圧倒的な勝利者

2004.7.18(SUN)
新城教会 四元雅也師

新約聖書 ローマ人への手紙  8章 31 節〜 37 節

では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

 ハレルヤ!昨年の五月十八日以来、副牧師に就任してからは四度目にここに立たせて頂きました。私は昨晩インターナショナル集会に出ていたので一時頃床につきましが、朝五時頃に目が覚めてしまいました。過去三回はこのような事はありませんでしたので我ながら緊張しているのだろうかと思い、今回は前回までと何が違うのだろうと考えました。そして思いついたのは、今回私のメッセージを順牧師が見ていらっしゃるからではないかということでした。今日は牧師先生方がいらっしゃるのに、どうしてここに私が立っているのか、不思議に思う方がおられるかも知れませんが、私も不思議に思っています。しかし神様の御心だと信じて立たせて頂いております。毎週土曜日の夜に礼拝のためのとりなし祈祷会があります。昨晩は順牧師を始めとする先生方も私のために祈ってくださったそうです。皆さんが祈ってくださりこの礼拝に備えられていることを感謝します。今日は、最近我が家に起こされた恵みについて証しを交えながら御言葉を開いていきたいと思います。

 まずは、先月末に我が家に第四子が誕生したことを感謝したいと思います。聡明(そうま)という名前を付けましたが、皆さんのお祈りに支えられて、家内はお産がとても楽で、午前三時頃に陣痛が始まり、病院に向かう三十分くらいの間にも家内の顔がどんどん真顔になっていきました。その時に陣痛がどんどん進んでいたようです。そして4時半には元気な産声を聞くことが出来ました。産後のひだちも良く、退院も普通より1日早くできました。今週金曜日でちょうど一ヶ月になりますが、先週から家族全員で礼拝に来ることができたことは神様の恵みと皆さんのお祈りの結果だと思います。家庭の方では未だ幼い四人の子育てに私も奮闘しています。その点ではこの教会には滝元明先生と清子先生という大先輩がおられます。七人もの個性豊かなバイタリティーのある子どもを育てられたことを見ると本当に尊敬します。岡本キヨ姉妹が「明先生の家には次々に子どもが生まれたけど、明先生、特に清子先生の口から子育てに関する愚痴を聞いたことは一度もない」と言っていました。これには本当に驚き、素晴らしいクリスチャンだなと思いました。また、色々な方が私たちに誕生のお祝いの言葉を下さいました。その中である方が、「お宅は詩篇一二七篇の御言葉をそのまま形にしたような家族ですね」と言ってくださいました。詩篇一二七篇三節から五節は、

『 見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。 』

この御言葉に私は始めあまり実感がなく、その時はただ「ありがとうございます」と言って深く気に留めていませんでしたがが、よく考えてみると本当にそのような祝福を与えてくださっていると気がつきました。先週の礼拝で滝元順牧師から語られたマタイの福音書十八章一節から五節までのメッセージで、子どもたちが一番重要な人であり、また別の言い方をすると強い人であると語られていました。一番偉い人は、実は人間的に見てあまり相手にされないような、見下げられているような子どもたちであると語られていました。

 我が家においては、子どもたちが霊的戦いやとりなしの祈りの中で導き手のような役割を持っています。長男と長女は小学生ですが、学校行事の中には偶像礼拝に関する行事もいろいろあります。子どもたちを通わせている小学校でも地域的な伝統として守られている偶像礼拝で「設楽原の戦い」の戦没者を供養する「火おんどり」や「設楽原決戦場祭り」という戦没者供養の意味を持つ祭りに学校をあげて取り組んでいます。先日も学校の先生から、「今年の決戦場祭りで、子どもたちにおどりを踊らせたいのですが、お宅はクリスチャンですのでお子様がたをどうかとされますか。」と相談を受けました。私たちはそのおどりの歌詩を見せていただきました。「戦没者供養のために大松明が乱れ飛ぶ・・・」というような内容でした 。これは「火おんどり」という祭りについて歌っており、二メートルほどの火の付いた松明をかかえて振り回し、それを通して戦死した人たちを供養するという呪術的な意味のある行為であり、聖書が禁じている偶像礼拝、死者礼拝に当たる祭りです。それで私は文章を書いて学校に提出しました。「私たちは天地を造られた唯一の創造神を信じています。日本で行われる色々な偶像礼拝や死者を弔う慰霊の行為や先祖供養など、神が造られた被造物を神として拝むことは真の神様に対する不敬・反逆の罪なので私たちは信仰上の理由により子どもたちにその踊りを踊らせることはできません。またこのように五百年も前に亡くなった死者を弔っている伝統行事で戦争という血塗られた歴史を受け継ぎ、子どもたちに授業の中でそれを教えることは教育上何の役になるでしょうか。そして今でも武将たちの怨念を恐れて祭りを続けることに何か未来があるのでしょうか。」と書いて提出しました。すると学校側から「言われることはよくわかりました。お子さんたちは踊りの時間は見学してくだされば結構です」とこちらの主旨を受け入れてくださいました。そして子どもたちはおどりを習う授業を見学することになりました。その授業の中で担任の先生が、子どもたちが見学している姿をみて驚かれたそうです。子どもたちが授業に参加できないことを恥ずかしがり、ともすると、踊りの中に入れないことを寂しがらないだろうかと心配されていましたが、全くそのようではなく、気丈に振る舞い、また先生方の手伝いもしていたということでとても喜んでくださいました。学校をはじめとする地域の祭りのために子どもたちがクリスチャンとしてその場所にいることを通して戦いが進んでいること、自分が入れない所に子どもたちが入っていってクリスチャンとして証ししていることをとても感謝しました。

 もう一つ出来事がありました。七月三日土曜日の夜、インターナショナル集会に出ていた私の携帯に家内からメールが届き、次男の詩苑(しおん)が大暴れしているので祈って欲しいと書いてありました。私はすぐにピンと来ました。七月四日の日曜日は設楽原決戦場祭りの日です。我が家では子どもたちが生まれてから長女と長男の時もそうでしたが、偶像の祭りがある前日に子どもたちが夜泣きをしたり、興奮して不安定になったり、普通ではしない行動をすることがありました。今回も連絡があり、私の中ですぐに翌日の祭りのことを祈らなければならないと思わされました。祭りの中心は死者礼拝、そこでは先祖の振りをした悪霊が拝まれていると聖書から教えられます。そして拝むことによって人々や町が暗闇の支配に置かれてしまうということが聖書を通して教えられます。私たちクリスチャンは本当の神であるイエス様にこの町が開放されるために、人々がそのような支配から解き放たれるために祈らなければならないと教えられています。私は集会後夜遅く家に帰りました。家に帰るとすぐに次男と家内のいる寝室に行き、様子を見るとやはり普通ではない様子でした。次男が足をばたばたして「あっち行け!」と叫びながら泣いているのです。「あっち行け!」というのは彼の怒ったときの口癖で、すぐに「おばあちゃんあっち行け!」「ママ、あっち行け!」とか言います。これは普通ではないと思い、設楽原の決戦場まつりの背後に働く暗闇の力が打ち砕かれますようにと祈りました。また私の家内の父が我が家の近くに住んでおり、まだクリスチャンではなく、その祭りに深く関わってその祭りを実行推進する委員の中に入っているので、父のためにも祈らなければならないと思い祈りました。祈るとすぐに静かになりますが、また暴れ出してなかなか寝ついてくれません。彼と話をしようと試みましたが、全く話ができませんでした。何回も私を蹴飛ばすので困ってどうしたものかと思いました。そのまま何時間かが過ぎ本当に疲れてしまいました。しかし、最後に、もしかしたらこの子どもは子どもなりに悪霊に対して戦っているのかも知れないと思いました。「あっち行け!」と行っているのがもしかしたら、私を蹴っているようですが、私ではない他のものに焦点を当てて戦っているのではないだろうかと思いました。そこで試しに一言祈ってみました。「イエス様の御名によって、悪魔、あっち行け!」と‥、すると、次男はすーっと泣きやみ、嘘のようにそのまま朝までぐっすり寝ました。幼く、会話も満足にできず、自分の気持ちを筋の通った祈りで表現することのできない幼い子どもを通しても神様が戦いをされているのだと思い、驚きました。そして詩篇の一二七篇の御言葉を確信しました。

『 見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。 』

思い返してみると、六月二十三日に家内が出産して以来、家庭が慌ただしく、七月四日が祭りの当日でしたが、その祭りのために私がクリスチャンとしてとりなしの祈りを十分にできず、家内の父親も深く関わっているにもかかわらず、あまり祈っていませんでした。そこで神様はある意味での非常手段として、幼い子どもを通して祈りへと導かれたのではないかと思います。もし事前にしっかりとりなしていたら、詩苑にこのようなことは無かったのかも知れないと思うと、詩苑に申し訳なかったと思いますが、神様は次男を用いてそのような祈りに導いてくださったと信じて感謝しています。

 アルゼンチンのリバイバリストであるエド・シルボソ先生が来日されたときに、「私のミニストリーの九十%が家庭の中から始まっている」と言われました。その時はあまり実感がなく、そうかなあと思っていましたが、結婚して以来今日までの人生を通して、クリスチャンとして神様の御心を行い生きていくうえで家庭は大切なものであると数々の場面を通して教えられました。家族がしっかりとイエス様につながっていること、そして子どもたちを通して色々な霊的な戦いに導かれ、そのような中で主の働きを前進していくことができるだと思わされています。一二七篇一節に、

『 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。 』

家が建てられる、町が守られる、家における建て上げや町における守りという家族単位や町単位における建て上げや守りにおいても神ご自身がそこにおられて守ってくださることはとても大切であると思います。また三節から五節の御言葉にある「矢筒をその矢で満たしている」の、「矢」とは祈りであると思わされました。そして彼らは門で敵と語るときも恥を見ることがないと記されています。クリスチャンは神様の城壁に取り囲まれ守られていますが、悪魔は私たちの城壁の近くまで来て誘惑を通して挑発してきます。あるいは城壁を崩そうとしてきます。もし、矢筒に矢が満たされていないとき門前に敵が来たら敵が嘲笑したり、城壁を崩そうとしても手を出すことができません。剣があっても城壁の上からでは剣を振り下ろすことはできません。しかし矢を持っていたら、門前で語る敵に対して矢を射かけることができます。そして敵は思うように門に近づいたり大きくあざけったりすることができません。私たちが矢筒を矢で満たしていることは、十分に蓄えられている祈りのことだと教えられました。ある人は家族の中で一人だけクリスチャンだという方もおられると思いますが、一人のクリスチャンが家庭にいることは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」とあるように、家族を救いに導くという意味であなたという存在がとても重要であり、またあなたの存在が地域にとってとても重要であるということを覚えてください。そして冒頭にお読みしたローマ書八章の御言葉は、私たちが祈りを通しての悪魔との戦いにおいて、信じ確信していくべき御言葉であると思います。八章一節に、『 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 』という下りから始まっていますが、八章前半を見ると私たちの罪があがなわれ、私たちが神の子どもとされていくことが語られています。そして三一節からは私たちが神様にあって色々な諸問題にあって勝利できることを一つ一つ裏付けて説明しています。三一節にまず 「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」 と記されています。ここでは神様は私たちの心強い味方であると言っています。そして三十二節に、「 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」 と記されています。これは神様にあって、私たちのすべての必要が恵みとして与えられるということが記されています。そして「 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。」 とあります。私たちはすでに神様にあって罪のない義とされた者として認められているということです。また三十四節には、「 罪に定めようとするのはだれですか。キリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。 」とあります。義とされた私たちをイエス様が父なる神様の御前に弁護してくださるのです。イエス様が私たちのためにとりなしてくださいます。悪魔は聖書の中で訴える者であると教えています。私になぞらえるならば、悪魔が父なる神様に「神様。見てください。四元雅也を。祈りも少ないし、悪いことをしているではありませんか。」と、私に都合の悪いことを訴え出ます。すると父なる神様も「そうだなあ。よく見ると、こいつはたいしたことがない。」とだんだん私に対して厳しい罰を考え始めます。しかし、そこへイエス様が「でも、わたしがこの雅也のために十字架にかかって血を流してあげましたので、そこは何とか大目に見てやってください」ととりなしてくださるのです。そして父なる神様も「そうか、イエスよ、おまえに免じて雅也を赦して受け入れてやろう」と言ってくださるというのです。そのようにイエス様は私たちのとりなし手として弁護してくださる最強の弁護士です。三十五節から三十六節には、「私たちをキリストの愛から引き離す者は何か」と書かれています。色々な苦しみや艱難、誘惑、剣、いのちの危険があると書かれています。この箇所を記したパウロ自身も人生の中で経験した色々な苦しみを振り返って、そのうえで三十七節に、

『 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 』

と、結論として書いています。クリスチャンとして生きていく上で時として苦しみに出会うことがあります。苦しみに出遭わなければ一番良いです。戦いの祈りをし、解放の祈りをしていく中で私たちは様々な苦しみから解放されます。また苦しみを免れて祝福の道に入ることができます。それでもなお人生には時々苦しみがあります。しかし、これら全ての中でも圧倒的な勝利者となると結論づけられています。この言葉を私たちは受け入れ、信じなければなりません。この言葉通りだと受け入れることが必要です。ある意味で、クリスチャン人生の中で、問題を通して私たちがいかに神様に信頼し、この御言葉を信じて受け入れていくことができるかを問われるのです。問題がなく喜びにあるときは、信仰の選択に迫られることもなく、神様に感謝しながら生きていけば良いのですが、問題や困難があるとき、私たちが神に従うかどうか、という選択に迫られます。それには重大な責任と結果が伴います。

 先週の金曜日に一つショッキングな出来事がありました。新城教会に集われている大林孝宏兄のお父様が亡くなられました。お父様はずっと糖尿病で闘病生活をされていました。大林兄はつい何ヶ月か前に洗礼を受けられ、家庭集会の折りに祈りをリクエストされたので皆でお父様の癒しのために祈っていましたが、家族も予想しない早い死でした。お父様は安らかに天に帰って行かれました。このようなことを目の当たりにすると、なぜこのような出来事が起こるのだろうかと思います。人間にはわからないことです。しかし、このような時にこそ私たちは信仰に立たなければなりません。神様の手にはすべてのものが握られており、神様の赦しなくては一羽の雀も地に落ちることがないと聖書にあります。私たちはお父様の命がすでに神様の中に握られていることを信じなければならないと思います。その中でひとつ感謝な事がありました。お父様は先週金曜日に亡くなられましたが、数週間前から彼が所属している家庭集会のグループで大林兄のために、またお父様のために地域を回って祈っていました。特に、彼自身も二回にわたって自宅周辺の地域で祈り、檀家の寺や氏神の神社へ行っては家庭の解放のため、お父さんのために祈っていたそうです。そのような中でお父様が召されたことを聞いたときに、人の命が取り去られるのがいつのことか私たちにはわかりませんが、ある意味で神様側から出た準備としてお父様が偶像礼拝をした場所などに祈りが導かれ、その中でお父様を苦しめていた悪しき業が打ち砕かれ、お父様が霊的な解放を得た中いのちが召されていったことを覚えました。大林兄もお父様の寝顔を見て彼は天国に行ったに違いないと信じることが出来たと言っていました。彼の中にこのことを通して深い慰めが与えられたことを感謝しました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」という御言葉のように、彼の祈りを通してその家族全体に神様の恵みが届けられたことを見ることができ感謝します。イエス様を通してもたらされる救いは個人を通して拡大適応され、家族にも届けられます。そして家族もきよめられ、救いに導かれることを信じます。

 またもう一つ我が家に起こされた証しがあります。今年の二月二十三日月曜日の未明に私の家内の弟が交通事故に遭いました。中央分離帯に激突した自損事故でしたが、一時は集中治療室に入れられ、危ない状態でした。我が家にその事が知らされたのは事故翌日の火曜日の朝でした。家内の両親が、家内が妊娠中であったことを配慮してのことでした。私たちはとても動揺し、すぐ名古屋にある病院に駆けつけました。私たちが病院に着いた時には、集中治療室からは出ていましたが、昏睡状態が続いていました。いのちには別状がないだろうと言われましたが、このまま植物状態になるかも知れないし、どうなるかまだ予断を許さない状況でした。家内の両親と奥さんのご両親や大勢の親族がいました。それだけでも尋常ではない状況だと思いました。病室に入ると看護婦が出入りし、医師も時々来てはいろいろとチェックしていました。彼は額を紫に変色させ、眠り続けていました。私たちが何も手を出せない状況でした。私と家内と子どもたちは人が出入りするわずかな間隔を見計らって何回かに渡り弟の救いのため、いやしのために祈りしました。その日から私は行って祈るしかないという思いに駆られて二日、三日間の間隔で出向いて行き祈りました。昏睡状態の中で賛美を聞かせたら目が覚めるかも知れないと思い、賛美の CDを持って行ったり、付き添っている奥様や親族に本を差し上げたりしながら祈りました。また教会でもスタッフたちが弟のための特別祈祷会をしてくださったり、家庭集会でも兄姉に祈りのサポートをお願いしました。そして彼の奥様にも祈りながらイエス様の証しをし、また共に祈る中で奥様も自分なりに祈っていきますと言われました。また滝元順牧師にも滝元明牧師にも、名古屋に仕事で行く折りにお願いし、行って祈っていただきました。そのようにして祈りが積まれていきました。そんな中で神様が働いてくださり、日を追うごとに回復がありました。事故後三日目には時々しかめ面をするようになりました。また一週間後には呼びかける言葉に反応を示すようになり、また二週間後には意識が回復し、そして一ヶ月後にリハビリが始まりました。これは医師も目を見はる回復のスピードでした。そして彼の心中にも変化が現れました。弟は20年程前に家内がクリスチャンになってから何回か教会に来てくださっていましたが、ある時「もうイエス様の話をしないで欲しい。教会にも誘わないで欲しい」と言われ、それ以来私たちも誘うことに対して躊躇していました。しかし交通事故を通して私たち家族全員で祈り、また先生方にも祈っていただき、彼の中で祈りに対して心が開かれてきました。特に順先生にお見舞いに行っていただいた時は、イエス様を信じ、受け入れますという祈りを順先生の指導のもとですることができました。また彼と奥様との関係も行き違いが多かったそうですが、回復されていきました。そして五月の初めに退院することができ、また六月十八日に仕事にも復帰しました。今小さな割烹料理屋を営んでいます。六月初めに彼が名古屋から新城の実家に来たときに私も彼に会いに行きました。またその席で十八日から店を始めるという話を聞いたので、私は「ぜひ、教会に行ってお店の祝福を祈ってもらいましょう。」と提案しました。すると彼が「足が悪くて歩くのが大変なのでどうしようか」と迷っていました。しかし家内の父が「おまえは祈ってもらってお世話になったのだから挨拶をしに行ってこい。」と勧めてくださり、弟も同意して教会に行き祈りを受けるようになりました。その時は彼がずっと関わっていた火おんどりについて霊的な束縛から解放されるように共に祈ることができました。六月二十三日に家内が無事出産できたことを、何人かのクリスチャン友人に携帯のメールで知らせました。また弟にも送りましたが、クリスチャンの友人に送ったと同じ文章で「皆さんのお祈りに支えられて、無事出産を終えることができました。」と弟にも送信しました。すると彼から返事が来たのですが、最後に「僕も祝福のために祈ってます」という言葉が書かれていたので驚きました。神様は彼の心に確かに祈りを開いてくださったと感じ、素晴らしい祝福を与えられたことを感謝しました。弟がクリスチャンになるためには、まだいくつかのハードルを乗り越えなければならないと思いますが、彼を始めとする家内の親族の救いのためにひとつのくさびが打ち込まれたような気がしています。決して事故に遭ったことが良かったということではありません。事故は決して歓迎できることではありません。もし私が彼のためにもっとしっかり祈っていたら、昨年の名古屋ミッションの時に彼を誘っていたら・・・もしかしたら事故が回避できたかも知れないと反省しています。しかし、神様はすべて益としてくださいました。神様は問題に遭遇したとき、祈ったときにそれを最善にすることが出来る方です。詩篇一〇二篇十七節に、

『 窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです。 』

とあります。どうにもできない神様しか頼れないという者の祈りは、神様は決してないがしろにされることはないと書いてあります。ときどきクリスチャンの中に大きな問題があると「何も出来ないです。祈ることしかできません」と言う方があります。祈りしかできないことが嘆かわしく表現されることを耳にします。しかし本当は反対です。「祈ることしかできない」のではなく、私たちには「祈ることができる」のです。何もすることができなくても、私たちは祈ることができるのです。逆のことを言うならば、自分の知恵や行動で解決できる問題であったとしてもそこに祈りが無ければ良き実を結ぶとは限りません。祈り以外何もできなくても祈ることができれば、それはそれで十分なのです。詩編一二七篇にあるように、矢筒を矢で満たし、敵が近づくこともできないというものを蓄えていきたいと思います。クリスチャンホームの方はぜひ家族で祈ってください。今朝は私の家で、私が出勤した後、家族祈祷会をしたそうです。私の父が孫たちを集めて私の説教のために祈ってくれました。家族の中で互いに祈り合うことが大切です。また昨日、スタッフの兄弟姉妹や先生方が私のために祈ってくださったように互いに祈り合っていくことは、矢筒の中に矢が入っている状態だと思います。ローマ書八章三十一節から三十七節にある御言葉を信じて疑うことなく信仰に立って祈って戦っていく時に私たちは圧倒的な勝利者となることができると信じています。このことを受け止めて信仰によって歩んでいくことを教えられています。お祈りします。

 また、立ち上がって私たちは信仰をもって御言葉を宣言したいと思います。自分のものとして大きな声で宣言しましょう。これはローマ書八章三十一節から三十七節の御言葉を要約したものです。この「○○」というところにご自分の名前を入れて宣言してください。

「イエス様は○○の味方です。

 イエス様は○○に何でも恵んでくださるお方です。

 イエス様は○○の義を認め、父なる神様の前で弁護してくださるお方です。

 イエス様は○○の苦しみや問題に勝利を与えてくださるお方です。

 ○○は決してイエス様から引き離されることはありません。

 このことを信じます。アーメン!」

 


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