法です。

『「私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。」』

 偶像にささげた食べ物を食べると、悪霊と交わることになります。この箇所を、「悪霊と仲間になる」とも訳すことができます。悪霊にとって日本人に関わる、最も効果的な方法なのです。
 日本の酒造には、どのようなものがあるのでしょうか。まず、仕込みの時に偶像礼拝がなされます。特に、日本酒は米から作られるので、盛大に偶像礼拝をします。そして、酒が出来るプロセスを世話をする人を杜氏と言いますが、酒が完成したときには、杜氏の中のひとりが神となり、人々に拝まれます。日本の酒造会社は全て、偶像礼拝に関係しています。そのほとんどが、三輪山や、松尾大社を祀って酒を造っています。酒を飲むことは、それ自体にも害がありますが、霊的な害が強くあります。飲酒は悪霊と交わることになるのです。ビールやワインも同様です。酒は霊的な飲み物なので、悪霊との関わりができてしまうので、強く生きることができません。だから酒を飲んではいけないと聖書は教えています。賢く、強く生きるために必要なことは、酒社会の背後に働く、悪魔の力に勝利することです。
 黙示録二章十八節から二十三節に、

『また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。』

と記されています。これは、人類に対する神の警告です。偶像にささげた食べ物を食べてはいけないと言うことと共に、不品行・姦淫という性的な罪について警告しています。性的な罪は、人生を弱めます。
 今の時代はたいへん汚れています。結婚するまできよく歩むことはナンセンスだと言われ、また結婚しても浮気したり、不倫が多いのです。しかし、どんなにマスメディアや世間が、それを普通のことかのように語っても、罠にかかってはいけません。聖く歩むことが大切です。結婚されていない人は、結婚するまで肉体を許してはいけません。また、結婚したら、夫婦の枠組みをしっかりと保たなければいけません。
 人間にとって火は重要なものです。火がなければ生きられません。しかしその扱いによっては、家も燃やし、森を、国を燃やしてしまいます。同様に、人類にとって性という領域は必要ですが、枠組みがはずれてしまうと人生が燃え、家族・親族関係も人生も、全て灰になってしまいます。
 偶像にささげたものを食べないことに加えて、不品行・姦淫が重なると、どのような結果になるのでしょうか。
 黙示録二章二十二節に、「見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。」とあります。病になることはつらいです。もちろん病気には色々な理由がありますが、加えて霊的理由もあります。偶像にささげた食べ物を食べて、不品行・姦淫の罪を犯すと、「病に陥る可能性が大きくなる」のです。
 また、「大きな艱難の中に投げ込もう」と警告しています。人生の中で大きな艱難にあって苦しまれている方もいるかも知れません。教会は、それを解決するための助ける場所です。問題についてあきらめないでください。
 しかし問題解決のためには、自分自身を点検しなければなりません。偶像にささげた食べ物プラス、不品行・姦淫があると、「病や、大きな艱難が起こる可能性がある」のです。
 また二十三節には、「また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。」と記されています。罪を犯したのは母、イゼベルです。しかし子どもが死んでしまったのです。これは「家系に、受け継がれる問題が起こる危険性がある」から気をつけるようにという警告です。
 これらは、日本の社会の中で、最も気を付けるべき事柄です。多くの日本人が偶像にささげた食べ物を食べ、不品行や姦淫という罪を犯していることにより、強い人生を生きることが出来ないでいます。強く生きるためには、罪からしっかりと手を洗い、断ち切って歩むことが必要です。

 私たちには罪の赦しがあります。今までどのような大きな罪を犯していても、イエス様が罪を赦しくださいます。悔い改めて子どものようになったら、神の国に入ることができ、強い人生を送ることができると聖書は教えています。悔い改めとは、「罪を認め、聖い歩みを始めること」です。そうしたら過去にどんなことがあっても、赦されます。時を取り戻すことができます。今まで人生の中で、偶像礼拝や不品行・姦淫というテーマがあったら、悔い改めて、二度と罪を犯さないように歩んでいくならば、あなたは健康に生きることが出来ます。
 
 また、健康に生きるためには常に予防が大切です。エペソ五章十九節から二十節に、

『詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。』

と記されています。この御言葉は、「御霊に満たされなさい」という所にかかっています。御霊に満たされるとは、人生にとって最も重要なことです。罪に負けないため、また強い人生を送るためにも大切なことです。教会に来て素晴らしい経験は、神の霊に触れていただくことです。賛美するときに、聖霊様に触れていただくことが出来ます。「詩と賛美と霊の歌とをもって互いに語り合いなさい」とあります。教会では、礼拝後、昼食をとりながら互いに語り合うことができます。このような交わりはとても大切です。神の霊に満たされている人々が互いに語り合うときに、お互いに聖霊による導きの言葉を語ります。自分では気づきませんが、互いに預言的に語り合うのです。
 さらに、「父なる神に感謝しなさい」と記されています。私たちが日々生かされていることを神に感謝することは、御霊に満たされることにつながります。
 先週私たちは、五日間連続の祈祷会を行いました。それは一九九二年七月九日に聖霊が注がれ、霊的戦いが始まったことを記念し、もう一度真剣に祈る機会を持つためでした。人は聖霊様に触れていただくと変えられます。私も聖霊様によって変えられました。

『詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。』

 この箇所は特に、賛美について書かれています。賛美の時間はダラダラと歌っていては損です。本気で、思いっきり賛美してください。私は常に真剣に歌います。なぜならば、それが聖霊に満たされる秘訣であると知っているからです。
 問題のある方も心配しないでください。イエス様はあなたを強めてくださいます。神はあなたに努力を要求するのではなく、決断を要求しています。聖霊に満たされ、真に強い者として生きていきましょう。


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