朽ちない糧のために

2004.8.1(SUN)
新城教会 滝元 明師

ヨハネの福音書 6章27節〜29節
なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」

 ハレルヤ!今日久しぶりに、礼拝を守ることができることを感謝します。六月十七日からアメリカに行き、それから沖縄に行きましたが、健康で支えられていることを感謝します。
 私は今日、「かるゆし」という沖縄の服を着ています。この服は、柄の入ったシャツですが結構高価なものです。沖縄は暑いので、ネクタイはせず、官公庁などでも背広ではなく、「かるゆしシャツ」が公認されています。この「かるゆし」という名前は、「祝福」という意味があるようです。皆さんが「沖縄スーパーミッション」のために覚えてお祈りくださったことを感謝します。七月四日から集会が始まりましたが、全部で千六百二十四名が集まり、決心者が百七十二名、献金も百二十八万円程与えられました。また私が書いた本を二百八十冊持って行きましたが、三日間で全て売れてしまったので取り寄せました。合計五百四十冊以上も売れました。多くの方が飢え渇いて、御言葉を聞いてくださったことを感謝します。
那覇の教会では、初め百二十名程が集まり、二十名程が決心されました。また次には百六十名程集まり、三十名程が決心をされました。新しい方が導かれるように願って行いましたが、多くの方が与えられて感謝でした。その教会の副牧師の先生からファックスが届きましたので、ご紹介します。

「主の御名を賛美します。七月二十二日(木)、二十三日(金)の当教会での特別伝道会のためにお祈りくださり、また協力くださり、ありがとうございました。当日の滝元先生のメッセージには私たちクリスチャンも大変感動致しました。その日には私たちも一生懸命新来者の方をお誘いしましたが、その伝道集会では多くの方が決心し、滝元先生の招きに応じました。その後、二十五日(日)には礼拝後に「伝道集会感謝会」をしましたが、その日も十五〜十六名の新来者の方が集まりました。本当にありがとうございました。滝元先生と日本リバイバルミッションの皆様の上に益々神様の祝福がありますようにお祈りしています。」

集会が終わって次の日曜日に十五〜十六名の新しい方が集会に参加されたことは素晴らしいことです。あちらで多くの実を結ぶことができるように、これからも覚えてお祈りくだされば幸いです。

これから御言葉を学びます。ヨハネの福音書六章二十七節に、

『なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。』

二十数日間、沖縄を回って伝道しましたが、今年は沖縄だけでも七十日間程集会をする予定です。このことを話すと時々「先生、大変ですね」と言われます。しかし私はその度毎に、「大変ではありません。私の一番好きな喜びの仕事ですので、こんな嬉しいことはないです。」と答えます。ある意味で私が福音を伝えることは、神様からの使命と考えていますので大きな喜びを持っています。
イエス様がこの言葉を語られる前の箇所には、イエス様が成された奇跡について書かれています。イエス様の話を聞くために、多くの群衆が集まっていました。しかしその間何日も食べずにいたので、群衆はお腹を空かせていました。その時にイエス様が、「何か食べ物をあげなさい」と言われました。しかしそこには何も食べるものがありませんでした。しかし、一人の少年が五つのパンと二匹の魚を持っていたので、それを差し出しました。それをイエス様が祝福し奇跡をされました。パンを裂いて一人一人に分けました。男だけで五千人に分けたとありますが、子どもと女性も入れると、おそらく一万人以上の人がいたのではないかと思われます。腹一杯食べた上で残りを集めると、十二のかごにいっぱいになったと聖書に書かれています。そのような奇跡をされました。一般の民衆はイエス様についていたら、食べ損ねることはないと信じてイエス様を追って行きました。そのときにイエス様が、『なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。』と言われました。

私は家内と結婚して五十四年経ちました。家内は1947年十月に救われました。当時家内は母校の日本女子大で働いていました。将来彼女は大学教授になりたいと思い、そのためのコースに進んでいました。ある時に、おばさんの家に行きました。おばさんに、「今あなたは何しているか?」と尋ねられたそうです。「大学に勤めている」と話しました。色々なことを聞かれた後で、おばさんは「あんた、もう年じゃない。そんな安い給料の所にいては駄目よ!私があなたをもっと、良い給料の取れるところに紹介してあげるから、そうしなさい。」と言われました。それで家内はおばさんに就職を頼んで帰りました。当時家内は救われたばかりで、心に喜びがあり、毎日教会に多くの大学生を導いていました。全部で五十〜六十人を導きました。しかし家内はお金のことを考えていました。そんな時に家内は御言葉を読みました。当時は文語体でした。

『朽つる糧のなめならで 永遠のいのちに至る糧のために働け。』

この御言葉が心に留まり、金か、永遠のいのちに至る糧のために働くのかと祈りました。そして目が開かれました。「私は金のためではなく、人々の魂を救いに導くために働きたい」と思い道を選びました。そして、ミセス穐近とともに、久留米村での伝道を手伝っていました。その中で神様から、「人は二人の主人のために働くことはできない」と言われ、イエス様に人生をささげたそうです。
そのような中、私が一九四九年二月十三日に教会に来て、不思議な導きの中で結婚し、今日まで来ることができました。どちらかを選択することは大切なことです。一般の人は食うために働いています。しかし人生が変えられたことは、神様のために生きていくということです。

今日は大変嬉しい日です。二人の方がバプテスマを受けられます。小野さんと木下さんです。
木下さんはリバイバルミッションでお世話になっている方です。彼は音響の仕事をしてくださっています。一九九三年に甲子園ミッションがありました。その時にこの教会で賛美のCD「ざわめき」の録音をしました。彼のやっている会社が録音を担当してくださいました。それからずっと、色々な手伝いをしてくださり、一九九八年に武道館で集会をしました。その時に初めて社長の木下さんが来てくださいました。そしてとても感動を受けたそうです。
現在、ハワイにいる中村裕二先生は昔、芸能界でスクエアというバンドに所属し、また、有名人のバックで演奏をされていました。ある時、木下さんが中村裕二先生に出会うと、彼はイエス様を信じて牧師になっていたので、驚いたそうです。その時から、中村先生経由で甲子園の仕事を頼まれて、木下さんが私たちの働きを助けてくださいました。それからほとんど、大きな集会は彼が音響を担当してくださいました。今日は彼がバプテスマを受けるために、東京から来てくださいました。仕事は仕事です。しかし自分のために働くか、また、神のために働くかでは違います。私たちの働きが、神様のためか、自分のためかです。イエス様が、『なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。』と言われました。

「いつまでも残る食物のために働く・・」弟子たちはこれを聞いて、「私たちは神のわざを行うために何をしたら良いですか」と聞きました。イエス様は、「あなたがたは神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」と言われました。「イエス様を信じることが神のわざ」です。神を信じることは、素晴らしい永遠に至る、「いのちの糧」のための働きの始まりなのです。
かつて韓国から来られた申賢均先生が、このように語られました。韓国で独立運動をした人が国家勲章を受けました。彼は晩年になり、イエス様を信じました。彼が教会に行くと、教会の講壇が見窄らしかったので、講壇を買って教会に寄付したそうです。間もなく彼は亡くなりました。韓国では、亡くなるとかごに入れて縄で縛ってふたをします。
彼は天国に行きました。イエス様の前に出ると、「あなたの天国の宝は、講壇一つしかない。」と言われたそうです。彼は、「いいえ、私は韓国のために働きました。独立運動をしました。」と言いました。すると、「あれは神のためではない。もう一度、あなたを地上に帰してあげるから、一生懸命に宝を天に積みなさい」と言われ、地上に帰ってきたそうです。葬式の寸前に、「痛い、痛い」と叫び出すのでびっくりして縄を解いてみると、彼は生きていました。そして、「天国に行ってきた」と話したそうです。

私たちの地上の生活は、六十年〜八十年です。どんなに素晴らしい働きをしても、地位や名誉があっても、すべてを地上に置いていきます。しかしイエス様は、「永遠にいたる糧のために働きなさい」と語られました。今日、朽ちることのない神様のために働いているかどうかを点検したいと思います。
私が十九歳でイエス様を信じた時に、聖書を読んで感動した御言葉があります。それはマルコの福音書十章四十二節から四十五節です。

『そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」』

私は田口の学校を出て、東京へ勉強に行きました。終戦直後でしたので、皆から励まされ、「滝元、頑張って偉い人になって帰れよ。」と期待されました。私の夢は偉い人になることでした。私の中にあった偉い人とは、人の上に立ち、人をあごで使うような威張っている人です。イエス様を信じるまでの私の生活は、高慢で生意気でした。私は理屈っぽくて、「白」と言われれば、「黒」と答える者でした。農夫さんにいつもため口を言うので、農夫さんから「おまえは生意気だ。一度殴ってやりたい」と言われました。私はいつも突っかかり、負けたくないという思いがありました。友達が私を批判して、「おまえは人を見ると、いつでも馬鹿にする」と言われました。だから私は嫌われていました。皆が怒っていました。私は「勉強をしない人は気の毒だ」などと言ってといつも馬鹿にしていました。マルコ十章四十二節から四十四節に、

『「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。』

と書かれています。これを知ったときは、ショックでした。神の国とこの地上の価値観は違います。神の国では偉くなりたいと思ったら、人に仕える者になりなさい。人の先に立ちたいと思ったら、皆のしもべになりなさいと書かれています。四十五節に、

『人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。』

と記されています。イエス様を見ると、神ご自身がへりくだって馬小屋に生まれ、へりくだって大工の家に育てられ、一生涯人に仕え、最後には十字架につけられたことを知った時、私はいったい何者だろうかと思いました。
高ぶりと劣等感はくっついています。自分は馬鹿にされたくない、人に見下げられたくないと思っていました。しかしイエス様は、神であり権力に満ちた方でしたが、最低の生活をされ、最後には、あがないの代価として私たちに命を与えるために、地上に来られました。私はその時、「間違っていた」と思いました。人生を悔い改めて、これから人に仕えていこう、神に仕えていこうと決断しました。それが、私が朽ちない糧のための一歩を踏み出した日でした。
私はすぐに農夫さんに謝りました。「今まで偉そうなことを言ってすみません。」と言うと、彼は喜んで許してくださいました。愛すること、人に仕えることは素晴らしいことです。人生が変えられました。
聖書に興味深い言葉があります。士師記九章八節から九節に、

『木々が自分たちの王を立てて油をそそごうと出かけた。彼らはオリーブの木に言った。『私たちの王となってください。すると、オリーブの木は彼らに言った。『私は神と人とをあがめるために使われる私の油を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならないだろうか。』

と記されています。森にある木々が、オリーブの木に向かって「私たちの王様になってください」と言いました。しかしこのオリーブの木は、「私は神と人とをあがめるために使われる私の油を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならないだろうか。」と言いました。
オリーブの木は、自分が神の栄光のために生きているとわかっていました。私たちが神様のために生きることは、それぞれ賜物があります。オリーブの木は、オリーブの木であり、神様のため、人のために仕えていることを考えていました。私たちの人生も神のため、人のために生きることが素晴らしいです。
クリスチャンになる前は、自己中心です。悪霊の束縛があり、神様がわかりません。罪を犯し、悪霊の下敷きになっています。クリスチャンになる前の人生は悪霊の支配があります。その下で苦しめられ、圧迫され、罪のために、苦しめられてきました。しかしクリスチャンになったら、立場が逆転しました。第一は神です。神様によって人間が造られました。十字架の血潮のあがないによって、私たちはサタンよりも天使よりも立場が上になりました。これが本来の姿です。神よりも、ほんの少し低く造られました。人間は最高の者ですが、罪を犯したために苦しめ続けられました。しかし、神を信じると、神の権威の下に人間が置かれます。そして神の権威があるので、人間は悪魔よりも強いです。そして神を信じる者には、サタンの力を打ち砕く権威が与えられます。
先週名古屋で、「ざわめきワーシップシャウト」という集会がありました。そこで順牧師が素晴らしいメッセージをしました。
聖書を読んでいても、なかなか理解ができない箇所があります。ヨハネの福音書十四章に「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。」とあります。これはなぜかということを語られていました。それはイエス様の血潮によって、私たちは堕落した天使よりも権威がある存在だからと語られていました。私たちは神の子とされたからです。
マルコの福音書一章一節には、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」とあります。また、ヨハネの福音書一章十二節に、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあります。私たちは神の子です。そしてあなたがたに、助け主を与えると書かれていますが、イエス様がバプテスマを受けられたときに、聖霊が鳩のように下ったとあります。聖霊が注がれたのです。今は同じ聖霊様が私たちに宿っておられます。回復しているのです。今クリスチャンの権威はサタンに打ち勝つ権威があります。

『信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』

と記されています。悪霊を追い出したり、病人が癒されることは牧師だけの特権ではありません。信じて神の子としての特権をいただいたらできます。人のために祈ることは素晴らしいです。イエスの名によって悪霊を追い出す権威が与えられています。私たちの立場は主のものです。神のために生きていきましょう。続いて士師記九章十節から十一節に、

『ついで、木々はいちじくの木に言った。『来て、私たちの王となってください。』しかし、いちじくの木は彼らに言った。『私は、私の甘みと私の良い実を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならないだろうか。』

いちじくはいちじくで良いのです。私たちの人生は神のみこころの場所で生きることです。あなたはあなたで神様の朽ちることのない糧のためにささげるのです。自分のことではなく、「主よ、いちじくの木としての歩みを全うさせてください」と歩むのです。十二節から十三節に、

『それから、木々はぶどうの木に言った。『来て、私たちの王となってください。』しかし、ぶどうの木は彼らに言った。『私は、神と人とを喜ばせる私の新しいぶどう酒を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならないだろうか。』

と書かれています。ぶどうは神と人を喜ばせる仕事をしていると言いました。ぶどうは神と人を喜ばせる使命がありました。あなたの人生がぶどうであったら、ぶどうの役割をすれば良いのです。朽ちる糧のためではなく、今ある仕事の中で、「神様私を使ってください」と心から神に人生をささげていきましょう。

時々金持ちになりたいと言われる方がいます。私は、浜北教会の牧師をされている田中政男先生を尊敬しています。しかし彼が教会に来られた当時は、金のことばかり言っていました。彼を導いた見城さんが、「政男くん、教会に行かないかい?」と聞くと、「儲からなかったら行かない。」と言いました。見城さんは、「百円あげるから行っておいで」と言いました。ずいぶん昔なので、百円はとても価値があり、二本立ての映画が見られて、かき氷を二杯食べられるようなお金でした。彼はそれなら教会に行くと言って出かけました。けれども、礼拝が終わると、すぐに帰って行きました。
次の週、「政男君、今週も教会に行こう」と言うと、「嫌だよ〜」と言い、「じゃあ、二百円に値上げしてあげる・・・」と言われて、彼はお金をもらって教会に来ていました。しかし彼は変えられました。マタイの福音書十六章二十六節の御言葉が示されました。

『人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。』

たとえ、全世界を手に入れても、自分のいのちを損じたら何にもならないという言葉で、目が開かれました。
当事、田中先生が描いていた夢は、名古屋で一番大きな材木屋の社長のようになって儲けて有名な人になることでした。しかし彼は変えられて、伝道者になりました。
ある時、彼は伝道で名古屋に行きました。そこで一人のご婦人に招かれて家を訪ねました。彼女の家は山の上に建つ豪邸でした。金持ちの家でした。芝生のある広大な敷地がありました。中に入ってみると、まるで御殿のようで水槽がたくさんあり魚が泳いでいました。とても豪華な家でしたので、何と挨拶をしようかと考えていました。それで田中先生は、「お宅は天国みたいですね。」と言いました。その言葉に喜んでくれると思いましたが、彼女は悲しんで、「先生、冗談じゃあないです。私の家は地獄です。家族は皆バラバラです。問題がたくさんあります。」と言われました。
「ところでお宅は何をされているのですか。」と聞きました。すると「材木屋です。」と言われるのです。なんと、そこは先生がかつてなりたいと思っていた、材木屋の社長の家でした。彼がもしも、いまごろ材木屋になっていたら、「私の家は地獄です」と言っていたかも知れません。
金があることは悪いことではありません。しかし、神様のために生きることが大切です。きっとその材木屋の奥さんがクリスチャンになったので、ご主人もクリスチャンになったと思います。第一テモテ六章十七節から十九節に、

『この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。』

と記されています。金持ちになると一般に人は高ぶります。しかし聖書は、富に望みを置くのではなく、神に望みをおかなければならないと教えています。十八節に、

『むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。』

と記されています。お金があったら喜んでほどこしをする、与える、ささげることはとても大事なことです。「未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。」と書かれています。マタイの福音書十章四十一節から四十二節に、

『預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。』

と記されています。
沖縄でアメリカ人宣教師の教会に行きました。その先生と話をしました。「滝元先生、先生は使徒だと思いますよ。」と言われました。私はこの「使徒」という言葉が嫌いです。私は、「いや、私は一伝道者です。土方上がりです」と言いました。しかし聖書には、「預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。」と書かれています。
私の家内の親はキリスト教を反対しました。しかし家内の父が晩年になって、毎年クリスマス頃になると、たくさんのお金を子どもたちに送ってくださいました。子どもたちは喜びました。そのお父さんは有名な人でした。ある時、秘書がお父さん机の所に行くと、『われ土方なれど』という、私の書いた本が置いてあったそうです。彼は天国に行きました。報いがあると思います。「あなたは貧乏な娘たちをよく助けた」と報いられたと思います。

『わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。』

と記されています。
私が五月十六日に沖縄の決起大会に行ったときに「主の助け」ということについて話しました。その後、ある女性が私の所に来てこう言われました。「先生。沖縄に来てお泊まりになるところがありますか?」と言うのです。私は「九月からはあるけど、七月はまだないです。」と言いました。すると、「先生。私の家に来て泊まってください」と言われました。「何をしているの?」と聞くと、彼女は、英語学校の先生で今借りている家の近くに実家があり、彼女は実家に行くので、その家を使ってくださいと言われました。沖縄で二十日間集会をするのに、ホテルを予約すれば最低一日五千円はかかります。私は感謝して使わせていただきました。きっと彼女が天国に行くと、「沖縄で二十日間、滝元に家を貸したのであなたの宝になっている」と言われると思います。大阪ミッションの時にも、ある牧師が来られて、「母がマンションを神様のために使いたいと願っているので、先生、使ってください」と言ってくださいました。「おいくらですか?」と聞くと、「もちろんタダです。」と言われました。また、冷房が欲しいと思い、集会で救われた方に連絡をとりました。「中古で安くて良いので冷房を入れてください」と言うと、「何を言っているの先生。このために救われたのではないですか。任せてください。」と言って、それもタダで入れてくださいました。東京の集会の時も一人の姉妹が、「私はマンションを持っていますが、まず先生に使っていただきたいです。」と言って、四十日間貸してくださいました。これは天国に行ったら報いがあると思います。これから、どんな仕事でも良いので神様のためにしましょう。
さて、神様からの一番大きな報いは何でしょうか。ダニエル書十二章三節に、

『思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。』

と記されています。一番大きな報いは、イエス様のところに誰かを導くことです。これからイエス様のところに人々を導いてください。難しいことではありません。「教会に行きませんか。」と教会にお誘いください。

『なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。』

これから永遠の糧のために働きましょう。この教会も祝されていますが、まだ、新城の三万何千人以上の人々が救われていません。この町、この国にリバイバルが来ることをお祈りしましょう。


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