世に勝つ!!
・・人生の勝利者となる秘訣・・

2004.7.25(SUN)
新城教会 滝元 順師

新約聖書 ヨハネの手紙第一 5章1節〜5節
イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

 ハレルヤ!皆さんと共に礼拝を持つことができ、心から感謝します。
大変、暑い日が続きますがいかがでしょうか?夏は体が弱り気味の季節です。今日は神様からの新しい力をいただきたいと願います。
「リバイバル聖書神学校」の校舎も無事に完成し、先週は四日間のセミナーが行われました。心から感謝します。校舎内にカフェができました。今日は午後からの映画会の後、カフェで交わりをします。ぜひご参加ください。

今日は「世に勝つ!!」というタイトルで御言葉を学びます。副題として、「人生の勝利者となる秘訣」と題しました。この世に勝ち、人生の勝利者となって歩んでいただきたいと願います。
世に勝つ秘訣はどこにあるでしょうか。ヨハネの手紙五章五節に、

『世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。』

とあります。世に勝ち、人生に勝利する秘訣、それは、「イエスを神の御子と信じる者」です。これが秘訣です。「私はもう信じている」と言われるかもしれませんが、これは重要なことです。
 子どもたちに質問をすると、時々、ユニークな答えが返ってきます。理科のテストで「氷が溶けると何になる?」という問題がありました。「水になる」が答えです。しかしある子が「春になる!!」と答えました。私が先生ならば、合格点をあげたいと思います。
 さて、子どもたちに質問をします。「蛙の子は何ですか?」そうです。蛙の子は「蛙」です。
 では、「神の子は何でしょうか?」 神の子は「神」なのです。「イエスを神の御子」と信じる者とありますが、「神の子」とは「神」なのです。
 第一ヨハネ五章二十節に、

『しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。』

イエス様を神と信じることが、世に勝つ秘訣です。あなたは、イエス様を神として信じておられるでしょうか。イエス様を神として信じている人は、すでに世に勝っているのです。イエス様が神であると、堅く信じましょう。
イエス様は歴史的事実として、地上に現れてくださいました。そして数々の働きをされ天に帰られました。イエス様の働きの全体を表している言葉が、使徒の働き十章三十七節から三十八節にあります。

『あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。』

『あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。』とあります。
 使徒の働きが書かれた時代には、イエス様と同世代を生きた人が多く生きていました。記者は、「イエス様がどのようなことをされたかを知っているでしょう?」と聞いています。
 時々、イエス様とは、架空の人物かのように思っている人がいますが、そうではありません。多くの人が実際にイエス様と出会いました。イエス様は巡り歩いて良いわざをなし、また、悪魔に制せられているすべての人を癒されたとあります。ここに「また」という言葉が使われていますが、「すなわち」と訳す方が良いと思います。翻訳は訳者の世界観で訳し方が変わります。この箇所は、前者を受けて「すなわち」と訳すとよく理解できます。そうすると、「巡り歩いて良いわざをなし、すなわち、悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」となります。イエス様の行った「良いわざ」とは、「悪魔に制せられている人を癒す」ことでした。イエス様はなぜ、そのようなことができたのでしょうか。それは、神であったからです。私たちがイエス様を神として認めるならば、なんと、私たちも、イエス様と同じように悪魔に勝利できるのです。

 イエス様は、なぜ、「神の子」として表現されているのでしょうか?神のご性質は、三位一体です。聖書を読むと、父なる神、子なる神、聖霊なる神の三つの位格が一つであるかのように表現されています。神とは、天地万物を造られた偉大なお方です。そんな大きなお方を、理解出来るはずはありません。人間の知識や知恵では、神をとらえることは出来ないのです。しかし人間として、神が現れてくださったならば、神について知ることができるはずです。人類に、ご自身を現すために、神が人となって来てくださいました。それがイエス様です。しかし神が人となって地上に来られていた間、全宇宙は神の存在を失い、運行が狂ってしまったということはありませんでした。神が人となって地上におられましたが、神は依然と宇宙に存在されていました。そして、子なるイエス様が、地上から去られた後もなお、人類は神を失うことがありませんでした。今も神はこの地上で働いておられます。旧約聖書をみると、神とは威厳を保ち、義なる正しいお方です。しかし優しく助けてくださる神様、それが「聖霊様」です。この三つが一つとなって働かれるのです。

 同時に、イエス様の姿は、神を信じる者たちの姿をも現しています。イエス様は人間の本来あるべき姿を現しています。使徒の働き十章三十七節から、『このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。』とありますが、この「イエス」を私たちの人生に重ねることができます。私たちも「巡り歩いて良いわざをなし、悪魔に制せられている者をいやす」、勝利ある人生を送ることができるのです。イエス様と同じように上からの力をいただき、巡り歩いて良いわざをなし、悪魔に制せられている者をいやす働きをしたいと願います。これが勝利の人生です。
 世界を見るとき、人類は悪魔に踏み付けられています。世界の歴史を単に水平に見るのではなく、霊的世界を重ね合わせて見ると悪魔の働きがよくわかります。世界の背後に暗闇の力が働いているのがわかります。戦争に勝ったと言っても、得した人など誰一人いません。皆が不幸になっています。勝ったように見えても、負けています。新城教会の中にも、戦争時代をくぐり抜けて来られた方々がおられます。毎年夏になると、戦争の記憶がよみがえってくると思います。今から六十年近く前の八月七日、この近くで大惨事がありました。それは豊川海軍工廠に多くの爆弾が落とされ、約三十分間に二千数百人が亡くなったからです。アメリカの飛行機が来て日本に爆弾を落としました。多くの若者が亡くなりました。それから六十年が経とうとしています。アメリカと日本は現在、最も強い友好国として国際社会において歩調を合わせています。六十年前に、今と同じであったら多くの人々が死なずにすんだのです。国と国を背後で争わせる暗闇の力が働いていたために、戦争が起こりました。
 人類は常に、悪魔の力に踏み付けられています。しかしイエス様がこの地上に来てくださったのは、悪魔に踏み付けられていた人類を、逆に、踏みつぶすポジションに変えるためでした。「世に勝つ力」を受けて人生を歩むならば、あなたを踏み付けてきた悪魔を、逆に踏みつけることができるのです。

先週は神学校のスペシャルコースがありました。そこに一人の女性が参加しました。私と家内は、それがとてもうれしかったです。なぜ、嬉しかったかというと、彼女はかつて、まさしく悪魔に制せられているような人であったからです。その人が来ると周りの人たちが逃げてしまうような人でした。
ある時彼女は自分でもどうにもならず、助けを求めて教会に行きました。しかし初めに訪れた教会は、悪魔に勝利するという視点がありませんでしたので、悪霊ではなく彼女が追い出されてしまったそうです。
それで彼女は、もう一つの女性の牧師が牧会している教会に行きました。その女性牧師は、イエス様を信じるなら、悪魔に制せられている人々を癒すことができると信じていました。だから勇気を持って彼女を受け入れたのです。しかし現実に彼女と相対する事は大変で、他の仕事ができなくなるくらいだったそうです。私もその働きに、少し関わらせていただきました。
ある時、私はその教会から招かれ、指定された駅に家内と共に行きました。そこで先生にお会いすると、「順先生。今日は先生が好きな人を連れてきましたよ」と言われました。「誰だろうか?」と思いました。それが彼女との最初の出会いでした。彼女は駅の太い柱の陰に隠れて、こちらをちらちらと見ていました。とても不気味な感じでした。一緒に車に乗ると、頭を抱え込み、私とはほとんど顔を合わせませんでした。「今晩の集会にぜひ、来てくださいね。」と言いましたが、どこかに逃げてしまいました。
その晩の集会はとても祝福されました。けれども彼女は集会に来ても落ち着つかず、出たり入ったりしていました。やがて集会も終わり、会衆は家に帰りました。私は、彼女もとっくに帰ってしまっただろうと思っていました。
しかし彼女は、まだ教会内に残っていました。どこにいたと思いますか?彼女は、教会の後ろにある、低い机の下に潜って足だけ出していました。私は彼女が帰っていないのを見て、神が何らかの勝利を与えてくださると確信しました。私と家内は、彼女を机の下から引き出しました。しかし蛇が穴に入って出てこないように、なかなか出てきませんでした。やっと引き出して、彼女のために祈りました。
「イエス様の名によって、彼女の人生を狂わせている、背後の悪霊の力を打ち砕きます!」と真剣に祈りました。すると彼女の背後から悪霊が姿を現し、私に殴りかかろうとしました。
解放の祈りをすると、時々、そのようなことがあります。しかし、いつも主が守ってくださるので大丈夫です。ある時は、少林寺拳法の有段者の解放を祈った時、横を向いた瞬間に蹴りを入れられました。何か風を感じたので振り返ると、私に蹴りを食らわしていました。しかし、当たることはありませんでした。今まで、色々なことがありましたが、すべて守られました。イエス様が一緒におられたら、怖くありません。その時、主が彼女に触れてくださり、大きな霊的破れができました。
先生は、粘り強く彼女のために祈り続けておられました。その後も、色々な戦いがありましたが、彼女は徐々に変えられて行きました。仕事ができなかったのができるようになり、顔つきも変えられました。
そして、今回、彼女が神学校に来られたのです!彼女は四日間の授業を、何の問題もなく受講されました。そして彼女がこんなことを私に話しました。
「先日、以前に私を追い返した教会の役員さんが、食事に招待してくれた」と話しました。その役員さんが、このように言ったそうです。
「私はイエス様が救い主だとは信じていたけれど、あなただけは無理だと思っていた。しかし、あなたが変えられのを見て、イエス様は本当に生きておられる事が分かりました。許して下さい。」と言って、ごちそうしてくれたそうです。
彼女は私に、「来年からは神学校に入っても良いですか?」と聞きました。私は「良いと思いますよ・・」と答えました。私たちは世に勝つことができます。イエス様が私たちと共におられるならば、悪魔に踏み付けられることはなく、悪魔を踏み付けて前進することができるのです。

神が人となって人類を助けに来てくださったのは、すごいことです。よく考えると、なぜ神は、そこまでしてくれたのだろうかと思います。人間と猿を比べると、あまり変わらないとよく話しますが、私は、猿が文字を読めなくて良かったと思います。もしも猿が、もう少し頭が良くて聖書を読めたら、たぶんたいへん怒ると思います。「なんだ。この本は・・・。神が人類のためにいのちを捨てるために来たと?けしからん!!なぜ、あんな汚れた人類のために、神は人となったのだ。不公平だ。」と言って反乱が起きそうです。
しかし、そこには深い神のご計画がありました。ヘブル人への手紙二章六節から九節に、

『むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。』

と記されています。ここに、「人は何者なのでしょうか」と記されています。この箇所は詩篇八篇三節から五節の引用です。

『あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。』

 ここにも、「人とは何者だろうか」と記されています。偉大な被造物を目前にして、こんな小さな人間に目を留められるとは、一体、どういうことなのだろうかと詩編の記者は語っています。
 しかし、五節には、人が何者なのかという答えが記されています。

『あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。』

 全宇宙の被造物の中で、人は他の被造物とは違う位置づけがあると神は告げています。それは、「神よりいくらか劣るもの」とあります。私たちは、神とはだいぶ劣るというのではなく、「いくらか劣る」存在であると告げられています。そんなすごい存在として、私たちを造ってくださいました。
 神が人に目を留められる理由がここにあります。他の被造物はともかくとして、人間だけを神に似た存在として、実に、神よりもいくらか劣るような高い位に造ってくださったのです。
 しかし、そんな高い位に造られた人間であるのにもかかわらず、人類には不幸が多すぎます。なぜでしょうか?
 それは、初めの人間アダムとエバが神に背いたことに原因があります。創世記二章十六節から十七節に、

『神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」』

 初め、アダムとエバは楽園に住まわされていました。神は、「あなたはわたしよりもいくらか劣る存在だ。だからここで自由に生きることができる。何でも食べて良い。でも、一つだけ、守ってほしいことがある。それは、園にある善悪の知識の木からは、実を取って食べてはいけない。」と言われました。
 人間の世界でも、採って食べてはいけないものがたくさんあります。それさえ守っていれば、安全に生きることができるのです。
 私は小さな頃、学校に行く途中、先輩たちや周りの人から注意を受けました。「道草をしても、これだけは食べるな!」というものでした。それがヘビイチゴでした。赤くて、美味しそうに見える実ですが、いくらお腹が空いていても採って食べてはいけないと聞きました。なぜかと聞くと、「蛇になる」と言われたからです。だから私は、五十三年間、食べたことがありません。以前、こんな話を他の教会ですると、あるおばあちゃんが、「採って食べても死なないよ。あまり美味しくはないけどね・・・」と言ってくれました。その方は食べたようです。しかし、私は一度聞いたので、今でもそれを守っています。

 アダムとエバは神の言いつけに背いてしまいました。しかし、その原因が、創世記三章一節に書かれています。

『さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」』

 神は野の獣族を造られましたが、その中で蛇が一番狡猾でした。この蛇が、アダムとエバのところに来て、「神は本当に食べてはいけないと言ったのですか・・」と聞きました。蛇とは、私たちが普段に目にする蛇のことではありません。これは「悪魔・悪霊」について言っています。現在、人類は悪魔・悪霊によって踏み付けられ、苦しめられているのですが、実は、悪魔・悪霊は人間以下の存在です。本来、踏まれるはずのない存在です。なぜならば、神は悪魔・悪霊を人間以下の「蛇」と位置づけているからです。私たちは、そんな存在にやられるはずがないのです。しかし、人間が神の言うことを聞かずに、蛇の言うことを聞いたために「立場が逆転」してしまいました。その結果、人類は立場を自分たちよりも低い「蛇」に明け渡してしまったのです。第一ヨハネ五章十八節から十九節に、

『神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。』

 時々、「神がおられるのに、なぜ、世界はこんなに不幸なのですか」と言われます。それは、全世界が悪い者の支配下、悪魔・悪霊の支配下にあるからだと聖書は教えています。しかし、私たちがイエス様を信じることによって、蛇の支配ではなく、神の支配下に移されるのです。それゆえ、「神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。」と告げているのです。私たちがイエス・キリストを信じると、世に勝つことができます。イエス様がこの地上におられたとき、悪い者が触れることができなかったのと同様に、悪魔は私たちに触れることができないのです。悪い世に住んでいても、勝利ある人生を歩むことができるのです。どんなに、世の中が暗くなったとしても、悪魔の勢力が強くなったとしても、神の支配にあるならば、決して揺らぐことはありません。神は神の民に一番関心を持っておられます。
 イラクでの戦争の時、日本政府の関心事は中東地域に住む日本人についてでした。もしも、これ以上戦火が広がり、邦人に危険が及ぶようならば、日本国政府はすぐに特別機を出し、日本人を救出する手はずを整えていました。
 同様に、イエス・キリストを信じるならば、神はあなたに関心を持ってくださり、あなたを救い出してくださるのです。今、皆さんがどのような環境にあっても、神はあなたに対して責任を持ち、あなたに関心を持ってくださっています。だから恐れる必要はありません。

 しかしこの言葉は、同時に、もう一つのことを教えています。第一ヨハネ五章十八節に、

『神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。』

 勝利ある人生を送るためには、「神によって生まれた者はだれも罪の中に生きない」という前提があることを知らなければなりません。世に勝つためには、罪の中に生きることをせず、義の中に生きること、きよく生きることです。それが世に打ち勝つ秘訣です。

私は十年ほど前、アフリカのケニアという国に行きました。アフリカに行くと、普通では見られない生態系を見ることができます。私は、小さな頃から赤道直下に行き、赤道を見ることが夢でした。ケニアで、赤道直下にさしかかった時、すぐに車を止めて空を仰ぎました。すると、真っ赤な線が空に見えました・・・?これが赤道か・・??と・・・(これが本当かどうかは現地で確かめて下さい)。とても暑いところでした。
そこで私は大変な事件に出会いました。一緒に行った仲間たちと、あるところで写真を撮りました。その途端、近くにいた警察官が来て、「おまえたちを逮捕する!」と言って捕まってしまいました。ただ、記念撮影をしただけでした。主犯として私が捕まり、副主犯格として捕まったのは、剛くんでした。それから警察所に閉じこめられ、半日ほど取り調べを受けました。なぜ写真を撮っただけで逮捕されるのだろうかと思いました。私は「なぜだ!」と抵抗しました。すると、六法全書のような本を持ってきて、「ここを読め」というのです。そこには「この国においては、軍事施設、もしくは警察署の前での写真撮影を禁ずる。それを犯した者は・・・」と書かれていました。
「お前たちが今撮った写真のバックは警察署だ・・」と言われました。私がシャッターを押したので主犯として捕まったのです。パスポートを没収され、指紋と調書をとられました。副所長が来て言いました。「この罪は重い。所長決裁でないと処分を決定できない」というのです。「私たちはどうなるのですか?」と聞くと、「今日は所長がいないから、ちょっと時間がかかる」と言われました。「えっ、どうしたら良いのですか?」と聞くと、「ここに泊まっていくか・・」などと言うのです。「明日は移動して、他の場所に行くので助けてください」と言いました。しかし、「駄目だ、おまえは罪を犯したのだから」と言うのです。私たちは困って真剣に祈りました。
しばらくして、神様が良いアイディアをくれました。財布を開けて百ドル紙幣を出して、「副所長さん。これをあなたにプレゼントしたいのですが・・」と言いました。すると急に目つきが変わり、「ちょっとお待ちください」と言って、私たちはレストランのような所に案内され、「ここでお待ちください」と言われました。飲み物が出され、今までと雰囲気が変わったかと思うと、奥から所長のような太った人が出てきて、「日本人は良い人だ」と握手され、百ドルと引き替えに私たちは解放されました。
後から聞くと、捕まったらすぐに二十ドルを手渡せば良いそうです。しかし、ごねるとお金が上がると言われました。そして、「泊まって行け」と言われたら、最後の交渉のサインらしいのです。そのときに話を付けなければ、裁判所に送られ、裁判官や色々な人々に賄賂を払わなければいけないので、莫大な金額になってしまうと言うのです。賄賂は国の悪いシステムですが、私がケニアの法に触れたので、普通ならば何の悪影響も受けずに旅行できるのが、大変な羽目になってしまったのです。

私たちは神の子であり、神の支配にあります。しかし、この世は悪魔の支配下にあります。悪魔の支配を受けたくなければ、神の言いつけに従わなければなりません。罪を犯さないで聖く生きるならば、悪魔の影響を受けずに生活できます。
今の時代は、何が良いことで悪いことなのかがわからない時代です。しかし、私たちは毎週、聖書の中から何を基準に歩むべきかを学んでいます。また、日頃の生活でも、聖書の教えを実行しようと願っています。これは重要なことです。これが悪魔の影響を受けずに、幸せに、世に勝つ秘訣なのです。「教会には厳しい教えがあるからやりにくいなあ」と言わず、よく聖書を学ぶことが必要です。小さな頃から聖書に記されていることをよく記憶しておくことが大切です。その基本が、モーセの十戒です。それは出エジプト記二十章にあります。これは世に打ち勝つための秘訣です。

一、 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
二、 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
三、 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
四、 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
五、 あなたの父と母を敬え。
六、 殺してはならない。
七、 姦淫してはならない。
八、 盗んではならない。
九、 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
十、 すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。

 十戒を基本的に、私たちの心に留めておくべきです。これをしっかりと覚えて歩むならば、世に勝つことができます。
 十戒の一番から四番までは、「神との関係」、続く五番から十番は、「人との関係」について教えています。この十戒を守ろうと旧約時代の人々は一生懸命努力しましたが、難しかったのです。しかしイエス様がこの地上に来られ、この十戒を二つにまとめてくださいました。それは一番から四番までの神との関係について、「神を愛する」という愛の紐で結んでくださり、五番から十番の人との関係については「人を愛する」という愛の紐で結んでくださいました。その結果、「神を愛し、人を愛する」という中に、律法のすべてが含まれたのです。この理解は、私たちが世に打ち勝つためにとても重要です。第一ヨハネ四章二十節から二十一節には、

『神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。』

と記されています。「隣人を愛する」ことに関して、「兄弟を憎んでいるならその人は偽り者です」とあります。兄弟とは、クリスチャン同士のことです。教会に来て、あの人がいるからいやだとか、あの人は嫌いと思うことがあるかもしれません。しかし、クリスチャン同士は、特に一致して仲良くしなければなりません。憎みあってはいけません。教会では兄弟姉妹と呼びますが、お互いに愛しあうならば、目に見えない神を愛することになり、その結果、地域にも愛が流れていきます。第一ヨハネ五章三節に、

『神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。』

とあります。

今日語った事柄をまとめると、世に勝つ秘訣の第一は、「イエス様を神として信じること」
第二は、「罪の中を歩まず、きよく歩むこと」
第三は、「神を愛し、人を愛する」ことです。
 ルカの福音書十章十九節に、

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

と記されています。かつては蛇やさそりが権威を持ってしまいましたが、イエス・キリストによって権威が回復し、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を受けるのです。
 世に勝ち、勝利ある人生を歩みたいと願います。今日からイエス様を神の子として信じ、勝利の路線にはいることをお勧めします。お祈りします。


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